イオンと偶然にも知り合えたことは、ルークにとって幸運だった。ティアを任せることが出来るからだ。

こうなってはマルクトがどうであれルークに自由などないのだから、ダアトに行くことも出来ないし、ルークをバチカルに送り届けたがっているティアにとっては不本意だろうが、このまま付いてくるよりもいい。

初対面で多少図々しいかも知れないが、この導師に任せておけばそう、悪いことにもならないだろう。何せダアトでの最高権力者なのだから、無茶を通すことになるが屋敷に無断侵入した辺りも、導師の口添えがあれば何とかなりそうだ。

「イオン、出会ったばかりで厚かましいが、頼みがある」

「なんでしょう? 僕に出来ることでしょうか」

ルークを見返してくるイオンの瞳には、なんの衒いもなく、また媚びもない。久しく向けられたことの無かったそれを、ルークは好ましく、またどこか懐かしさすら感じる。

「…訳あって、今ヴァン謡将の妹の、ティア・グランツを連れている。突然で申し訳ないが、彼女を任せたい。詳しいことはティア自身に訊いて欲しい」

「ヴァンの……わかりました」

ルークの申し出に、イオンは迷いもしなかった。

逆にこちらが不安になるほどにあっさりと頷くので、イオンを疑うわけではないがルークは思わず確認してしまう。

「…大丈夫なのか?」

「ええ。詳しいことは言えませんが、導師守護役一人だけでは、色々と大変そうですから」

そう言うイオンに、屋敷を離れることのない自分には関係のないことだから、と頭の隅に片付けていてすっかり忘れていたことを思い出した。そう、あの日はわざわざヴァンが屋敷に来て、確か。

「確か、行方不明になっていると…」

ルークの呟きにイオンは首を傾げてそっと笑うだけで、何も語らない。

その表情は行方不明という扱いが重大なことだと判っていて、けれど敢えてそれを選んでいるように見えた。簡単に口にしない事情も、秘めたものを突き通す覚悟があるのだろう。

どうやら、まだ幼い見た目や穏やかそうな性格だけではないものを持っているらしい。さすがは導師ということか。

「イオン様ー!」

ルークがただ黙ってイオンを見詰め返していると、イオンの背後から幼い声が聞こえてくる。周囲を包む夕焼けの色がまた一段と深くなった中、呼ばれたイオンが振り返って、その名を呼んだ。

「アニス」

「もうダメじゃないですかイオン様!独りで行動しないで下さいって、あれだけ言ったのに!」

「ごめんなさい、アニス」

苦笑するイオンに対して容赦ない怒りを向ける少女は、兵士にしては珍しい年齢だ。ああこれが導師守護役というものか、とルークは納得する。ルークの知識では、導師の親衛隊は女性のみで構成されていて、公務の時は必ず同行しているという。

ということは、イオンがここに居るのはあくまで公務なのだろう。では、行方不明騒動は一体何なのか。ダアト内部で行き違いがあるとしても、それで神託の盾の総長であるヴァン自身が捜索に動くなど、おかしな話だった。

「アニス、今回のことにヴァンの妹の、ティアに同行して貰おうと思います」

「ヴァン…総長の、妹さん、ですかぁ?」

怒る相手を宥めながらイオンが告げると、怒っていたのは何だったのか、あっさりと少女は首を傾げてみせる。もしかしたらフリをしていただけで、実際はそこまで怒っていなかったのかも知れない。導師とはそういう親しい仲なのだろう。

「ええ、今この村に来ているそうです」

「あ、じゃああの人かな? さっき宿屋で神託の盾の兵士に会いましたよ。髪の長い女の人で、音律士だと思いますけど」

「判りました。それではルーク、また明日お会いしましょう」

振り返ったイオンの言葉にルークが頷き返すと、イオンは淡く微笑み返す。

導師守護役はイオンが立ち去る際にこちらへ頭を下げた後、イオンの後ろに続いた。

それにしても、とルークはその二人の後ろ姿を見ながら思う。

他にダアトの兵士を見ていない。行方不明、という扱いからして、イオンは恐らく少人数でダアトを離れてここにいるのだろうが。

――よもや、子供が二人だけとは、探す方も思うまい。

何せイオンの立場が立場だ、普通ならデマだと判断することの方が多い。当のイオン本人は判っているのか。判ってやっているのなら、やはり見た目通りではないのだろうと思い、黄昏色の中ルークは淡く笑った。

* * *

まだ陽も昇らないうちから、エンゲーブの朝は始まる。

住民達が働き始めるのと同じ時間に、ルークはエンゲーブから少しばかり離れた平野で訓練をしていた。バチカルでもこうして早朝、人知れず屋敷を抜け出していたのだから、特別なことでもない。エンゲーブ付近の魔物達はバチカル付近のそれと比べて格段に弱く、ルークも強いて戦いたいとも思わなかった。

