霧に包まれた中庭に立った俺は、朝陽が昇って薄い朝靄が晴れるのを待っていた。
もう、ガイのことはペールに任せた方が良い。
そう思って、俺に寄り掛かるガイを傍にいたペールに任せると、ペールはそっとガイをベッドに横にした。そしてそのまま寝付けるように甲斐甲斐しく世話をするペールに声を掛けずに、俺はそっと静かに部屋を出る。
――ガイが悪い夢を見ないで、よく眠れますように。
そう思いながら、まだ使用人達が動き出すにはちょっと早い、静かな屋敷の中冷たい温度の廊下を一人進む。すれ違う白光騎士団員におはよう、と挨拶を交わして自分に宛がわれてる部屋に戻った。
ベッドは二つ並んでるけど、同室の人間は居ないから俺の自由に使ってる。
はっきり言って私物は少ない。
いつもクローゼットに仕舞ってるローレライの剣と、道具袋も今の状態では見えないから、私物らしい物と言えば後は備え付けの机の上に置いた日記くらいか。
ああそうだ、日記を書かなくちゃな。
そう思いながら時計を確認する。
日記を書いた後一時間くらい寝ることも出来そうだったけど、何だか気持ちが変に冴えていて眠気がない。それにやっと眠くなった頃に起きなくちゃいけないのが一番辛いし、昼の休憩時間の時に眠ればいいか。
日記を書いた後日課の軽い運動をし、眠気覚ましの意味もかねてシャワーを浴び着替えをすませて、いつもの通りルークの部屋に向かうために、中庭に出た。
早朝の空気は冷たいけど、その分清々しいと感じられる。
深呼吸を何度か繰り返して、まだ薄いミルク色に包まれた視界に入る淡い青と陽の光を浴びて目を細める。
不意、に。
眠りに落ちる時みたいな瞬間が来て、かくんと膝から力が抜けて思わずよろけた。
あれ、やっぱり眠いのかな。
よろけたのをきちんと立ち直して足に力を入れて具合を確かめる。腕を軽く振ってみたり体を伸ばしてみたり。いつも通りだ。特に悪いところもない。
眠くないと思ってるだけで実は物凄く疲れてんのかなあ、俺。
……今日は早く寝よう。そうしよう。
そう考えて一つ頷いて、ルークの部屋へと歩き出した。
ルークの部屋の扉をノックする。
もう新年の休暇は始まってるからルークものんびりしてるかと思ったけど、やっぱりというか感心することに、几帳面にも今まで通りきちんと起きていて、入れと短く返って来た。
ドアを開くと冬らしい温度が少しだけ暖かい部屋へと入り込むのに、慌ててドアを閉める。その時につい乱暴になった音に、ルークは俺を振り返って何をしてる、と呆れたいつもの声で窘めた。
――突然、メイド長に怒られた時のことを思い出した。
ルークがこうしてきちんとしているのは、本来の性格もあるし将来の為でもあるけれど、そうやってまじめでいる限り使用人達が罰を受けることもないんだって。だからこそ使用人は安心して働ける。だけど、俺はそれを壊すようなことをしているんだって、言われた。
だから、近すぎてはいけない。そう、厳しく何度も言われたし、それが正しいと判ってる。
俺がガイと違って、ハメを外しすぎるから言われてるんだってことも。
そうなんだけど。
――そうなんだけど、さ。
そんなの、ルークと俺が寂しいじゃないか。
ルークは、変わらず綺麗に透き通った瞳で俺を見上げている。
その彩を見て、昨夜のことを思い出し、何もなくて良かった、と本当に実感した。
ルークが生きている、それをこうして目にするだけで、俺は安心する。
「ルーク、おはよう」
目が合ったルークに微笑んで挨拶をして、今日は髪の手入れをさせて貰えるかな、と近づく。
だけど、ルークの様子が変だった。
いつもなら何か言ってくれるのに、ルークはただ黙って俺を見上げている。
「……どうした?」
あれ、もしかして寝てないのあからさまに顔に出てるかな。
思わず後頭部に手をやるけど、鏡を見ない限り自分がどんな顔をしているかなんて判らない。
ルークはただじっと、睨む訳じゃないけど俺を見詰めている。
怒っているようにも見えるし、俺が何か別の言葉を言うのを待っているようにも見えた。
ルークって、こうやって視線で伝えてくることが多い気がするんだけど、俺はジェイドとかガイに何度か言われたくらいニブいらしいから、結局判らないことが多い。
……なんだろ。
――もしかして。
もしかして、夜、実は目が覚めてた……とか!?
