手短に済ませたのか、まだ三人が中央広場で話し込んでいる間にセントビナー駐留軍基地から戻って来たジェイドは、にこやかに微笑んだ表情でアニスからの手紙をメンバーに見せた。…無事だったようで、何よりだ。なにがどうなったかは定かじゃないが。
どうやらセントビナーがこのように神託の盾の兵士たちに包囲されているために、すぐに立ち去りケセドニアに向けて先に進んでいるらしい。それならばルークたちも長居は無用だろう。
そう判断し行動に出ようとしたその時、
「……っ、隠れて!」
ティアが声を潜めて振り返るのに、咄嗟に同じように気配を殺して様子を覗えば、街の出入り口である門の向こう、神託の盾の兵士たちの中に紛れて見知った六神将が居るのに気付く。
細身に黒装束、金の嘴のような仮面を付けた深い緑色をした短い髪の人物は、間違いなく烈風のシンクだろう。そしてそれに駆け寄るのは真紅のストールを腕に掛け丈の短い黒衣を纏い、金髪を結い上げたティアの教官だったというあの女――リグレット。神託の盾の参謀と副官が話し込んでいる。
「カイツールか、ケセドニアか…」
理性的に感情を抑えたリグレットの低い呟きに、シンクは飄々としたしぐさで肩を竦めて見せると、対照的なボーイソプラノで答えた。
「どっちだって構わないさ。どうせ最終的にはケセドニアに向かうことは判ってるんだ。ただ、ラルゴはまだ傷が癒えてない。だからここから近いカイツールで待機。リグレット、アンタも一度報告の必要があるだろうから、そっちにね」
素早い行動が優先される作戦において、ラルゴは荷物だと暗に言うシンクに、リグレットもなんの感情を見せず頷く。どうやらジェイドがタルタロスで相手をしたのは、ラルゴという六神将のようだ。ここに姿が見えないのは、今まさにタルタロスで治療中ということか。都合のいいことにダアトは第七音素譜術士が集う場所だからか、瀕死の治療も行えるらしい。なるほど最強の兵たちだな、とルークは少し空恐ろしさすら感じる。力尽きても斃れることは許されないかのような。
「ケセドニアはどうする」
「ディストがもう行ってるよ。お気に入りのあの人を連れていったから、ボクもこのあとすぐ追って合流する」
「帰って来たと思えばまったく、落ち着きのない……じっとしてられないのかしら、あの子は。 アリエッタは?」
シンクの言葉にため息を落とす、冷徹を貫いていたリグレットの声に人間らしい温度が戻る。そう、さながら母親のような。
「弟妹が孵ったの見届けたら、こっちに合流する予定。あの人にどうしても弟たちを見せたいんだってさ。多分、もう少し後になるね。…ま、いいんじゃない? あの時に間に合えば。……もうすぐ、なんだし」
僅かに俯いたシンクの仮面から唯一覗える唇が、自嘲のそれへとかたちどる。それを受けたリグレットも束の間、同じような微笑を返した。
「…そうね。――伝令! 第一師団、撤退する!」
瞬時に甘い感情を捨て去ったリグレットは、背後に向き直り周囲に控える兵士たちへと号令をかけると、踵を返す兵たちの後を、軍人らしい足の運びで、颯爽と立ち去っていく。その背後に続こうとしていたシンクが、ちらりとこちらに視線を寄越した気がして思わずルークの肩が跳ねる。
しかし、シンクは何事もなかったように視線を前に戻し、ゆっくりと、だが硬いブーツの音を響かせながら立ち去った。
神託の盾の兵士の撤退が速やかに行われたあと、街中の緊張も次第に目に見えるように解け、大分落ち着いた雰囲気が広がる。そんな中、ジェイドが、あの胡散臭い笑みで言った。
「これはこれは。時間に余裕が出ましたね。烈風のシンクに感謝しましょう」
ケセドニアへまっすぐ向かおうと、カイツールの方へ遠回りしようと、六神将が待ち伏せていることに変わりないのが判ったが、ルークには余裕があるようには思えない。フリングスたちがどちらのルートでケセドニアに向かっているかは判らないが、この場合、人数というハンデも含めて最短距離で向かっているに違いないだろう。出来るだけすぐに合流するべきではないか。
そう考えたルークは視線だけで問いかけ理解できないままに、にこやかに微笑むジェイドを見返す。
