チーグルの問題を解決して村に戻り、身支度を整えた昼頃にはエンゲーブにタルタロスが来ていた。
ルーク達をエンゲーブに降ろした後、一時的に首都であるグランコクマに戻っていたようだが、どうやらそれでフリングスの方も準備が整ったらしく、タルタロスでイオンと共に出立するのだという。
フリングスとジェイドに促され、ルークも再びタルタロスに乗り込んだ。
そこで初めてフリングスとイオンから和平条約のことを聞かされたが、もうここまで来ては協力するしないの話ではない。なにやら巻き込まれたのもあるが、和平自体は重要なことだ。もし結ばれるとしたら、両国の民にとってこれほどいいことはない。戦争の被害者は常に抗う力を持たない民たちだから。
それを持続させていくことは困難だろうが、それはこれからの――ルーク自身が担うことになるかも知れない。そう思うと、他人事とはよりいっそう思えなかった。
それにこうしてタルタロスに乗ってしまっているのだ。いい加減腹を括るべきだろう。
「まさか、バチカルにタルタロスで乗り込むつもりか?」
「いいえ」
さすがにタルタロスで直に乗り込めば、バチカルから大砲で迎撃されてしまうだろう。フリングスが首を振って苦笑するのに、ルークは一つ頷いた。
「ケセドニアに着いたら、領事に船の手配を伝えておこう」
「有り難うございます」
ケセドニアには連絡が行っているというから、領事だけでなく多分カイツールの責任者であるアルマンダイン伯爵が待機しているだろう。ファブレ公爵の要請で。子供の使いではないのに申し訳ないな、と幼い頃から顔を合わせる機会のある人物を思うが、伯爵が居るなら伯爵に和平について話せばいいか、と考える。ルークが直に陛下に話を通そうとするよりは、無理がない。
ルークが協力する、と返答したことにイオンは純粋に喜んで、有り難うございます、ルーク、と声を弾ませて笑顔を向けてくる。フリングスも同じように柔和な微笑みを見せた。その笑顔はルークに、ガイのあの爽やかな笑みを思い出させる。女性恐怖症のクセに、女性に無駄に向けられる、あの。
「では、どうぞご自由にお過ごし下さい。護衛にはカーティス大佐をお付け致します。生憎と、機密の関係で機関室へはご案内出来ないことになっていますが、ご了承ください」
「構わない」
ルークはガイではないから、音機関に対してなんの興味もなかった。
少し休む、というルークにフリングスとイオンは挨拶をして退出する。その扉の横に、フリングスとイオンが話している間無言で控えていた、ジェイドが居た。
「……これから、何が起こる?」
二人が戻ってこないだろうというタイミングを計って、ルークが口を開くと、ジェイドは引き締めていた表情を変えて僅かに微笑む。
巻き込んだからには、今まで口にしようとしなかったことを、ルークに問わせなかったことを少しでも話す気になったと言うことだろう。そう判断したルークは間違っていないようだった。
ジェイドは両手を後ろで軽く組むと、こつり、と足音を立てて歩き出す。視線はタルタロスの小さな窓の向こうへと向かっていた。
「そうですね……まず、認識して頂きたいのは、六神将を含む神託の盾はけして味方ではない、ということです。――たった、一人を除いて」
「たった一人?」
ルークはジェイドのその言葉に、自然と眉間に皺を寄せる。まさかヴァンとか言わないだろうな、という警戒心があったからだ。
ジェイドは歩みを止めた。椅子に座ったままのルークに背を向けて、窓の向こうをただ、見詰めている。けれどその低く、落ち着いた響きの声はルークに正しく届く。
「ええ、第六師団長カンタビレを除いて、全て敵です。ですが貴方がもし、この世界で誰か一人を信じるとするなら、カンタビレ以外いないでしょう」
この世界で?