そう思った瞬間、心臓がどくりと跳ねる。
それはマズイ!なんか色々とヤバい!
だけどもしここで確認して、違ったらよりいっそうヤバいし……!
ええと、どうしよう、俺、どうしたらいいんだ!?
頭の中が大混乱になって俺がいきなりオロオロしているのを見たルークは、顔を背けてこれみよがしに深いため息を吐いて見せた。
そのため息はやっぱり、とでも言ってるようで。
な、なななんだよ!めちゃくちゃ気になるだろ、そういう反応!
「なんだよ、言いたいことがあるなら言ってくれよ!」
我慢出来ずにそわそわと俺が訊けば、ルークは眉間に皺を寄せたまま、別に、とそっけなく返す。その返事に俺はよりいっそう慌てた。
どうしよう、ガイのことじゃなかったら、なんだろ。
ああでもヘタなことは言えないし。俺もジェイドみたいに口が上手かったらカマとかかけられたのに!
「別にって何だよ……!」
「何でもない。――ところで、これは…」
半分泣きそうな気持ちで問い返すけど、ルークは変わらない様子で説明をしてくれないまま話を逸らす。
完全にあしらわれてる。
それを不満に思ったけど、いつものことでもあったから、ルークの示すものに視線を向ける。
机の上のそこまで大きくはない箱。
覚えのあるそれはもちろん、俺が昨日置いたものだ。
「…あ、そうそう、それ俺からのプレゼントな!昨日お前さっさと寝ちゃったから言えないままだったんだ。はい」
ガイのことがあったから、今目にするまですっかり忘れてたけど。
改めてその箱を手にとってルークに渡す。
渡されたルークの方は、嬉しそうでいてでもちょっと呆れているような、変な表情を相変わらず眉間に皺を寄せたまましていた。それを見て、俺はその眉間に手を伸ばしてぐりぐりと皺を伸ばす。途端、ルークに上目遣いに睨まれた。怖っ!
慌てて俺が手を離せば、怒ったのかルークは乱暴な手つきで、けれど破くことなく包装紙を解いていく。
解かれたリボンと包装紙を受け取りながら、そういうところは器用だなあと感心した。
「……ジグソーパズル?」
包装紙の中から出て来た箱の表面に書かれた文字を口にして、ルークが僅かに首を傾げる。
「なんか光に透ける透明度の高い材質のピースに、光の透過率が高いインクで印刷されてんだってさ。すげーよな!」
この間から使いにたびたび出されてた時に、バチカルの奥の奥、知る人ぞ知るみたいな店まで行くことがあって、待たされてる時に店内に飾られてるこれが目に付いた。
窓からの光を受けて、透き通って映し出されるバチカルの風景と、その色を通った光が床に反射してその風景を映し出してて。
とにかく、きらきらして色が部屋中にあふれてるみたいで、綺麗だったんだ。
ルークに見せたくなって、そういえばこういうゲームっていうか、遊びものってこの部屋にないよな(ルークがしそうなチェスすらない)と思ったら、思わずお店の人に値段を訊いてた。
実はこういうのあんまり好きじゃないから部屋にないのかも、と思ったのは買ってからでちょっと焦ったけど、でもきっとルークは組み立ててくれるだろう、という何でか判らないけど確信みたいな気持ちもあった。
「ここは光が凄く綺麗にはいるからさ、出来上がったらあの窓辺とかに飾ったらいいんじゃないか?」
言いながら、裏庭に面した光射す窓を指す。
きっと、この部屋の白い壁に、床に綺麗な色があふれるだろう。
そう想像すると自然と笑ってしまう顔を向けながら言えば、箱を開けてピースを一つ手に取って光に透かしていたルークは、その手を下ろして振り返った。
「…お前も手伝え」
「ええ?無理だよ俺、そう言う頭使う細かい作業出来ねーもん。苦手」
「やる前から出来ないとか言うな」
そうしてルークはこちらに近づいて来て、手に持っていたピースを俺の左手へと乗せる。
「それはお前のだ。お前がそれをちゃんとはめない限り、これはいつまで経っても完成しないからな」
「なんだよそれ!っつーか、いきなりこれだけ渡されても…わっかんねーよ」
まだ箱の中には同じような形のピースがそれこそ無数にあって、このピースがどのピースと合うかなんて全然見当も付かない。
