途中、花と緑に囲まれたセントビナーへ立ち寄ったのは、ジェイドとアニスが万が一の場合に落ち合うことにしていた、マルクト軍の基地があるからだった。

そこにはやはり我が物顔で出入りを見張っている神託の盾騎士団の姿があって、その堂々とした様子に、マルクト帝国の城塞都市相手によくやるな、とルークはある意味感心する。タルタロスを強奪したことといい、せめて隠密行動らしくすればいいものを、これ見よがしにそれと解る鎧を身につけた兵士を使うなど、ダアトがわざわざマルクトに火種をばら撒いているようにしか思えない。

実際、戦ともなれば遠慮も何もないのが当たり前なのだろうが、とここまで考えて、そこで不意にルークの思考が止まる。

――…戦を、強引にでも起こしたいのか?

何故、そんなことを神託の盾が…ダアトが望むだろうか。

そもそも、イオンは和平の為にここに居るはずだ。だが、六神将に追われている現状といい、ダアトに居るらしい偽者の導師の話といい、非常に不可解すぎる。これは多少、きな臭いことがダアト内部で起こっているのかも知れない。なにより、ルークの叔父でもあるキムラスカの現国王はダアトの大詠師モースがもたらす預言を多少、重く見過ぎている傾向があった。ダアトの動向には、充分注意する必要がある、とナタリアへ報告することを頭の中でまとめながら、考える。

セントビナーへの侵入の際には、偶然にもエンゲーブの村で代表と名乗っていたローズ夫人の馬車によって助けられ、つつがなく門を潜ることが出来た。何故だかは知らないが、エンゲーブの人たちはルークに好意的で、それに多少の違和感を感じているものの、害意がないことは伝わる。戸惑いながらもルークは素直に感謝した。

そうして、一番最初に目に入るのは、天に向かって高くそびえて立つ巨木――ソイルの木。

それにただ圧倒されるように無言で見入っているルークの傍らで、イオンと、ティアも同じように見上げていた。

「これが、名高いソイルの木か…」

ルークがただ無心に呟けば、少し距離を取った場所に佇んでいたガイが、静かに笑んでどこか懐かしそうな瞳で言葉を返す。

「ああ、樹齢二千年って言われてる、この街の象徴さ。あの木には妙な話が多いんだ。随分前にこの木が枯れかけた時、他の草花まで全滅しかかったこともあったらしい」

「それならこの街は、ソイルの木のお陰で発展しているのかも知れないわね」

ティアが振り返り感嘆の声で言うのに、ルークも顎に手を遣り少し考えて頷く。

「…確かに、この街で育つ草花は他の地域では育たないと聞くな。この木が関係しているのか?」

セントビナーで栽培されている花から、グミやボトルが作られる。いわばセントビナーだけの専売特許とも言えるそれらは、このソイルの木の恩恵なのか。

そう考えると、マルクトだけにこのソイルの木があるのが、口惜しくなってしまう。

キムラスカには肥沃な大地はない。バチカルは砂漠と湿地に囲まれ、海を挟んだシェリダンは荒野だ。譜業と音機関だけで発展してはいるが、結局は作物などの殆どを輸入に頼っている。

…もし。エンゲーブやここ、セントビナーで酷い災害や干ばつなどが起こった場合、キムラスカの食物に関する輸入制限やその場合の物価を思うと、そしてキムラスカの民たちの暮らしを思うと、頭が痛い。

その打開策を考えてはいるものの、まだはっきりとした具体案もない――監禁された雛鳥の愚かな囀りだと、鳥籠の中で何が判ると嘲笑されるのはいつものことだ。

眉間に皺を寄せて考え込むルークの表情をちらりと見て、ジェイドが口を開く。

「まだはっきりとは解明されていませんが、ソイルの木と街の草花の因果関係も研究されています。私の知人にも調べている人がいますよ」

「そうか。時間があるなら是非、会って話を聞きたい」

そうして、可能ならキムラスカに挿し木でも出来ないものか。

バチカルに帰還する、という本来の目的どころか現在の状況すらも忘れたように、些か急いて見える態度でものを言うルークに、ジェイドはその赤い瞳を細めて苦笑する。

「ソイルの木にあつらえた露台で一晩中、止める暇もなく熱く語られてしまいますよ」

「望むところだ」

いっそ、バチカルに来て頂ければ有り難い。

真剣に告げるその様子に、ジェイドはおやまあ揶揄い甲斐のない、と実に詰まらなそうな声と表情を向けた。その向こうでガイが複雑そうな表情でルークを見ていたが、首を緩く振るとそれで、とジェイドに話し掛ける。

