タルタロスの警報の音が鳴り響いて、ルークは自然と剣の柄を握る指の力を強くする。

始まったのだ。

* * *

「あ、彼は大丈夫です。僕の兄弟で、神託の盾の参謀をしてるんです」

イオンは警戒している周囲に対して慌てたように言うと、シンクの方へと駆け寄っていく。だが小川を超えられずに、小川を挟んでシンクと向かい合った。

――六神将、烈風のシンク…?こんなところに何故……」

ティアの小さな呟きに事情の判らないルークが視線を遣れば、『表には余り出ないと聞くわ』と囁きが返される。だが聞こえたのか、シンクの唇が撓るのが見えた。微笑むというよりは、冷笑に近いかたち。

イオンは、シンクが左手に持ったままのチーグルを不思議そうに見ていた。

「それはチーグルの仔供…ですか?」

「ライガの住んでた森を火事にして住処と食料を奪ったこのチーグルを、ライガクイーンにお仕置きして貰ったのさ」

シンクの言葉にイオンが驚いて、その小さな存在を見詰め直す。

「森を火事に? 確か、チーグルは成獣にならないと火を吹けないはずですけど…」

「コイツは違ったみたいだね。ある意味才能はあるんじゃない?ま、それで一族を絶滅の危機に追いやってちゃ、世話ないと思うけど」

その口調といい声音といい、シニカルな物言いはイオンにはない部分だ。

しかしイオンとそう、年齢差があるようには思えない。体格にこそ差はあるように見えるが、身長はそう変わらないし、見比べて基本的なところは同じように思える。もしかすると双子なのかも知れなかった。

「そのことと、チーグル達がエンゲーブで起こした事件は関係があるんですね?」

「怒ったライガ達がチーグルの森を住処にして、餌としてチーグルたち自身を望んだのさ。だけどチーグル族は存続のために、エンゲーブの食料庫から食料を盗んだ」

賢いと言えば賢いのか。ライガ達の望みには完全には従えないから、代わりになるものを用意するというのは。それが盗みになったとしても、滅びるという最大の危機の前には問題にはならないのだろう。

自業自得とはいえ、一族が滅亡するのをただ黙って待つことは、動物だろうと、魔物だろうと、その本能にはない。

生きとし生けるものの本能にあるのは繁殖だ。こういう理由があるから滅びても仕方がない、というのは人間達の理屈であって、本能のみで生きる生き物にとってはどうだろうか。たとえこの魔物が思考する、賢い生物であっても、人間ではない限りそのルールは当てはまらないのではないか。いや、逆に賢いからこそ、人間が自分たちの都合を理解させることが出来ると、錯覚してしまう。

どうやったって交わらない部分。そもそも盗む盗まないというのは人間側のルールで、魔物達にしてみればそこに食料があるから、ということなんだろうが、とそこまでルークは考えて、苦笑する。どうしようもない、この話は果てがない。

そもそも、ここでされているのはそういう話ではなく、原因を突き止めるという話だ。原因は判ったが、さて、とルークは思考を切り替えシンクとイオンの会話に戻す。

「あのままならチーグルも、エンゲーブもライガ達に滅ぼされるところだったんだけどね。あの人がアリエッタとライガクイーンの両方を必死に説得して、お仕置きで許して貰ったんだよ」

かぷっとね、というシンクは楽しそうに笑っている。

いや多分、そのチーグルのぐったりとした様子からして、ごくりまで行ったんじゃないだろうか。あれだけ水に浸けられていたのに、未だに意識を取り戻さないところを見てそう思う。

いきなり、シンクの言葉にイオンが跳び上がらんばかりに反応した。

「ちょっと待って下さい、シンク!あの人、帰って来てるんですか!?」

途端、今までの静かで穏やかな印象からがらりと、子供そのもののようなそれに変わる。無邪気というか、年齢相応と思えるような。

「ああ、あれ、会ってないの?」

「はい、僕は大分前にダアトを抜け出して来ましたから…」

あからさまな感情が込められた、残念そうな声に、シンクはくすり、と笑う。

「そう?じゃ、早く会った方が良い。じゃないと、ディストがお土産全部食べ尽くすだろうからね」

一応食べ物じゃない方もあるけど、というシンクの言葉に、イオンはああ…と諦めたような、曖昧な笑みを向ける。

「…食べ物じゃない方に、期待します」

「仕方ないね。まあ、もう少ししたら迎えに行くと思うから、その時貰いなよ」

シンクはそう言うと、イオンの方へチーグルを放り投げた。イオンが慌てて胸で受け止める。

「そのチーグルも罰に食べられてもいいって言うし、ボクはそうなってもどうでもいいと思うけど、あの人が嫌がるからさ。それ、チーグルの住処の前にでも置いて来てくれる?」

ライガクイーンの唾液は強い酸だから洗ってあげてたんだよ、このボクが、とシンクは大儀そうに言った。

また、『あの人』だ。

どうやらシンクとイオンの共通の知り合いであるその人物は、チーグルとエンゲーブの恩人になるらしい。話の内容的にはついさっきまでこの森に居たようだが、今ここに現れる様子はなかった。

その時シンクがちら、とこちらに視線を向けたように感じて、仮面で判らないはずのそれにルークは顔を上げてシンクを見返す。

――なんだ?

