「ナタリア殿下からの手紙を預かってきたんだ。それからほら、お前これがないと困るだろ?」
タルタロスから脱出する際に機転を利かせてイオンを助け、合流したガイが、イオンを休憩させるために落ち着いた森で互いに自己紹介と情報交換をした後、上着の内側を探って、ナタリアからの手紙と、ルークの眼鏡を差し出して来た。
きらりとプラチナの細いフレームが陽の光に反射して、ガイの手に絡んで滑る鎖も華奢な音を立てる。久しぶりに見る馴染んだそれに、目を細めた。
「ああ、助かった」
そう言って手紙と眼鏡を受け取ると、二人のやりとりを見ていたジェイドが得心がいったとでも言うように薄く笑む。
「なるほど…あなたの眉間の皺は、視力が悪かったからなんですね」
軍人にとっては余り感心出来ない部分で、ヴァンからもそれとなく言われたが、ルークは敢えて必要だと思う時以外は裸眼で通していた。実際人が言うほどそこまで困ってはいない。
「それだけじゃないんだけどな。クセになるからやめろって何度も言われたけど、治らなかったんだよなー」
かつて『彼』が、ルークが眉間に皺を寄せる度に、ぐりぐりと強引に指の腹で伸ばしていたことを思い出したのか、はははと爽やかに笑ってそう返すガイをルークは睨む。ガイ自身とて、先程長いこと患っている女性恐怖症でティア相手に悲鳴を上げていたクセに。
「ルーク様を捜しに来たのですか?」
「ああ、旦那様から命じられてな。マルクトの領土に消えていったのは判ってたから、俺は陸伝いにケセドニアから、グランツ閣下は海を渡ってカイツールから捜索してたんだ。俺はケセドニアの領事館でお前の所在を聞けたから、何とか間に合ったってとこか?」
グランツ閣下、という名称にルークは深くため息を吐き、ティアはびくりと反応する。
「やはり、ヴァンも来ているのか…」
目の前で妹と共にルークが姿を消せば、そういうことにもなるだろう。そしてイオンまでもがルークと共にいることは、恐らく六神将の方から報告されているだろうし。ヴァン的には捜し物が同時に見つかって、一石二鳥とでも言うところか。
憂鬱げに顔を曇らすルークから少し離れたところで、同じようにティアも項垂れている。
「――…兄、さん……」
胸に手を当てて、苦しげに呟いたティアの言葉を耳にしたガイが、訝しげに問い掛ける。
「兄さん? 兄さんって…?」
「ヴァンの妹だそうだ」
「えっ…! あ、ああ…そういや、髪と瞳の色が…」
余程驚いたのか、ガイはティアをまじまじと見詰める。距離が詰められない分些か不躾なほどで、その視線にティアが居心地悪そうに視線を外したのに気付いて、頭に手を遣ると、いや、女性を相手に失礼だった申し訳ない、と慌てて謝った。
まあ、気持ちが判らないでもない。こういうことを言うのはアレだが、似てなくて良かったな、と思う。
* * *
一応ティアが治癒術を詠唱したものの、結局その日はイオンの体調を慮って、そのまま野営をすることになった。
今後の道行きを考えれば、イオンだけでなく自分たちもなるべく休んでおくことにこしたことはない。人間は瞼を閉じて横になっているだけで、睡眠中の八割程度の休息を取ることが出来る。
当然こんな場所で無防備に眠れるはずがないが、天候も悪くはないし、なにより魔物が出ても焦る必要がないのは幸運だ。一応現役軍人が二人と、素人とはいえそれなりに剣術を扱う二人がいる。
火の番を決めたあと、焚き火をぐるりと囲むようにして各自適当に間隔を開け、座り込む。
身動ぎした際にルークの上着の内側で乾いた感触が胸に当たる、それを思い出して焚き火の弱い光のもと、取り出す。眼鏡と共に取り出したナタリアからの手紙を広げた。
ルークの右隣でティアの世話を受けたイオンが横になり、その反対の左隣でガイが焚き火の調節をしている。焚き火を挟んで向かいに座るジェイドが、興味津々、という表情を隠しもせず正面のルークを見ていた。
「お二人の仲睦まじさは、マルクトにも伝わるところですよ」
「『早くも国王気取りで父親の背後から権力を振り翳し、図々しく国政にまで口を出す小賢しい赤い雛鳥』、か?」
「おや、」
わざとらしく驚いたフリをして目を瞠るジェイドに、苦い笑みだけを返す。
