「――ルーク」
夜もだいぶん過ぎた砂の街の中を月を背負って歩く、その足を止める。
行く先に伸びる影も動きを止めた。
「ここからは一人でも、ちゃんと行けるな?」
握っていた手をそっと離して隣のルークを見詰めながら言えば、ルークは珍しくぽかん、とした顔で見上げて来た。
何を言っているのかすぐには解らない、と伝えているようで、思わず笑いながらそっとその額から後ろに掛けて一度、頭を撫でる。
今までずっと一緒だったから、離れるなんて思っても見なかった、ってことだろうか。
そうだったら、嬉しい。
ふわりとなびく髪を眺めながら告げた。
「――追って来てるんだ、まだ」
「っ……!」
俺の言葉にはっ、と我に返ったような表情に変わって、ルークは慌てて自分の周りを囲む闇を見回す。
今まで、安全で陽気な人たちに囲まれて過ごした馬車での移動が続いていたから、きっとルークは忘れてたんだろう。まだ何も終わってないってこと。
その分、ルークはこの短い数日間の旅を楽しんでいた、ってことでもあるんだろうけど、残念なことにここで終わりだ。
日が経つにつれて、商人の馬車に目を付けられるのは判ってた。でもローレライのおかげで思ったより早くルークを連れて脱出出来てたみたいだから、ここまで何事もなく来られて助かった。
後もう少しの我慢なんだ。こんなところでヘマは出来ない。
「俺はここで足止めをするから、ルークは急いでキムラスカの兵士に助けを求めるんだ。大丈夫だから」
この大きな道をまっすぐに進んで、港に向かって曲がればいい。
そう言えば、ルークも視察で来たことがあるのかこくりと頷く。その瞳は不安そうに俺を見上げていて、心配されていることが伝わってくる、それがまた嬉しい。
「また、屋敷に戻ってくるんだろう?」
「――うん」
俺にはもう、時間がない。
だけど正直に戻れない、なんて言えなかった。今でも離れたくない気持ちは本当だから。
ずっとルークの傍で過ごしたい。
でも、きっと俺がここまで保ったのも、ここで終わるためなんだろう。
俺が頷いた時、ルークは酷く傷ついた顔をして、俯いてしまった。
「え、ルーク!?」
「――お前は嘘が下手だな」
深い、子供らしくないため息の後ゆっくりと顔を上げる。その、いつかみたいに俺を見詰めるルークの碧い瞳は探るように揺れていて。
「俺よりも、あれを選ぶのか?」
そう、小さくぽつりと呟いた。
意味が判らなくて首を傾げて問い返す。
「あれ、って?」
「――レプリカだ。ヴァンが俺の代わりに屋敷に戻すと言っていた」
レ プ リ カ 。
どくん、と心臓が一回、有り得ないほど強く脈打って、その後も体が揺れるんじゃないかってくらい、激しく体内に音を響かせている。
ルークから、この言葉が出たのはもちろん初めてだった。
今まで一度も口にしなかったから、ルークはレプリカを憎まないで済んだのかもと、俺は少しだけ嬉しかったのに。そうじゃなかった。ルークは、突然言われてレプリカなんてものの存在が信じられる人間がそういないことを、判ってたんだ。だから、口にしなかった。『そんなものあるわけない』って否定されたくなかったんだ。
「何故だ!お前は一緒に居るって言ったじゃないか!騙したのか!お前も俺に嘘を吐いたのか!?」
俺を責めるルークは『アッシュ』みたいで無意識に体が竦みそうになるけど、内容を認めるわけにはいかないから、思わず反射的に返してしまう。
「違う!」
「いやだ!レプリカのところじゃなくても、お前は消えていなくなるんだろう!」
目を固く閉じて放たれたルークの声は、静かなケセドニアの路地に大きく響いた。しん、と振動が周囲の壁に反響したような感覚が残る、そこで俺は自分が聞いた言葉に収まり掛けていた心臓がまた、嫌な汗を伴って変な感じに動き出したのを感じる。
「――っ、ルー、ク…?」
気がついてた?
