こういう場所での食事は行儀が悪いと嫌がるかなと思っていたが、案外そうでもなかった。ナタリア曰く、『郷に入っては郷に従え、こういう場所での食事は多少行儀が悪いのがマナーというものですわ』ということらしい。そういうことを嗜んでいてこそ王女です、と言わんばかりの誇らしげな表情だったのと、日頃しないようなことをして食べるということが楽しかったようなので、特に否定はしなかった。まあ、ナタリアの中では《蕎麦は音を立てて食うのがマナー》って言うのと同じ理屈なんだろう。
周囲をナタリアとルークが仲良く探索し始めて、それを少し離れた場所から見守ることにする。茂みの向こう、大きな木に囲まれた場所に、小さな花が色とりどりに咲いていてちょっとした花畑みたいになっていたのが、ナタリアの気を引いたみたいだった。
「これ、お昼ですのに花が開きませんのね。何の花でしょう」
ホーリーボトルを周囲に撒いていたら、そんなナタリアの声が聞こえて咄嗟にそっちへと視線を向ければ、少し暗い場所でナタリアが屈んでいる。
ルークもその背後から見ているようだったけど、判らないみたいで何も答えない。
ホーリーボトルを撒き終わったガイも近寄って、何でしょうねと返していた。
彼らの足元の隙間から、白い蕾が見えてもしやと思って近づく。
「こんな場所にもあったんだな……」
思わず呟きが漏れた。群生とまでは言わないけれど、木々が密集した暗い木陰の下で、白い蕾が幾つか頼りない様子で風に小さく揺れている。
「…ナタリア殿下、それはセレニアの花です。夜、月の光で咲いて、淡く光を放ちます」
「まあ、貴方がお花に詳しいとは思いませんでしたわ」
俺を振り返ったナタリアの顔が驚きに満ちていた。いやまあ、そうなんだろうけど、振り返った皆の視線がさっきよりも痛い。思わず頭に手をやって苦笑し返す。
「その通りです。俺が知っている花はそれくらいですから」
「では、思い入れのある花なのですね?」
そう問い掛けてくるナタリアの言葉と、そしてルークの視線に驚いて目を瞠った。
――思い入れ。
ああ、そうだな、と微笑んで頷く。
タタル渓谷、そしてユリアシティのセレニアの花畑を思い出す。全ての始まり、そして変わりたいと切実に願った場所。
一度、咲いているところを見てみたいと蕾に触れながら言うナタリアの声に、綺麗な花ですよ、と返して二人の邪魔をしないように踵を返す。
歩きながら、思わず空を見上げた。
透明な空の向こう、譜石が見える。
風が柔らかく吹いていて、時々長い髪を揺らしていくのを、手で押さえた。
その自分の髪の色と長さと。セレニアの花を見れば必ず思い出す。
「――…ヴァ ネゥ ヴァ レィ… ヴァ ネゥ ヴァ ツェ レィ……」
口から零れる旋律は、とても小さく風に掻き消されてしまうようなものだったけれど、ローレライに気付いてもらえないかとフォンスロットの傍ではつい口遊む。
俺はここに。
――ここにいるんだよ、ローレライ。
なあ、良いのかな。俺はここに居ても良いのかな。
確かに俺はルークの傍に居たい。ルークを守りたい。だけどそれは世界にとって大丈夫なことなのか。ルークにとって良いことなのか?
