ベルケンドから戻って来て一週間くらいしか経たないのに、何だか急に寒くなった気がする。
考えてみれば俺は屋敷から出たことがなくて、その後は世界中を旅したけどケテルブルグに行ってそのままケセドニアとかに行くような、一つのところに留まらない旅だったから、そういう季節の移り変わりの感覚が鈍いっていうか、空調が整えられた屋敷以外の、ちゃんとしたバチカルの気候を知らない。
屋敷はバチカルでも高いところにあるから、寒くなるのもたぶん早いんだろうと思う。
バチカルは元々暖かいところだし、ベルケンドも時々冷たい風が吹いたけど、ケテルブルグより全然暖かかったから、日記の日付を目にしても実感が湧かなかったけど。
――冬が、来るんだ。
そう思ったのは朝ルークの部屋に向かう途中の中庭で、自分の吐いた息が白くなったのを見てだった。
あれから俺はそれとなく警戒をしていたけれど、拍子抜けするほどガイはいつも通りだった。
それはそうだ。ガイはいつでも慎重だった。
時々俺と一緒に悪ふざけもするし、譜業偏執狂でもあるけど、一番大切な時のこの冷静さがガイを大人びて見せる。
そうだ、ルークもだけど。ガイもこんなに強くなくてもいいのに、って思う。
いつも大人びた仕草と言葉でついつい俺の方が昔のクセで頼ってしまうようなことがあるけれど、でもガイだってルークと4歳しか違わない、まだ子供なんだ。
本当なら、ルークと同じように使用人に囲まれて、何不自由なく暮らしているはずの。
それなのに、家族みんなの命を背負って、一番辛いことを成し遂げようと、している。
ガイの家族を救えたら、そこまで過去に戻れていたらきっと、ヴァン師匠も預言を憎むようなことはなかったのかな。俺も生まれなくて、皆がしあわせだったのかな。
――ああ、違う。
俺が生まれなくても、ガイがしあわせに暮らしていても、ヴァン師匠が預言を憎まなくても。
ルークは。『ルーク』だけはアクゼリュスで――、
それだけは、絶対に起こることなんだ。
ふと、相変わらず朝早くから花壇の手入れをしているペールの背中が目に入る。
今の俺なら判る。ペールの腕は花の世話をしているだけのものじゃないって。花を世話するだけじゃ、あんなに背筋に筋肉はない。背中に隙が少ないはずがない。
ペールの剣は、ガイを守るためにあるんだよな。でもああして、綺麗な花を咲かせることも出来る。
何だか、俺はとてもペールが羨ましくなった。
俺も、ペールみたいに何かを守るために剣を持って、何かの命を育めたら良かったのに。
……いつか。叶うだろうか。
俺がいつまでここに居るのか、居られるのか判らないけれど。
視線の先でペールが体を起こして振り返って俺を見ている。
不思議そうなその顔に、あんなに見詰めてたらペールだって気になるよなと頭を掻いた。
「ペール…さん、おはよう」
「ああ、おはよう」
変わらない優しい微笑で挨拶を返してくれる。ペールはいつも穏やかだ。
「何植えてるんだ?」
「うん?ほら、もうすぐルーク様とナタリア殿下のお誕生日だろう。両家合わせてお祝いをなさるのがこの家の習慣だから、その花を植えているんだよ」
赤と黄色の花を包む緑の葉の色合いに、ああルークとナタリアか、と頷いた。
「……そっか、もうそんな時期なんだな…」
ルークが、10歳になって。
――俺が、生まれる。
この世界で俺が生まれるってどういうことだろう。
俺はここにいるんだけど、生まれる俺は、過去の俺ってことになるのかな。