やっぱり、みんなには見えてたんだろうか、俺が乖離で時々透けるのが。
「最初はお前の髪が透けて見えた。ベルケンドの海辺で、夕陽と同じ色だから混ざっただけかと思った。だけど次は脚が透けて見えた。その時は絶対転ぶ。そしてお前はよく物を落とすようになった」
ルークはゆるゆると伏せていた瞼を開けて、俺をまっすぐに見詰めてから。
「――今は、お前の肩の向こうが、見える」
そう、言った。
その言葉にびく、と肩が震えるのは仕方がない。なるべくなら知られないままが良かったけど、そこまではっきり見えてたのならどうしようもないよな。
「……そっか。ビックリしたろ?ごめんな」
左手で、中途半端な長さの所為で気になる項を触りながら、苦笑する。
気持ち悪いとか思われてるかな。まあ俺は幽霊みたいなもんだけど、さすがにこれは言えないか。とりあえず病気じゃないって言っておこう。
「あー、えっと、ルーク。これ伝染ったりしないから、大丈――、」
俺の言葉なんか最初から聞いてないのか、突然、勢いよくルークがぶつかるように抱き付いて来て、俺の腹に顔を埋めるから、その衝撃で最後まで言えなかった。
「お前は消えたらどこに行くんだ!それに、どうしてお前が、超振動を使える…っ!」
俺の腰に回ったルークの両腕は容赦なくぎゅうぎゅうと締め付けてくるし、ぐりぐりと押しつけられる額は痛いしみぞおちを圧迫しているはずなのに、俺は今の状態が酷く愛しい。
状況は良くないけど。
顔を押しつけてくる様子に、ミュウもこういう風に甘えてきたっけ、とあのウザイチーグルの仔供を懐かしく思い出す。
ルークを落ち着かせようと、その頭を軽くぽんぽん、と叩いて一撫でしてから、最後だしもういいよな、と、でも少しの緊張を解くために軽く息を吐いて、ゆっくりといつかと同じことを口にした。
「…それは俺が、お前のためにお前から生まれた、でもお前じゃない存在だからだよ」
ルークの押しつける動きが止まって、それから腕の力も緩む。
そしてその次の瞬間には、髪が跳ねるほどの勢いで俺の顔を見上げて来た。
その瞳は驚きで揺れていて、俺を食い入るように強く見詰めてる。そしてルークは俺の両手を掴んで声を上げた。
「――っ、まさか…!でも、お前は…っ、」
「……ルーク」
そっと腕を動かせば、驚きで力を失ったルークの手は俺から離れて下がっていった。それを握り直して、その小さな左手に俺があの馬車でルークの色をイメージして作った、編み紐のブレスレットを通す。
紅い石と碧の石の間に、金色に光るあの天然石を混ぜたのは、まあちょっとした悪戯っていうか。
そしてそのブレスレットには、俺の部屋にある、机の鍵も結びつけてた。
引き出しの中の日記が何かの役に立つかはまだ判らないけど、ルークが俺のことを識りたいと思うなら、見ても構わない。
未来の話が、少しだけ書いてある。全部じゃないからいいよな、ローレライ?
「前に言ったよな、俺はお前を護るけど、でももしも何かがあったら、お前は俺を見捨てて自分だけでも逃げなくちゃいけない、って」
ルークはまだ驚いた顔をして俺を見ているから、俺は自然と小さく笑う。
そうだよ、ルーク。
俺はお前のレプリカだ。
未来からお前を守るために来た、レプリカだよ。
「逃げるんだ。――出来るよな、ルーク」
俺に腕を掴まれたまま、ルークはまだ呆然としていて俺の言葉がきちんと届いているのかも判らない。それも無理ないか。ルークにとってレプリカ情報を抜かれたのは数日前で、でも俺は一年くらい前から傍にいるし、何より外見上は年上なんだから。
俺が手に取ったルークの左手を強く握れば、やっとルークに反応が戻って来た。
「いやだ…!」
「ルーク」
「お前を置いて行くなんて、出来るか!」
俺の手を同じように強く握り返して、眉間に皺を寄せて首を振るルークの気持ちは嬉しいけど、俺は一緒には行けない。
「――俺のこと、嘘吐きって嫌いになって良いよ」
お前、約束が守られないの、嫌いだもんな。
そう言って苦笑して、ルークの右手に今度は自分の予備に持っていた小剣をそっと置く。果物ナイフよりは大きいくらいだから、ルークでも大丈夫だろう。
「俺が護るのはお前で、お前が護るのも、自分だ。お前が生きててくれたら、俺はそれでいいんだから」
渡された小剣を両手で持つその手はまだ小さくて、それを見て何だか不意に、これでよかったんだ、と思えた。
主人に使用人が武器を渡すなんて、最悪の状況なはずだけど。
