ジェイドの言葉が理解出来ずに、ルークはその真意を探るような視線だけをじっと向ける。言葉などすぐには出てこなかった。

――何を言っている。お前が言うカンタビレと、俺たちの言う人間が、同じ存在を指しているとは限らないだろう」

「ああ、それに『彼』は俺より年上だった。間違いない」

短い沈黙の後、ルークがそう言えば、ガイも頷いて同意する。

さっきから、ジェイドは何が言いたいのだろう。カンタビレと『彼』が同一人物、というのは少々強引で、荒唐無稽な気がするし、年齢の話が本当だとするなら、ルークやガイの記憶がまず間違っている、ということになる。

それこそが有り得ないだろう。ナタリアに確認したって構わない。記憶違いなどではもちろん、ない。

だいたい、そうならばティアの言う女傑はいったいなんなのだ。

六年間ダアトに居る『彼』がカンタビレ、だというのなら、では、ティアが訓練を受けた教官は一体誰だと言うつもりなのか。

だが、ジェイドは表情を少しも変えることなく、落ち着いた様子で口を開く。

「『彼』は以前白光騎士団員として、貴方のお屋敷にやって来ました。それが貴方の護衛兼世話係になった。きっかけは、ユリアの譜歌です」

――!」

両手を背中側で組んで、背筋はきちんと伸ばしたままジェイドがルークたちの方へと歩き出す。こつりこつりと軍靴が石畳に規則正しく音を立てた。

「ルーク様、貴方が十歳になるお祝いの日にナタリア殿下にプレゼントしたイヤリングは、ベルケンドの海岸で『彼』と拾った貝殻を使ったそうですね」

こつり。

一度止まったそれは、そのまま進みルークたちと並び、そして。

「ガイ、貴方は音機関がそれはもう、大変お好きだそうで。貴方の夢は創世暦時代にあった譜業を再現して、空を飛ぶこと。――違いますか?」

追い越したジェイドが、淡くほのかな月の光を受けて微笑み、ゆっくりと振り返る。

「全て、今のカンタビレから聞いた話です。まだありますけれど聞きます?」

この闇の中、年齢を裏切った秀麗な顔の、肌の色が恐ろしいほど白い。そしてその所為か赤い瞳がやけに強調されて見える。物語の中の一場面のようにさえ見えるその姿に、ルークは僅かに頭痛を覚え額を抑えた。

――悪魔の取引という自分の発想も、あながち間違いでもないらしい。

「……いや」

「もう、いい」

思わず漏らしたため息は二重。ふと視線を向ければガイも同じように頭に手を遣っていた。お互い、『彼』と二人だけの思い出を他人の口から聞かされる、居心地の悪さと来たら、ない。多少意地が悪いというか、これでこそジェイドなのか。

ここは折れて、認めるしかないのだろう。

ジェイドは、確かに『彼』を知っている。それはすなわち、『彼』は今のカンタビレ、ということなのだ。

「じゃあ、旦那。女性のカンタビレ、はなんなんだ? ティアの教官だった、っていう、」

気持ちを切り替える為か、つとめて明るい声で問い掛けるガイに、ジェイドはそうですねえ、と視線を月の方へと向ける。

「もし、貴方にとってけして失敗は出来ない、命を懸けた大切な計画があったとして、それを嗅ぎまわったあげく一番知られたくない人物へ口外するような、楯突く存在が部下にいたとしたら、貴方ならどうします?」

「どう、って…まあ、クビにするんじゃないか、普通」

俺にはよく判らないけどな。

そう言って苦笑するガイを見ながら、ルークも考える。

楯突く辺りでもう、組織の中には居られない。組織はどうしたって上下関係が保たれなければならない場所だ。特に軍であれば、そうやって統率されている。統率を乱すような人間は、必要ない。相応しくない、という意味で。

