しゃりしゃり、するする。

音にするならそんな感じで、左手に小さな果物ナイフを持って、『彼』が林檎を剥いている。

なにをしても不慣れな様子で危なっかしいと思わせるクセに、おかしなことに剣や刃物の扱いには十分すぎるほど慣れている『彼』は、更に不思議なことに手慣れた動作で料理をする。片付けとか下手そうなのに意外ときっちり片付けたり、食事の作法が――貴族的だったり(上品だとかそれ以上の、クセのようなものが)、『彼』は通常の粗雑さとは裏腹な一面を持っていた。

その辺りがまた、ルークが『彼』から目を離せずにいるところでもあるのだけど。

「…なにをしている?」

「あ、ルーク。なんだよまたこっちに来たのか?」

顔を上げ、物好きだなあお前、と笑う『彼』に、お前が俺の傍にいないのが悪い、とこころの中だけで返した。今までこんな場所に入り込んだことなどないのに、誰の所為だ。ずっと自分の傍に控えてこそ護衛だろうに、わざわざ主人であるルークの方が、書庫に隠らず探しに来るなんて。

背凭れもない、材木を組み立てただけのような質素な椅子に座り、腰に巻いた黒くて長い布の上に林檎の細長い皮をくるりくるりとまるく落としながら、『彼』は訊かれたことに答える。

「傷んだ林檎、好きにしていいって言うから痛んだところを取って、パイでも作ろうと思ってさ。作ったら食う?」

こくり、と頷くと『彼』はよし、と頷き返す。それから動かずじっと佇むルークにそっと微笑み返すと、自分の左隣の椅子を動かして、とんとんとん、とナイフを握ったままノックをするように叩いて示した。

本来なら、ルークが座ることも――ましてや目にすることもなかっただろう。質素な、けれど長年使われてきたのか磨かれたように表面がつるりとした、椅子。

布地も飾りもどこにもない、本当に座る為だけしか役目を持たないそれに、ルークは『彼』が促すのに従って大人しく座る。少し立て付けの悪い椅子は、ルークの体重を支えた時にかたんと揺れた。

椅子の脚が長くてルークの踵が少し、浮く。使用人に子供はいないから当たり前のことだったが、『彼』の足が普通に床に伸ばされているのを目にすると、ルークにとってはかなり気恥ずかしく、少し不満に思う。

――はやく、身長が伸びればいい。

くるり、林檎の皮の切れ端が回転するのに一度だけ、ルークの浮いた足も揺れた。

そうして、午後の暖かい空気に包まれながら、ルークは彼の良く動くその手を間近で見詰める。

しゃりしゃり、するする。

「勉強はどうしたんだ?」

視線を林檎から上げずに、『彼』が訊いてくる。鼻歌でも歌いそうな、暢気な…穏やかな顔をしていた。ここで『彼』が歌うなら、きっとルークは昼寝の続きをするだろう。それくらいの午後だった。

「家庭教師が体調不良だそうだ」

「そっか。じゃあ、夕食まで暇…――そうだ、やってみるか?」

ぱ、と顔を上げた『彼』の言葉の意味が判らなくて首を傾げると、林檎を籠から一つ、取り出した。そうして椅子から立ち上がらないまま、背後の棚を振り返って新しい果物ナイフをルークの前のテーブルの上に置く。

そこまでされればさすがに意味は判る、けれども。

「前に言ったろ、料理って結構楽しいんだぜ。お前林檎剥いたことある?」

あからさまに眉間に皺を寄せて拒否の意を伝えるルークに、慌てるでもなく怯えるでもなく、向けられるのは笑顔。

そう、大概の使用人はルークの機嫌を損ねてないかと始終気にするのに(それが当たり前だ、誰だって自分の身の方が大切だ)、『彼』はどんなにルークが不機嫌でも困ったなあ、と苦笑するだけで。宥めたり謝ったり色々して、結局はルークに判った、と言わせてしまう。両親とナタリアの次に、そして初めて他人の、手強い相手だと思う。