「もちろん、彼は私たちがこの街にいることは知っていました。だからこそ、最短の距離でケセドニアに向かう道を確保してくれた訳です。ですがきっと恐らく、私たちのためというよりは、イオン様のお体のためでしょう」
ルークははっとして言葉に詰まる。
そうだ、急がせるには向かないイオンがいた。シンクはルークとは違う部分を見て、同じ答えを出した。それは兄弟だからこそなのかも知れなかったが、こういう部分にルークは自分の至らなさを感じてしまう。
そして参謀のシンクが出したこの答えはイオンだけじゃなく、他の部分が関係していることにも気付く。――ヴァン、だ。
これが、リグレットと回復したラルゴをケセドニア方面に配置されていればどうなったか。当然戦いは避けられないだろう。桁違いの実力を持つ六神将を二人も相手に、唯一対抗出来るはずのジェイドは、アンチフォンスロットで実力の五分の一程度しか出せない状態。立ち向かえるはずがない。その場合はカイツール経由で遠回りすることになる上に、面倒なことにヴァンに会うことになる。
シンクにとってヴァンは、『あの人』繋がりでジェイドと関わっていることを、一番知られてはならない相手だ。迂闊に二人を会わせたくはないだろう。そしてルークにとってはその方が助かる。
ヴァンに会うのはいろいろな要素を含んで、精神的苦痛を伴う。訓練中のように他のことに集中できる場合ならともかく、出来れば会いたくない。ルーク自身認めたくはないが、こういうものをトラウマというのだろう、と思う。
誘拐前に慕っていた気持ちを裏切られたと感じたことと、さらには拠り所としていたキムラスカや父親への疑念を与えられ、誘拐時抜かれたレプリカ情報での苦痛、限界を迎えていた体とこころ。壊れたり、狂わなかったのはひとえに、短い期間で自分を救出に来た、『彼』のおかげだ。脱出後、あの商隊でゆったりと過ごした日々の中で、確かに癒されていた。あれが『彼』でなければ商隊に助けられることも、あの陽気な人たちと知り合い触れ合うこともなかった。
「シンクだけでは確率は半々ですが、あの人、が居るのなら大丈夫。妨害なく少将たちも私たちもケセドニアに無事到着し、キムラスカへと出立出来るでしょう」
カンタビレのことか、と考えて、ルークはティアが口にした内容を頭の中で思い返すが、その途中でいきなり咽る。突然のことに隣に立っていたティアが驚いた。
「どうしたの?ルーク。 大丈夫?」
「い、いやなんでもない……大丈夫、だ」
カンタビレ。気性の強い女傑だという、が。
ジェイドはたしか、――あの子、とか言ってなかっただろうか。それに、なんというか。親しみを通常以上に感じているようだった、というか。実際ルークは惚気を聞かされているような気分になったこともあるくらいだったのだから。
…………ジェイドは気が強いのが好みだったのか。 あまり知らなくてもよかったような気がするのは何故だろう。
ルークが遠い視線をジェイドに向けた先では、ガイが問い掛けている。
「ディストってヤツはどうなんだ? 問題ないのか?」
「ああ、気にしなくて良いですよ。空気みたいなもの、いえ、そう、海の藻屑みたいなものですから」
それは、なくてもあっても気にならないという方の意味で言ってるのか。それとも……いや、深く考えてはいけない。
たった今、深く考えて後悔したところではないか。
* * *
結局、その日はイオンの体調を優先して、セントビナーで一泊することになった。
タルタロス強奪の際、イオンだけどこかのセフィロトへと連れ出されたらしいが、いったいなにをすればここまで衰弱するのか。元々体が弱いらしいが、それにしてもこれは旅など続けるべきではない、とルークは思う。きっと、和平の為にと無理をしている部分もあるに違いない。和平協定が結ばれたらすぐにでも、ダアトに帰って休養した方が良い。
ティアと通常では有り得ない出会い方をしてこの旅は始まったが、今はティアが居て助かることが多い、と痛感する。このメンバーで唯一、癒しの譜術や譜歌が使えることで、多少無理をさせているかも知れないが。
――譜歌。
その単語に、ちら、と隣のベッドで剣の点検をしている男の気配をそれとなく、覗う。
