ジェイドが告げた通り、ケセドニアまでの道中は追われている、という状況にしてみれば嘘のように上手くいった。

手間取るのは途中現れる魔物程度で、それとてそこまでレベルは高くない。首都であるグランコクマの方は判らないが、総じてマルクトは安全な大陸なのかも知れない、とルークは剣を軽く振って血飛沫を払いながら考える。

それ以外は神託の盾の兵士の姿も見えなかった。

ジェイドの依頼によりセントビナーからケセドニア方面に囮の馬車が幾つか出たらしいが、それだけでなく、烈風のシンクも徹底してこの道中の露払いを行ったようだ。

「…二人も順調に進んでいるようです。マルクトの領事館で会えるでしょう」

道中、ふらりと一時的に姿を消したジェイドが合流して言う。恐らく軍が連絡に使う、特有のサインをどこかで見つけて確認したのだろう。

ローテルロー橋を越え、タタル渓谷を過ぎそして空気の匂いが変わり乾燥して来たのを感じて、ルークはふと歩みを止め、視界の先に広がる海原と森を、僅かに目を細めながら見渡す。遠く旋回し鳴くのは鳥か魔物か。

眩い陽光で輝く空はどこまでも青く、雲とその向こうに伸びる音符帯や譜石が光を反射する、その色合いがうつくしい。

――あの日のように。

「どうしました、ルーク?」

大分体調を取り戻したイオンがそっと声を掛けてくるのに、いいや、と首をゆるく振る。

「大したことじゃない。ただ少し、懐かしかっただけだ」

「懐かしい?」

あどけない表情で瞬きし、小首を傾げるイオンの様子に、きっと自分もこんな風に『彼』に見えていたんじゃないかと思うと可笑しくなり、ふ、と自然に笑む。

「七年前、ここを通った時もこんな風景だった。それを思い出した」

「そうなんですか? ルークはずっとバチカルで過ごしていると聞いていましたが…」

イオンの不思議そうな言葉を聞いたティアも、同じような表情でルークを見ている。普通ならキムラスカの王族がマルクトに来ることなど、正式訪問以外で有り得ないだろう。そういう情報は大陸全体に広がる。そして正式訪問は十数年前の戦争以来、一度たりとも行われたことはない。

二人の向こう、しんがりを務めていたガイが、僅かに苦い笑みをしていた。

ルークはその三人の視線を受けながら、それでも何も答えず、ただ髪を穏やかに通る風に流して風景に見入る。

あの時、ルークは自分自身にとって人生が変わる最大の分岐点、その真っ直中で、今まで信じ自分の基盤、拠り所としていた国も父親もヴァンも、何も信じられなくなった絶望感で一杯だった。それでも頭だけは必死に(無闇に)動かして、けれど結局堂々巡りになり、苛ついて苦しみだけが募る、毎日ばかり。

そんな中で、このマルクトの領地は嫌になるほど、のどかだったのだ。

そしてあの商隊の人間たちは基本的に陽気で、数人が集まれば歌い、踊り、騒いで戸惑うルークすらも関係なく家族にしてしまった。

子供でも出来るようなことを色々手伝ったり、教本だけではなく直に貿易そのものを目にして目まぐるしく過ごす内に、気が付けばルークは考えることを止めていた。解決は全くしてなかったが、一時的には解放されて、思考を休息することで冷静になる時間を知らず、与えられていた。

『彼』は、最初の晩に商隊から買った染色剤でルークの髪を紅茶色に染めたけれど、恐らくそんなことをしなくても彼らは気にしなかっただろうとは、思う。必要以上に干渉しないのだと、そう言う人たちが集まっているのだと、『彼』はそう教えてくれた。

最初、思いつきで『彼』と共に旅をしたい、と口にしたものの、その気持ちは徐々に確りとしたかたちで育っていき。

あの、別れの前。最後の日には密かに決意を胸にしていたのに、結局口にすることも出来ずに別れてもう、七年が経つ。

『色んなことを片付けて、お前の中の大きなわだかまりが小さくなったら、その時は一緒に旅をしよう。連れて行きたいところがたくさんあるんだ』

――どこへでも、行こう。

『彼』とならば、どこまでも。

* * *

「ルーク殿、イオン様…! ああ、よかった、皆さんよくご無事で!」

マルクト領事館で顔を合わせたフリングスが、座っていたソファから立ち上がると大げさでない歓喜の声を上げ、破顔して近寄ってくる。

フリングスはマルクト皇帝からの親書を携えていたらしい。狙われる確率は段違いに高かっただろうに、たった二人という人数で良く乗り切ったものだ。さすが少将という職に就き、名代として任されるだけはある。

「それはこちらの台詞だ。勝手に場を乱してすまなかった。フリングス少将こそ、大変な目にあったと聞いたが…良く無事で」

ルークがそう気遣えば、フリングスはけして建て前ではない微笑みを返す。

「いえ、さすがに死を覚悟しましたが、アニスさんの活躍で何とかこの通り、無事に皆さんに見えることが出来ています」

……やはりアニスか。

ちらりとジェイドとイオンへ視線を向ければ、にこにこと意味深な笑顔が返された。

「ルーク殿がご無事なのは、やはりティアさんのお陰でしょうか。イオン様の聡明なご采配に感謝致します」

タルタロスではルークの護衛を任されていたフリングスがそう言うと、イオンはいいえと柔らかく笑んだまま首を振り、あの、と言葉を続ける。

「それで、アニスはどこに居るのでしょう?」

それを聞いたフリングスがああ、と微笑んで頷いた。

「ですからぁー、もう少ーしまけて欲しいなぁー、なんて」

情報交換の後、手続きをしているフリングスを残し、ルークたちがマルクト領事館から出て進み角を曲がったところの露店で、聞き覚えのある声がするのに視線を向ければ。

アニスちゃんのお・ね・が・い・!