俺は、お前を少しでも護れたかな。
「ガイと仲良くな。ナタリアも大切にしろよ。幼馴染みってホントに、たからものみたいなものだからさ」
最後にもう一度だけ。
そう思ってルークの小さな体を抱き寄せた。するとルークもこれが最後だって判ったのか、いつかみたいにそっと抱き返してくれる。
温かくて柔らかい、生きてる体。しなやかな弾力を持って反応を返して、胸が温かい感情で満たされる。一番最初は紅い髪が揺れるのを見ただけでも、感動したっけ。
「走り出したらもう、後ろを振り返っちゃダメだからな。何があっても逃げ切るまで、絶対足を止めるな」
俺の言葉に頷くルークの頬と頬が触れ合って、俺はその温度と肌の感触を感じながらままルークの髪を何度も何度も、未練がましく撫で梳いた。
この感触を忘れないように。俺がどうなっても。目を閉じた向こうの世界に持って逝けるように。
そして一瞬だけ力を込めた後、ルークを解放する。
ルークは両腕をだらりと垂らして少しだけ下を向いたまま、眉間の皺を強くして、一生懸命堪えてるみたいだった。
「――……消えるな。死ぬな」
何度も口を開こうとして、声にならなかった呟きが囁きに近い音量で俺に届く。
あの時俺が『アッシュ』にした約束みたいに、ここでルークが俺に言うのは、少し不思議な感じだった。まるで物事が循環するみたいな気がして、面白い。でもこっちが時間的に言えば過去なんだけど。
そして俺は出来るだけ、優しくそっと、ルークの背中を押した。
「……うん、約束だ。またな、ルーク」
俺じゃない『俺』が、お前に出会うその日まで。
目の前を足音を立てて走り去るその、闇に飲み込まれていく小さな背中を目に焼き付ける。
揺れる紅い髪も、すぐに判らなくなった。
これが最後。もう会えない。
未練はあるけど、後悔はなかった。
佇む俺を超えてルークへと向かおうとする、気配を幾つか感じる。
それを許せるはずがない。
俺が尖らせる殺気を前に、動ける程の相手が居ないことも気配を探った時には気付いていた。
よかった、六神将の誰も来てなくて。
殺気はそのままに、意識を集中する。
「――響け、」
さよなら、大好きなルーク。
どうかお前に。
「集え、全てを滅する刃と化せ――!」
――お前の未来に、光がありますよう。
俺は、第七音素に包まれながら、力を解放した。
* * *
走る。
走る、走る、走る。
こんなに走ったのも初めてで、こんなにみっともなく泣くのも初めてだった。
城下で見た、ただの子供のように脇目もふらずに泣いていた。
自分はそんな子供とは違うんだと思っていたけど、でも本当は、違わないことも識っていた。
怖いことばかりで、難しいことも多くて、何をして良いのか判らずに戸惑って、それを何でもない、という顔でただ過ごしていただけ。
時々そんな自分に無性に腹が立ったし、どうしようもなく哀しくもなった。
なにも出来ない、ちっぽけな存在だと思っていた。
涙で前が見えなくて、袖で乱暴に拭う。それでも止まれない。
彼が止まるなと言ったから。
泣いているのと相俟って、息が切れる。
嗚咽の合間に喉がひくついて、痛くなって苦しくて咳き込んだ途端、足首がぐらりと不安定に揺れて、体勢を崩した。
転ぶ、と焦るその思いに反していきなり髪が引っ張られて痛みと共に持ち直す。
「見つけたぞ!」
くぐもった声に振り返れば、オラクル兵が後ろ髪をブウサギのリードのように掴んで引き寄せていた。その力に抵抗しようと暴れるものの、体が傾きずりずりと靴が引き摺られるほどで、痛さに思わず髪の付け根を押さえようとして、渡された小剣の存在を思い出した。
これを使えば、と咄嗟に考える。
――でも、どこに?
相手は鎧で隙間なく全身を覆っていて、まだ剣術の基礎の基礎しか習っていない自分が、兵士相手に立ち向かえるのか、と冷静な思考が動きを止める。
すると兵士が腕を捉えようと手を伸ばして来るのが見えて、自由を奪われる、そのことに恐怖を感じて咄嗟に小剣の鞘を取り払った。
突然、脳裏に以前彼に言われた言葉が甦る。
『逃げることは恥じゃない。生きてることに意味があるんだ』
――そうか。
別に、立ち向かわなくて良い。逃げるための隙を作れたら、それでいいんだ。
オラクル兵の隙がある部分、それは脚か、それとも――、
柄を握っている手がじんわりと汗ばむ。ごくりと喉が動く。全身に響く心臓の音がまるで体を揺らすようだ。
失敗は許されない。迷ってはいけない。俺は、逃げるんだ。――生きるんだ!