軽く首の後ろで一つに結った髪がルークの動きに合わせて揺れる、その様を背後で眺めている人物の青い軍服が目に入って、ルークは動きを止める。

「お邪魔をしてしまいましたか?」

蜂蜜色をした髪を昇り始めた朝陽に眩しく照らしながら、相変わらず気配もなく飄々とした態度でジェイドが現れても、ルークの中にはすでに確信のようなものがあるから驚くこともない。

ジェイドの方もそれが判っているようで、監視なのだか観察なのだか、護衛のつもりなのだかを隠すようなことはしていなかった。気配がないのが少しばかり気になるが、ルークは生活環境的に警戒を必要としない距離で、背後に誰かが立つのには慣れている。

ただ見ているだけなのなら、使われても文句はあるまい。そう思い、息を整えながらジェイドに向き直って、言う。

「……暇なら、胸を借せ」

「それはそれは…光栄です。でも、よろしいのですか?」

「マルクトの軍人と手合わせが出来る機会など、そうそうないだろう」

ルークの言葉にジェイドは珍しく苦笑して見せる。キムラスカの人間とマルクトの人間が剣を、刃を合わせる時、それは戦争しかない。

ジェイドは何も言わなかった。だからルークも言わないまま、互いに距離を取る。

不意に思い出してルークはジェイドに告げた。

――譜術は無しだ」

「おや、実戦的ではありませんねえ」

「実戦されたら洒落にならん」

目の前の軍人が自分相手に本気を出すとは思えないが、手加減されても酷いことにはなるだろうと、簡単に想像が付く。朝から死ぬ目には遭いたくない。しかも相手がジェイドだ、恐らく嫌な感じで…半端に手加減されそうな気がする。猫が獲物で遊ぶような。そしてこの予想は外れないだろう。

ルークの返事にマルクトの軍人は、ただ軽く肩を竦めて見せただけだった。

「では、お相手仕りましょう」

そう宣言したジェイドの右手から音素の光が放出された途端、それは槍の形へと変わり、そうして確かに存在する武器としてジェイドの腕に収まる。

――……っ!」

時間にして一瞬の出来事だったが、ルークが状況を忘れて呆然とするには充分だった。

ルークの知識で言うならば、こんなことは有り得るはずがない。

自分の体に異物を入れるなど…しかもそれを自分の意志で、取り出すことが出来るなど!

精神も肉体も崩壊もせずに目の前に立つ相手に、背筋がぞっとする。今目の前にいるのは本当に人間なのか、という考えすら脳裏を過ぎる。

「……コンタミネーション、だと?」

低く、呻くようにルークが口にした言葉を聞いたジェイドはおや、と面白そうに笑んで見詰めると、その赤い瞳を一度、煌めかせてから、

「普通に訓練するのも面白くないでしょう。私から一本取れたら、貴方が知りたいことにひとつ答える、ということでどうですか?」

今まで徹底的に避けようとしてきたくせに、そんなことを口にした。

そもそも答える気などないのだ。ルークがこの男から簡単に取らせて貰えるはずがない。

けれども相手として不足は勿論ないから、自分の実力を知るためにも全力で向かうことに異存はなかった。

ルークの視線を受けながら、ジェイドは手にした槍をゆっくりと構える。良く通る低い声音が、何もない平野に静かに響いて落ちた。

「さて、始めましょうか」

* * *

ルークがそれを見たのは、結局一本も取れないまま手合わせが終わり、ジェイドと別れてすぐ後のことだった。

小さな橋を渡って宿屋に戻ろうとしていたルークの視線の先、エンゲーブの外れにある森の方へと向かう、白い法衣に身を包んだ後姿が遠くに見えた。

とても小さくて、ルークの視力では少しぼやけて判別が難しいが、あれは間違いなくイオンだろう。緑が周囲に溢れる中、あれだけ白ければくっきりと際だつ。それにルークは都合上視力ではなく、気配で他人を区別することに長けている。

気のせいじゃなければまた独りのようだ。散歩でもしているのかとも思ったが、散歩にしてはあの森は深そうだ。

……独りでは、無謀すぎる。

「ルーク!」

思わず後を追うかと迷った瞬間、背後から掛けられた声に振り返ると、ティアと昨日見た導師守護役が血相を変えて駆け寄って来た。

「イオン様を知らないかしら。私たちが目を離した間に姿を消されてて…」

「…さっきその森へ向かうところを見たが」

視線を戻したが、イオンの姿はもう見えなくなっていた。森へと入ってしまったのかも知れない。

「やっぱり! もう、仕方ないなあ~!」

導師守護役が背負っていた人形を地面に下ろすと、瞬時に巨大化してあっという間に走り出した。、少女は人形にしがみついていて、どういう原理かは全く判らないが、意外と早い。