ジェイドは教師のような顔で一度頷くと、さらに話を続けた。

「たんに免職するだけではあまりにも知りすぎる危険な人物で、けれど簡単に始末してしまうには、色々と不都合が立つ存在だったとしたら。――貴方なら、どうしますか」

それでは、迂闊に手を出すことも、いや、何も出来ない。何もしない方がいいだろう。それが判っていても、放っておくことの難しさ、もどかしさがある。

そこで、ルークが気付くと同時に、考え込んでいたガイもはっ、と顔を上げた。

――まさか…」

「…それは『左遷すればいい』っていうレベルの話じゃないな、旦那?」

「目を離すと何をするか判らないものを、貴方は左遷することで安心出来ますか?」

どうしてもやり遂げたい計画があるなら、誰もが確実性を優先するだろう。

あのヴァンの性格なら、なおさら。

ガイは重いため息を吐いて首を弱々しく振ると、低く落とした声で結論を告げた。

「今のカンタビレは、本来のカンタビレの、偽者――替え玉、なんだな」

「そういうことです。また、彼女は眼帯をしていた。彼女になりすます為に仮面を付けることになっても、ダアトを離れている間運悪く第七音素譜術士の居ないところで目の傷が悪化した、とでも言えば不自然なく通った。実際、彼女が向かうことになっていた地域は、良い環境ではありませんしね。魔物が他に比べて格段に強いこともありますが、凍傷で手足を切断することになることも少なくない。
そんな噂が広まれば広まるほど、彼女が気が強く腕も立つ男勝りな気性だろうと女性であったからこそ、わざわざ敢えて顔の傷、仮面の話題に触れる存在はほぼいないでしょう」

彼女に敵対する人間であれば傷つけようと口にするかも知れないが、他でもない、敵対している人間が用意した替え玉だ。そんなことはしないだろう。

カンタビレ、という名の六神将がそこに居る、ということが周囲に示されればそれでいい。いつかばれたとしても、その時はきっとヴァンの野望が動き出した頃で、時期的にはとっくに手遅れなのだろう。

そうして敵対するフリをして、この一年を過ごして来ているのだ。準備を着々と進めながら。

「…ティアには、言えないな。教官だって、慕ってるみたいだったから」

「全く、ヴァン総長も己の野望の為に、惨いことをします」

眼鏡のブリッジを押さえ眉を顰めるジェイドの言葉に、ガイが苦い笑みで答える。

「そんなヤツじゃあ、なかったはずなんだけどな……」

そうして石畳へ伸びる自分の影の先へと、ガイは視線を落とした。青白い月の光を浴びて金髪が銀色に思えるのを、目を細めてルークは見詰める。

替え玉、という響きで、忌々しい記憶が甦る。そうして自分の代わりとしてファブレ家に戻される予定だった、己のレプリカのことを思い出す。

姿は見ていないが、存在だけを知っている。あれだけコーラル城で第七音素がざわめいていたのだから、嫌でも気付く。ここにいる、とオリジナルである自分に強く、強く伝えて、訴えて来ていた。そのレプリカは今、どこに居るのか。ルークが『彼』に助けられ、コーラル城を脱出した後どうなったかは知らないが、ヴァンが手放すはずがない。

それなのにこれだけ六神将が出揃っても、気配の一つもないとは。ヴァンが常に傍に置いているか、それとも、…監禁されているか。

生きているならきっと、鏡のように同じ成長を遂げているはずだ。

それを目にした時、何を思うだろうか。なにか、感じるものがあるだろうか。

オリジナルとレプリカという関係は、繋がりは、何かをもたらすのだろうか。

「貴方には少し、古傷を抉る話になってしまいましたね、ルーク様」

ジェイドの声に足元へと落ちていた視線を上げれば、不思議そうな眼差しを向けるガイと目が合う。ガイはルークにレプリカが居ることは知らないのだから、ジェイドの言葉の意味が判らないのだろう。

ルークは淡く口の端を上げ、自嘲するように笑う。全く、頭の中をいとも簡単に覗かれるのは困る。実際は覗いている訳じゃなく、推測し読んでいるのだろうけれど。

「いい趣味だな、大佐」

「すみません」

組んでいた腕を解き両手の平を見せて悪びれなく謝るジェイドに、こちらも本気で責めるつもりもない。ルークはもう、ジェイドがルーク自身すら知らないようなことを、ルーク以上に詳しく知っていても、おかしくはないと思い始めていた。

――もう随分長いこと、観察されている。

きっとそれは、ケセドニアに着くまで続くだろう。ジェイドにとって、ルークは未だ被検体なのだ。ジェイドはフォミクリーに関するなにかを研究している、そのために密かに情報をルークから得ているのだと、最近思い至った。

「研究は進んだか、バルフォア博士」

観察だけで何が判るんだかルークには全く見当も付かないが、もしかしたらルークの気付かないところでなにか、されているのかも知れない。一体いつ計ったのかは知らないが、ルークがローレライと同じ振動数だということも知っていた男だ。

