「そこの二人、何をぼさっとしているのです」

俺とそのメイドの二人の動きが止まっていたのをメイド長に見咎められて、そう言えば今は朝の一番忙しい時だったことを思い出した。

急いで俺も仕事に戻らなくちゃいけないことは判っていたけど、気になる言葉を放置出来なくて、だからメイド長に問い掛ける。

「ええと、今日ルーク様は健康診断だって聞いたんですけど…俺知らなくて。いつそんな予定が入ったんですか?」

厳しい視線に居心地悪く頭に手を遣り苦笑しながらそう訊けば、俺の言葉を聞いたメイド長は顔を顰めてあからさまに深いため息を吐いた。

――だから、なんなんだよさっきから。

その後メイドが口が軽いとメイド長に怒られている間、ラムダスが代わりに説明してくれた。

健康診断のことは基本的に秘密のことで、俺は新入りなのもあって今まで隠されていて、その日は俺は外に使いに出されてたり、長期の場合は帰って来たルークの体調が暫く整わないことも多いから、休暇を与えられていたこと。

健康診断には、護衛の白光騎士団はともかく、屋敷の誰もついていくことが出来ないから、知らなくても変わらないと思われていたこと。向こうでの世話は専用の者が居ること。今回は俺に休暇を出すのをうっかり忘れていたことを伝えられた。

使いに出る時に遠い場所が多かったり、ゆっくりしてお土産買って来て、と言われたり、新入りなのに休暇が多いな、と思っていたけれど、どおりで。

納得はしたけれど、胸にモヤモヤしたものが残る。

何だそれ。俺に隠さなくちゃいけない健康診断って、どんなんだよ?

最初は秘密にされていたことに対するムカツキの方が勝っていたけど、暫くすると急に何だか不安になって来た。

……何だろう?

どうして俺はこんなに不安で仕方がないんだろう。

ルークのところに行けば、健康診断について教えてくれるかな。

よく判らないけど、今すぐルークに会いたい。今会っておかないと後悔する気がする。

今日は俺じゃなくてガイがルークの世話をする日だったけど、いてもたってもいられなくなって、ルークの部屋に行こうと仕事を中断して身を翻したところで、父上――公爵が部屋から出て来て食堂に向かうのが視界に入る。

その瞬間、自分でも無意識に呼び止めて、近づき足元に跪いていた。

昔の記憶と余り変わらない感じのその姿は、やっぱり威厳に満ちていて、屋敷に戻された頃の俺はよく怖がって泣いたって、ガイに教えて貰ったのを不意に思い出した。

――外殻を降下させてからの父上は、ちょっと疲れてたみたいに見えたんだけどな。

――ルーク様の健康診断に、お供させて下さい」

もちろん今はあの頃の子供じゃないから、顔を上げて怯えたりもせずに真っ直ぐに視線を交わす。

ルークに似た碧色の目が、俺を突き刺さすような威圧で見詰め返してくる。

「ただの検査に供など要らぬ。でしゃばるな」

案の定というか、予想していた通りすげなく跳ね除けられた。

判っていたから腹もそんなに立たないし、何より、この世界が過去だと知った時みたいに、前のように感情に任せることがなくなっていたから、すぐに冷静な言葉を返せる。

「ルーク様のお世話をするのも、護衛をするのも俺の役目です。でしゃばってなどいません」

「向こうに専用の者が居る。いつもそれに任せているから不要だ」

「承知しています。ですが、いつも傍に居る俺の方が慣れて下さっていますから、ルーク様も安心して、精神的負担もなく健康診断を受けられるのではないでしょうか」

こんな時は本当にジェイドに感謝したい、と思う。

ジェイドのように人を挑発するまでは出来ないけど、俺が敬語に慣れたのもアイツが普段敬語を使って話していたからだ。完全とはいえないけど、真似をするからどこか似たような口調になるのは仕方がない。

「差し出がましいこととは承知しています。ですが、俺はルーク様のお傍にいたいんです。それだけでいいですから、どうかお許し下さい」

口調は借り物だけどその分偽りのない本心を告げたし、何より視線に力を込める。

これは逸らした方の負けだ。鍔迫り合いの時と同じ感覚を覚えるのは、国家元帥でもある公爵がやっぱり実戦を経験した剣を扱うからだろう。

背負うものの違いか、鋭く強い目付きにやっぱり本能的に怯みそうになって、けれど負けられないとこちらも強く見詰め返す。

暫く互いに無言で見詰め合って、不意にそのことに違和感を覚えた。おかしいな、気に食わないなら俺のことを無視して行けばいいのに。

そう思っていると、公爵は目を伏せて深い深いため息を一つ、吐いた。

その仕草が不思議なことに、『アッシュ』みたいだと感じてやっぱり親子だな、なんて頭の隅で思っていると、静かに感情も声音も抑えた声が落ちてくる。

「……何があっても口外するな。向こうでは逆らうな。命の保障はない」

それは意外にも、同行を許す言葉だった。

俺の気持ち的にはここで許されなくたって、休暇を無理矢理もぎ取って(だって本当は貰えるはずだったんだろ!)こっそり付いて行くつもりですらあったから、嬉しくて思わず微笑みそうになるけど、言葉の内容に、ああ、何か良くないことが起こるんだな、と胸が痛む。

本当は薄々判ってた。だって世話係にすら基本的に秘密って、変だろ。だから俺は、不安で仕方がなかったのかもしれない。

そして、そこまで秘密にする必要があることは、たった一つだ。

――『超振動』に関係することだろ?

