それは、俺が訪れた時点で既に決定事項だった。

何とかルークの世話もガイと交代で出来るようになって、入浴から帰って来たルークの寝支度を手伝うために部屋を訪れた俺は、いつもならさっさと着替えているはずのルークが、如何にも今から外出します、と言わんばかりの格好で出迎えたのに対して、物凄く不吉な予感を抱えながら、そっと問い掛ける。

「……今から寝るのに、なんでそのカッコ?」

「セレニアの花を見に行くぞ」

俺は自分の耳を疑った。それどころか思考停止状態だ。俺の聞き間違えであって欲しいと、恐る恐る聞き返す。

――…はい?」

が。

「なにしてる。さっさと用意しろ」

ルークお坊ちゃんは腕を組んで何を聞き返す必要がある、のろまなヤツめと言ってるかのような冷ややかな目で俺を見た。

なんだそりゃあ!!

いや、行くってそんな当たり前みたいに言われてもさ!そんな予定いつ入ったよ!っつーか、俺はやっぱり強制参加なのか!?(置いていかれてもそれはそれで困るんだけどな!)

数日前からなんか変だとは思ってたんだ。

あの皆で出かけた日の夜、ルークにセレニアの花はいつが見頃なのかと訊かれて、そんなの知らなかったから満月の夜が一番綺麗なんじゃないかって、適当に答えた。

その日の夜は三日月で、何でそれを知ってるかというと、今みたいに寝支度を手伝うためにルークの部屋に来たら、ルークが夜に輝く月を窓の傍に佇んで眺めていたからだ。それから毎日ずっとそうして、今、窓の向こうに見えているのは綺麗な満月。

――ああ、お前って素直だな…なんて遠い目で月を眺めてしまう。

現実逃避というヤツだ。

いや、素直なのは勿論、物凄く良いことだけどさ!お前、いくらナタリアが見たいって言ってたからってな、今からあの場所に行って、摘んで帰って来たってナタリアとっくに寝てるぞ?アニスだって『夜更かしは美容の敵!』って夜はすぐに寝てたんだ、あの時のアニスよりもっと小さいナタリアが起きてる訳ない。

っつーか。

「昼はともかく何が何でも夜はダメだ!マジで危ないから!」

「そのためにお前が居るんだろうが」

さらりと返される言葉は当然のように俺への信頼があって、それは物凄く嬉しいけど、でもな!

「当たり前だろ!でもお前を夜に外に出すってこと自体がマズイんだよとっても!」

バレるバレないの問題じゃない、お前の安全の問題を言ってるんだ!という俺の必死の訴え(ジェスチャー付き)は、あっけなく流される。

「お前が気をつければいい」

それ以外の何がある?とでも言いたげなご主人様の視線と言葉に、俺は頭を抱え込みたくなる衝動を何とか堪える。

それで済めばいいけどさ、現実ってもっとシビアだろ?どんだけ俺が気をつけたって、起きて欲しくない時に限って、不測の事態とやらは必ず起こるもんなんだよ!(っていつかジェイドが言ってた)

そう、俺は重ねてルークにダメだ無茶だと言おうとして。

真っ直ぐに見詰めてくる強い光を放つ、あの透き通った碧の目を見ていたら、何も――何も言えなくなった。

ルークは気性的に真面目で我侭も言わないし、無理もしない。そのルークが。

口より目でものを言うルークが、冒険心や興味だけじゃない何か他の確固とした理由で行きたいのだと、伝えていて。

暫く、その瞳とにらめっこになったのだけど。

ああもうホント。

俺って、お前に弱いよなあ……

脱力して一度だけ目を閉じて、軽く息を吐いた。――それから。

「ルーク、夜の魔物は手強いこともあるから、木刀でいいから持って行くんだ」

それに風邪をひかないようにもっとちゃんと髪を乾かして、と手に持っていたタオルでルークの髪をがしがしと拭く。痛いと言っても止めるもんか。ある程度拭った髪からタオルを取り、ぐちゃぐちゃになった髪に包まれた顔に手を伸ばして、頬を両手でそっと包む。お、ふにふにだ。気持ちいい。