「それで、フリングス少将と、アニスって子は、ここに居るのか?」

「二人とも、無事だといいいのだけど…」

ガイの言葉にティアも不安そうに呟くが、その声にジェイドとイオンは場違いなほど朗らかに返した。

「そりゃもう、大丈夫だと思いますよ。アニスが居ますからね」

「ええ、アニスですから。きっと二人とも無事でいてくれます」

あれだけ不安を煽る言い方をしておきながらの、ジェイドの『大丈夫』という言葉に、ルークもティアも訝しさを通り越して胡散臭げな視線を送る。助からないだろうと言ったのはどの口だ。

しかしジェイドはともかく、イオンですら心配していない。なにか、あの状況から安全に脱する準備をしていたとでも言うのだろうか。もしくは技術を持っているとか。…アニスが?

ルークにとっては少しばかり気の強い、けれど基本的に明るく面倒見の良い少女としてしか認識していないが、実は違うのだろうか。

「なんだか凄い言われ様だな。そのアニスって子は少将より頼りになるのかい?」

首を僅かに傾げているルークの隣で、人の命が二つ懸かっているというのに、全くもって重大そうではないどころか、少女一人の名前を強調する二人の様子に、ガイも苦笑して訊いた。

通常なら少女の方ではなく、少将の方だろうと誰もが思うのに、その問い掛けにジェイドのははは、とわざとらしい笑い声が響く。

「元気いっぱいの可愛い子ですよー」

「とても頼りになります。特に僕たち兄弟は本当に良くして貰って…」

「そうなのか?」

ジェイドの満面の笑みに重ねるようにして、イオンもにっこりと微笑んだ。兄弟、ということは烈風のシンクもだろうか。それにしては、チーグルの森では互いに目を合わせたり、特に親しい雰囲気も出さなかったように思えたが、イオンとは違い仲でも悪いのかも知れない。

まあ、年齢によらずしっかりしているのかも知れないが、まだ幼い少女であるには違いない、と思うが。

「人は見かけによらないものですよ」

そうしてそっとあやしく笑うジェイドに、ルークは考えるのを止めてただ、ため息を吐く。

それで結局、アニスとフリングス少将が大丈夫な根拠は一体なんなんだ。

* * *

その場で解散し、ジェイドが独り、セントビナー駐留軍基地へと向かうその後ろ姿を見送る。正式なマルクトの軍人はジェイドだけだ。機密の詰まった基地内へと部外者である他のメンバーが同行出来るはずがない。

ルークは自分に向けられる周囲の視線に気づき、またか、と密かに息を吐く。

エンゲーブでもそうだったが、ルークの髪はマルクトでは酷く珍しいもののはずだ。キムラスカですらそうなのだ。間違いなく、自分はキムラスカの王族だと主張しているはずで、出来ることなら隠すべきものだと、そう思っていたのだけれど。

気の所為でなければ、結構あからさまに友好的な視線を向けられるのは何故だ。

キムラスカの元帥が十数年前の闘いでマルクトに対し何をやったか、そして数年前の戦争の出来事も、ルークは武勇伝としてラムダスに散々聞かされている。忌み嫌われても仕方ないこの赤を、先程から珍しそうに目を瞠った後、ふうわりと微笑むマルクト人が判らない。逆にルークの方こそが、周囲の視線に敏感になりすぎてしまう。