この世界でたったひとりの、ローレライとの完全同位体であるルークの能力は、キムラスカ的には『兵器』と呼ばれていたことを、俺は覚えている。

どうして同行を許してくれたかは、判らないけど。

それが公爵が表せる自分の息子に対するギリギリの愛情表現のように思えたのは、都合が良すぎる願いだろうか。

今はそれを確かめることは出来ないけど。

「判っています」

そう、深く頭を垂れて俺の横を通り過ぎる公爵に感謝した。

* * *

「どうしてお前がここにいる!」

ルークが用意された一等の船室のドアを開けた時、俺が既に居て寛げるように準備を整えていたことに対して、酷く驚いてから、いつも以上に怒って彼らしくなく感情に任せるようにして船室から飛び出そうとするのを、咄嗟に腕を掴んで引き止める。

その間に船はベルケンドに向けて動き出したから、ルークは俺の手を振り切るようにして、怒っているのも隠そうとせずドアから離れて部屋の奥に進む。

窓から見える海の光景を眺めて俺に背を向け顔を合わせようとはしてくれない。

暫く沈黙が続いて、船の動力が海を割っていく静かなで低い音が部屋を支配する。船が出港したことで少し冷静になったのか、それとも怒りが過ぎてなのか、感情を抑えた声が訊いて来た。

「誰が来ていいと言った」

それでも俺に向けられる口調は厳しくて、こんなところでやっぱり公爵と親子なんだなあと思う。俺はこんな厳しい声音はどんなに頑張ったって出せない。

「旦那様には許可を貰った」

結局、あれから急いで準備をしたから、ルークには許可を貰う時間がなかった。

準備と言っても自分の部屋からいつもの道具袋と、何があっても良いように休暇の時にしか持ち歩かないローレライの剣をこっそり持って来ただけだけど。

「…父上が……?」

ルークが不思議そうな、けれどどこか訝しむような表情で肩越しにゆっくりと俺に顔を向ける。信じられない、とでも言いたそうなそれは、まるで、父親である公爵が、息子であるルークの為に何かをするはずがないと思っているかのような表情だった。

思い返せば二人が会話をするのって朝食の時くらいなもので、俺の時と変わらないからそんなものなんだと思ってたけど、よくよく考えればナタリアと陛下はそうじゃなかったよな。血の繋がりが無いと判った後の方が、更にしっかりとした絆を持って互いに支えあっていたように、俺には見えていた。

それを羨ましいと思わなかったとは言わないけど、でもそれは俺が偽者だから仕方が無いと思っていたし、アッシュ自身を両親に逢わせてもぎこちないのは久しぶりだってのと、俺が居るからそうなるんだと思ってた。

だけど、ずっと前からそうだったんだな。

本当の血の繋がりがある二人の方が、ぎこちない。

父上は、俺が『ルーク』じゃなくても、ルークが『ルーク』でも、見てくれなかったんだな。

ルークは暫く考えていたみたいだったけれど、俺を睨みつけるように見てきっぱりと言う。

「ベルケンドについたら、お前は帰れ」

「イヤだ」

脊髄反射的に返した言葉に、ルークも黙ってはいない。

こちらの話など聞こうともしない態度で怒鳴り返される。

「帰れ!」

「なんでだよ…」

「お前には、関係ない!」

「関係なくないだろ!……そもそも、何で俺に黙ってたんだ、健康診断のこと。言ってくれたら良かったのに」

ぴりぴりとした緊張感みたいなものを放つルークは凄く苛々していて、それは俺が黙って強引に付いて来たことだけじゃない、他のことに対しても向けられていることが伝わってくる。

それは間違いなく、これからある健康診断に対してなんだろ?

