自分の剣を腰に収め、弾いた拍子に床を滑ってこちら側に来たガイの剣を念の為奪っておくけれど、力なく床に膝を付いたガイはもう何もする気も起こらないようだった。
逃げもせず、ベッドを挟んだ向かい側で、ただ痺れた右手を押さえて見詰めている。
変な言い方だけど、ガイがたとえ俺に見つかっても、こう簡単に諦めるとは思ってなかった。もしかしたら俺を油断させるためなのかな、と思ってガイのその姿を見詰めていると、ガイはゆっくりと俺の方を見上げてくる。
「…変なあがきはしない。そう決めてたんだ。あんたがルークを守るんなら、どんなに抵抗したって俺の腕で叶うはずがない。第一、今ここで死んでたって可笑しかない。…そうだろ?」
そう何でもないことかのように言って、肩を竦めてみせる。
下手をしたら死んでいたって言うのに。それじゃガイの思うような復讐にはならないだろうに。
「……俺に、ガイが斬れるはずがないじゃないか。それに、その手は大切なものだ。俺はお前が作った譜業で、音機関で、一緒に空を飛びたいんだから」
復讐に使って欲しくない。
俺が告げたその言葉に、ガイは笑みを消してまるで痛みをこらえるように顔を顰める。
そして右手を押さえる左手にぎゅ、と力が籠もるのが判った。
変だ。
あの慎重なガイが、どうして復讐が出来ないかも知れないタイミングでルークを襲ったんだろう。そしてどうして、そんなに簡単に諦めてしまうんだ。
あんなに、強く思っていたはずなのに。
「ガイ。どうして俺が止めることが判っていて、それでも来たんだ?」
俺がルークの傍に居ない時が、これから先全くない訳じゃないだろう。その時を狙えば復讐出来たかも知れないのに。どうしてあえて失敗することが判っていた今夜を選んだのか。
俺の問い掛けに、ガイは苦しそうに胸元の服を握りしめて、瞳を固く閉じる。
「――…俺にも…判らない」
ぽつりと呟いた後、瞼をゆっくりと開けて、俺を見上げてくる。
その瞳はいつもの強い光を持ったガイの綺麗な青じゃなくて、酷い混乱を示すように頼りなげに揺れている。
「…俺はもっと、待つつもりだった。本当だぜ?……でも、あんたを見るたび、あんたと話すたび、早くしなきゃ、って、毎日凄く急かされた気持ちになっていった」
最初は掠れがちだった声がどんどん荒くなっていって、胸元の手が顔に伸ばされ額を抑えて苦しそうに、でも言葉は止まらずにガイは気持ちを、感情全てを吐き出していく。
「訳も分からず焦って自分を冷静に抑えることが難しくて、苦しくて、何もかもがどうでも良くなって、でもルークは、公爵だけは殺さなきゃ、っていうそれだけが頭の中から離れなくて、俺にももう――、」
どうしていいかなんて、判らなかったんだよ…!
「ガイ……!」
泣いているのかも知れない。
そう思えるほどの、絞り出したように掠れた切ない声は、まるでガイが『助けて』と叫んでいるように聞こえた。
ガイも、ルークも簡単には口に出来ない、誰にも言えない救いを求める言葉。
ガイの顔を覆う指の先が、力が込められすぎていて白くなっている。
蹲るようなその姿に、言葉に出来ないその叫びに、あの時のアニスのことが頭を過ぎった。
このまま、ガイを放ってはおけない。そう、強く思う。
ガイの目の前ではなんとなく躊躇うけど、そのままにしておくわけにもいかないから、クローゼットを開けてそこに毛布にくるんでいたルークを抱えて運び出す。
息苦しくて目が覚めてるかとも思ったけど、ルークは幸運にも眠ったままだった。
それに安心して軽く息を吐く。
なるべくなら、ガイのことはこんな形でルークに知られたくない。
俺が今日こうしてルークを守れたのは、ガイの家族が殺されたのがガイの5歳の誕生日だった、ということを思い出していたからだ。
今日じゃなかったら、数日後の本当の誕生日か、ガイの誕生日にきっと、ルークの命を狙うだろう。
そのどれも警戒していようと、ルークが眠った後もずっとこの部屋にいて、ルークをクローゼットに移動させた後は、ひたすら待った。そうして待つのも気配を絶つのも、傭兵の頃に覚えたことだ。
