――トゥ……ツェ ク…… トゥエ ツェ……

びくり、とルークの体が、胸が震える。

この声は、歌はまさか。――いや、

思わず背後を振り返ってティアを見たが、ティアは不思議そうな顔でこちらを見返していた。ティアは気付いていない。ルークの周囲全てがそうらしく、ルークは眉間に皺を寄せる。そういえば、屋敷でティアの譜歌を聴いた時も、ルークだけが気付いていた。

いや、それは今はどうでもいい。問題は、どこから聞こえたか、だ。

もう一度、と焦るこころでルークが請うた時。

――トゥエ レィ ……ア リョ トゥエ ツェ…

今度は比較的はっきりと耳に届いた。――上、だ。

誰かが上で、強制的に眠りに落とす譜歌を歌っている。女の声ではない、男の声で。ヴァンではない。そこまで低い声音ではない。

そのことを理解した瞬間、走り出し昇降口を上に向かおうとするルークを、慌てた兵士達が取り囲んだ。

「艦橋は危険です、お下がり下さい!」

――すまない、俺のことは放って置いてくれ」

「出来ません!」

もっといい言い方があることは判っているし、ルーク独りの勝手な行動が、今のこの状況で周囲にどれだけ迷惑を掛けるかも判っている。身の安全も、命の保証もない。

だが、今はどうしても艦橋で譜歌を歌う存在を、この目で確かめたかった。

「俺を置いて脱出してくれて構わないと、少将に伝えてくれ」

「ルーク!」

兵士達を押し退けて上へと向かうルークの背に、ティアの制止を含んだ声が掛かる。それを無視して駆け上がっていると、背後からティアが追いついて来た。

「どうしたのルーク、様子が変よ」

「お前…、」

声と同様、表情を厳しくしたティアが責める口調で言うのに、足を止めないままちらりと視線を向けて問う。

「イオンはどうした」

「アニスと一緒に下で待っていらっしゃるわ。イオン様のご命令もあるけれど、そんな様子の貴方を一人に出来るわけないじゃない」

イオンのことだ、自分のことはいいからルークを追えと言ったのだろう。こんなことなら兵士の一人と強引に来れば良かったか、と考えたが、敵国……他国の兵士に対してそんな考えはちらとも過ぎらなかったのだ、さっきは。

「……悪かった」

「何を気にしているかは判らないけれど、ここは危険よ。今は脱出することを優先するべきだわ」

「いや、俺は確認したいことがある。それを終えたらすぐに脱出するから、お前も戻れ」

言いながら艦橋に繋がる扉に辿り着いた。そっと耳を当てて外の様子を探るが、静かで全く判らなかった。

仕方なく僅かな隙間から様子を覗おうと、風の抵抗を感じながら扉を押し開ける。その扉を掴む手の力を振り切るように、強引に風に持って行かれた扉が大きく開いた。

そのまま、急流のように風が昇降口の方へと勢い良く入り込んで来て、二人は思わず目を庇う為に両腕を顔の前にかざす。髪が鞭のように撓る。

――! 何があったの…これは……」

ティアの呟きはもっともだった。

もっと凄惨な状態を想像していたが、艦橋にはマルクトの兵士が複数倒れているものの、流血沙汰には見えない。タルタロスを取り囲むようなグリフィンの姿こそ上空に見えたが、こちらへは寄って来る様子はなかった。敵の兵士の姿すらもない。

「眠っているの…?」

「みたいだな」

敵がいないことを確認したティアが、傍らに倒れ伏しているマルクト兵の生死を確認する。やはり彼女には先程の譜歌が聞こえなかったらしい。

ルークは見晴らしのいい艦橋全体を見渡すが、動いている者の気配を感じられない。どこかにいるはずなのに。こんな時、己の視力の弱さを痛感する。せめて眼鏡があれば。そう眉を顰めながら遠く、上の方へと視線を伸ばした瞬間。

耳元でごう、と風が鳴って、髪が弄ばれる。上げていた前髪もひとたまりもなく、ばさばさと音を立てて強風に煽られ、視界が覆われる。

その、髪に覆われた隙間に出来た、狭い視界の先。

――機関室の上。

闇色の短い髪と長く白い上着の裾をはためかせて、グリフィンへと腕を伸ばしている人物の後ろ姿があった。

金の縁取りをした白い上着の下は、体の線にぴったりと合わせたかのようなシルエットの黒い装束に包み、けれど無防備に二の腕から肌を晒している。そして両手を黒いグローブが覆う。

だが、ルークが目を離せないのはそんな部分ではなくて。

腰の後ろ、剣を横に差す独特の装備。

そして剣の柄が、その人物にとって左側に向けられていること。

まるで世界が止まったかのように。

そのことだけが、ルークの全てを占めていた。

視線の先の人物が、ゆっくりとこちらを振り返るのに、ルークの心臓が痛いほどの強さでもって脈打ち始める。

振り返ったその人物の顔は、あのシンクと同じ金色の嘴のような仮面で覆われていて、口許しか見ることが出来ない。

ルークはそのことを残念に思わなかった。自分でも理解出来ない、変な確信のようなものがあって、ただ彼を見詰める。指先までどくどくと震える、それが痛い。痛くて何も考えられなかった。