「いいえ、未だ暗中模索、というところですよ」

ルークからの問いに珍しく驚いたのか、目を瞠ったジェイドはぱちりと瞬きをした後、ふ、と息を吐くのと同じような曖昧さで微笑んだ。

「貴方は、『彼』が七年前に十歳だったことに対しての正解に辿り着けませんか、まだ?」

「正解、」

問い掛けに、眉間に皺を寄せる。

正解など、あるはずがない。

ルークの髪を梳くのが好きだった。不器用で不慣れな、けれど器用に林檎を剥きルークが食べたいと言うものを作り、我が侭を叶え、そうして眉間の皺をぐりぐりと無遠慮に伸ばしていた手が、あの頃のルークと同じ、十歳のはずがない。

ルークの見栄や虚勢が、意地が素直に伝えるどころか必死に押し隠そうとした、情けないと無様だと思い必死に取り繕って来た、泣きたい、つらい、さみしい、くるしい――そういう感情を見つけ、その腕で抱きしめ譜歌を歌いただ優しさだけを与え癒した、彼が。

自分の体が消えそうになっているというのに、それよりもルークを優先し、別れるその最後の瞬間まで抱きしめてくれた、ルークを温かく包み込んでいたあの腕は、ルークと同じ子供なんかではなかった。そうであるはずがない。考えるまでもなかった。

驚きもなく、ただ強い戸惑いと、そして不可解な言葉を聞かされた、そんな意識だけでルークは口を開く。

「……アイツは子供じゃなかった」

「それは、外見の話でしょう? ルーク様」

「…っ、」

切り返された言葉に、動揺する。腕が揺れるのを拳を握って抑えた。

ジェイドは気付いている。ルークが怪しんでいることに、気付いている。

『彼』に対し疑いのようなものを持つ、そのことに酷い罪悪感を覚えるというのに。生きててくれればそれでいいと、それだけを願って自分を助け、守ってくれた相手を怪しむなど、したくない。『彼』と同じようにただ、信じていたいだけだ。

右手が拠り所を探るように上着を辿り、胸元のそこに在るものを求める。

――だから、容易く人のこころまで読むな! 少しは遠慮しろ!

ちらりと睨みをきかせた視線でジェイドを見上げれば、腕を組んで見返してくる。

「貴方はもうそろそろ、正解に辿り着いてもいい頃なんですけどね。たった一つのことに気付けば。それとも無意識、いや罪悪感でしょうか。敢えて目を逸らし、別々に分けて考えてしまっている」

「……言うな」

ぎり、と噛み締めた奥歯が音を立てる。やめろ、促すな。

考えて、しまう。答えに辿り着いてしまう。こころのなかでルークはこの野郎、と舌打ちした。

出会ったばかりの始めの頃はあんなに、ルークが訊こうとする素振りを見せるどころかその前に、徹底的に避けたというのに。巻き込んでからはこうやって、踏み込んで来て欲しくないところも許さず暴いていく。

「片付けの基本ですよ。同じカテゴリーのモノは同じ引き出しへ。そこに全く同じモノが二つ、入っていたとしたら。そしてその二つともが少しばかり壊れていて、分解して部品を交換し合えば、問題ない完全な一つが出来上がる、としたら?」

「ちょっと待ってくれ。二人とも、何の話をしてるんだ?」

ガイの戸惑った様子に、ジェイドは言葉を重ねるのをやめた。そして表情を隠すようにも見える仕草で眼鏡のブリッジを押さえると、やれやれ、とため息を吐く。

「ルーク様、逃げたところで貴方は遅かれ早かれ、辿り着く。目を逸らすのは無駄なことです」

足掻かずにまっすぐとらえてご覧なさい、と告げるジェイドから顔を逸らす。ルークのその仕草に、仕方ありませんねえ、と低い声が言う。

「確かに私はこの世界で数多の謎の紐を解き、そして握っている。ルーク様が知りたいことを知っています。今世界で何が起こり、ダアトとキムラスカが何を考え、ヴァン総長が起こした数々の行動の意味を知っています。そして誰が何をするべきかも」

僅かに視線を落とすジェイドの言葉に、ガイが驚いて小さな声を上げる。それに構わずに続けていく。

「けれどその謎の答えは自力で解いたのではなく全て、貴方やガイが慕う『彼』、そしてイオン様やシンク、アリエッタが慕う『あの人』、そして私の言う『あの子』――今のカンタビレ、が教えてくれたことです」

そうして顔を上げたジェイドは、ルークをまっすぐに見据えた。

「何故、お前に…?」

――私が」

月の光の下、手袋に包まれた手を緩く開いてなにかを追うように見詰める。それはとうに過ぎ去った記憶か、とルークは無言でその、ジェイドの横顔をじっと目をこらして見た。

「私が過去、何も考えずにただ、己の好奇心や欲求その他のものを満たす為だけにしたことが、全ての始まりだからです」

全ての始まり。

「それは――、」

ルークは無意識に言葉を零す。けれど何を言おうとしたかも自分で判らない、そんな呟きだった。

元凶は、この目の前にいる稀代の天才だとでも、言うのか。そうかもしれない。少なくとも、ルークにとってジェイドの存在は全ての始まりだ。彼がフォミクリーというものを、この世に出しさえしなければ。