きょろきょろと、周囲へ視線をそれとなく向けるルークの隣で様子を覗っていたガイが、思わずぷ、と噴き出すと口許に手を遣ってくく、と小さく笑う。

「…お前、警戒心の強い仔猫みたいになってるぞ」

「うるさい!」

ガイのたとえに瞬間的に羞恥心が湧いて蹴りを入れようと素早く体を捻る、それをおおっと、と大げさに上げた声で笑いながらガイは剣の鞘で止めた。

「危ないから暴れるなよ、ルーク坊ちゃん」

「誰の所為だ?」

腰より低い位置ではあるが、上げた足でガイの剣の鞘を踏みつけるように押さえ込みながら、ルークは答える。ふと、ガイの向こうに、イオンを休ませようと宿屋へと向かうティアが見えた。

時間が出来たら訊きたいことがあったことを思い出し、ルークは鞘から足を退けると、二人へ近寄り声を掛ける。その声にイオンの背を支えながら歩いていたティアが足を止め、ルークを振り返る。

「どうかしたの?」

「少し、ティアに訊きたいことがあったんだが……イオンはもう、休むのか?」

「ええ。少しでも長く休んでおこうと思って」

僅かに首を傾げて答えるイオンの顔色は酷く青白い。こんな時まで柔らかく笑うその様子が痛々しかった。まるで死人のようだ、と縁起でもないことを考えてしまう。本当に大丈夫だろうか。

幸いというべきか、セントビナーは薬草の宝庫だ。イオンの体に良い薬もあるかも知れない。

「ティア、僕は先に宿屋に行っていますね」

「でも、イオン様…、いくらダアトの兵士が街中に居ないと言っても、油断は…」

「大丈夫です。すぐそこですし、おかしな様子も見えません」

どうぞ皆さんはゆっくり観光されて下さい、と言ってイオンは宿屋へと向かう、その背中が宿屋の中へ消えるまで確認したティアが、その兵士の制服に映える、長く淡い色の髪をゆっくりと揺らしてルークに正面から向き直った。すう、と冷たい色の瞳がルークに定まる。

「…それで、用件は何かしら」

「すまない。 ティア、あのリグレットという女は何者だ?」

タルタロスで気絶してから色々あって今まで聞き損ねていたが、あの女はルークに「こんなところにいたか」と言った。会ったこともないというのに、ルークを当たり前かのように知っていたのだ。それはつまり、同じ顔の、違う存在を知っているということではないのか。…シンクのように。

ルークの問いに、ティアは僅かに目を伏せ肩から流れる髪を押さえてそっと、小さく息を吐く。

「リグレット教官は、私が士官訓練を直々に受けた方よ。現在は神託の盾の総長付副官で、第四師団の師団長の役職に就いているわ」

「なるほど…ヴァンの副官、か」

あの威圧感。感情を殺した冷静沈着さに納得する。他の女にはあれほどの制圧は出来まい。そしてヴァンに最も近い部下ならば、レプリカの存在を知らないはずがない。

今まであくまで推測に過ぎなかった考えが、ここではっきりと確信に近いものへと変わる。

六神将は、ルークのレプリカの存在を知っている。

六神将はカンタビレを除いて全て敵だと、ジェイドは言う。

ならば、レプリカもきっとそうなのだ。

敵であればいい。その方が、何も感じずに消すことが出来る。自分から派生したもの。ルークの人生を狂わしかねなかった、いや、今でもその可能性のある、生物兵器。ヴァンの歪んだ野望から生まれたレプリカ。

――ヴァンの野望そのもの、と言えるかも知れない、その存在を許す訳にはいかない。

唯一のオリジナルとして、どうしても許せないのだ。

「…では、あの場に居たもう一人の人物のことは、知っているか?」

こちらこそ本命とも言える質問だった。

『彼』がダアトでどんな位置で、扱いを受けているのか。表に出ているのか、それともあくまで隠し通されているのか。

ティアはルークの問いにしばらく目を閉じて考え込んでいるようだったが、顔を上げて首を横に振った。

「いいえ、初めて見たわ。六神将だとするなら数が合わないし、六神将の誰かの副官かも知れないわね。――烈風のシンクと同じ仮面を付けていたもの、彼の副官かも知れないわ」