その人物もルークが見上げていることに気付いたのか、ふと、体の動きを止め視線を彷徨わせるように頭を動かす。

そして、仮面で判らないはずの視線がルークと交わった、その時。

「こんなところにいたか」

がちり、とルークの後頭部に直に響くのは、撃鉄の音か。

身を強張らせ、咄嗟に頭だけでも振り返ろうとするルークの動きを、さらに銃口を押しつけることによって、強制的に止められる。

「…っ、リグレット教官!」

振り返れない背後に、いつの間にか複数の人間の気配を感じて、ルークは舌打ちを堪える。拘束でもされているのか、ティアが息を乱しながら悲鳴のような声を上げた。

「ティア…何故お前がこんな所にいる?任務はどうした。閣下はご存知のことか?」

軍人として長いことが窺える、抑えられた冷徹とも言える女の声が、ティアに静かに問い掛ける。乱れたところの一つもないその気配から、神託の盾では幹部なのだろうとルークは推測した。

どうやらティアの知り合いのようだが、そんなことは今、何の救いにもならない。

明らかに友好的ではないリグレットとやらがこのままトリガーを引けば、ルークの命は間違いなくここで終わるだろう。

――終わる。

こんな場所で?

こんな場所で終わるわけには。それだけは絶対に、許されない。他の誰でもない、自分自身が認められない。

それなら、残された手段は、一つきりだ。

他の誰を犠牲にするとしても。

――やめてくれ、リグレット」

不意に近いところから静かな声が聞こえて、慌てて正面へと視線を向ければ乱れた前髪の向こう、それほど離れていない距離に先程の彼が立っていた。仮面で表情は見えないが、口は固く結ばれている。

「殺しはしない」

「そうじゃなくて、銃を下ろしてくれ」

間近で聴いたその声に、ルークの呼吸も、視界も、思考の全てが奪われる。

今ここで命が危険に曝されているというのに、その声音が恐怖も何もかもを凌駕してしまう。

今まで何度も頭の中で再生して来たその響きは、変わることなくルークの記憶に鮮明な彩を伴って音を、命を吹き込んでいく。

――ああ、

この、胸に満たされるのは、そして込み上げるものは、一体何だろう。

それに耐える為に歯を食い縛る。喉を突き上げるものが、いつかの夜の嗚咽を堪えた時のようで、苦しい。

「なあ、頼むよ。俺はリグレットに剣なんか向けたくないんだ」

「…お前は、まだそんなことを言うのか」

彼の言葉に呆れたリグレットがため息をひとつ吐いたところで、がつりと強い衝撃が訪れ、不意打ちのそれに身構えることもなく、ルークの意識はあっけなく途切れた。

* * *

「船室にでも閉じ込めておけ!」

ティアも同じように気を失わせ、拘束していた兵士にそう告げる。リグレットの声と同じようにきびきびとした動作でティアを運ぶ兵士達から視線を外すと、傍らに膝を付いて自分のオリジナルの様子を確認している彼を振り返った。

「何をしている」

自分の膝にオリジナルの頭を乗せ、リグレットが殴ったところを診ていたはずの彼が、よしよしとでもいうように殴られたところを撫でてやっている、その場違いに穏やかなその仕草を目にしたリグレットは呆れ果て、ため息を吐いた。

「…ああ、うん、大きくなったな、って思ってさ」

そう言って投げ出されている右手を取ると、しげしげと見詰めているその視線は愛おしむようだ。その姿に、何を馬鹿な、と思う。レプリカの彼とてそのように成長しているのは、オリジナルである彼が成長しているからだろう。

それにしても、とリグレットは口を開く。

「レプリカとオリジナルには、切れぬなにかがあるとでも言うのか?」

何故そこまで大切に思えるのか、リグレットには判らない。

自分が代わりに死んでもいいと思えるほど、このオリジナルは大切なものなのだろうか。レプリカはオリジナルの模造品だが、従属性はなかったはずだ。そのような刷り込みでもされているのか。

リグレットの言葉に、彼はうーん、と顔を僅かに上げて唸ってから、苦笑する。

「そりゃ、俺とルークは完全同位体だし、なんかあるとは思うけどそうじゃなくて――、」

意識のないオリジナルの前髪をそっと指先で掻き分け、額を晒してそこをグローブで覆われたてのひらで優しく撫でる。

その口許を彩るのは、暖かく柔らかい、笑み。

「俺は、ルークが生きててくれたら、それでいいんだよ」

だから、それが判らないというのに。

リグレットは堂々巡りの会話に、ふう、と再び深くため息を吐くが。

嫌いな人間の為にこのレプリカの命が失われるくらいなら、いっそ愛するものの為に、という方が美談か、と口の端を嘲りのかたちに撓らせる。

それは他でもない、自分たちに向けての嘲笑だった。