「このオールドラントのどこかで蝶が羽ばたきを一つすると、それが回り巡って反対側で竜巻が起こる。――そんな理論を知りませんか。未来は過去に逆らえない。だから私は責任を取らなくてはならないんです。未来をこういう風に変えてしまった、たった一度の羽ばたきの責任をね。――貴方にも」

殺したい程、憎まれて当然だと思っています。

ジェイドの呟きが耳に届いたと脳が認識する前に、びくりと体があからさまに揺れた。

「ルーク…?」

訝しんだガイが声を掛けてくるのに、振り返れない。

憎いだろうか。ジェイドを憎い、と思っているだろうか。

ただ、酷く動揺したことは確かだ。握り締めたてのひらがじっとりと嫌な感じに汗ばむ。

憎んでは、たぶん、いないだろう。

思うところはある。はっきりとした言葉にはならないものが胸にはあるが、そう、殺したいほど憎んではいない。

フォミクリーというものが、何を思ってこの世に発生したものか、知らないからか。知らないから生まれていないだけの感情で、全てを知っているジェイドだからこそ、殺したいほど憎む、と言うのだろうか。いずれ、憎む時が来るのだろうか。

ルークには判らなかった。それに、憎む、という言葉に一番近いのはきっと、ヴァンの方だ。

慕っていた。尊敬していた。父のように思っていた。その気持ちを裏切り、踏みにじったのはヴァンだ。――それでも。

それでもおかしなことに、こころのどこかでは憎んでは、いない。

憎んではいない。畏れては、いるだろう。幼い頃に植え付けられた名残だ。だが。

ああ、これは。これも、『彼』の影響なのか。誰も殺したくないという、『彼』の理想がルークにこんな気持ちを、もたらすのか。

誰も憎まずにいられるなど、有り得るはずがない。だというのにどうしてだ。

「…蝶が羽ばたくのは息をするように当たり前のことであって、それにまつわる責任などありはしないだろう。それにもし本当に蝶の羽ばたきが竜巻を起こしたとしても、起こった竜巻の回避方法を知っておきながら、それでも口を閉ざすことこそが、責任逃れだ」

ルークは憎い、とも憎む、とも言わなかった。憎んではいないが、けれど言わなかった。ジェイドは憎んで欲しい訳ではないはずだ。かといって、憎まないはずがないと、だから当然の権利として口にしただけで。憎んでくれた方がいっそ、解り易いとは思っているかも知れないが。

ジェイドはどちらも望みはしない。ただ、受け止める。勝手に行使される憎まれる権利と憎む権利。――どうにもうんざりした。どうしてルークの周囲は、そういう話ばかりになってしまうのだろう。ガイに憎まれる権利。ジェイドを憎む権利。ヴァンを憎む権利。いつまで経っても終わらないループ。

ああ、そうだな、とルークは『彼』の理想を思い出して共感する。

『全部が終わった後に、みんなが笑って『よかった』って言えるのが一番いい』

――お前が俺に憎しみを与えないのなら、俺が連鎖を断ち切る剣となろう)

まっすぐにジェイドを見詰めて告げた言葉に、ジェイドは夜だというのに眩しそうに目を細めた。それは何かを思い出し懐かしむのにも似ている。

「……ええ、そうです。そのうち、貴方がたには言う時が来る。いや、言わなくてはならない。ですが、今はまだ――貴方が、『彼』がどういう存在かを知ってから、告げなくてはならないと思っています。それには、『彼』自身から聞くのが一番でしょう?」

「それしか信じようがないだろう」

「そう、他の誰かが言葉を尽くしても意味がない。だから貴方たち二人は出会わなくてはならない」

当たり前のことだと返すルークの態度に、ジェイドは安心したように頷き返した。そうしてもう一度、繰り返す。

「『彼』に会って下さい、ルーク様。そうしてやっと未来は、」

そこでジェイドは言葉を句切る。なんだろう。 未来は、ある。決まる。変わる。――それとも?

首を傾げ見上げるが、ジェイドはいいえ、もういい加減帰りましょう、と二人に宿に戻るよう、促した。

気になりながら歩くルークが、促しておきながら一向に追いつかない彼を振り返った先で、ジェイドは月を見上げながら、ぽつりと呟いた。

――紡がれる」