ベッドに寝かせてすぐ、ルークは熱を出した。

メイドに訊けばいつも『健康診断』(何が健康診断だちくしょう!)の後は必ず熱が出る、ということだったから解熱剤ももちろん用意されていて、それを水に溶かしてルークに飲ませる。汗を拭ったり額のタオルを取り替えたりして容態が安定した頃には、すっかり真夜中というかあと1、2時間で使用人たちが起き出す時間になっていた。

安定したことで俺も落ち着いて、空腹感と今日は酷く汗を掻いたんだった、ということを思い出し慌てて周囲に音を立てないように気をつけながら、シャワーを浴びに行く。

シャワーを浴びながら、こういう時は本当に髪が長いと不便だと思う。いっそ切ってしまおうか、と耳の傍に流れる髪を掴むけれど、そう言えば研究所でルークにぐちゃぐちゃにされたなあ、と思い出すと惜しくなった。

髪を切るのを考えるのは後にして、長い髪を適当にタオルで拭い、急いでルークの部屋へと戻る。

当たり前のことだけど、部屋を出る前と変わりなく静かなままだった。

灯りはベッドサイドの小さなランプのみで、それを頼りにベッドに近づく。

とりあえず、ルークが起きたら一緒に何か食べよう。そう、眠るルークの額に手を置いて熱がぶり返してないかを確認しながら思う。

いつだったか俺が休暇から帰って来た時、ルークの顔色が酷く悪いと思った時があったけれど、多分こうして熱が下がったばっかりで本調子じゃないのに、俺が休暇から戻る前に急いで屋敷に戻っていたからだろう。

別に俺が戻った時にルークの具合が悪くても、俺はちゃんと看病するのに。変なところで体面を気にすると言うか…意地っ張りだ。

額に置いた手をそのまま頭の方へと移動させ、何度も撫でる。長い前髪を掻き分けて額をあらわにすると、皺の寄っていない眉間が晒され年齢相応の幼い表情が前面に出る。

それに思わず微笑みながら、また、髪を梳くついでに頭を撫でる。

俺の知らないところで、大変なことに耐えてたんだな。

――きっと、『アッシュ』も。

このルークと同じ経験をしていたんだ、と思うと胸が苦しくなる。

『アッシュ』からしてみれば、確かに俺は何も知らないお坊ちゃんだっただろう。『アッシュ』の苦しみの何分の一も、想像なんて出来なかっただろう。

それに、『アッシュ』もこのルークも、自分の中に色々なものを溜め込んでしまう。

痛みとか、苦しみとか、悲しみとか、全部。『助けて』なんて言葉を軽々しく口になんてしない。

だから、俺と『アッシュ』はこころの中のことはなにも共有出来ないまま、終わってしまった。

もっと、話せたら良かった。『アッシュ』のこと、俺のこと。俺は、『アッシュ』のこと知りたかった。例え理解する、なんて言葉がおこがましくても。

一人で耐えることに慣れていたから、平気だったんだろうか、と考えて、首を振る。

そんなはずはない。

どんな人間だって一人で耐えることは本当に辛い。そのことは、身を持って自分が知っている。『アッシュ』と、このルークと違うのは、俺は辛くて当たり前だと言うこと。それが償いの一つだってこと。

だから本当に。償いでも、自業自得でもないのに耐えている、『アッシュ』も、このルークも、強い。そうこころの底から思う。

こんなに小さいのにな、とその小ささに哀しくなりながら、額をそっと撫でる。

ルークは強い。だけど。

「…あんまり、強くなくてもいいのに」

このままじゃ、ルークのこころは死んでしまわないだろうかと、不安になりながら、起こさないように低く小さな声でそう、囁いた時だった。

小さく瞼が震えたかと思うと、ゆっくりと時間を掛けて開いていく、それに顔を近づけて声を掛ける。

「ルーク、大丈夫か」

俺の声にぱちぱちと瞬きをして、焦点を合わせようとしているみたいだったけれど、やっぱりまだ残ってる微熱の所為か上手く行かないみたいで、眉間に皺が寄る。それをこら、と親指で撫でて伸ばすと、ルークの視線がその手に向けられた。