「待って、アニス!……ルーク、私も行くけれど、あの…」

先を急ぐ導師守護役に声を掛けた後、ティアは姿勢を正して正面からルークを見詰めた。そしてたしかな、はっきりとした声で告げる。

「有り難う」

音律士に相応しく凜とした声だった。

ティアの感謝の言葉に、ルークはひとつ、頷き返す。

「…お前のためになったかどうかは、判らないが」

ルークの言葉に、ティアはふ、と笑った。その顔は、ある自信に満ちていた。いや、自信とは少し違うかも知れない。ただ、己のすべきことを判っている者の笑み。それがどんなものであるかは、本人以外は知り得ないが。

「これでも軍人よ」

「そうだな」

ではもう、ルークが気にする必要もないということだ。この先はティア自身が切り開いていくことだろう。会うこともない――いや、ルークがヴァンと関わる限り、またどこかで会うことも否定は出来ないか、と頭の片隅で思う。

「じゃあ、」

短い言葉の後、身を翻して導師守護役の後を走って追うのを見送る。――が。

先に行った、導師守護役と、音律士のティアと、イオン。

その組み合わせを考えて、ルークは自分の眉間に皺が寄るのが判った。

ああ、自分はきっと、『彼』に強い影響を受けてしまったんだろう、とこんな時いつも思う。だが仕方がない。自分自身に呆れるけれど、こころの底ではそんな自分を嫌えない。それに。

――こんな時、『彼』がいつも傍で笑っているような、名を呼んでくれているような、そんな優しくも暖かい感覚を覚えるから。

――ルーク!』

背中を、押しているように思うから。

――待て、俺も行く」

ため息を吐いた後、ティアの後を追って走り出した。

二人が追いついた頃には、相変わらずアニスがイオンに怒っているところだった。

イオンは辛うじて森には入っていなかったが、エンゲーブの食料盗難にチーグルが関わっているらしく、聖獣と言われるチーグルが人に害をなすなんて何か事情があるはずだと、魔物の中でも賢くて大人しいチーグルに何があったのか、それを知るまでは帰りたくないのだと言う。

イオンのその頑なな様子に最初に折れたのは、ルークだった。

反対する二人には悪いとは思ったが、こうしていつまでも終結しない話し合いに時間を潰すのは正直時間の無駄だ。イオン独りでの行動が危険なのだから、それならルークが護衛代わりに同行すればいい。途中ルークの手に余るようならば、そこで改めてイオンを説得する。ある程度事態を理解出来れば、イオンもそこまで主張を通したがることもないだろう。

イオンとルークがチーグルの住処へと行くならば、導師守護役とティアに反対出来るばずもない。

イオンとティアを後ろに、ルークと導師守護役を前衛にして、歩き出した。

チーグルの住処へと向かうために進んだ森の奥、濃密な緑の匂いが陽に照らされて漂う、草木の茂った獣道を進んで行った先。

黒い装束に身を包んだ小柄の人物が、小川の傍に屈んで何かをしているのが目に入り、初めにルークの、そしてその場にいた人間達全ての足が自然と止まる。

どうやら左手を小川の中に浸けているようだったが、何のためかは判らない。

その黒装束の人物は深い緑の髪色をしていて、非常に変わったことに金色の、鳥の嘴のような仮面を付けていた。その所為でどんな顔をしているか、男か女かも判らない。ただ骨格からして男だろうなとルークは見当を付けた。小柄だが、鍛え込んでいるのがその黒装束からでも判る。身のこなしの柔軟さが見て取れた。そして、こちらのことに気付いていながら敢えて反応しないことにも、気が付く。

まるで肉食の獣のようだ、という印象を受ける。興味がなければ相手をしない。それだけ、この目の前の人物との力の差があるのだろう。

警戒は一応するが、し過ぎてヘタに刺激するのも良くない。ただ距離だけは確り保って、何があっても判断出来るように相手の様子を見詰める。

その人物が音も立てず徐に立ち上がった。水の中から出て来た左手は水色の幼いチーグルを掴んでいて、その手を容赦なく二、三度降ると、チーグルの体から滴が飛んで、透けて落ちてくる木漏れ日を弾いた。

チーグルはぐったりとしていて、ルークはもしや死んでいるのではないかと思ったが、その場合やはり音素に返るだろうから、あれは気を失っているのだろう。それにしても水の中に浸けるというのは、かなり乱暴じゃないだろうか。

そう思いながら、さてこれは敵か無害か、とルークが考えていると、そのチーグルを持った黒装束の人物は、やっとこちらへと向き直って口を開いた。

「やっぱり来たね」

――シンク!」

どこかで聞いたことのある声音だとルークが眉間に皺を寄せた時、言葉を返したのは驚きに満ちたイオンだった。