俺がこれ以上、この世界を変えてしまう前に現れて教えてくれよ。
「それ、何の歌だい?」
空を見上げたまま佇んでいた背後から、ガイに声を掛けられた。
振り返れば視線の向こう、ナタリアは草の上に座り花冠を作り始めたようで、ルークは傍らに座って見守っている。
何だか微笑ましいなあと思いながら、俺はゆっくりとガイに視線を合わせた。
ガイは首を捻りながら考え込んでいる。
「何か懐かしいな…どこかで聞いたことがあるような……」
きっと、ヴァン師匠がガイが子供の頃に、歌っていたんだろう。
まだ――ホドがあった頃に。
俺は特に何も言葉を返さないまま、微笑むだけにしておいた。
今は何も言わなくていいことだ。
「……なあ」
「うん?」
考えるのを止め、同じように視線の先で二人を見詰めながら、ガイが口を開く。
「もし。――もし、物凄く酷いことをされて全てを失ったら、どうする?相手を許せるか?全てを忘れて生きていけるか?」
そうして、振り返ったガイの視線は、強く、鋭く俺を突き刺す。
ガイと俺の周りだけ、太陽の光も風も無くなったかのように、静かで冷たい声が響いた。
ガイの苦しみ、哀しみ、辛さ。それは俺は判らない。判ったつもりにはなれても、俺は所詮略奪者の方なんだ。ガイからだけじゃない、『アッシュ』からも、レプリカたちからも、――アクゼリュスの人たちから、も。
ただ俺は泣きそうだった。俺が泣くところじゃない。泣かれてもガイは困るだろう。けれど勝手に熱くなる目の奥に、何とか衝動を堪えて答える。
「……判らない」
「――……そっか」
鋭さを収めて、がっかりしたように――どこか寂しそうに返すガイに、申し訳なさが募る。お前のことは判ってないだろうけど、でも。
お前の力になりたいって言ったことは、嘘じゃないんだ。
「何て言ったらいいのかな…俺は、酷いことをした方だから、傷付けた人たちの痛みを想像することしか出来ないんだ」
「あんたが?」
きょとんと俺を見返してくるガイの視線に、どれだけ俺は人畜無害だと思われてたんだよと苦笑した。
「俺さ、数年前までどうしようもないほどダメな人間だったんだぜ」
自分の両手のてのひらを眺めて、硬く握り締める。
この手が汚れている夢を何度も見た。今でも見る。伸ばせなかった、届かなかった手、痛い苦しいと呻く声、助けを求めて泣く子供の声。何故と問う声。どうして、生きたい、死にたくない、死にたくない、しにたくない――
「……想像出来ないな」
ガイの声に、思考に囚われていた意識がはっと我に返る。
視線の先で、ナタリアよりも先に作り終えたのか、作った花冠をナタリアの頭に乗せてるルークの後姿が見えた。
ナタリアは頬を赤くして凄く嬉しそうに微笑んでいて、暖かい光の中、何だか絵になる世界を作り出している。それを見ていたら、自然と言葉が零れていた。
「――昔、俺の父にあたる人は命令で、罪のない人たちをたくさん殺した。俺はそんなことも知らず、贅沢な暮らしを当たり前に受けて、それを退屈だって不満を持って生きていた。
その俺の傍にはいつも居てくれる人がいた。我侭言っても笑って許してくれる。それが当たり前だと――親友だと、思ってた」
二人から視線を外して、ガイを見る。
相変わらずガイの髪はきらきらと輝いて見えた。
昔、屋敷に戻された何も知らない俺が、その金髪が綺麗だと褒めてくれたと、ガイは嬉しそうに話してくれたっけ。
俺に悪戯も散々されたんだろうにな。ホント、お前には頭が下がる。
「判るだろ?その親友は、実は俺を、俺の父を殺そうとしていたんだ。復讐のために」
青い瞳から目を逸らさずに告げた。ガイの体がどれだけ抑えたとしてもびくりと震えるのも、そのまま真っ直ぐに見詰めて。
「でもその親友は物凄くイイヤツでさ、いつでも殺せたのにどんなにダメな俺でも、簡単には殺せなかった。何度か殺そうとして、でも出来なくて悩んで苦しんで、そして密かに賭けをした」
「…なん、て?」
ガイが硬い、けれどどこか茫然とした表情で、俺を見詰めたまま、小さなほぼ囁きに近い呟きで問い掛けて来るのに、微笑み返す。
賭けの内容は今は言えない。だからそっと、静かに笑む。
それに俺はガイを変えたっていう言葉を知っているけれど、それも言えない。
あれはあの時の俺が、あの時のガイに言ってこそ、意味があるものだ。
内容は言えなくても、俺が賭けの内容を知っていて、それでも生きてここに居ることが、その意味が、聡いガイには伝わるだろう。
「なあ、ガイ。俺は何の力にもなれないだろうけれど、お前が苦しまない方法があるなら、俺は叶えてあげたいよ」
お前に少しでも早く、しあわせが訪れますように。
だって、せっかく生きてるんだ。
毎日が楽しい方が、良いじゃないか。ガイの家族だって、苦しめるためにガイを護ったんじゃないはずだから。
こんな考え方は、やっぱり自分勝手なのかな。
でも、俺は。
お前に、しあわせになって欲しいんだよ。
――お前が俺に言ってくれたように、伝わったら良いんだけど。