もうそろそろ、ガイには伝えるべきだろう。
ユリアの譜歌で深い眠りに落ちたイオンの邪魔にならないよう、ルークは剣の手入れを終えたガイを外へと促した。
陽が落ちてしばらく経った、その名残もない薄闇を歩く。石畳に落ちるのは、月の明かりと民家から零れた灯りで作られる影。濃い木々の心地よいざわめきと、薬草や花の匂いに満ちた涼感を含む風が街中を通っていく、その先に月を背負うようにそびえ立つソイルの木があった。
「どうしたんだ、ルーク坊ちゃま。 こんな時間に俺と二人きりだなんて、決闘でもしたくなったのか?」
「ガイ、」
無言で人の気配からも店や人家からも遠い場所へと移動するルークの背中に、ガイがふざけた声を掛ける、それにここでいいか、と判断したルークは歩みを止め、振り返り視線に力を込めると硬い声音で名前を呼ぶ。
ルークの声が真剣なことに気づいたガイは、ふざけるのを止め、姿勢も僅かに正し同じ様に見返して来るのに、視線を逸らさずルークは告げた。
「アイツに、逢った」
ガイが驚きに目を瞠る。ひゅ、と息を呑んだ音がした気がした。ガイは一気に距離を詰めてルークの左肩を痛いくらいに掴むと、あくまでも表面上は静かに、けれど確かに感情を押さえ込んでいる表情と声で、問う。
冗談なら許さないという、目。
「どこでだ?」
「タルタロスで」
こちらとて詰まらない冗談など言うつもりはないから、問いには淡々と返す。ルークの言葉が真実か見定めようとするその視線も、無意識にか込められる手の力も、強い。
「……どんな、感じだった?」
ガイはどこか恐る恐る、とでもいうような、まるで壊れ物を扱うかのようにそっと、小さな声で訊いて来た。ガイにとって『彼』との思い出は、それこそ乱暴に触れればすぐにも危うく壊れるような、儚いものなのかも知れない。ルークもまた、『彼』の声を聞くまでは思い出はどこか、物語の一部分のようにすら思えてしまう程の時間が経っていた。
「変わってなかった」
「変わってなかった?」
ルークの返事が予想していなかったものだったからか、肩を掴んでいた手の力が緩まる。オウム返しに言葉を継ぐガイに、ルークはこくりと頷いて、さらに告げる。
「俺に銃口を突きつける相手に、剣を向けたくないからやめてくれ、と言っていた」
今度こそ、ガイの手から完全に力が抜け、するりとルークの肩から落ちたそれは、ガイの口からこぼれる笑い声を抑えるのに使われた。
「っくく、ははは…! 変わらないな…あの人は! そうか、七年間も変わらないでいられたんだな……」
変わらないで、いられるんだな。
ガイは口元から額へと顔を隠すように手を動かしてぽつりとつぶやくと、一度髪をぐしゃりと掴んだその手を離し、さらにルークへと詰め寄った。まるで音機関の話をしている時のようだ、とルークはこそりと思う。
「そうだ、外見は? どうだった、変わってたか?」
「そうだな、髪は短くなって染めていた。身長はそう変わってないだろう。顔は見られなかったが、声はアイツだった」
説明するために思い浮かべるその姿に、最近、ルークの頭に何度も再生される、ある言葉があった。誘拐された時脱出した後出会った、商隊の御者の言葉。
『なんでぇお前、ちっともでかくならねぇな』
あの時ルークは自分のことで精一杯で、不思議にも思わなかったが、あれはとてつもなく変な話なのだ。
今のルークもそうだが、この年齢、この時期は男女問わず成長期だ。幾ら運動をしない人間でも、気が付けば身長が10cm以上伸びていることだって珍しくない。夜中に骨が伸びて軋む音を体内で聞くくらいだ。ましてや生きているのだから一、二年会わなければそれなりに、どこか変化しているはずだろうに。
きっと『彼』は本当に、そのままだった。明確にしてしまうなら彼は、――成長、しなかった。 おかしなことに。
……『彼』が、本当に。
年齢だとかその辺りのおかしなところをひとまず考えないことにして、『彼』が言っていたように、ルークから生まれたものだから、成長しなかったのだろうか。いや、しかし今まで読んだ本(主にジェイドの著書だったが)にはオリジナルと同じように成長する、とある。
それとも『彼』はまた、別の…――?