後はガイが来たのに合わせて、寝たふりをすれば良かった。寝たふりは得意だ。――昔から。
この時間のガイが俺よりまだ幼くて助かった。ガイには悪いけど、隙が幾らでも突ける。
もし俺と同じ時間を過ごしたガイだったら、防ぎきれるかどうかは難しい。何より、ガイは俺の弱点を付く唯一の流派だし、とにかく素早いから。
俺とルークの差に気がつくかどうかが一番不安だったけど、夜だからシーツも盛り上がってるし判り難いだろうと思った。気付かれたら気付かれたで、対処すればいいと判断して。
ルークをそっとベッドに寝かせると、さすがにルークが目を覚ましそうになる。
それに頭を撫でてやることで宥めるとまたすぐに眠りの世界へと戻ったのを確認し、その寝顔を見守ってから、膝を付いたガイの肩に手をそっと置く。
びくり、と大きくガイの体が震えるけど、そっと肩に触れた手に力を込めて促す。
「――いこう、ガイ」
「……ああ」
顔から手を離したガイは、酷く憔悴していた。
歩き出す足も、どこから力が抜けた感じで心許ない。大丈夫だろうか。
部屋を出てすぐ目に付いた白光騎士団員に、ルークの警護を頼む。
不思議がるのに『ガイの具合が良くないみたいだから、部屋に送ってく』とガイを支えたまま言えば、日頃のガイを知っているのか心配そうな言葉を返してくれた。
そのまま屋敷の方へと向かうけど、玄関の方には向かわずに、奥へと進む。
半ばされるがままになっていたガイは、途中で気がついて体を硬くした。
「…公爵に、突き出すんじゃないのか…!?」
その言葉には応えないまま、ガイとペールの部屋へと辿り着いて、ドアを小さくノックする。
間髪入れずに開いたドアの向こうのペールの表情が、ガイを心配していたのがとても伝わってくるようだった。
ああ、そうか、俺がペールの実力を計れるように、ペールにだって俺のことは判ってたのか。
きっと、ガイが俺に叶わないと思ったのも、ペールから聞いたんだろうな。
「……っ」
「ちょっと、いいか?」
俺がガイを支えているのを見て驚くペールに、部屋の中を示して訊く。
頷く時間も惜しいのか、ペールがすぐに身を引いてドアを大きく開くのに体を滑り込ませると、ガイをベッドに座らせた。
背後でドアが閉まる音がして、ペールがガイへと駆け寄って来る。
「ガイラルディア様…!」
ペールの声に、ガイは少し安心したのか小さくため息を吐いた。
強張っていた体から少しだけ力が抜けるのを、近くの壁に背を預けながら見詰める。すると、我に返ったようにガイは俺の方を見て声を上げた。
「ペールは関係ない!」
「ああ、うん。俺は別に公爵に突き出そうとか、そんなことを考えてるんじゃないんだ」
ガイの考えが判って、俺は左手を振りそれを否定するけど、ガイは俺の返事に逆に戸惑ったみたいだった。
「何故だ!?」
「何故って言われても……俺はガイを死なせたくないから」
俺は元々そういうつもりはなくて、ただガイを止められたらそれで良かった。公爵に殺させるために止めたんじゃない。
俺の返事にガイは愕然とした顔をした。信じられない言葉を聞いたような顔で、俺を見詰めている。きっとガイの頭の中で理解出来ない人間だと思われたに違いない。
ガイは俺を睨むようにして言葉を続ける。
「俺を死なせたくないって…あんたに俺の何が判るんだ」
「ガイ……」
「あんたがどう思ったって、俺はまた、同じことをする。絶対。あんたの親友みたいにはなれない。ルークと俺は、あんたと親友みたいには絶対、なれっこないんだ…っ」
もう戻れない、みたいな言い方をするガイに、俺は苦笑しながら腕を組む。
「うん、いいぜ。何度も、納得がいくまでしろよ」
ガイの視線を正面から向けて、俺も力を込めて見詰め返す。
本当のお前というのを、今のお前が俺に見せたって、俺の気持ちは変わらないから。
だって俺にはお前が違うところに居るようには、戻れないと言うほどの、大切な…本当のお前だと思える何かを失くしているようには見えないし。
俺は『本当のお前』を、ちゃんと覚えてるんだから。
「俺は、ルークを護るだけだ。――そしてお前の力になれたらと思うよ」
だから、大丈夫だよ。