そのまま額が着きそうなほど顔を引き寄せて視線を合わせた。俺だって、ただ無暗にダメだって言ってるんじゃないことを、判って貰えるといいんだけど。

「俺もお前も無茶をしない。お前の命が最優先だ。俺はお前を護るけど、でももしも何かがあったら、お前は俺を見捨てて自分だけでも逃げなくちゃいけない」

突然俺が言い出した内容に、驚いて目を瞠るルークの顔を放さないまま、じっと強く見詰めて言葉を繰り返す。

「逃げるんだ。――出来るよな、ルーク」

逃げる、という言葉にルークは不愉快そうに顔を顰めて見せた。

そうだろうな、お前が習う、そしてそうであるべきだと思う貴族の、王族としての姿勢の中にはないだろう、そんな言葉は。

だけど。

――『アッシュ』、お前は逃げても良かったのに。

エルドラントで、レプリカのオラクルナイト達に紛れながら、あんな場所に留まらずに武器を奪ったならすぐに全力で逃げていれば。

あの時俺のことは認めてくれたんだろうけど、でも簡単に憎い気持ちが薄れるわけじゃないことは俺でも判る。

そんな俺を逃がすための足止めなんて、少しの間だけで良かったのに。

俺はすぐ皆と合流したんだから、お前は自分のために、逃げるべきだった。

だけど、それが、お前だから。

――敵に背を向けないのが、葛藤を迷いを抱えながらそれでも真っ直ぐに揺ぎ無く立つのがお前だから。

もし、それで斃れたとしても。

その姿を想うたびに、俺は、お前のレプリカであることが誇りなんだよ。

「お前が護るのは、自分の命だ。逃げることは恥じゃない。生きてることに意味があるんだ」

俺のことを真っ直ぐに見返してくる、綺麗な碧にいつも決意する。

あんなに哀しいことは、二度と起こらせるもんか。

お前を、喪っていいはずがないんだ。

* * *

魔物を斬った剣を軽く振って体液を落とし、鞘に戻すとかちんと金属の音が夜に小さく音を立てるが、バチカルの街を出ればすぐに広がる草原にわたる夜風が、ざわざわと心地よい音を立ててざわめく、それに掻き消された。風には海からの湿気と匂いが含まれていて、それに髪が広がりそうになるのを手で押さえる。

振り返ってすぐ傍に佇むルークの左手を取って歩き出す。遠出をするのが周りにバレるとマズイから、荷物は最低限しか持てなかった。ホーリーボトルも数が限られてる。だから目的地に着くまではこうして手を繋いで移動することにした。何よりこの方が逸れないし。ルークは最初イヤそうに眉間に皺を寄せたけど、理由を話せば渋々と慣れない様子で手を差し出して来た。

満月のお陰か、灯りは特に必要ないくらいで、ざくざくと草と土と石を踏みしめる音の合間に、ルークが問い掛けて来る。

――何故、この間は魔物を殺さなかったんだ」

「…あの時は昼間だったから、周りが良く見えたし追い払うだけで充分だと思った、から?」

何故と改めて訊かれても、はっきりとした理由はないから困りながら何とかあやふやに答える。そういうのはヴァン師匠にでも訊いた方がためになると思う。

それに魔物に遭遇するたびに殺していたら、その後食事をするのは抵抗があるんじゃないかなと思ったし、何より楽しい気持ちが沈みそうな気がした。たぶんそれは俺がよくティアに『甘い』って言われてたところなんだろうけど。俺だってチキンは好きだしエビも好きだ。つまりはそういうことで、頭では判ってるんだけどな。

「今は夜だから、殺すのか?」

「そうだな、周りが見えないし、下手に追い払うための手加減をしたら、唯でさえ手強いのに手負いの魔物はいっそう容赦がない。――でも、」

繋いだ手をぎゅ、と握り直して、俺を見上げているルークに微笑む。

「出来るだけ殺さずに済むなら、それが一番いいことだと、俺は思う。魔物も、それ以外も」

俺の言葉を聞いたルークは、不意に俯いて考えているようだった。

そのまま足は目的地へと動かしながら、ぽつりと呟くように、独りごとかのように訊いてくる。

――お前が俺を守るのは、仕事だからか?俺が公爵子息だからか?」

その問いに、ああルークの中ではまだ引っ掛かってるんだなと苦笑した。

出会ってからずっと口にしている、俺がルークを守るために生きている、という言葉を簡単に信じられるほど、彼は子供じゃない。

俺が怪しいとはもう、思ってないだろう。そうじゃなかったら、こうやって二人で屋敷を抜け出そうとは考えてくれない。ただ。

所謂《大人》の言葉には、損得が混じっていることを、この小さなルークは判っている。だからこそ、傷つきたくなくて疑っている。

平気そうな顔をしてるように見えるから、お前の前で酷いことを言うヤツも居るんだろうな。表面に出さないだけなのに。そう思うとお前の方が大人だけど、たまには表に出した方がいいんじゃないか。だってお前まだ子供なんだし。