全く、キムラスカの貴族は頭や体よりも口を動かすのに忙しい人間が多いらしい。耳汚し程度の噂ばかりがマルクトに伝わる結果、ルーク自身の価値もそれに相応しい位置で定められる。何とも理不尽だが仕方がない。そういうものなのだととうに割り切っている。
ルーク自身の価値は、一番知っていて欲しい人間が解っていてくれれば、それでいい。
焚き火の枯れた木の枝が爆ぜる音を聞きながら、揺らめく火の明かりを頼りにナタリアの手紙を読み進める。
最初はルーク自身のことを気遣う思いやりに満ちた文章から始まり、それから留守中の近況報告、主に二人で取り掛かっていた医療や福祉関係について責任感の強い貴方は気になっているだろうから、とこと細かに説明してくれていた。
そうして手紙を二度ほど捲った先、書かれていた話題に僅かに顔を顰める。
『…それから、貴方が帰られないままあの日が来てしまいましたので、私だけでも、とお花を供えておきました。この日に貴方が帰られないなんて、なんだか不吉な符合のようでとても恐ろしいですわ。早く、無事に帰って来て私に顔を見せて下さいまし。
貴方はいつも花など必要ないと仰いますけれど、どうしてなのでしょう。貴方が仰るからお屋敷の使用人たちの誰も、花を供えることが出来ないではありませんか。
せめて、周りを彼の好きだったセレニアの花で満たしてあげてはどうかと、ガイに話しておきました』
「…ガイ、ナタリアから話を聞いたか?」
「ああ、うん。セレニアの花だろ? ケセドニアの方の石碑にも、セレニアの花じゃないが綺麗な色とりどりの花束が供えてあったぞ。領事館に勤めてる人が毎年交代で供えるらしくてな」
七年も経つっていうのに、凄いよな。
剣の手入れをしていた手を止めて振り返ったガイはそう言うと、ゆっくりと苦笑する。
「それがなー。さすがナタリア殿下っていうか…もうすでにセレニアの花を用意して置いて、『どうですか?』なんて言うんだぜ?」
それじゃ断れるはずがない。
ガイもルークと同じく、『彼』が死んだとは思っていない。だから空の象徴に花を供えることに意味など無いことを知っている。けれど準備万端で来られれば、しがない一使用人のガイとしては、どうしようもない。
「俺が出ていく頃にはペールが取り掛かってたから、お前が帰る頃にはきちんと根付いてるんじゃないか?」
本来フォンスロットの在る場所で群生する植物が、あの墓石がある場所に根付くかどうかは判らないが、夜になればさぞ幻想的だろう。白く磨かれた墓石がセレニアの花と月の光を浴びてしとやかに輝く様は。
その、仮の墓にも、石碑にも『彼』が眠るはずもないのに。
以前はそう、信じているだけだった。けれど今は違う。確かに『彼』が生きていることを、このオールドラントに存在することを、ルークは知っている。
バチカルへ帰還した時にでもいい、早々にあの墓石は破壊するべきだ、と思ったところで、ふと焚き火のちらちらとした光を受けて、火花のように小さくその金髪を照らしている隣の男が視界に入った。
――ガイにどう伝えるか。
『彼』と出会ったことを。『彼』が生きていることを。
手紙を仕舞い剣の手入れをしながらルークがいつ、どう切り出そうかと考えて黙っているその隣で、ガイが焚き火を挟んで向かいに座るティアへと声を掛ける。
「ティア、少しいいか?」
イオンの世話を終えてただ静かに座り、いつかの夜のように星空を見上げていたティアは、ガイの声で視線を落とすと、炎越しにガイを見た。
「ずっと気になっていたんだが、俺は…俺だけじゃない、ルークも、君が歌うその譜歌を聴いたことがある。それは一体なんて歌なんだ?」
ガイの問いにああやはり、とルークは思う。
ルークですらすぐに判ったのだ、ガイとて気付かないわけがない。そうして互いに『彼』の消息を切望しているからには、同じことを問う。ティアにとっては二度目になる質問。
「……それは、ヴァンから聴いたの?」
静かな、だが厳しい響きを持った固い声は警戒心の表れだろう、睨むような強い視線でガイを見る、その表情は感情を殺しているのが判った。
やはり気易く言えるはずもないか、とちらとガイの表情を窺えば。
「いいや、違う」