そう、気持ちを込めた視線で、ガイを見る。
少しでも、伝わっていたらいいんだけど。
「賭の話な、」
言葉が止まったガイが、ただ無表情にこちらを見ているのを受けたまま、俺はいつかの話を持ち出した。
俺が話し出してもガイの表情は変わらない。硬い無表情で俺を見ている。
「――…俺が、ちゃんと親友になるに相応しい人間になったら、許そうって。だけど、俺はそんなことも知らずに、本当に取り返しのつかないような酷いことを…たとえ俺が死んでも許されない罪を犯してしまった」
それでも。
「それでも、俺を待っててくれた。もう、俺がいい人間かどうかなんて問題じゃない。あいつが居たから、俺はちゃんとした人間に近づけた。そんなに信じてもらったら、それに相応しい人間になるように、努力するしかないだろ?」
アラミス湧水洞でのことを思い出して、切ないけど嬉しかったことを思い出す。
イオンは俺を優しいって言ってくれてたけど、でも本当のところはどうだったのか。
幾ら優しいとしても、それが相手に誤解されてしまうなら本末転倒な気がする。
誤解を与えないことも、言葉でちゃんと伝えることも、優しさの一つじゃないかと、今は思う。
「それは、あんたがお人好しだからだ」
「そうかな」
「ルークは、そんなことをしない。自分を曲げたりしないだろう」
切り捨てる口調のガイに、そうかもな、と頷いて。
「でも俺みたいな馬鹿じゃない」
「……」
「自分が間違ったことを突き通したりは、しないよ」
俺が今までルークと一緒にいて、感じたことを口にする。
それはきっと、ガイにも判っていること。だけどきっと、復讐だとか、他の感情でガイが素直に認められない部分だ。
――ああ、そうか。
ルークとガイの間に、復讐っていう言葉を先に置くからいけないんだ。
最初から上手くいく関係なんてない。相手の嫌いなところだってあって当たり前だ。俺たちだってそうだった。最初はジェイドやティアと合わなくて衝突ばっかりしてて、アクゼリュスの後その衝突のツケが回って来て大変だった。でも、つきあっていくうちにジェイドは『友人』って、俺のことを言ってくれたんだ。ティアは俺のことずっと見守ってくれてた。
ただ、それだけのことなのに、ルークとガイの間には、『復讐』が入るから、上手くいかないんだ。
「…なあ、ガイ。ちゃんとルークに言った方が良い。悪いところがあるならそう、はっきり言ってやれよ」
「使用人の俺がか?」
「関係ない。――出来ない知らないって言って目を瞑って諦めるのは簡単なんだ。でもそれは俺と同じ。あの頃の、ダメな俺と同じでただ、逃げてるだけなんだ」
逃げてなんか、と返そうとするガイの言葉を遮って、俺は言い募る。
「ガイ、ルークがお前の言葉で変わることは変なことなのか?ルークにお前の苦痛を知って貰って、出来る範囲で理解されるのは、ダメなことなのか?そこから公爵に理解させることだって、」
「ルークに同情されたって、俺の家族は還って来ない!」
「それはルークを殺したって、同じだろ!」
反射的にガイの言葉を返して、ガイがびくりと体を震わせる、それを見詰めながら拳を握る。
これから、俺は最低なことを口にするだろう。
きっと、ガイにはそこまでしてルークを守りたいかってあきれられるだろうし、下手をしたら復讐心をよりいっそう強くされるかもしれない。
だけど、俺は。
――二人が仲良く過ごしてる未来が、欲しいんだ。
「――俺が死んでも許されないように。ガイ、お前の家族も…帰って来ない。お前が復讐をしても、…それでルークが死んでも、気が晴れるのはお前だけだ。お前の家族は、お前を苦しめるためにお前を守ったんじゃないはずだ」
視線を逸らさずに告げると、ガイは顔を歪め、視線で殺せそうなほど俺を睨み拳をベッドに叩き付けて怒鳴る。
「…あんたに、何が判る…っ!!」
「何も判らないよ!でもどんな理由でも人を殺して生きてるのだって、辛いんだ!」
アクゼリュスだけじゃない。仕方がなかったとみんなは言う。だけど俺のしたことは、どんな理由でも人殺しでしかない。オリジナルの為に、同じレプリカ達を殺した、レプリカ。
こんなに人を殺したレプリカは、どこにもいないだろう。