……それとも、俺じゃない別の誰かなのかな。
その時俺はどうなるんだろう、ここに居られるのか、それとも消えてしまうのか。
俺は俺が生まれるのを止めた方がいいのかな。でも、俺がいなかったらルークは、アクゼリュスでどうなるんだろう。
視線の先で、手入れをされたまだ幼い花が朝露に濡れて重そうに花びらを揺らすのを、じっと見詰める。
「綺麗だな。やっぱり手入れが違うから?」
ペールの手に視線を移して問えば、ペールはくしゃりと笑って返す。
「なあに、この花自身の力の精一杯で、慎ましやかに咲いているだけさ。その手伝いをしているだけで、特別なことは何もしていない」
ふうん、と相槌を打ちながら、俺も出来ることをやれば、こんな風に綺麗に見えるだろうかとそう考えて、何かが違うと感じる。さっき思ったことを思い出して、ああそうだ、と頷いた。
俺はペールみたいに、誰かが綺麗に咲く手伝いをすればいいんだ。
だって俺は本当ならここには居ないし、――もう、死んでるんだから。
「……なあ、ペール…さん」
手を休めずに作業を進めるペールの隣に手伝えないけどただ座り込んで、花を見詰めながらつい口から言葉が漏れるのを、ペールはちゃんと聞いてくれてて、視線だけで続きを促した。
それに軽く微笑んで返す。ペールの対応は凄く優しい。怒ったら多分物凄く怖いんだろうけど。
「もし、昔に……過去に戻れるとして、悲しかったことも、誰かが死んだりすることも、そこからは全部自分の手で変えられるとしたら、どうする?」
何を言ってるんだろ、俺。
こんなこと、誰にも言ったことはないし、言ったって『子供みたいな絵空事を』なんて馬鹿にされるって思って誰にも言えなかったのに。
言いながら後悔したけど、でもペールは馬鹿にしなかった。普通に聞き返してくる。
「変えたいのかね?」
「――うん。変えたい」
「では変えるといい」
俺的には物凄く悩んで答えた返事を、ペールはあっさりと肯定した。
なんだそれ!?
俺が驚いてペールを見詰めるけど、ペールは手を止めないまま、視線も花に向かったままで続ける。
「その力があるのなら、使わねば勿体無かろうて。普通はその力がないからこころが裂けんばかりに哀しんだり絶望したり、己を傷付けたり、恨んだり諦めたりする」
話す言葉は重いのに、一つ、また一つと花が植えられて優しく土を掛けられて行く。
「過去に戻れたら…か」
ペールは手を止め俺を見て、やっぱり優しく笑って見せる。
「私にもそんなことを考えてやまない時期があった。――それにも疲れ果ててしまったが、けれど一つだけ、願いを胸に生きながらえておるよ」
それは復讐だろうか。
ぎくりとして隣のペールの顔を見返すけれど、ペールはよりいっそう笑みを深くして。
「なに、孫が立派に成長することが、年寄りの楽しみであり、願いさ」
そう言って、手袋を外しながら立ち上がり、とんとんと腰を叩いて空を見上げている。
いつの間にか朝の空気は大分薄らいで、陽の光が通った暖かい空気の匂いが中庭に満ちていた。
ああ、もうそろそろルークの部屋にいかないと、と視線の先にある部屋のドアを見て、俺も立ち上がる。
立ち上がったけどそのまま、空に浮かぶ譜石を見てその眩しさに目を細めた。
「……でも、いいのかな」
変えたいって思うことは、自分勝手なことじゃないのかな。
俺が独り善がりなことを考えてるんじゃないのか――それは、ヴァン師匠の考えと、どう違うんだろう。