そうかも知れないとは、ルークも考えた。

六神将という直属の部下に、『彼』を監視をさせているのかも知れない、と。

『彼』ほどの剣の腕があれば、駒にして上手く使おうと思いこそすれ、殺しはしないだろうと思っていた。その読みが当たった、ということでいいのだろう。

――もし、ヴァンが『彼』も超振動が使えることを、知らないとするなら、だが。

七年。それだけあって隠し果せるものだろうか。もしヴァンが『彼』を殺そうとして、自分の命の危機に、使わずに居られるだろうか。制御も上手く出来ないようだった。咄嗟に使ってしまわないはずがない。

知らなければいい。もし知っているとするなら、『ルーク・フォン・ファブレ』のレプリカ、というもう一つの兵器を欲しがっていたヴァンには、今、『彼』と、レプリカの、二つもの兵器が揃ってしまっていることになる。

それを思うと、気ばかりが急く。早く、『彼』をヴァンの手から救わなくては。そして、己のレプリカの始末を付けなくては。

焦る気持ちを深く、ため息を一つ吐き出すことで切り替えて、更に問う。

「ではもう一つ。六神将だという、カンタビレ、という人物を知っているか?」

あのジェイドに、『ルークがこの世界で唯一、信じるとするならこの人物しかいない』と言わせた人物を、もう少し詳しく知っておきたかった。ジェイドがあそこまで言うのなら、きっといつか出会うこともあるだろう。

それに、ルークにとって協力者になるのなら、それが内部事情に詳しい六神将ならよりいっそう、力強い。なんといってもルークにはまだ、味方と呼べる人間は『彼』以外は誰一人、いないのだから。

「……どうして、貴方がカンタビレ教官の名前を知っているの?」

だがティアはいつかの夜と同じように、きょとんとおさない表情で目を瞠って、ルークに問い返した。

「カンタビレ、教官?」

また教官か。六神将は士官の教育もするものなのだろうか。そう思いながらさて、何と答えるかとルークは口を噤む。質問で返されるとは思ってなかった。六神将だというから、リグレットと同じように答えるだろうと勝手に想像していた分、説明の準備を一切していなかった。ジェイドに聞いた、というのは面倒くさいことになることは予想が付く。

沈黙が落ちた二人の間に、それまで黙っていたガイが割って入る。

「待ってくれ、六神将ってのは『黒獅子ラルゴ』に『死神のディスト』だろ。『烈風のシンク』、『妖獣のアリエッタ』、『魔弾のリグレット』…と、あとその、カンタビレ、ってヤツなのか? 聞いたこと無いな」

「…詳しいな」

ルークがガイを見上げれば、ガイが頭に手を遣って淡く笑って誤魔化す。

「まあ、ちょっとな」

「……カンタビレ教官の名は、ダアトの中でもあまり出ないわ。六神将というのはヴァン直属の部下のこと。それなのに彼女はヴァンとは対立しているから、ヴァンや他の六神将に睨まれたくなければ、滅多に口にはしないの。この一年ほど、遠方の守備隊へ転属されているはずよ」

転属とは聞こえはいいが、それは左遷だろう。

ルークとガイの視線に、ティアは苦しそうに眉を寄せて目を伏せるとこくりと頷く。さすがに自分の兄がそういう、意見の違う人間に対してあからさまなことをする人物だというのは、内心穏やかでは居られまい。それならばいっそ、免職――クビにしてしまえばいいだろうに。

ダアトは導師であるイオンがトップだろうが、実質仕切っているのはキムラスカに頻繁に訪れるあの大詠師だろうし、さらに兵士のこととなるとヴァンの独裁だろうに、どうしてまた、そんな敢えて目に見えるようなことをするのか。

ヴァンらしくない、と訝しみ黙るルークの隣で、ガイがティアへ問う。

「その、カンタビレに二つ名はあるのか?」

「知らないわ。神託の盾においての二つ名はヴァンの寵愛を示す様な賜り物だもの、彼女にはきっと与えなかったでしょう。いいえ、もし授けられても彼女ほどの人なら、『そんなものは必要ない』ときっぱりはね除けるでしょうね」

くすりと笑うティアに、ああ、多少どころかかなり気の強い女傑なのだろう、と察する。

…ふと、従姉妹の姿が脳裏を掠めたことには、気が付かなかったフリをした。