まず思い切り抵抗して体を前に傾ける。髪がぶちぶちと音を立てて切れたような気がしたが、そんなことは構ってられない。相手がたたらを踏んだところで振り返り、持っていた小剣を下から兜の隙間、目を狙って突き出す。
震える小剣は僅かな隙間を目掛けて、兜の表面に当たってがつりと一度跳ねさせたが、強引に隙間に進めて刺す。
目は閉じなかった。閉じたら死ぬと思った。
人を初めて刺した、その感触に怯んで思わず嫌悪感からか小剣を手からふりほどこうとする、その生理的な行動を、歯を食いしばり左手を添えることで何とか堪えてまた更に進め。
そのまま、反対側の横に引いた。
獣の咆吼のような本能的な悲鳴と共に、引き抜けば上から僅かに落ちてくる滴が顔を濡らす。
夜道にはすでに店を広げている商人もいないから、通行人は全くなく静かだが、この通りは酒場などの店が多いせいなのか、店からはざわめきが聞こえてくるものの誰もわざわざ出て来て様子を見たりはしないようだった。
悲鳴を上げ痛みに暴れながら、だがどうしてかオラクル兵は髪を離さない。なんとしても連れて帰るようにヴァンに命じられているのかも知れないが、そんなことは関係ない。
痛みのためか一度手を離し掛けて、掴む量は減ったもののしっかりと握りしめられている。
「…く、そっ!」
仕方なく掴まれている髪に血に濡れる小剣を当てて、ヴァイオリンを弾くようにざりざりと切っていく。
兵士が暴れるから切る際に自分の手も傷つけるけど、構ってられなかった。
鋏のように簡単にはいかない。痛みもある。でも時間は掛けられない。兵士が持ち直しても困るし、仲間に駆け付けられたら終わりだ。
早く、切れろ、切れろ切れろ――!
オラクル兵の兜の中へ突き刺した時とは違う、しなやかで強い感触。
赤く濡れた兵士の手が俺を捕らえようとする、それを躱しながらなかなか切れない髪に焦れる。こんなときは髪の手入れが好きだった彼が恨めしい。
ざくんっ、と小気味良い音がして自由になったのを理解した瞬間、前屈みになっている兵士の腹に体当たりをして地面へと転がした後、とにかく走り出す。
道がこっちで正しかったかなんて、確認どころではなかった。
「何事だ!?」
進路の先から厳しい声がして、行く手を交差する槍の柄に堰き止められる。
顔を上げて灯りに照らされた見慣れたその鎧を目にした時、一気に疲労が来て体から力が抜ける。
急に止まった分、胸の鼓動が激しくて、息も苦しい。
膝を着いて息を整えていると、子供と判った所為か槍を収めてどうした、と存外優しい声で屈んで目線を合わせて来た。
「…領事は居るか」
「子供が夜に何の用だ」
そうだ、と思う。
――この扱いこそが、当たり前だ。
今の俺にあるのはこの名前だけだ。
あの屋敷の外では、俺の存在に意味も価値もない。
俺一人では何も出来ないのに、小さな世界で、何を悲観していたのだろう。
まだ何も始まっていない。
俺は何もしていないし、何も知らない。
父が何を考えているのか。……ヴァンが、父の考えと俺を利用して、何をしようとしているのか。
何も出来なかった。
確かに俺は誰からも離れた存在だけれど。
――命を懸けて、護ってくれたじゃないか。
最初からそれだけのために居ると、言っていたじゃないか。
それだけが俺の真実で、他の誰にも求めずに、彼だけを信じて居ればよかった。
あの温かい腕を、笑みを、歌を信じていれば良かったのだ。
彼を信じられなかったんじゃない。だけどヴァンの言葉は重くのし掛かるようで、ヴァンが『そんな素性も知れぬ怪しい者を安易に信じるな』と言えば、そんなことはないとこころでは反発するのに、どうしてか頷いていた。
ああ、そうだ、ヴァンの腕はてのひらは確かに自分にとって優しく頼もしく感じられていたのだ!