右手が無意識に上着の上から胸の辺りへと伸び、そこにあるものを確認しているルークの言葉をどこか急くかのように頷きながら聞いていたガイが、首を傾げる。
「どうして顔を見られなかったんだ?」
「……見る暇もなく、リグレットに殴られて気を失った」
隠したって仕方がないので大人しく白状すれば、ガイがにやにやと人の悪い笑みを向けて来る、それに腕を組み睨み返す。
「格好悪いぜ、ルーク坊ちゃん」
「死ぬほどな」
自分で自分が恥ずかしい。特に、『彼』の前での失態と思えばなおさら。腹立ち紛れにガイのふくらはぎへと蹴りを入れるが、ファブレ家ご子息のご無体を金髪の貴公子はひょいと華麗に交わす。
「へぇ……顔を見なくても判ったわけか」
「声を聞けばお前だって判るだろうさ。それに、腰に佩いていた剣が真横、しかも左側を向いているとするなら――」
「ああ、そうだな。判るだろうな」
逆に間違えようもないだろう。暗にそういうガイの言葉を聞いた時。
「――おや、カンタビレに会ったのですか」
やはりというか、暗闇から低い声がしてこつり、と軍靴が音を立てた。
唐突に現れたといってもいいような、突然の間近な気配にガイが反応し、剣へと手を遣り身構えるが、ジェイドはそれも予想していたのだろう、剣の間合い外でぴたりと足を止める。
「困りますねえ、こんな時間に外出されては。幾らこのセントビナーが安全とは言っても、あなたに万が一のことがあれば、戦争になってしまう」
暗闇でもまだ青いその軍服の肩から、さらりと音が立つようなしなやかさで蜂蜜色の髪が落ちた。眼鏡のフレームと同じように、ささやかな光を拾って光を弾く。赤い瞳は微笑みに僅かに細くしなっていたが、こころの中までは相変わらず、覗えない彩をしている。まだ護衛なのだか監視なのだか観察なのだかは、続いているらしかった。
律儀なことで、と思ってしまうが彼は軍人、これは仕事なのだから仕方がない。ルークはひとつ、浅いため息を吐いて言葉を返す。
「それは悪かった。 だが、違う。俺はカンタビレの話をしていたわけじゃない」
「そうですか? ですが、特徴が彼と合致する気がしたので…」
別に隠れて出て行ったわけでもないし、追うことはかなり簡単だったろうとは思う。それに半ば予想もしていたが、いったい、いつから聞いていたのだろうか。
どうやら、気配を殺すというのは、アンチフォンスロットの影響を受けないものらしい。
「彼? ティアに聞いたけど、カンタビレって女性なんだろう?」
ガイの疑問にジェイドは表情を変えおや、と呟いたが、首を振って答えた。
「いいえ。 今のカンタビレは違います」
「……今の?」
今の、とはどういうことだ。
ルークが意味が掴めずにいると、ジェイドは眼鏡のフレームを押さえながら、響く声ではっきりと告げる。
「私の言うカンタビレは、少年――貴方とそう、変わらない少年のことですよ、ルーク様」
少年?
それではティアの話と食い違ってしまう。第一、ティアの方は士官訓練の時の教官だという。噂で聞いたとか、遠目に見た、というわけではないから、間違えようがない。そうなると、おかしいのはジェイドの方だ。
「…いや、待て、変だろう、それは」
ルークがそう、言えば、ジェイドも可笑しそうに微笑む。――楽しそうに見えるのに、何故か。 目は笑っていない。
では。彼は本気で言っている。ふざけてなどいないのだ。
そうして、ジェイドはさらに言葉を続ける。
「そうでしょうね。更におかしなことを言うようですが――」
ただ微笑むのとはまた違う感じで、下弦の月のようにジェイドの唇がゆるく、撓って。
「約七年前、十歳の彼を一年ほど引き取り、育てたのは私だと言ったら、どうします?」
まるで悪魔の取引のような、そんな響きの音だった。