なあ、何をされるんだ、その健康診断って。俺がされたようなこと以上に、嫌なことなんだろ?じゃなきゃお前がそこまで過剰に反応するわけがない。

そう思いながら言う俺に完全に向き直って怒気を放ってくるルークは、俺の良く知る『アッシュ』そのものだった。

「父上の言うことは聞いても、俺の言うことが聞けないのか!」

その視線は、俺がルークよりも公爵を優先することに対しての強い失望と、そのことを責めているように見えて、思わず必死になって言い返す。

「違う!そうじゃない、お前の傍に居たいって思うことがそんなに悪いことなのかよ!」

俺の声にルークは目を瞠りびくりと体を震わせて黙る、そのことに俺は酷く後悔した。

やばい。子供に対して大声出しちまった。

何だ俺、前と変わった気がしてたけど、全然変わってないじゃんか。

感情のままに言葉を出して、相手を傷付ける最低な俺のままじゃないか。

自分のしたことに対して、堪らずに後悔で痛む胸を左手で押さえながら俯いてしまう。

「…ルーク、ごめんな」

お前を傷付けるなんて、本末転倒だ。

お前を守りたくて強引にここまで来たってのに、何やってんだろ、俺。

俺は上手く言葉で伝えることが苦手だし、体の方が先に動くようなヤツだけど。

――なあ、俺が邪魔なら…帰るよ。だけど、俺、傍にいてお前を守りたいのは本当なんだ」

これだけは動かしようのない真実で、俺がここで生きる理由だ。

何も言わないルークを真っ直ぐに見詰めてそう告げれば、ルークは顔を僅かに歪め、綺麗な碧の瞳を揺らめかせた。

どうしてか判らないけど、その顔はとても哀しくて、切ない。

いつもとは違うその様子に俺がどうしたらいいのか判らなくて戸惑っていると、ルークは俺から顔を背けて歩き出し、俺の横を通り過ぎて備え付けられたベッドへと進み、顔を俯けた状態で腰を下ろす。

もうルークは何も言わなかった。

言葉が少ないのはいつものことだけど、その小さな手はシーツごと硬く握り締められていて、見かねて声を掛ける。

「ルーク、」

そのままでは手を傷めてしまう。

ルークに近寄ってその手を解こうと腕を伸ばしたところで、俺の手から逃げるようにその腕は離され遠ざけられる。

ルークの表情を覗き込めば、ルークは俺とは視線を合わせないまま、床を睨むように見詰めていて、それが不満で長い前髪をそっと、表情が良く見えるようにと手で払う。

眉が寄せられたその顔は子供がするようなものとは思えないほど、暗い。

思わずその額に手を当て、いつものように頭を撫で指で髪を梳くと、またルークの瞳が不安定に揺れて、小さな囁きのような呟きがぽつりと零れる。

「どうせお前も、俺のことを……――

最後の方は掠れて聞こえないまま、問い返すけれど繰り返してはくれなかった。

やっぱり黙って来たことに怒ってるのかな。

俺のこと、嫌いになっちゃったのかな。

傍に居られるのが嫌だろうか。

そう考えると凄く悲しかったけど、でも強引について来たことを後悔はしてない。

俺は、ルークを守るために、ここに生きてるんだから。

何があるかを知って、出来ることをしなくちゃならない。その覚悟をしていたはずだ。

ルークが俺のことを信じられなくても、嫌いになっても。

俺は前と違って、出来ることがあるんだ。

頭を撫で続ける俺のことを、ルークは意識から締め出しているようだった。

されるがままの、自棄みたいに投げ出した状態はルークらしくなくて、それが凄く寂しい。

何をすることが出来るだろう。何をすることが、ルークのためになるのかな。

ルークがこんな表情をして、こんな状態になるくらいだ、これからされる健康診断は、けしていいことじゃない。

何も判らないけど、出来ることなら代わってやりたかった。ベルケンドの研究所を破壊したって良かった。

でも、それはきっと根本的な解決法なんかじゃなくて、一時的なもので俺の気が済むだけで、もしかしたら未来の何かをマズイ方向に向かわせることだってある。

何かが出来るとは思っても、実際はこうやって思うようには行動には移せないことばかりだ。その場をやり過ごすようにしか出来ないのはとても歯がゆくて、だけど俺だけでする未来予想なんて上手く行かない。ジェイドだったらもっと、先のことを見通してくれるんだろうけど。

お前を守りたい気持ちは本当なのに、出来ることはとても少なくて、それが酷く悔しかった。

それでも、俺の中で声が聞こえるから。

『焦らないで。出来ることから確実にやっていきましょう』

厳しいけれど、優しい声が俺を支えてくれるから。

だから代わりにそっと、ルークの握り締められた右手を取って両手で包み込む。

ルークは俺が手を握った瞬間びくりと体全体を震わせて、でも振りほどこうとはしなかった。

許しというよりは諦めと言う感情の方で。

そのルークの様子は、自分の意思を無視される形で好き勝手にされることに慣れているみたいで、その時間が早く出来るだけ苦しまずに過ぎ去って欲しいためにこうして、全てを自分の意識から締め出しているのかもしれないと思うと、酷く痛ましかった。

俺に出来ることは、ルークの傍に居ること。

そして、守ること。

大丈夫だよ、と口で言うのは簡単だけど、実際何かをされるのは俺じゃないからどれだけ言っても意味がないだろう。

こうして手を握ることで、ルークの力になることが出来たらいいのに。

苦痛を代わりに受けることが出来たらいいのに。

そう祈りながら、ベルケンドに着くまでずっと傍に居て、ルークの手を握っていた。

いつもは子供らしい柔らかさで伝わってくる温度は、今は信じられないほど冷たくて、俺はその違いに泣きそうになる。

ルークは俺の顔を一度だけ見たけれど、すぐに何かを堪えるように俯いてしまった。