「なあに、この『世界』というものはそうして成り立って来たはずだ。今までも、そしてこれからも、誰かの『世界』を変えられる力を持つ手によって変えられる。2000年前にはユリアによって。ユリアは預言を詠んだ時、それによってただ戦争を止めたかっただけなのかもしれない。しかし今では全ての民が預言を遵守している」
ペールを振り返るけど、ペールは背中側の腰のとこに腕をやってまだ空を見上げたままだった。
「ユリアは、預言によって何かが起こるとしてそのことまで、また己が死した後のことまで自分自身が責任が取れると思っていたと、思うかね?」
ユリアは預言を詠んだ。だけど、それをどう使うかはこの世界に今生きる、人間達が選ぶことだ。
選ぶべきことだった、はずだ。
ユリアは戦争を止めたかった。
出来れば長い期間。人々を苦しませることのないような世界にしたかった。だから預言をたくさん詠んで、残した。
きっかけは、戦争を止めたかった、ということ。
あの戦争は世界が滅びる寸前までになってた、って本に書いてあった。
苦しみや悲しみを、世界の終わりをユリアは止めたかったんだよな。
俺の勝手な想像だけど、きっと、預言によって何かが起こるその責任は、自分の子孫に任せたつもりだったんだろうと、思う。だからあの歌を残したのかもしれない。
未来を変える願いがこめられた、うた。
その子孫が預言に詠まれていたことはユリアには判らなかったのかもしれないし、判っていても子孫を残すことは、責任を取る上でどうしても必要だったんじゃないだろうか。
俺がもし、何かをしてこれから先の未来に大変な何かが起こったとしたら。
俺は、俺が消えてしまうまで責任持って、出来るだけ多く回避したり助けたり、償ったりしていこう。
俺にはユリアみたいに、子孫を残せないんだから。
俺は、俺に出来ることを、するんだ。
ペールに頭を下げて、俺は急いでルークの部屋へと向かい、ドアをノックした。
「遅い。どこに寄り道してた」
許可を貰ってドアを開けた途端、小さなご主人様は腕を組んで長い前髪の向こうから、俺を睨みつけていた。
慌ててごめん、と謝るけど、ルークはよりいっそう綺麗な色をした瞳に力を込めて睨むだけだ。
朝の光が窓から入って来て、ルークを金色に包んで光を放っているように見える。髪なんて本当に濡れたみたいに艶々だ。
多少遅くなってもルークはいつも朝の準備は大抵自分でしてしまっているから、俺が出来ることは朝の挨拶とお茶の用意と今日の予定の連絡と、ルークを朝食に出した後のベッドメイクだとかの部屋の掃除くらいだから、朝の時間は大抵余ってる。
いつもならもたつく俺でも髪の手入れをさせてくれるけど、今日は俺が遅かったからさっさと終わらせてしまったみたいだ。残念、ルークの髪凄く触り心地がいいのに。
「お茶とか飲むか?」
「いい」
目線を合わせて片膝を付けて屈むけど、ふい、と顔を背けられる。やっぱり遅れてきたことを怒ってるんだろうなあ。
困ったな、どうやったら機嫌を直して貰えるかな。
「…庭師と何を話してたんだ」
顔を背けたままのルークの問い掛けに、あれ、と不思議に思う。
なんだ、俺が何してたか知ってるんじゃないか。
でもここから見えたっけ、中庭。窓は裏庭の方に向いてるからドアを開けないと見えないし…あれ、ルークもしかして中庭に出ようと思ってドア開けたのかな。ってことは、俺が来ないのに母屋の方に行こうとしてたのか?……なんで?