今だって、きっと、そうなることが判っていたけれど。

「出来ないより出来た方がいいって。その時にお坊ちゃんだから出来ないって言われるより、お坊ちゃんなのに出来るんだ、って言われた方がマシだろ?」

「そんな機会はない」

「まーまー、いいじゃん一個くらい試しに剥いたって! 意外と料理に目覚めるかも知れないし!」

「何で俺にそんなことをさせたいんだ、お前は」

目覚めなくていい。自分に必要なのは林檎の皮剥きではなくて、この国を民を守り導く力だと、そう思う。呆れた視線を隠しもせずに『彼』を見れば。

「え、一緒に作るのって楽しくないか?」

きょとん、とまるで『彼』の方が年下かのようなあどけない顔でこちらを見返してくる。

…もはや、言い返す言葉が見つからない。だから結局は毎回、

――今回だけだからな」

そう言って、目の前に置かれたテーブルから林檎とナイフを手に取って、やっぱりため息を吐くしかないのだ。

それよりどうしろというんだ、これを。果物ナイフだなんて握ったこともない。

「丸いから意外と難しいし、滑った拍子に指とか切るから、――…あれ、お前、…左利きだっけ?」

ルークの左手にある果物ナイフを不思議そうに見る『彼』に、矯正した、と告げればよりいっそう首を傾げて、え、でもお前右手に剣持ってなかったっけ?と訊いて来た。生憎とルークはまだ剣を持たせて貰えたことがないから、何のことか判らない。二人して首を傾げる。だが『彼』がまあいっか、と言って自分のナイフと林檎をテーブルに置いた。

「んじゃ、俺でも教えられるかな。えーっと、こうやって…」

立ち上がるとがたん、と斜め後ろに自分の椅子をくっつけてくる。なにを、と思っている間にそっと、後ろから『彼』の手が伸びてきて、ルークの左手と右手に同じように重なった。

途端、かあ、と自分の顔が熱くなるのが判る。

多分、こんなことは物凄くずっと昔の、書き取りの一番最初の頃にしか、経験したことがない。

ヴァンとは違う、余り大きくはないけれどそれでも、剣を握り慣れた手だった。何度も潰れた肉刺が皮膚を硬くしている、そんなてのひらだった。メイドのように手入れがされているわけでもない、それでもルークを傷つけることのない、不器用でも酷く優しい手。

その手がそっと、ルークに林檎の剥き方を教えている。

「あんまり力入れるなよ、危ないから。ゆっくりな」

こめかみのすぐ横、いつもなら有り得ない位置で声がして、よりいっそう顔が熱くなる。ルークの背中から体を覆うようにして重なる体温も熱いと感じるのは、自分が意識しているからか。仕方がない、こんな風に誰かと身を寄せ合うなんて、ルークは今までしたことがないのだ。――誰とも。

ルークは母を深く愛していたけれど、それは父に愛人の気配を感じてからの、守らなくてはならないという強い意志のもとだった。

母は美しい女性で、ルークのことをとても愛してくれる優しい人だが、いかんせん彼女は病弱だった。

そう、触れるのも躊躇われるほどにか弱い方だ。

実際はそこまでないのかもしれないが、ルークはそんな母から生まれたというのにあんな…超振動、という凶暴な力を持っていたので、容易く触れることで母を傷つけるかも知れないことが、ルークには恐ろしかったのだ。そして素直に母の手を求めるほど、残念なことにルークも精神的に子供ではなかった。…なかったと、思っていた。

重ねられた手が、背中の体温が、こめかみが、ひどくあつい。

何とか一つ剥き終わった頃には、緊張していたのと更に日頃使わない部分の筋肉を使った所為か、てのひらがぎこちなく、筋も痛かった。刃物の用途が違うだけで、こんなに労力が要るものだとは思ってもみなかったルークは密かに屋敷の料理人と、隣に座っている『彼』に対して素直に感心する。

「お前は何故、料理をするんだ?」

「ん? んーなんつーか、……理想の刃物の使い方、だからかな?」

色の変わった部分を省いて、適当にスライスしていく様を見詰めながらのルークの問い掛けに、『彼』は手を止め顔を上げ、目を閉じ考え込んで、最後にルークに顔を向け微笑んだ。

「理想?」

刃物の使い方に理想もなにもあるものか。そう思って問い掛ければ『彼』は作業を再開しながら続ける。

「だってさ、俺がこうして林檎を剥いて、パイを作るだろ。そうしたら、お前とか、ガイが食べてくれるだろ。で、美味しいって言ってくれる。喜んでくれる。――誰も、傷つけないし傷つかない」

なあ、なんかそれって凄くねえ?

そう言って笑う『彼』の剣術の腕がヴァンに匹敵することを、幼いながらもルークは識っていた。ルークにとってそれは羨ましさを通り越して、憧れの対象だというのに。

「確かに俺はさ、剣術が好きだしお前を守りたい。けど、同時に誰かの命も奪うだろ?魔物も――人、も」

殺さずに済むならそれでいいと、『彼』は強いのにそう言うのだ。まるで弱い、臆病者のように。誰も傷つけたくない、誰の命も失いたくないと、とても優しい願いを口にする。ルークにだって判る理想論。『彼』も理解しているからこそ理想、という言葉を使ったのだろう。

けれど、『彼』はその理想のために、強くなったのだ。

「全部が終わった後に、みんなが笑って『よかった』って言えるのが一番いいと、俺は思う」

きっと誰よりも強い『彼』はそうやんわりと笑って、見上げるルークの前髪を梳くと、そっと優しく額を撫でた。

そしてその強さは、今はルークの為だけに。