「お前を守りたかったから、白光騎士団に入ったんだよ。一日ずっとお前の傍に居られるだろ?」

俺を信じて欲しいけど、ルークを取り巻く環境じゃ仕方がないことだ。

だけど俺のことを信じていなくても、傍に居ることは許して欲しい。俺がお前を守ることさえ出来たなら、それでいいから。

そう考えながら、ルークが不安にならないように気をつけて返事をする。

ルークは俯いたままだったけれど。

「…今の方が傍に居るだろう」

「そうそう、前は姿どころか声だって聞けなかったしな!今の方が断然いいよ」

手だって繋げるしな!、と笑顔で繋いだ手を前後に振れば、俺を再び見上げて来たルークに騒ぐなと窘められてしまった。

それでも、繋いだ手を握る力が強くなったことが判ったから、俺も笑ったままその小さな手を包むように握り返す。

なあ、いつだってお前の手をこうして握ることが出来るんなら、いいのにな。

俺はお前の傍にずっと居て、お前を色んなことから守りたいよ。

そう思いながら歩いていると、ルークが軽く繋いでいる手を動かして気を引いたから、どうしたのかと振り向けば、右手を俺の方に突き出していた。

その右手は、何かを握っているのか軽く握り締められている。

何だよ、と視線で問うけれど、ルークは答えずにそのまま俺の腹にぐりぐりと拳を当て押し付けて来た。なにすんだよ痛いじゃんか。咄嗟にその右手を退けようと左手で掴むと、ぽとりと何かがてのひらに落とされる。

金属的な、ひやりとした温度のそれを目の高さで確認すれば、周りに灯りがないから色は良く判らないけど、白っぽい感じのシンプルな、だけど少しだけ小さな宝石で飾られた髪留めだった。

わー、綺麗だな、これ。そう思って眺めていれば、怒ったような、ぶっきらぼうなルークの声がする。

「やる。……この間の、礼だ」

「へ?この間って…なに?」

お礼をされるほど何かしたっけ、俺?と首を傾げるけど、ルークはその俺の様子を見ても説明はしてくれず、逆に問い返された。

「いらないのか?」

「いや、いります!…っていうか、貰っていいのか、俺?」

せっかくルークがくれるって言ってるんだし、なによりこの長い髪を纏めるものがあるのは嬉しい。俺が時々この髪の長さを邪魔だと思ってるのを知っていて、選んでくれたのかな。そうだったらいいな。

「当たり前だ」

ルークは顔を背けていたから表情は判らないけど、はっきりとそう言ってくれたから、俺はその髪留めを胸元で確りと握り締める。

この夜の草原に、うっかり失わないように。

「……有難う、ルーク。すっげ嬉しい」

俺が個人的に何か貰ったことって、ティアの音素学の教科書と、イオンの最期の預言の譜石以外にあったかなあと思う。いや、死んだんだからなにも残ってないんだけど、だからこれは、俺がこの世界で初めて手にした、俺だけに渡されたもの。

しかも俺が奪ったんじゃなくて、ルークがくれたもの。

そう思うと、本当にこころの底から嬉しかった。

込み上げてくる嬉しさのまま、ルークに笑ってお礼の言葉を口にすると、顔を背けていたはずのルークはちょうど俺を見ていたのか視線が合って、そのことに驚いたようにびくりと小さな体が反応する。

どうしてそこで驚くのか判らなくて首を傾げるけど、ルークはまたふい、と顔を背けてしまった。

なんなんだ。

* * *

前に来た小高い丘に着いた時、満月は夜も更けたことを表すように真上に達していた。

月からの冷たい色をした光を受けて、小さなセレニアの花が淡く光を放ちながら咲いているのが、暗闇の中でも判る。よく見たら前は気付かなかったけれどあちこちにその光が見えて、小さな花畑を取り囲んでいるようだった。

