俺がどうやって屋敷を出たかなんて、記憶にない。

気がついたら腰ににローレライの剣を差し、左手にいつも使う剣を持ってケセドニアに向けての船に乗って水面を見詰めていた。肩にはいつもの最低限のものだけが詰まった道具袋が下がってて、いつのまに、と自分に驚いた。

頭の隅には非常警戒態勢を取る白光騎士団とは別に、白光騎士団の大部分が捜索隊として編成されていたことや、公爵を護りきった数人以外の団員の訃報、倒れた母上…奥様を慌ただしく看護するメイドたちと、部屋の隅で固まって怯えるメイドたち、青ざめた使用人達の光景が残っているから、多分どこで誘拐されたとか、そういう情報を聞いてから屋敷を飛び出したんだとは思う。

焦る気持ちが、何度もローレライの剣の柄に手を伸ばさせる。ローレライの剣が俺に集めた第七音素を分けてくれるのが感じられて、もしかしたらそれで俺はなんとか動けてるのかも知れなかった。

頼むから、保ってくれ。

自分の体にそう何度もこころのなかでおまじないみたいに呟きながら、俺は夜の闇が包む海が作る白い波を見詰めていた。

よりにもよって、このタイミングで誘拐だなんて。

もう少し早かったら――まだ、体が乖離し始めてなかったら、ルークを助けることはそう難しいことじゃなかった。

だけど、今のこの体は。

焦る気持ちを抑えるために、外套をぎゅっと握りしめる。

俺が死ぬことよりも、ルークを助けられないことの方が、辛い。

大丈夫だ。――大丈夫、俺はどこで『俺』が作られたか、知ってる。

多分ルークのレプリカ情報は、コーラル城で抜かれたはず。

時間的にもまだ、ルークはそこに居るだろう。レプリカルークが、……俺が見つかるのに数ヶ月掛かった、って言ってたし、その時には別の場所に移されてる。それじゃまずい。俺はその場所を知らないし、前と同じようになるとは限らない。

だから一日でも少しでも早く、コーラル城にいかないと。

焦る気持ちそのままに、船から一日掛けて着いたケセドニアの地を踏む足を出した瞬間。

――世界が、ぐるりと回って倒れるかと思った瞬間、暗転した。

* * *

ぐるぐると視界がめまぐるしく変わる。色んな情報が視界に飛び込むように入ってくる。

これ、は。

まるで、セフィロトで記憶粒子の中に取り込まれた時に見たようなことが起こってるみたいだった。

『スター、あなたはオリジナルですか?』

懐かしいジェイドの声がして、目の前に青い軍服を身に纏った長身の姿が映し出される。

その足下には、ミュウと、黄色のチーグル。

あの黄色のチーグルには見覚えがあった。ワイヨン鏡窟で助けたヤツだ。あの後シェリダンで世話になって可愛がられてた。

あれ、アイツレプリカじゃなかったのか?

『はいなのです』

『もう一人のあなたはどうなりましたか?』

『…多分死んだのです』

『…多分?』

『実は、自分は一回死んだのです。その後何かが入ってくる感じがしたと思ったら、自分は死んでいなかったのです。その時は、もう一人の自分はいなかったのです』

何かが、入ってくる…?

それは、俺と同じことが、このチーグルに起こったってことか?

でも、何か変だ。

だって、このチーグルはオリジナルでレプリカより先に死んでいて――

『アッシュがあなたのところへ来ませんでしたか?』

また場面が変わる。

ジェイドと――スピノザだ。

『アッシュは、完全同位体が誕生した場合のオリジナルの負担について聞きましたか?』

『はい』

『では、フォニム乖離による緩やかな放出現象を説明した?』

『学術的な説明では難しすぎますから、ビッグバンの時期に向けて徐々に体力や譜術力が失われていくことは…』

『その説明では…アッシュが誤解している可能性がありますね』

『誤解?』

『いえ…彼の無謀な行動の理由がようやくわかっただけです。もう…手遅れでしょうがね』

アッシュは、スターみたいに力が弱まってた?

スターと同じように、大爆発に入ってたってことか?