「熱、下がって良かったな。水飲むか?」

微笑みながら訊けばこくりと頷くから、体を起こして背中に枕を当て支えにしてから、水を渡す。ちゃんとルークがコップを受け取れたのを見て、数時間前薬を飲ませた時はそれすらも出来なかったことを考えれば大分回復したんだな、と安心した。

水が半分ほど減ったコップを受け取りながら、問い掛ける。

「腹減ってないか?減ってるなら、何か作るけど…」

俯き加減のルークの顔を覗き込むと、ルークはいらないと首を振って、そのまま膝を抱え込んで額を膝に付ける。

その様子は酷く疲れたんだと伝えてくる。きっと、疲れ過ぎて寝てるのもきついんだ。

また震えているんじゃないかと、ベッドの空いた隙間に腰を下ろして、右手を伸ばしてルークの体を引き寄せる。

ああ、こういう時って、どうすればいいんだっけ。

ガイは俺に、何をしてくれたかな。

俺は、何をされたら嬉しかったっけ。

腕の中のルークの頭を撫でながら考えて考えて、一つ思い出した。

「ルーク…」

幼い頃、ガイやナタリアがしてくれたように。

俺も優しさを、――元気をルークに分けることが出来たらいいのに。

そう思いながら、ゆっくりと顔を上げたルークの頬を一度撫で。

顔を近づけ額にキスをした。

ルークは酷く驚いた顔をして俺を見詰めていたけれど。

もうその瞳は探るようには俺を見ていなかった。

眉は寄せられていたけれど、もう堪えようとはしてなかった。

それが溢れて零れる前にルークはぶつかる様に俺にしがみ付いて来て、ぎゅうと力の限りに俺に腕を伸ばして引き寄せるからそれを受け止める。

まるで自分の言い表せない言葉を全て詰め込んだようにただひたすらに俺の名前を呼ぶ、その声に応えるように。

俺もルーク、と強く抱き締めて何度も彼の名前を呼んだ。

ルークの顔がある辺りがじんわりと温かくなるけれど、そのまま抱き締め続ける。

ヘッドボードに寄り掛かり、しばらくしていつしか眠る彼を毛布に包んで抱き締めたまま、時々そっとあやす様に背中を叩いて、譜歌を歌った。

――トゥエ レィ ツェ クロア リョ トゥエ ツェ…クロア リョ ツェ トゥエ リョ レィ ネゥ リョ ツェ……」

――せめて夢の中では、楽しいことがありますように。

* * *

起きたら、右腕が痺れてました。

「いっ……・・てぇー!」

右側にルークを抱き締めたまま、俺もつい寝てしまったからこんなことになってしまった。ルークの上半身が俺の右側の上半身に全部乗っかってたから、主に痺れてるのは右腕、というわけだ。

せめて利き腕じゃないのが救いかな、ととりあえず前向きに考えて自分を誤魔化す。

まあ、抱き締めたルークが温かかったのもあって、釣られて寝ちゃった俺が悪いんだろうけど。ちょっと右手に何かが触れてもヤバイ。

「お前は馬鹿だな」

ベッドの中からのご主人様の冷たいコメントにもハイハイと返事をして、とりあえず左手だけで病人食を下げてカップに紅茶を注ぐ。使用人的に行儀が悪くても許してくれ。

今日は嘘みたいに天気が良い。

窓から心地良い風が入って来て、白いレースのカーテンを何度も揺らす。

その度に光が入って来てベッドの中のルークにも暖かい光が当たる、その光がルークに元気を分けてくれますように、なんて思っているのは内緒だ。恥ずかしいから。

――お前が全てを知ったら」

紅茶の入ったカップを手にしたルークがぽつりと呟くのが聞こえて、レースのカーテン越しに見える窓の向こうの青い空からルークへと視線を移すと、思わず息を呑むほど真っ直ぐにルークが俺を見ていた。