ガイの返事は短い。だが彼の視線もぶれもせずただ、ティアだけをじっと見詰めている。表情の些細な変化すらも、それで得られる情報の何一つも見逃すことのないように。
しばらく睨み合いにも見えるような、無言でのやりとりが炎越しにあったあと、ふう、と根負けしたかのようにティアが重たいため息を吐いて、口を漸く開いた。
「――ルークには言ったけれど、私の譜歌はユリアの譜歌と伝わるものよ。歌える人は私の他にヴァンだけのはず。気の所為じゃないかしら」
「ユリアの譜歌…!? あれが…!」
「ユリアが残したと伝えられる七つの譜歌、のことですね」
ガイが驚きの声を上げ、今まで沈黙していたジェイドも静かに反応する。
どうやら、譜術を極めた《世界の真理》とも謳われている稀代の天才は、ティアの譜歌が通常音律士が詠唱するものではないことはとっくに気付いていて、様々な方角から自分の知識を探って仮説を立てていたのか、ガイのように驚いてはいなかった。あくまで確認の呟きだった。全く、この男が驚くことなどもう、この世界にはないのかも知れない。
そう考えると、同じ時代を生きその知識の一端に直に触れることが出来ることは、歴史的なことなのか。
いや、あまつさえこの男が作り出した技術に触れ、気が狂うこともなく今のところ特に問題もなく、無事に生き続けている自分もまた、真理の一部なのか。
――それが、ローレライとの完全同位体という、存在だからこそなのかは、判らないが。
「しかし、あれは暗号が複雑で詠み取れた者がいなかった、という話ですが。貴女は何故、ユリアの譜歌を詠うことが出来るのですか?」
誰かから学んだのですか、と続いたジェイドの言葉に、ティアは首を横に振る。
「……それは私の一族がユリアの血を引いているから、……という話です。本当かどうかは知りません」
「ユリアの子孫……なるほど」
ティアを見るジェイドの瞳が、眼鏡の奥で眇められた。ああ、今のジェイドは研究者の顔をしている。譜術に関しては余程の関心があるのだろうか。それとも知的探求心が疼くのかも知れない。
「――『譜に込められた意味と象徴を正しく理解し、旋律に乗せるときに隠された英知の地図を作る』。一子相伝の技術みたいなものらしいな」
「え……ええ。その通りよ。よく知っているのね」
驚きと言うよりは戸惑いの色が濃い声を返すティアに、ガイはその無駄に爽やかな笑顔を向ける。
「昔、聞いたことがあってね」
それはいつのことだ。
それこそ、権力を駆使してキムラスカ中の書物を読み漁ったルークですら知り得ない、訝しむようなことをさらりとガイは口にして、けれど余計な言葉は出し過ぎない。少しずつ、情報を与えられれば相手は口が軽くなる。
この男はあの爽やかな笑みと同じように、こういう話術が油断ならない。判ってやっているとしたら、なおさら。
「それを知っているのなら判るでしょう、子孫以外は他に誰も歌うことが出来ない譜歌なのよ。私の身内は兄さんだけ。他にいないわ」
「いや、間違いない。ここまでの戦闘で使われた歌を聴いて、確信したんだ。俺とルークはユリアの譜歌を聴いたことがある、ってさ」
「……どういうこと? まさか、ユリアの子孫がまだ他に居たということなの…? 兄さん……何が、一体……」
ティアは口を押さえ、困惑した呟きを漏らす。
「――…その方は、どんな?」
混乱した頭を抱えて悩むティアの代わりに、ジェイドがガイに問う。
「ああ、やっぱりというかティアみたいな髪の色と、瞳の色だったな。ファブレの屋敷に居たのは一年くらいだったけど」
「それならば、一度くらいルーク様の剣の師匠であるヴァン謡将と直接対面したことはあるのでしょう?その時何かありませんでしたか?」
ジェイドの言葉に、はた、とガイは目を瞠り、動きを止めた。
「――そういや、一度も…」
「きちんと、ヴァンの前に姿を現したことがなかったな……」
ルーク自身も問われて改めて、記憶をなぞる。
そう言えば、一度も――二人が同じ場所に居たことはない。それはそうだ、稽古が終わるまでは使用人は控えているものだ。警護は白光騎士団がいるのだし。
それに、彼はアルバート流の剣術の使い手でありながら、そしてダアトの神託の盾総長に匹敵する腕を持ちながら、けしてヴァンとは顔を合わせようとはしなかった。