「あの、私チーグルを住処に運んで来ます」

ティアがおずおずと名乗り出ると、イオンが振り返り、チーグルを抱いた腕を伸ばして、にこりと笑う。

「すみません、お願いします。独りでは危ないでしょうから、アニスにもお願い出来ますか?」

「え、と」

困ったようにこちらへ視線を向けてくる導師守護役に、ルークは一つ頷いて見せた。本来の任務から外れることだろうが、イオンに言われては拒否も出来ないだろう。チーグルを住処に運ぶ、というような使い走りを頼まれるのは困るが、イオンを連れて無事に村に帰るくらいのことなら、別に代わっても構わない。

「判りました。このチーグルのことは私たちに任せて、イオン様は村へ戻って下さいね!絶対ですよ!」

ルークにぺこりと頭を下げ、散々念を押した後、チーグルを抱いたティアと共に二人が森の奥へと消えていくのを見送った。

しかし原因も判ったし、解決もされていたわけだから、ルークとしてはいい加減村に帰りたいところだ。手合わせの後そのまま来たし、いい加減腹も減る。兄弟同士何か積もる話があるのなら、村で話せばいいだろう。

そう、ルークが口にするよりも先に、シンクが口を開いた。

――で、居るんでしょ、マルクトの死霊使い」

「ええ」

「……!」

――居たのか。

相変わらず気配のない様子で(この獣道を足音立てずに歩く不気味さ!)、得体の知れない微笑みを口元にたたえながら、長身の軍人はルーク達からさほど離れていない木陰から姿を現す。

一体いつからそこに居たのか。もしや、手合わせが終わって別れた時からずっと、傍にいたのだろうか。

ジェイドはルークよりも数歩後ろの位置で立ち止まった。槍を使うジェイドは敵に遭遇しても接近する必要がない。

イオンはジェイドの登場に目を瞠ったものの、他に気に掛かっていることでもあるのか少し考えるように小首を傾げて、シンクに向き直るとそっと静かな声で問い掛けた。

「……シンク、ダアトでは僕が行方不明ということになっているそうですが、どうしてでしょう。あの子になにかあったんでしょうか?」

「それはないよ。ボクがダアトを離れる時まで、あの人が持って帰って来たお菓子を美味しそうに頬張ってたから。食べ過ぎでお腹が痛いとか騒いでるかも知れないけどね」

「あの子は…」

苦笑するイオンの声音はとても優しい。シンクのそれもまた、同じ温度だった。どうやらシンクも人の子らしい、とそんなところで感心する。

「行方不明っていう判断は、今ダアトに居る導師が偽者だって判る人間にしか、出来ないよ」

シンクが告げた言葉に、イオンは驚いたのか咄嗟に口を手で覆った。そうして俯くのにシンクはふう、と一つ深くため息を吐くとジェイドの方を見て腕を組む。

「カーティス大佐、これからボクたちは予定通り、『導師イオン奪還』の任務に就くことになってる。タルタロス強奪も変更無し」

「盗人猛々しいことです」

にっこりと笑うジェイドのその笑顔が恐い。笑ってない目でシンクを強く見詰めながらそう告げると、腕を解いたシンクも軽く肩を竦めた。

「ボクだってマルクトとダアトの火種になりかねない、こんな面倒なことは嫌だけど、お互い上官の命令に逆らうことでどうなるかなんてこと、判ってるだろ?」

命令違反は国が違おうともどの軍でも、謀反扱いで死罪だ。今はルークに任されている白光騎士団でも例外はない。立場ある人間が死罪になれば、その部下もが免れないこともある。不用意に命令に対して、反発出来るものではない。

「…中間管理職にはもれなくついてくる苦悩です。戦場ならばどさくさに紛れることも出来ますが」

それは命令違反を緊急時的措置として、うやむやにすると言うことなのか、それとも上官の方をどさくさに紛れて…なのかは定かではない。しかしジェイドが口にすると、どうしても後者的解釈に聞こえてしまうのは何故なのか。

「違いないね」

くつくつと笑う神託の盾参謀の声も実に楽しげで、ルークと同じことを考えているに違いない。呆れずに笑うところが同類なのかも知れないな、と二人には到底言えないことを内心呟いた。

「こっちも伝達の食い違いだとかのちょっとした邪魔しか出来てないけど、予定よりも投入される兵士の数はかなり減ってるよ」

「またまた、参謀殿に掛かっては神託の盾の兵士達もキリキリ舞いというところでしょう。戦では情報を制したものが勝利するのは常識です」

「情報はアンタみたいに悪知恵が働く人間が、上手く使わないと意味がないけどね」

「はっはっは、照れますねえ」

褒めてないだろう。何だこの会話は。背筋が薄ら寒い。早く終わって欲しい。

ルークは何故こんな場面に立ち会ってしまったのかと、酷く後悔した。すぐさまイオンを連れて帰ろうかと悩むが。

話の内容が、聞き捨てならない。

偽者の導師、それから『導師イオン奪還』の任務、そしてタルタロスの強奪。

どう聞いたって、まともじゃない。シンク自身が言っているように、ダアトとて軍事国家だ、マルクトに強引にそんなことをしでかせばどうなるか。

しかし、何故それを奪還するはずのイオンの目の前で告げるのか。今連れて行けばいいだろうに。

そして何故シンクは、マルクトの軍人であるジェイドに任務について明け透けに話すのか。それは機密漏洩になるんじゃないのか。

そこまで考えて、しまった、とルークは思わず声を上げそうになる。

――巻き込まれた!