「お前とナタリア殿下の誕生日のお祝いの話とかだよ。もうすぐだなって」
こころの中は疑問で一杯だったけど、とりあえずルークの問いに返事をする。
ルークは俺の返事にああ…、と、そんなこともあったかっていう感じに呟いたあと、ため息を吐く。それはまるで面倒臭い、という類のような雰囲気を持っていて。
え、お前自分の誕生日嬉しくないのか?ダアトで見た子供って誕生日を凄く喜んでたんだけど。
俺はどうだったかな、と思い出してみる。
屋敷で会う全ての人から祝いの言葉を貰って、いつもとは違う食事が出て、父上と母上が気遣ってくれて、日頃と違って少し楽しい気もしたけれど、でも。
本当に欲しいのはそれじゃなかったから、我侭言って癇癪起こしてガイを困らせてばっかりだった。
「な、やっぱり誕生日プレゼントとか、たくさん届くのか?」
俺の時も、会ったこともない名前も知らない貴族から、たくさん贈られたっけ。お礼状みたいなのはガイに任せて、ナタリアへの贈り物も、メイドに任せてた。そんなものより外に出たいとか、俺は贈られて来たものに不平不満ばっかり言ってたっけ。
あの時は、そんな贅沢な誕生日がもう来ないなんて、思ってもなかった。
俺の問い掛けにルークは一度頷いて、それから突然目を瞠った後、急に俺を見る。
いきなりなんだろうと驚く俺に、ルークは独り言のように小さな声で訊く。
「――お前の誕生日は……」
俺の誕生日は、ルークと同じ日に祝ってたけど、俺はもうそれが違うってことを知ってる。
完全同位体だから同じ日でも良いじゃないかって、ガイとかティアは言ってくれたんだけど、俺は『アッシュ』からそんな大切な日まで、奪いたくなかったんだ。
一緒に祝って貰うなんてこと、出来るはずがない。
俺が生まれた日は、ヴァン師匠しか知らないだろうけど、結局訊くことも出来なかったし、教えても貰えなかったから。
「ないよ」
だから俺は苦笑しながら、ルークの問いとは違う意味で、そう答えるしかなかった。
ルークに本当のことは言えないから、きっとルークは俺に親が居ないから判らないんだと勘違いしてしまうだろうけど、仕方がない。
ルークは俺の返事を聞いた後、ベルケンドの時みたいに俯いてしまったけど。
あの時とは違って、すぐに顔を上げて。
「…なら、俺と、同じ日にすればいい」
きっぱりと俺を見詰めながら言う、その言葉が聞こえているのに理解出来ない。
「え…?」
「お前の誕生日は、俺と同じ日だ。――いいな?」
透き通った瞳の色が、暖かい陽の光を通してよりいっそう綺麗な碧になる。
それに思わず息をするのも忘れて惹き込まれる様に見入った。
なにを。
何を言っているのか、判っているんだろうか、彼は。
「ルーク、」
思わず名を呼ぶその声は、押さえきれずに震えている。
何も知らないのに。
この世界に『俺』はまだ、生まれてないのに。
俺に、――レプリカに、『ルーク』の誕生日を分けてくれると言ってくれたのか。
ちゃんと理解した途端、嬉しさの余り胸が痛くて痛くて泣きそうになる。
その感情を逃がすために息を吐き出そうとするけれど、胸が震えてとても出来ない。
何も知らなくても、知らないからこそ言ってくれてるんだとしても。
ああ、本当に。
――本当に、彼は優しい。
「お前は俺と一緒に祝われてると思えばいい。前日から屋敷に大量に箱が届くから、それを片付けるのも俺とお前の二人でだ」
ああもう、お願いだから、何も言わないで欲しい。
そんなしあわせなことを、お願いだから、ルーク。
涙を堪えるのが大変なんだ。
さっきから目の奥が熱い。俺はこの切ないほどの嬉しさを、どうしたらいいか判らないんだ。
衝動を堪えることが出来なくて、胸に溢れてくる感情に任せて腕を伸ばしルークを引き寄せ正面から抱き締める。
「――…ありがとう、ルーク」
俺が喜ぶ理由を、きっと正しくは判らないだろうけど、それは判らなくていいことだ。
俺が嬉しくて仕方がないことが、ルークに伝わったらそれだけでいい。
「ありがとう……」
泣くのを堪えて喉が痛くて、だから声は囁くみたいに弱くてルークにちゃんと伝わっているか不安で。
強く、この嬉しさが伝わればいいと思いながら、強く抱き締める。
腕の中の存在は、とても優しい温度で柔らかく、温かかった。
* * *
「もうすぐ、ルーク様の誕生日だな」
屋敷がそれとなく浮き足立った雰囲気を持ち始めた頃、ふとガイがそう呟くのを振り返って確かめる。
ガイは無表情に佇んで、遠くを見ていた。
その方角には、玄関があって。
――そこには、宝剣が飾られていた。