ガイとルークが二人で、ヴァンとの手合わせを見てみたい、きっと凄いことになるだろうから、と『彼』に言っても、苦笑して躱されていた。
…今考えれば、会うことを避けていたようにすら、思える。
「……その歌だが。アイツは、最後まで知っていると言っていたが、俺たちに聴かせたのはいつも第六までで、中途半端に切れている不完全なものだった。これは最後まで歌わないことに何か意味があるのか?」
「何ですって!?」
いつもティアが詠う長さで、『彼』が歌っていたあの歌を分けるとするなら、だが。
そう、ルークが視線をティアに向ければ、ティアは息を呑み髪を揺らして半ば悲鳴のような声を上げる。いつもの冷徹な印象など取り繕う余裕がないのかもしれない。
「では、その方はローレライと契約を行うことが出来る、ということですね」
ふむ、とひとつジェイドが頷くのに、透き通った少年の声が重なった。
「――ユリアがローレライと契約した証であり、その力を振るう時に使ったという『大譜歌』のことですね。『大譜歌』だけは暗号を詠み取る必要がないと聞きます」
暗号を詠み取る必要がない――ということは、歌うだけで。
『大譜歌』が、完成してしまうのか。
「イオン様…!」
「すまない、起こしたか?」
ティアが慌てて立ち上がるが、その前に体をそっと起こしたイオンにルークが小さく声を掛ければ、やんわりとした笑みでいいえ、と優しく返される。
「僕は譜歌が、音律士が好きですよ。彼らの譜歌は心地がいい。それは…人を攻撃する譜歌もありますが、癒してくれる譜歌もある。特にティアの譜歌はとても、――とても、懐かしい」
そう口にするイオンの声には、なにか、言葉以上の切ない響きが含まれていて、意外だった。瞼を閉じ、胸を押さえる仕草のそれは、どこか憧憬すら感じられるのに。
僕は遠い昔、ティアの譜歌に癒されたことがあるんでしょう、きっと。
イオンの淡い微笑みから零れた小さな囁きは、ぱきんと強く爆ぜた焚き火の音に、不躾にかき消されてしまう。
「有り難うございます……。でも、その人は、『大譜歌』すらも理解していたのでしょうか。もしそうだとするなら、――」
そこまで言って、ティアは途中で我に返ったように口を噤んでしまう。僅かな沈黙が降りた。
「『大譜歌』か。…だから俺が何度言っても、最後まで歌わなかったのか…」
ルークがゆらりと波打つ炎を見詰めながらぽつりと呟けば、ただ黙って聞いていた様子のジェイドが問い掛ける。
「ルーク様とガイはいつ、その歌を聴いたのですか? 例えば特別な時にでも?」
「いいや、彼は日常的に口遊んでたから、俺は偶然、歌ってるところをな。ルーク様は……」
こちらを見てにやにやと笑うガイの脇腹に、ルークは無言で思い切り拳を埋める。矯正されたとはいえ、本来の利き腕で勢い良く。
「ぐあっ!! ちょ、ちょっ、と…っ、ここ、…っ!」
身を捩って悶絶するガイのことなど知ったことではない。それにどうせ口にしてしまうのだろうから、これくらいの仕置きは受けるべきだ、と思う。
案の定、ガイが告げた内容にイオンすらもがそれはもう、『なんて微笑ましい…!』とでも言うかのような優しく甘い笑みを向けてくるものだから、あまりの気恥ずかしさにこの場に居るのが耐えられなくなるところだった。
今、この時が夜で本当に助かった。
* * *
焚き火の周囲が寝静まった、その闇の中。
周囲の気配を探りながら火の番をするルークの耳に、なにか、が届く。
何とははっきり言えない、空気の流れのようなもの。風の息遣いのようなもの。
そっと視線を上げれば、向かいの座った姿勢で眼鏡を外し、目を閉じていたはずのジェイドははっきりと瞼を開けて、その赤い瞳をちりちりと焚き火の光に灼いていた。眼鏡がなければよりいっそう若く見えるその貌に、炎の影がゆらりゆらりとまるで生き物のように映る。
淡い微笑みを向けられた。時々こうやって、彼は不意に人らしい笑みを向けることがあり、それにいつもルークは少なからず面食らう。
他の誰にも聞きとれない、低く小さな響きで紡がれる言葉。
「ローレライの完全同位体は、ユリアの譜歌のゆりかごで眠っていたということですか」
それに喚起される、遠い記憶。
温かな腕(かいな)に護られて、眠っていた。