何故、ジェイドがそんな言葉をルークに向けるのかが理解出来ない。出会って長いこと観察はされて来たが、ジェイドがルークの何を知っているというのだろう。
それに、そんな存在など、ルークにとって一人しかいないというのに。
カンタビレなどと知りもしない人物を当てにしろと言われても、戸惑うだけだ。
「……何者だ?」
「シンクやイオン様の口から出ていた、『あの人』です」
「ああ…」
ジェイドの答えに、ルークはその人物がチーグル一族と結果的にエンゲーブを救っていたことを思い出した。そんな人物ならば、まあ、少しは信用出来るかも知れない。だが。
どうしてその人物がルークにとって、唯一信じられる存在だとジェイドが言うのか判らないし、それに。
何故、シンクとイオンは、二人とも『あの人』と呼び、『カンタビレ』とは口にしなかったのか。ジェイドも『あの子』と呼んでいた。
訝しむルークの視線に、ジェイドはあの、胡散臭い笑みを向ける。そこは言うつもりがないらしい。全く、そう小出しにする必要はどこにあるのか。そう思いながらため息を吐くとジェイドはこちらに向き直って話を続けた。
「では、それを踏まえまして。これからタルタロスはイオン様の奪還の際に強奪されます。乗り込んでくるのは六神将が数名と、神託の盾の兵士が一中隊、それから魔物はおよそ百」
「魔物だと!?」
「六神将の中には、妖獣のアリエッタといって、魔物を使役することの出来る人物が居ます」
この狭い艦内で人間相手でも苦戦するだろうに、そこに魔物が加わるならここは地獄に変わるだろう。逃げ場もなく、屠られるだけの。
「ご存知のように、このタルタロスは補給のためにケセドニアに在駐していましたから、もともと必要以上の戦闘要員は乗せていません。ですから、このタルタロスはすぐにも制圧されるでしょう」
乗せていないのではなく、乗せなかったの間違いじゃないのか。
この軍艦は一度グランコクマに戻っているのに、必要以上の人員がいないのはおかしい。いずれ襲われると判っているから、他に変だと思われない程度にしか人員を配置していないのではないか。
ルークの視線を受けて、ジェイドは肩を竦めて見せる。
「命がある限り、タルタロスを棄てることは、艦長含む乗員達には出来ません。たとえ皇帝陛下からの命令があったとしても、望まないでしょう」
「――……」
だからこそ、少人数で。だからこそ、犠牲を少なくする為に。
――けれど、その犠牲は数値上だけであって、犠牲は犠牲。それに少ないも軽いもない。
ルークの厳しい表情を前にしても、ジェイドは怯むことなく静かに返す。
「判っていますよ、タルタロスも乗員たちも、我が国の財産です。奪われるのではなく、一時的に預けるだけです」
「六神将に、か?」
信じられるものか。ジェイド自身、先程彼らを敵だと言ったクセに。
ルークが口にしない部分までもを悟って、ジェイドはゆっくりと淡く微笑んだ。
「……カンタビレに。彼が乗員達の命を保証してくれます」
その表情は、『あの子』と呼んだ時と同じ親しさを醸し出していて、ルークは惚気られている気分になった。
全く、カンタビレという人物はなんなんだ。あのジェイドが全幅の信頼を置いている。そしてそれを隠しきれないでいる。
「神託の盾の兵士達が侵入した時、私はひとり、お相手する六神将がいますので護衛から離れますが、フリングス少将が脱出の手引きをします。速やかに離脱して下さい」
ジェイドの譜術でなければ対抗出来ない相手だろうか。その辺は任せることにして、ルークは大人しく頷いた。ルークがここで下手な意地みたいなモノを見せて傷つけば、和平どころではない。
「…イオンは?」
「一時的に『奪還』されます。ヘタに抵抗しない方が、イオン様にとっても安全です」
では、ルークに出来ることはフリングスと共に、タルタロスを脱出することのみらしい。理解したルークはもう一度、ジェイドに向かって頷く。
「判った。あと一つ訊くが、今回は六神将が関わっているようだが、ヴァンは来るのか?」
「謡将は来られないでしょう。貴方を捜索していることになっているのですから」
その時のジェイドの顔は微笑んではいたが。
ぞくり、背筋に走る冷たいモノを感じたルークの、自然と剣の柄を握りしめていたそのてのひらは、僅かに汗ばんでいた。
* * *
「ルーク殿、こちらです!」
兵士を数人連れて現れたフリングスが促すのに、ルークも駆け寄り廊下を走り抜ける。イオンたちも後ろから来ていた。その更に後ろに、数人の兵士の姿が見える。
昇降口に辿り着いた時、突然艦が大きく揺れ轟音が響いて床が傾き、慌てて全員がそれぞれ体勢を整えるために立ち止まった。途端、タルタロス自体に響いていた動力の振動が小さくなり、完全に止まる。
どうやらタルタロスがどこか損傷し、やむなく停止したようだった。
顔色を変えたフリングスが、すぐさま傍らの壁にある伝声管から厳しい声で問う。
「現状を報告せよ!」
『グリフィンからライガが降下、艦体に攻撃を加えています! 機関部が……』
言葉の途中で悲鳴が上がるのに、背後のティアが僅かに息を呑む音がした。
「魔物が軍艦を襲うなんて、一体、何が起こっているの…!?」
イオンを庇うように立ち、杖を構えて周辺を注意深く覗っている。
「私たちが下の安全を確認してきますから、しばらくここで待機していて下さい」
フリングスの言葉にルークは頷いた。
ゆっくりはしていられないだろう。上から侵入されているなら、この昇降口から神託の盾の兵士が降りてくる可能性もある。後ろに付いていた兵士達が前に移動し昇降口を固めるのを見届けて、フリングスと数人の兵士達が下へと降りていく。
不意、に。
その様子を見ていたルークの耳に、音が聞こえた。