今だって手が震える。俺の罪はここではまだないけれど、でも消える訳じゃない。ずっとこころにその重さはある。どうしたら償えるだろうって、俺は俺である限り忘れることはないし、夢に見て飛び起きて、何度も何度も許されない謝罪を繰り返して考え続ける。許されることもないし終わりなんてない。それが罰。
ガイも苦しんでる。でも。
「ガイ、頼むよ。――死んだら、それまでなんだ。後悔することも、理解しあうことも出来ないし、もちろん謝罪も、償いたいって気持ちも、それまでなんだ」
胸がじりじりと焼けるように痛いけど、俺は泣いちゃダメだ。俺が辛いんじゃない、俺に殺された人たちの方が、殺された人の家族の方が辛いんだから。
「許せって言ってるんじゃない。一生許さなくていい。それはお前の当然の権利だし、だからそれをちゃんと公爵に、ルークに認めて貰わないといけないだろ。お前が一生許さないのなら、公爵も一生、償うべきなんだよ」
一生分かり合えなくても、でも、それでもいいんだ。お前の苦しみを外に言葉として、形として出すべきなんだ。
胸の痛みをそっと息を吐くことで堪えて、それを誤魔化すために腹部の服を握りしめ、言う。
ガイは俺をじっと見詰めていたけれど、かくりと力をなくすように首を倒して俯いた。
時計の秒針だけの静かな部屋に、深い、ガイのため息が響く。
しばらくの間、誰も口をきかなかった。
俺は自分勝手な発言をしたんじゃないかと酷く後悔して、それでもその発言を取り消すことも、そもそも言わずにいられたかとか、そんなことを考えて出来ない、と結論が出るのに、しばらく経ったらまた不安になったり後悔したりした。
ペールは俺に背を向けてガイを見守っている。
その背中を見て、俺はまた後悔した。もしかしたら、俺が言ったことはペールがとっくにガイに言ってるかも知れないと気がついたからだ。後悔して同時に恥ずかしくなる。ああ俺、なにを偉そうに言ってたんだろ。
俺が唸って頭をがしがしと掻いてると、ガイが俺の名前を呼んだ気がして、手を止めてガイを振り返る。
ガイは俺のことは見てなかったけど。
「――あんたの。親友は、今どうしてるんだ?」
もっと違うことを言われると思って身構えてた分、俺は気が緩んで小さく微笑んだ。
「…元気じゃないかな。そうだと嬉しい。もう随分と逢ってないからわからないけど」
「何故?」
「随分遠いところに来たから、待っててくれてるのに、逢えないんだ」
嘘じゃない。でもここからたとえば未来に帰れたとしても、俺は死んでるから、会えないんだけど、そのことはガイに言う必要はない。
そもそも、誰に言って信じて貰えるだろう。
俺の方を相変わらず見ないまま、ガイはベッドに腰掛け俯いた状態で問い掛けてくる。
「あんたは、親友の幸せを願ってるのか?」
「ああ、もちろんだよ。迷惑掛けた分、誰よりも」
女性恐怖症は治ったかなとか、結婚出来てるといいなとか。マルクトでブウサギ飼育以外の仕事があるといいなとか、新しい譜業や音機関を開発してるといいなあとか。
「あいつの毎日が、楽しくてしあわせだと、俺も嬉しい。――それはお前にも言えることなんだけどな」
そう言って、顔をまだ上げようとしないガイに、にこりと笑って見せる。
また、しばらくの間無言で時が過ぎた。
鳥の小さな囀りがして、気がつけばうっすらと窓の向こう、空の色が変わって来ているのが目に入った。
――夜明けだ。
それに見入っていると、またぽつりと、小さなガイの呟きが耳に届く。
「――なあ、俺はまたきっと、同じことをする」
「うん」
「絶対、するよ」
「うん」
「ルークと俺は、あんたと親友みたいには絶対、なれない」
「うん。――大丈夫」
ゆっくりとガイに近寄って、そっとまた、肩へと触れて俯くガイの顔を覗き込むように上体を屈める。
「大丈夫だよ、ガイ。俺が、ルークを、お前を見てるから、大丈夫だ」
お前は、ルークを殺さないよ。
そう告げて、昔ガイが俺にしてくれていたように、俯く彼の肩を引き寄せて、その背中を軽く叩いた。
俺の肩へと埋められたガイの顔は、熱くて火傷しそうなくらいだった。