体も使ってそう強請るアニスの甲斐なく、店主は首を振ってそこで交渉は決裂したらしい。がっくりと肩を落とした彼女はため息を吐いて踵を返すけれど、けれど小さく、地を這うような低い声で呟いた。

「…地元民じゃないと思ってぼってんじゃねーぞ?」

13歳の少女が出す声じゃない。

ジェイドとイオンの言う『アニスですから』というのが少しだけ、解った気がする。

ルークとガイとティアが目撃したその光景に固まっているその傍で、ジェイドとイオンが朗らかに笑う。

「あっはっは、相変わらずですねえー」

「ええ本当に…アニス!」

イオンが声を掛ける。その声にぴくりと反応したアニスがイオンを雑踏の中から見つけると、跳び上がらんばかりの様子で、全身で喜びを表した。こうしている時は溌剌とした少女だというのに。

「イオン様ー!大佐! あ、皆さんお揃いなんですね! 無事で良かったあ」

「アニスこそ、無事で本当に良かったです」

「私は死ぬかと思いましたよー! もう、ディストのヤツ、今度会ったらただじゃすまさないんだから!」

私のトクナガになんちゅーことを、とぶつぶつ続けるアニスをまあまあ、とイオンが穏やかに宥める。そして落ち着いたアニスは、イオンの様子をこと細かにチェックした後、よし、と一つ頷いた。

「ちょっとお疲れみたいですけど、大丈夫みたいで安心しましたよー」

心配だったんですから!と言うアニスにイオンは僕もとても心配しましたよ、と苦笑を返す。

……してただろうか、心配など。そうルークはひそかにこころで思ったが、口にはしなかった。下手に主従関係にひびを入れるのは良くない。

ジェイドがアニスの抱えた袋に視線を向けて、問う。

「それで、何を買ってたんですか、アニス?」

「イオン様が慣れない長旅できっとお疲れだろうから、色々お薬を買ったんです。セントビナーじゃ手紙を書くだけで精一杯で、買い物も必要最低限ですぐ出発しちゃったんで……でももう終わりましたし、マルクトの領事館に戻りましょうか」

そうしてマルクトの領事館へと向かおうとするアニスにイオンが待って下さい、と声を掛けて止める。

「せっかくですから、僕はアスターに挨拶していこうと思うのですが…」

そう言い、そっと高い塀に囲まれたその向こうに見える豪邸へと視線を向ける。

よくよく見れば街の中央、しかも国境を跨いで建っているようだ。確か、アスターという人物はこの街一番の富豪で、ケセドニアを自治区にした功労者であり、代表者だと聞いている。従姉妹のナタリアは税金の関係で対話、交渉をするために定期的に訪れているはずだ。

ケセドニアはダアトへ多大な献金を行っている。正式な訪問ではなくても、イオンはアスターを無視することは出来ないだろう。

「では、イオン様方はそうされてはどうですか? 私は領事館でフリングス少将と最終的な手続きと打ち合わせをしていますし、ルーク様方は――

「ああ、バチカルへの前触れと、船の手配をして来よう」

「有り難うございます。それでは、三時間後に私とフリングス少将がアスターの屋敷にお迎えに上がりますから、そのままキムラスカ領事館に向かいましょう」

そうして各自が別れようとした時、ふ、とルークの碧の瞳が引き寄せられるかのようにあるものをとらえ、そのまま動きを止めてしまう。それに周囲も倣って歩みを止め、同じものへ視線を向けた。

国境の境目よりも僅かにマルクト側にひっそりとある、キムラスカの領事がマルクト領事とケセドニアに許可を貰い、当時の跡が残った壁を使って作られた石碑。

捧げられた真白い色ばかりの花束は替えられたばかりなのか朽ちる様子もなく、眩いくらいの鮮やかな色をしている。

この街に踏み込んだその瞬間、少し緊張を覚えたのは仕方がない、とルークは思う。

砂漠に面したこの自治区に、砂の混じった風が通る。独特の雰囲気。空気の匂い。温度。様々な格好の行き交う人間たち。懐かしいのとは違う、別の感情が胸を占める。

水で流しても、血飛沫はしばらく消えなかったという。周囲の壁を、地面を抉るように付いたという痕もまた、深く強く残っていたとあとで聞いた。

壮絶な、戦いの跡。

あの、今にも消えそうな体でどれだけの数を相手に、こんな戦いが出来たのかと思うと、胸が貫かれたように痛む。消えそうな、けれど、温かい体で。誰も傷つけたくないという、腕で。

どうやって戦い、そして生き延びたのか。それが知りたい。大きな傷は負わなかったか。血をどんなに流したか。消えそうだった、あの体はどうなったのか。今はなんともないのか。

今は、『彼』が生きていると知っているから、こうやって落ち着いて見ることが出来た。以前であれば耐えられなかったかも知れない。

腕を伸ばし、石碑に刻まれた傷をゆっくりと指の腹で辿る。深い。ルークの指先も軽く埋まる。

まるで慈しむかのように何度も繰り返しなぞる、その手をガイが取って止めさせると、静かに告げた。

「…ルーク。俺たちは、キムラスカ領事館の方に行かないと」

『彼』は生きているのだから引き摺られるなと暗に言われ、ルークは手首をガイに掴まれたまま、石碑から離された指の腹を擦り合わせながら、こくりと頷く。

――ああ、そうだな」

きっとそこに、アルマンダインも来ているだろうから。――最悪、ヴァンも。