「お前も俺のことを…『バケモノ』と呼ぶんだと、思っていた」

怜悧な瞳には力が込められていて、翠の瞳をよりいっそう鮮やかに見せる。

その色はとても力強く、前から俺に向けられていた視線とは全然違っていて、窓からの光を透かすその彩(いろ)に目を離せない。

「だが、馬鹿なお前には無駄な杞憂だったようだ」

「……なんだよ、それ。意味判んねぇ」

受け取った言葉に腹も立たないのは、返す言葉に怒りが含まれないのは。

ルークが、優しくそっと、笑っているからだ。

その柔らかさに俺も嬉しくなって微笑む。

なあ俺、お前の力になれてる?

お前をちゃんと守れてないだろうけど、少しでも、お前が笑える力になってる?

そうだったらいいんだけど。

そうだったら、俺は消えてもいいんだけど。

* * *

健康診断から数日経って、朝、部屋に入った時ルークはいつものように、既にきちんと服装を整えて自分で髪を梳かしている最中だった。

おはようと挨拶をすればああ、と返って来る、その顔色は随分と良くなっていて。

「お、今日は大分顔色も良いな。よし、じゃあ今日は午後からちょっと散歩しようぜ!」

俺昼食作るから持って行ってさ、と言えばルークは髪を梳かす腕を止めて俺を見上げて来た。

「どこに行くんだ?」

「海!」

「海ならバチカルにもあるだろう」

「えー?バチカルのは海って言うか、港だろ?」

あれじゃ遊べないし、と言えばルークは呆れたように問い掛けてくる。

「海で何をするつもりだ。まさか泳ぐつもりじゃないだろうな」

「海って泳ぐもんなのか?俺は危ないから泳ぐなって教えて貰ったんだけどなー」

あれ?なめるなだったっけ?