アッシュは確か、ワイヨン鏡窟でレプリカの方の檻に居た、スターを見ている。

俺たちはそれで、生き残ったのはレプリカの方だと思ってたけど、さっき見た光景では、スターはオリジナルだと言ってた。

アッシュも俺たちと同じように、スターをレプリカと思ってた。

オリジナルの方にフォニム乖離が起こって、弱って死んだ。

たぶん、それは間違いない。みんなに共通した同じ考えだろう。

だけど、それ自体が大爆発じゃなくてあくまで二番目くらいの段階で、『何かが入り込んできて、目が覚めたらレプリカは消えていた』、これが。

これこそが、大爆発の完了なんだ。

アッシュは、これを知らない。俺なんてそんなことが起こってることすら、知らなかったけど。

アッシュは、オリジナルの方が先に死ぬことしか、知らないんだ。

――……だから。

だから、死ぬって思って……『俺には時間がない』って言ってたのか?

あの時に知ってたのは、解ってたのは、ジェイドとディストだけ。

そう考えた途端、また光景が変わる。

『アッシュが死にました』

かつりと床に響く軍靴の音が聞こえそうな歩みで、ジェイドがディストに一歩、近づく。

『…何が原因で死んだにせよ、この時期なら、大爆発は始まっていたと思っていいでしょう』

『…始まっていないかもしれません』

『何ですか、それは!あなたが完全同位体の理論をまとめたんじゃないですか!自分の研究が信じられないのですか!』

その後もディストは早口でジェイドに何かを言ってはいつもみたいに癇癪を起こしてたけど、最終的には話は戻って来た。やっぱりディストはなんだかんだ言っても学者なんだなあ。

『いいですか?コンタミネーション現象は免れません。たとえあなたの才能を持ってしてもね』

『分かっていますよ、そんなことは。私は死者の復活に失敗した人間だ。運命は変えられない』

『…記憶は残るのですよ』

『いえ、記憶しか残らないんですよ』

ジェイドの声に、すとん、と答えが胸に落ちてくる。

そういう、こと、なんだ。

ああ、なんだ。

アッシュが死んでも、俺が死んでも、アッシュは生きるんだ。

良かった。

俺がアッシュに出来る唯一の償いって、これなのかも知れない。

奪った時間は命と一緒で、謝ったって戻らない。その間にどれだけ大切な思い出が作れたか、俺は胸が痛むほど知ってる。

母上の優しい眼差しと、少し温度の低い綺麗な手。

滅多になかったけれど、父上が掛けてくれた言葉。

みんなと一緒に見た空が、海がとても綺麗だった。スパでみんなで騒いだのも本当に楽しかった。

ジェイドが免疫の少ない俺の健康を色んな場所でさり気なく気遣ってくれたこと、俺が存在する証のように、赤毛のブウサギに俺の名前を付けた気さくな陛下のこと。ナタリアの料理が初めて上手に出来た時のこと、ガイの屋敷に連れて行って貰った時の、庭を鮮やかに彩る花が綺麗だったこと、アニスがこっそり二人分だけ作ったストロベリーミックスが物凄く美味かったこと。

俺と同じような罪を犯しているミュウも、小さい体でそれでも俺を支え続けてくれたし、ティアは相変わらず厳しかったけど、時々、酷く優しく笑ってくれた。――イオンは、俺にいつも優しかった。