自分が理想とする父親のように。
――ヴァンは、普通とは違う。
俺はそれをヴァンがとても優れた、完璧な人間だからだと思っていた。
とても深い情を、自分だけに与えてくれていると信じていた。
そんなことはない。
ヴァンが口で言うほど、俺のことを大切には思っていない。
ヴァンこそが、なにか常軌を逸した野望を持っているからこそ、俺を兵器として特別に思っていた。
俺はそのことを知っていたのに。大人達は損得がなければ動かないものだと。
誰よりも、判っていたのに。
俺の価値はこの名前だけで、俺一人では何も出来ない。
それでも、彼は傍にずっと居てくれた。
なにも俺から奪おうとしなかったし、強要もしなかった。ただ不器用に与えようと、そして守ろうとしてくれた。
――生きていてくれるだけで良いと、言ってくれた。
与えるだけで見返りを求めないことを、その行動を表す言葉を、俺は辞書でしか識らない。
「…俺は、ルーク・フォン・ファブレだ」
俺の価値はこの名前だけ。
この名前が、今俺を生かし、そしていつか殺すとしても。
それに抗うだけの強さを、這い蹲ってでも手に入れてやる。
その時こそ、俺の世界は広がって、出来ることも増えていく。
悲観は、出来ることをやり尽くした時にだけ、許されることだ。
不躾なほど間近に灯りが寄せられて、髪と瞳の色を確かめられる。
それも長い時間はいらなかった。
「これは…!た、確かに!」
すぐに灯りは遠ざけられ、周囲をキムラスカ兵に姿を隠すように囲まれて領事館内へと入れられる。
「ルーク様!ご無事で何よりです!」
「ファブレ公爵様からの通達を受けて、我ら一同ご心配申し上げておりました!」
奥の執務室から駆けて来た領事と事務官の二人から声を掛けられたのを、現実感なくぼんやりと見上げる。
譜灯がふんだんに使われた危険の全くない、警護された綺麗な部屋。
それだけで安堵感がひしひしと押し寄せて、けれど彼が傍にいる時よりも気が緩むことはなかった。
領事は、周囲にまだ賊が潜んでいることを考え待機の兵士に指示を出したり、朝一番にバチカルに連絡が取れるように手配をしてから、再び俺に向き直る。
「ルーク様はお一人でここに…?」
「俺付きの護衛と、さっきまで一緒だった」
「その護衛は…。それにルーク様、その御髪はどうされました!? しかも所々、血を浴びておられるではありませんか!」
立て続けにされた問いに、ただ、首を振る。
おお、と領事や事務官だけでなく、周囲のキムラスカ兵からも感嘆の声が上がった。
俺が屋敷に戻ったことがヴァンに知れたら、彼はどうなるのだろう。
ヴァンに誘拐されて信頼が裏切られた時は、絶望した。
もう終わりだと、バチカルに戻れないと言われた時は激しく混乱もした。けれど泣き叫びはしなかった。先ほどまでの自分のように、ただの子供に戻って泣きじゃくったりはしなかった。
それはヴァンのことをまだこころのどこかで慕っている気持ちが、ヴァンは絶対に自分を殺さないと信じていたからかも知れないが、今思えばその保証は一体どこにあるというのだろう。
そう言えば命掛けで来てくれたのに、助けに来た、と言われても彼に礼も言ってないことを思い出した。健康診断の時も、あそこまで強引について来て、俺のために怒り、悲しんだのは彼だけだ。――逃げても良いと、言ったのは、彼だけだ。
彼との別れは身を切られるようにせつなくて、思わず自分の体を抱きしめるように両腕を掴む。
涙と、溢れる感情の強さを堪えることなんて、到底出来なかった。
振り返るなと彼は言った。
だから、彼がどうなったかは判らない。
彼は強いから容易く殺されはしないだろうと、今はそう信じるしかない。
生きていれば、生きてさえいれば、いつか。
死なないと、消えないと、約束したのだから。
「ルーク様、……本当に、本当にご無事でようございました。貴方様の命を護ることが出来て、その護衛の者もしあわせでありましょう。貴方様はこの私が誓って、お屋敷に必ずお帰し致します」
感極まったように声を震わせる領事にひとつ、頷く。
「……ありがとう。よろしく、頼む」
「もちろんでございます」
さあこちらへ、とメイドに促されるまま歩き出そうとして、背後を振り返る。
そこには外界と切り離すような扉が、あるだけ。
その扉が開いて、『遅くなった』とあの笑顔が俺に向けられるのを、どこかで期待していた。
――その扉は、朝になっても開かれることはなかった。
護られるだけじゃない。強くなって、今度は自分が彼を迎えに行くのだ。
――彼が、『何』であろうとも。どこに居ようとも。