左手に渡されたピースを前に心底困って呟けば、ルークは腕組みをして口を開く。
「当たり前だ。だから、二人で考えながら作るんだ」
そうきっぱり言うと、ルークは早く髪を梳け、と言って椅子に座る。
ルークの誕生日のプレゼントだったのに、何で俺も?と思うけど、一緒に遊ぼうってことなのかなあ。
そう思いながらてのひらの上のピースを見詰めてたけど、ルークに急かされて俺はそれをポケットに突っ込むと慌てて準備をした。
* * *
新年が明けて早々、ヴァン師匠が父上…公爵とルークに新年の挨拶に来て、そのまま稽古になるのを知っていた俺は(だって俺はそれが楽しみだったんだ)ヴァン師匠から相変わらず隠れるようにして屋敷の裏方の仕事をしていた。
本当はルークといつもどんなことを話してるのかとか、物凄く気になってるんだけど、遠くから窺っていたとしてもしうっかり見つかって挨拶するようなことになった時に、この髪と目の色についてどんな説明をするかまだ全然思いつかないからだ。下手なことを言えば突っ込まれるだろうし、追い詰められたりもするだろう。
何より、俺は嘘がヘタなんだから、どう考えたって会わない方が良かった。
はたはたと音を立てて薄い色をした空の下、風にあおられる使用人達のベッドのシーツだとかの、洗濯物を視界に入れながら足を投げ出して後ろに両手をつき、背筋を伸ばすように太陽を見上げる。
その視界に、突然逆さまにガイの顔が、それもずいぶんと近くに現れて、驚きのあまり俺は思わず自分を支えていた腕の力が抜けて地面へ音を立てて頭をぶつけた。
「いっ――」
「ああ、悪い。そんなに驚くとは思ってなかったんだ」
ガイが笑って手を差し出す、それに手を伸ばすと掴まれて力強く引っ張って、俺の上体を起こしてくれる。
俺の手を握るガイは俺の驚いた様子に笑っていて、その表情は明るい。
陽の光に透けた金髪は相変わらず、色褪せることなくきらきらと光を反射させて、相乗効果を起こしてるみたいだった。
ガイは俺に顔を合わせないまま新年になる前に、ペールと一緒に休暇を取った。
どこに出掛けたかは判らないし、もしかしたらもう戻ってこないかも、と思うとかなり焦ったし心配だったけど、ガイは戻って来た。
前とは少し、違う雰囲気をまとって。
相変わらず、俺に優しく接してくれた。――本当は複雑な気持ちがあるだろうに。
握っていた手を離して自分で立ち上がりガイの正面を向くと、ガイが首を僅かに傾けていつもの爽やかな笑みを見せながら訊いて来る。
「なあ、暇だろ?俺たちも稽古をしないか?」
ガイにそう誘われたのは初めてだった。
驚いて思わず目を見張るけど、でも断る理由はない。元々俺がアルバート流を使うのは隠してないし。何より、ガイが俺に対してこころの内側を見せてくれたように思えて嬉しかった。
普通に話したり一緒に過ごしたりすることも大切だと思うけど、剣を打ち合う最中は、一番こころが通じ合う気がする。なんていうか、隠し事も悩みも何もかも取り払って、ただ純粋に打ち合うことだけを、その時間を感じられるって言うか。
だから、俺も笑い返して頷いた。
「…ああ、いいな」
模擬刀がぶつかり合い、擦れ、弾かれ甲高い音を立てる。
白光騎士団員が使う宿舎前の訓練所で、俺はハンデとして左手使用禁止の状態でガイと打ち合う。
右で剣を持つのはやっぱり違和感がある。力が上手く入らないというか。だけど訓練は何度もした。もちろん、ヴァン師匠にいわれたから。ヴァン師匠の言葉は、俺の全てだったから。
ヴァン師匠は俺にたくさんの秘密とほんの少しの嘘を吐いていた。
だけど、剣のことだけは――剣術のことだけは絶対嘘は吐かなかったし、奥義書まで用意してくれてた。それだけは疑いようのないほんとうのことで、それだけでも、充分感謝してること。
向かって来る剣撃を同じく剣撃で払う。
その間に近づいてくるガイの剣を受け止め、力と重みで俺の腕を圧してくる、それを薙ぎ払う。ガイが身軽に体を回転させて地に足が付く前に、踏み込んで――
「瞬迅剣!……って!」
やべ、右手だった!ズレた!