全部が、俺の大切な思い出だ。たからものって言ってもいい。

これは、本当はアッシュのものだったはずなんだ。

屑とか劣化とか色々言われたけど、本当に酷いことはしなかった。

言葉の暴力だって酷いんだ、ってガイとティアは言ってたけど、でも。

それがアッシュの全部じゃないことを、俺は解ってる。

俺の体調を訊いて…心配してくれてたこともあった。

確認するだけだったら、わざわざ会いにこなくても良かったはずだ。あの便利連絡網で俺の体のことだって判るだろうし。

そして、アッシュは俺の所為で消えると判っても、そのことに関しては何も言わなかった。

責めなかった。自分の思う通りに動かない俺に怒ってたけど。

あんなに、憎んでるって言ってたのに。

死ねって言われたこともあるのに、でも実際は俺を殺さなかった。

俺を最後には認めてくれたアッシュに、返せるというのなら、返そう。

俺がいなきゃ、俺が戻らなきゃ、大爆発は完了しないんだよな。

俺がアッシュのことをこんな風に思い出すのは、もうずいぶんと久しぶりだ。

最近は、ルークやガイと暮らす毎日が、本当に楽しかったから。

最初の頃は毎日みんなのことも、アッシュのことも思い出してたのに、今は何かきっかけがあって思い出すくらいだった。なのに。

今ここで目に映る光景は俺が経験したことも混ざっていて――とても、懐かしい。

俺にとって、戻る場所なんだ、ってこころだけじゃなくて体全体で感じて、切なくなる。

ぐるぐると光景は巡っていき、その数を減らしていって、そして。

目の前に、光の道筋だけが残った。

――ああ、判ったよ、ローレライ。

その先が、本当に俺が行くべき場所だ。

でも、俺はその眩しいくらいの光を放つその道へ、踏み込むことが出来なかった。

もちろん、アッシュに命を返したい気持ちは、ちゃんとある。嘘じゃない。だけど。

背後を振り返る。そこは金色の光が広がるだけだけど、その先に『ルーク』がいる。

俺は、ルークを助けたい。

だから、今は先へは、進めない。

せめて、ルークを助けてからここに来られたら良かったのに。そしたら未練はいっぱいあるけれど、でも先に進んで俺は消える方を選べたのに。

そんなことを考えながら、どうしようもない矛盾を抱えて俺はそこにじっと佇んでいた。

かなり長い間、ずっとそこに立ちつくしていた。

突然、頬に冷たい空気が当たる。

それにはっとして顔を上げた途端、一迅の風が吹いて、光は霧のように流されていく。

広がる夜の空に響く海のさざなみは、淡く、月の光に照らされて光を灯して咲く、風に揺らされるセレニアの花たちが立てる音にも似ていた。

そこに、透き通るような透明でうつくしい旋律が流れる。

「トゥエ レィ ツェ クロア リョ トゥエ ツェ…クロア リョ ツェ トゥエ リョ レィ ネゥ リョ ツェ……」

――ティアの歌声だ。

「ヴァ レィ ズェ トゥエ ネゥ トゥエ リュオ トゥエ クロア――…リュオ レィ クロア リュオ ズェ レイ ヴァ ズェ レイ……」

まるで呼ぶように。

「ヴァ ネゥ ヴァ レィ… ヴァ ネゥ ヴァ ツェ レィ……クロア リョ クロア ネゥ ツェ レィ クロア リョ ツェ レィ ヴァ……」

月に手を伸ばして高すぎず低すぎず、耳に心地よい綺麗な歌声が空に放たれる。

「レィ ヴァ ネゥ クロア トゥエ レイ レイ……――

ティアのこころから放たれたそれは、星のきらめく夜空に吸い込まれて消えていった。

ずっと呼んでくれてたんだ。

――ありがとう、ティア。

俺、今、ここにいるよ。

ティアの歌声は聞こえたのに、みんなの会話する声は聞こえない。

いや、声は聞こえるんだけど、何て言ってるかは理解出来ない。

きっと俺が、そこにちゃんと存在してるんじゃなくて、時間を移動しているからだ。

みんなが何か話をした後、立ち去ろうとした、その時。

――不意、に。

そこに降り立つ人物に、胸が痛くなって、同時に例えようもない安心感に深く息を吐く。

俺がいなくても、大爆発は完了出来たんだろうか。

赤い長い髪が、月に照らされて夜に鮮やかになる。髪と一緒に白い上着の裾が、黒いマントが風に波打って棚引く。

俺と同じ、けれど違うその姿。

ああ、よかった。

約束は、守られた。

――ローレライ。

俺は行くよ。

この選択は間違ってるだろうけど、俺は『ルーク』を助けたいんだ。

その結果が、この未来には繋がらなくても、俺は行く。

ローレライは、俺がこう考えることがことが判ってたのかもしれない。

だから俺が本当に進むべき道を選ばなかったのに、この光景を見せてくれたのか。

もしかしたら、ローレライが大爆発を遅らせてくれているのかも。俺の音素がなくても、アッシュが生きていられるように、何かをしてくれているのかもしれなかった。

みんなに会わせてくれてありがとう、ローレライ。