首を傾げて頭に手を遣りながら言えば、ルークの方も不思議そうな顔になっている。

「…そう言えば、訊いたことがなかったが。お前はどういう環境で育ったんだ?出身は?」

「あ…あー」

訊かれたことはなかったけど、答えるのはちょっと難しいなあ、それ。

出身はバチカル…になるんだろうなあ多分。でもきっとこの返事はマズイ。何って、また再び隠し子疑惑がルークの中で生まれそうだからだ。

じゃあダアト?ダアトにしとくか。とりあえずマルクトよりは当たり障りなさそう。

「出身は、ダアトかなー」

「…ダアトということは、やはり両親が熱心な信者だったのか?」

「えっと…」

信者っていうか…ていうか両親って誰になるのかなあ俺の場合。

ヴァン師匠?ガイ?ジェイド?ディスト?――え、『アッシュ』?とりあえず、皆そう熱心な信者じゃなさそう。つか、約二名憎んでそう。

「…ちがうかも」

「何だ、その曖昧な返事は。自分の親のことだろう」

真っ直ぐなルークの視線に、ちょっと困る。仕方がないから本当のことを少しだけ話すことにした。

「俺、親いないからさ。よく判らないんだ」

親代わりならたくさん居るんだけどなー、と笑って見せれば、ルークはびくん、と体を震わせた後慌てたように顔を俯けた。

あ、多分軽々しく訊きすぎた、とか思ってるんだ、きっと。

参ったな、困らせるつもりじゃなかったんだけど、こういうのってデリケートな話題なんだなあと今更後悔する。

「…行くぞ」

「ん?」

「海。行くんだろう。早く用意をしろ」

「うん、判った。でもお前はその前に朝食な」

顔を背けて言うルークの頭をぽんぽんと軽く叩いて、最後に一撫でしてから手を離す。

気まずそうに見上げてくるルークに大丈夫だよ、と微笑んで見せた。

ベルケンドの町のすぐ傍に海があるのはもちろん前から知っていて、だからこそ目をつけていたと言ってもいい。

バチカルと同じ気候で温かいから、遊びやすいだろうと思ったのだ。

とりあえず着いて、昼食を食べて、そうしたらやることは一つだ。前にルークから貰った髪留めで髪を纏めて、いざ。

「なあなあ、お前海で遊んだことあるか?俺、ないんだー」

靴を脱いで裸足で浜辺を歩く。何だか変な感じだけど、気持ちいい。

グランコクマでは遊ぶなんて出来なかったし。あそこもどっちかっていうと、港だもんな。

ケテルブルグのスパなら行ったことあるんだけどな。水着で入るでっかいフロだったけど。

イマイチ戸惑って躊躇しているルークに何してんだよと急かせば、靴を脱いで投げつけて来た。何の反応ですかそれ。とりあえず両方とも受け取って俺の靴の横に置く。

貝殻気をつけろよ、と声を掛ければお前の方だろうと返って来た。ハイハイ。ご主人様よりはしゃいでてすみません。

それからしばらく浜辺をうろうろして綺麗な貝殻を拾ったり、とりあえずやっとくか、と二人で砂を使って城を作っていたんだけど(しかも二人ともバチカルを作ることは暗黙の了解で、黙々と無言で掘る所から始まった)、途中で波が迫って来て気がついたら陽が傾いていた。

「俺さ、数年前まで海も見たことなかったんだぜ」

波がぎりぎり届くところで足に水を受けながら、足の裏の砂が波に攫われる感触がくすぐったい。

俺が笑ってるのはその所為だけじゃないんだけど。

髪留めのお陰で屈んでも髪が落ちて水に濡れることもない。

ルークがくれた髪留めは、淡い翠の色をして、ルークの瞳と同じ色の小さな宝石が飾られているものだった。あの時は暗闇でよく見えていなかったけれど、あとから灯りの下で見てあまりの綺麗さにちょっと感動して、それから使用人に相応しくない値段のものじゃないかって焦って以来、常に持ってはいるけれど使う機会は結構少ない。

「屋敷の中のさ、これくらいの空が全部だった」

ルークを振り返って、このくらい、とサイズを示して見せる。

「…あちこち旅をするようになったのは、その所為か?」

「ああ……うん、そうかもな。じっとしてるのって、苦手なんだ」

「お前らしい」

ルークはそうして柔らかく笑う。だから俺も笑って、髪留めを外してルークと同じように海から来る風に思うように靡かせる。

項に風が通るのが気持ちがいい。

夕焼けの中、それでもルークの髪は強く眩しく光を反射して、よりいっそうその綺麗な紅をはっきりと俺の目に灼き付ける様だった。

そう思いながら見詰めていたら、気がつくとルークも俺を見ていた。

その表情は何かに酷く驚いていて――少し、青褪めて見えるのに、焦る。

「ルーク、どうした?」

「……なんでもない」

「そうか?」

夕陽の所為で、見間違えたんだろうか。それとも何でもないフリをして本当は急に具合が悪くなったんだろうか。

慌てる俺にルークは大丈夫だから落ち着け、と呆れたようにため息を吐いてから、そっと俺の右手を握ってくる。

どうしたんだろう、ルークからは珍しい。

そう思うけれど、別に嫌なんかじゃなくて、もちろん嬉しかったからぎゅ、と握る指に力を込める。

ルークは俺を見上げて、短く告げた。

――帰るぞ」

「ああ、そうだな、風が冷たくなって来た」

微笑んで返せば、ルークはさっさと歩き出すから、俺は途中で靴を拾って履くのに手間取った。

俺はこの手を離さない。

ずっと。

――俺が消えるまで、ずっと。