俺の剣はいつもと違う、ちょっと右に反った場所へと技を繰り出している。戦闘時にそれは大きな隙だ。
もちろん、その隙を逃すガイじゃない。素早く技を避けて、俺の無防備になっている右脇に向けて斬り掛かってくる。
それを咄嗟に剣を逆手に持ち替えて受けたのはほとんど無意識で、さらに。
「烈破掌!」
掌底を叩き込んだのも無意識だった。
爆発した気に吹っ飛ぶガイの姿に慌てたのは言うまでもない。
無意識っていうことはもちろん手加減はなしってことで、いくらいつもは使ってない手でやったとしても、威力は抜群にあるわけで。
ガイは身長はあるけどまだまだ子供で、出会ったばかりのジェイドと俺以上の力の差があるってのに……!
つい癖で、ヤバイところに来られたら反射的に技を出してしまうようになってる自分に、なんでもっと制御出来なかったのかと腹が立つしそれ以上に後悔ももっとした。
きっと相手がガイだっていうのも、俺がつい無意識になる条件を満たしてるんだ。
このガイは、俺と同じ時間を過ごした『ガイ』じゃないのに。
地面に背中から倒れたガイに駆け寄って、体を抱えて声を掛ける。
「ガイ!ごめん!大丈夫か!?」
「いっててて……」
ガイは掌底の決まった腹を押さえて蹲っていて、そっと服をめくって確認するとちょっとしたアザになってた。それを確認した瞬間、自分の血の気が引く音を聞いた気がした。
わああああああ!
「ごめっ、本当にごめんなガイ!」
「馬鹿、ちょ、揺らすな……!」
吐く!吐くからやめろ!とガイが痛む腹を押さえながら唸るように言う、それにガイを揺する動きを慌ててやめて、とりあえず訓練所の隅にあるベンチに移動して寝かせてから、手当をする道具を取りに行った。
俺は生憎と譜術を覚えなかったから(回復術を覚えようと本気で思った)、ガイのアザの上に湿布を貼って、包帯を巻いた後、自分の道具袋に入ってたミラクルグミをガイの口に突っ込むと、そのうちガイから大分回復して落ち着いたのか深いため息が聞こえた。
「ガイ?」
「ああ、もう大丈夫だよ」
「良かった、もう痛いところはないか?」
笑って頷くガイに、ああ良かったと胸をなで下ろす。
ガイに何かあったら、俺はどうしたらいいか。
「本当にごめんな。これからの仕事全部俺がやるから、お前寝てろよ」
「いいって、稽古に誘ったのは俺だし。それに……やっぱり、あんたと俺じゃ、力の差がこんなにもあるんだな……」
笑うガイの笑みは苦い。
俺は死ぬ前に鍛えてきた分も加えて今の俺だから、別にズルをしてる訳じゃないんだけど、何だか申し訳ないような気持ちになる。
「――なあ、ずっと気になってたんだが」
「ん?」
「あんた、ヴァンの親類関係にあるのか?」
口調は軽かったけど、その深く青い瞳は物凄く真剣で厳しい。復讐のことに気付いているなら、ヴァン師匠との関係も知ってるはずだと、ガイは思ったんだろう。もうヴァンに『様』という敬称は付けてない。
だから俺に嘘を言うなと、ガイの瞳は言っている。
「その髪と瞳の色、それにアルバート流の剣術。ヴァンにも劣らないその、剣術の腕…、」
「俺は――」
思わずガイの言葉を遮るようにして口を開いたけど、何も考えてなかったから言葉が続かない。
俺が、ヴァン師匠と、どういう関係か。
どんな?
父親だったらいいのに、って思ってた。
一番信頼していた。
棄てられた愚かな人形で。考えに従うことも出来なくて、けれどやっぱり、嫌うことなんて出来なかった。
最後には、
――ああ、それでも。
俺はずっと、師匠の弟子だった。