会えて良かった。

誰も俺に気がつかなくても、姿を見ることが出来ただけで充分だ。

だって、みんなが俺を見てくれたら、俺に声を掛けてくれたら――俺の名前を呼ばれたら、絶対未練が残るから。

それにもう、俺はルークじゃない。

俺にとってルークは、あの小さな子供だ。

みんなは、俺の記憶から少しだけ違った姿で、目の前に突然現れた彼を驚いた顔で振り返っている。

あの時は言えなかったけど、これで本当にさよならだ。

みんなの顔をひとつひとつ、俺のなかに刻み込むように見詰めていく。

さよなら、ガイ、ナタリア、ジェイド、アニス…――ティア。

綺麗な歌を、最後にありがとう。

《カンタビレ》、という言葉をずいぶん前に『ルーク』に教えて貰ったことを思い出した。

歌うように美しく。

その表現は、今も、月とセレニアの花の光を受けて、涙を静かに流しているティアにぴったりだ、と思う。

はは、俺、ティアが泣くところなんて、絶対見られないだろうって思ってた。

ありがとう。

そして。

――おかえり、アッシュ……『ルーク』。

アッシュがみんなに囲まれているのを見ていたら、金色の光がぼんやりと俺の体を覆い始めた。

また、ローレライが連れて行ってくれるんだろう。俺が行きたい時間に。

俺の体が、視界がまた光に包まれて行くのを受け入れながら、ただ目の前の光景に見入っていれば、突然何かを感じたようにアッシュが体ごと、俺の方を振り返った。

思わずぎくりと体が強張るけれど、俺はアッシュたちには見えてないはず。それなのに。

アッシュは周囲に集まったみんなを押しのけて、俺の方へと向かってくる。

え、どうして。

こっちに何かあるのか?

そう思って周囲を見渡すけれど、何もない。相変わらず光を放つ月を包むように広がる、星の瞬く濃紺の夜空と、それをまるで鏡のように映す海。風に揺れるセレニアの花。

けれどアッシュは足を止めないどころか、まっすぐに海に向かって――

……いや、違う。

――アッシュには、俺が見えてるんだ…!

それに気付いた瞬間、俺は咄嗟に身を翻そうとする。だってアッシュの顔が、今までにないくらい怒ってるのが判るくらいに、本当に怖かったんだ!

だけど。

右手のグローブの上から強い、それこそ俺の腕を折らんばかりの力で掴んだアッシュが怒鳴る。

「おいっ、この…馬鹿が!どこに行くつもりだっ!」

アッシュの声が聞こえる、それに驚いた瞬間、あれ、と不思議に思う間もなくするりと腕がグローブから抜ける。

どうして、と自分の右手を確認すれば、肘から下が透けて消えてた。

――乖離だ。

ああ、元から進んでたからなあ、と思って見詰めてから顔を上げれば、アッシュが、俺の手を掴んでた右手に残ったグローブを凝視して固まってるのに気付いた。

アッシュのそんな表情を見るのは初めてで、でもどこか、『ルーク』と似てる、なんて思う。

もしかしたら、アッシュが掴んだところから、音素が流れていったのかも知れない。

まあ、ちょっとびっくりするよな普通は、と苦笑してみせると、アッシュはグローブに向けてたのと同じくらいの視線を痛いと感じられるほど向けてくる。

こんなにちゃんと、アッシュが俺を見てくれたこと、今まであったかな。睨まれることとかあったけれど(ていうかほとんどそうだったけど)、こうしてちゃんと『俺』を見てくれたのは、初めてのような気がする。

その間にも、視界にどんどん光が満ちていく。

何か、アッシュに言いたいことがあったような気もするけど、別にもう、いいか。

『ルーク』と同じ力と光を放つ瞳だと、見詰め返しながら思う。

確かに、俺の知る『ルーク』はお前なんだな、アッシュ。

お前だけが俺に気付いて、俺を見てくれた。

俺の右手を掴んだ感触は一瞬に近かったけど、でもはっきりと俺の中に残ってる。

その温度は、感触はちょっとの違いはあるけど、『ルーク』だった。

彼と同じように、俺もアッシュの顔に見入る。同じはずの顔。同じはずの鏡の向こう側。

――だけどもう、同じじゃない。一緒じゃない。

俺が旅の中で何を感じてたかとかそんなことは、全部お前の中に残るだろうから。だから俺はお前のことを『ルーク』を通して理解するから、お前はその記憶で少しくらいは、俺のこと理解してくれたら、嬉しい。

そう考えると、自然と表情が笑顔の形になる。

うん、最高の別れだ。エルドラントのあの時より、全然良い。

じゃあな、アッシュ。――しあわせに。

「…っ、おい!」

アッシュが光に包まれる俺に手を伸ばして、今度は俺の長いままの髪を思い切り掴むけど。

それもぷつりと脆く乖離して切れて、――そのまま。

俺の視界と思考は、金色に光る世界に塗り潰された。

だから、あの未来がその後どうなったかなんて、俺は知らない。

ローレライ、死んでる俺にまた時間をくれてありがとう。

ルークを助けたら、俺、ちゃんとアッシュに返すから。