随分と間抜けな事態と迂闊さに、眉間に皺が寄る。聞き捨てならないんじゃない、聞くべきじゃなかったのだ。

協力する、しないの話じゃない。

ここまで聞いてしまったら、関係ないという主張は通らないだろう。この先何があるか、ルークは知ってしまった。

この密会を謀反と捉えるか、それともなにかの協定と取るか。

……待て、では、ティアとあの少女が席を外したのも、謀られたことなのか。

いや、あの時点で席を外すことが判っているはずがない。――普通なら。

ただ、ここには稀代の天才と、神託の盾の参謀という最悪の組み合わせが存在する。そんなものを前にして、ルークの常識が通じるのかはなはだ疑問だ。

「あの人は先に行ったよ。全く、止める暇もありゃしない」

「…! また、独りだけ先走って…仕方のない子ですねえ……」

シンクの呆れを隠しもしない声を受けて、眉を顰め眼鏡のフレームを押さえるジェイドの、しかしその声音に滲むのは、隠されもしないあからさまな親しみ。

シンクに続いてジェイドの人間臭いところを初めて目撃することになったルークは、思わず息が詰まって咳き込みそうになった。

「ま、お仕置きはあの人に追いついたら好きなだけしてよ。じゃ、用事も済んだしボクは行くから」

シンクは身軽な動作で軽く小川を跳び越え、こちらへ向かって歩き出す。何かを仕込んでいるのか、歩くブーツの音が硬くて重い。

だがふとその足は、イオンの前で止まった。

「イオン、アンタはくれぐれもあの人のいいつけ守ってよね。アンタがぶっ倒れたら、ボクが怒られるんだからさ」

そう言ってとん、と一度イオンの胸の中心辺りを軽くノックするように叩いて去っていく。こくりとイオンは遅れて頷いた。

そして。

シンクがルークとすれ違う瞬間、再びぴたりと足を止めたシンクは仮面の向こうから強い、まるで家畜を品評するかのような不躾な視線を持って見詰めてくるのに、ルークも不快感丸出しで睨み返す。

その視線におおコワ、とシンクは唯一見える口元を撓らせて、そっと、低くした囁きを落とした。

――初めまして、オリジナルルーク?」

「……!」

咄嗟に剣を抜いてしまったのは、耐え難い衝動を抑えることが出来なかったからだ。

シンクの首を薙ぎ払う勢いの剣は、だが空を斬るだけでシンクの髪一筋すら傷つけられなかった。

ボーイソプラノの笑い声が木漏れ日を乱反射する森に響く。烈風という二つ名はやはり伊達ではないらしく、どこを見渡してもすでに姿はない。

ため息を一つ吐いて剣を鞘に戻す。きっとシンクの言葉はルークにしか届いていないだろうが、気分が酷く落ち着かなかった。

「すみません、シンクは悪戯好きで…一番下の弟と一緒に僕を困らせたりするんです」

何か不快な思いをさせてしまいましたか、とそっと背後からルークを覗うように訊いてくるイオンに、ただ首を振る。

オリジナルルーク、という響きは久しぶりで、正直ぞっとした。

理解は勿論していたが、あからさまな音にされると途端背筋に悪寒が走る。

しかも腹が立つことに、シンクはルークがそう、感じるだろうと判っているようにわざとそういう発音をしていった。

――まるで、オリジナルという存在を嘲るように。…憎むように。

ルークのレプリカの存在を、六神将だけが知っているのか。それとも、イオンも知っていることなのか。知っていて、知らないフリをして親しげに話し掛けてくるのか。

そう考えてしまうと、隣りに立つイオンすらもが、自分を害するものかと疑わしく思えてしまう。

いけない、落ち着かなくては。

ここで信じられるのは、ルーク自身の感覚と、目と耳で取り入れた情報だけだ。そしてそれを武器にして行かなくてはならない。

喩えようのない不快さがルークの身を包む。まるで自分の周りの空気がざらついて、皮膚を、その下の神経まで刺激するようだ。

いつか、機会を窺ってイオンに問うべきかも知れない、とルークは思う。

それに知っているというのなら、己のレプリカは今、どこで何をしているのか教えてほしかった。

……もし。

愚かにも、ヴァンを盲信し手駒として働いているというのなら。

柄を鞘ごと掴んだルークの左手が、血の気を喪うほど握りしめられる。

――他でもないただ一人のオリジナルとして、自分が引導を渡してやる。

たとえ、『彼』がけして許してくれなくとも。

自分から派生した存在だけは、己の手で片を付けることを、もう随分と前からルークは決めていた。