ホーリーボトルを撒きながら、外套のフードを取って花畑の中心に佇むルークに問い掛ける。

「ルーク、花摘まないのか?」

青白い月の光に照らされた花畑と、周囲にぼんやりと光るセレニアの花。楽器のように聞こえる幾つもの重なり合う虫の声。

この丘全体を首を回すように見渡しているルークに声を掛ければ、ルークは俺を見て少し眉間に皺を寄せた。

あのクセ、直せないかな。もしかしたら、周囲の大人に対する威嚇から出来たものなのかもしれないけど。

そう思いながらルークを見ていると、ルークは眉間に皺を寄せたまま、どうして俺がそんなことを、と不満そうに呟いてから、

「何故、花を摘む必要がある」

と、睨むように俺を見て来た。

あれ、なんだかルーク的に花を摘むなんてことは好みじゃなかったらしい。

てっきりナタリアに見せるために来たんだと思ってた俺は、肩透かしを食らった気分だ。

「…え? 違うのか?その為に来たんだと思ってたよ、俺」

「花が欲しかったら、この間の時に蕾の内に根ごと持ち帰って、咲くまで待つ」

ああ、そうだよな、そうしてペールに世話をして貰えば花も長持ちするし、何より夜中にわざわざこの場所に来なくてもいい。言われて気がついた。

――あれ?じゃあなんで来たんだ?

今ここに居る、行動の意味が判らなくてルークを見ながら考えていると、小さな背中は視線の先で月の光に照らされながら、近くにあるセレニアの花に近づいて行く。

月の光の下ではルークの赤い髪も青く見える。そして酷く頼りなくも見えて、離れるのがイヤでルークの後ろを慌てて付いて行く。

「好きなのか?」

先に辿り着いたルークは、セレニアの花を見詰めながら近づく俺に問い掛けてくる。

「ん?」

「この花だ。――好きなのか?」

振り返ったルークの視線に、この間のことを思い出す。

ナタリアが俺に問い掛けた時、ルークが俺に何か言いたそうな視線を向けていたけれど、このことだったんだろうか。

ルークの言葉に、改めてセレニアの花を見詰める。

夜風に揺れながら、淡く光る白い花。遠くに聞こえる海の波の音に、初めて知った《外》の世界を、あの時を思い出す。

あの時の気持ちは今でも覚えてる。――海は広くて、夜だからか真っ黒で少し怖かった。そこで感じる風も、セレニアの花の匂いも、屋敷では全然感じることが出来ないもので、全てが新鮮で体が震えた。

その気持ちを思い出したら、自然と懐かしい気持ちで一杯になって、泣きそうになるのを堪えるために、そっと息を吐いて微笑む。

――うん、そうだな。 俺に何かがあったとき、いつも傍にあって。だからいつでも俺を見守ってくれてる気がして、好きなんだ」

そしてこの花と一緒に、必ずティアが居てくれた。

だからこの花を見ると酷く切ないような気持ちになるのかもしれない。

いつも俺を見守ってくれていて、俺に似たところと、ないものを幾つも持っていた。

「そうか」

俺の返事を聞きながら、珍しいのかセレニアの花びらを指で辿るように触れているルークにそっと微笑んで、導かれるように真上の月を見上げる。

夜空にくっきりとその姿を現す存在を目を細めて眺めてから、周りを見渡す。

ホーリーボトルのお陰で、とりあえず暫くは危険はないよな。

そう判断して花畑に座り、背後にそのまま倒れ込んだ。

背中に当たる硬い土と柔らかい草の感触。俺が倒れた所為で舞い散った花びらが顔や体に落ちて来た。

目の前に広がるのは今にも落ちてきそうな月と星と、降り注ぐような青白いしっとりとした光。

何か掴めそうだなと思いながら手を伸ばす。

――無意識に口から零れ出るのは、譜歌。

こちらに近づいてかさりと音を立てて立ち止まったルークに、寝転んだまま穏やかな気持ちで笑って天へ伸ばしていた手を向けて誘うと、無言でルークも俺の隣に腰を下ろして、体を仰向けに倒した。また花びらが舞い散って、ルークの上にも降って来る。

二人で並んで月を見上げる。『アッシュ』とはこんなことも出来なかったな、と思うとこの時間がとてもしあわせなことに思えた。

視線を交わさないまま、ルークが小さな声で語り掛けて来る。どんなに小さな声でも、虫の音に掻き消されそうでも、その言葉は俺の耳に届く。

「…《カンタビレ》という表現を知っているか」

「いや、知らない」

「音楽用語だ。――歌うように、美しく」

「ふーん?」

歌うように美しく。

美しくって、何を基準にするのかな。ティアみたいに歌えたらそりゃ綺麗だよな。

どうしてルークが俺に《カンタビレ》のことを言ったのかは、判らなかったけれど。

伸ばした右手の先に触れ合った小さな指の温もりを引き寄せて、そっと強くない程度に握る。

遠く、物凄く遠くで。

――俺を呼んでくれているようなティアの歌声が、聞こえた気がした。