キムラスカ国王や自分の父親と対面するより、最大の難関が残されていることに憂鬱になりながら、ルークがため息混じりに体の向きを変えた途端、どん、と通行人とぶつかった。

ごめんなさい、と謝って香水の匂いを撒きながらするりと体を離して立ち去ろうとする、その女の腕をルークは表情も変えず当たり前のように掴むと、女が焦ったようにルークを振り返る。

掴んだまま、ルークがその腕を人間構造的に無理のある角度に捻る。

「……っ!」

女が痛みを堪える為に息を詰め体を強張らせた。わずかな時間で痛みに痺れた手の握力が弱まった瞬間、手の内側へと隠すように持っていた、ルークの財布がこぼれ落ちる。

それを目にした、ティアとアニスが同時に息を呑んだ気配がした。

財布を取り戻したルークはあっけなく手を離し、女を解放する。

女は舌打ちをして、取り戻した腕を押さえたまま少し後退さり、周囲をそっと見渡す。その表情は余裕たっぷりに笑んではいるものの、隙を探ってその場からの逃走を図ろうとタイミングを伺っていた。だがそこはティアやアニスが囲むように立ち、少し離れたところでガイも阻む。

しかし、当のルークは女とは一切視線を交わすこともなく、何事もなかったかのように先を進もうとする。

「お待ちなさい」

やっとそこで、静かに響く声でジェイドが引き留めた。ルークが気付いたくらいなのだから、ジェイドも気付いているだろうという考えは外れていなかったらしい。

「いいのですか、ルーク様。何もしなくて?」

「キムラスカなら窃盗は確かに罪だが、ここはまだマルクト領で、更にはケセドニアだ。お前に任せる」

「やれやれ、マルクトでも罪ですよ。――それにしても、手慣れてましたね」

「手癖が悪いのはバチカルにも居る」

いわゆる貧困層と呼ばれる区域で。

常日頃その辺りを中心に活動しているルークにとって、こういうことは良くある。そして周りの人間たちとは違い、ルークは一度も掏られたことはない。実際ルークはバチカルでは財布を持ち歩く身分ではないので、掏られるのは身につけている装飾品などだが、年端のいかない子供にそれを簡単に許して罪を作ることはないのだ。与えたいのは教育であって、罪に対する罰ではないのだし。

けれど最近はどうやら、難易度の高いルークから何かを掏れたら一目置かれる、というステータス的なものに変化しつつあって、そういうことを繰り返されれば、手慣れもする。

別に財布は戻って来たのだからどうでもいい、と思うルークに、女は妖艶な笑みを向け、肩を竦めて見せた。

「おやおや、『スカーレット』に悪戯したアタシが失敗だったねえ」

「『スカーレット』……?」

そんな名前は知らない。 そう呼ばれたこともない。ルークが訝しみ眉を顰めた時。

女を挟むように佇んでいたルークとジェイド、そしてその周辺に向かって、突然風を切って投げナイフが無数に飛んで来た。地面に跳ねもせずに刺さる切れ味の鋭さと、その深さにルークは驚愕する。人体なら場所によっては死ぬ。

それを咄嗟に避けメンバーのほとんどが体勢を整えた時には、女はもういない。狙う気配も。

まったく身軽なことだ、とルークはその手際に呆れと同時に感心しながら警戒を解いた。逃走する女を追う気にもならず、ルークは深くため息を吐くと隣で同じく見送っているジェイドに向かって訊く。

「『スカーレット』とはなんだ?」

「あの、それってもしかして、『悪戯っ子』の幽霊のことじゃないですかぁ?」

だが、答えは違うところから返って来た。背後を振り返れば、少し離れたところでアニスが小首を傾げたその頬に指を当てながら考えている。

「幽霊?」

「えと、ご存知ないんですか、ルーク様?」

ぱちぱちとその大きな目を瞬かせて見上げてくるのに頷けば、あ、とガイも何かを思いだしたのだろう、懐かしそうな声を上げる。

「俺の故郷じゃ、『メノウ』だったな」

幽霊だとか言われても、訳が分からない。一体なんの話なのか。

ティアとイオンも判らないらしく、ガイやアニスの顔を交互に見ていた。ジェイドは全員の様子を見ながら、いつものように胡散臭げな笑みを向け口を開く。

「各地方に伝わる、かなり民衆に親しまれている民話のようなものです」

「民話…」

御伽話だとか、そういうものか。生憎ルークには聞いたことがないが、それは多分自分の育った環境の所為だろう。ルークはナタリアにせがまれたのでなければ、進んでお伽噺など読もうとはしなかったし。

「どの時代にも現れる幽霊の話で、地方によって呼び名は幾つかに変わりますが、その幽霊の共通する特徴は少年と青年の中間くらいで、赤い短い髪と、いつでも白く裾の長い上着を着ているだとか」

「…それでか」

ルークはジェイドの言葉に酷く納得した。今まで不可解に思っていたことが一直線に繋がる。

エンゲーブでは村人は恐れもせずに、自慢の林檎と同じ色だと強引に買わせた。ローズ夫人を代表にエンゲーブの人たちはルークに好意的だった。セントビナーで向けられた驚愕、穏やかな微笑み。あからさまに友好的な視線。

――つまり、今までのあの友好的な対応は、そのお伽噺の幽霊とやらとルークを重ねて見ていたからか。

「あー、なるほど…こんだけ見事な紅い髪って、そうそうないからなあ。でもうちの坊ちゃんとはイメージが違う気がするな、あの幽霊は」

ルークを見てガイがにやりと人の悪い笑みをするのに、じろりと睨み返す。女相手でなければこういう笑みも出来、そしてまた様になる男だ。ルークの視線に悪かったと謝るけれど、全く悪びれない。

「ただ、面白いことに首都と呼ばれるような大都市――グランコクマ、ダアト、バチカルにはけして姿を現すことがないそうです」

「そんな幽霊が居るんですね。残念ながら僕は幼い頃にダアトに来た所為か、知りませんが…面白いと思います」

興味深そうに聞いていたイオンの隣で、ティアはただ無言だった。じっとその場を見ている。

ただ赤い髪だっただけで、それも長い上に、服装だって白い上着など着ていないというのに。そんな幽霊を信じているのか、マルクト人は。

視察でも他の仕事でも、人はそれぞれ持っている内側の印象を通してルークを見る。だから虚像、偶像で見られることに慣れてはいても、今回のこれは何とも複雑な気分だ。

幽霊などという有り得ない存在と重ねられるなど、今までにない。しかも『悪戯っ子』と呼ばれるような存在と。どう受け止めれば良いのか。目眩を覚えて額を抑えていると、まあまあとガイが肩を叩くのに、ルークは力なく問い掛けた。

「……悪戯をするような存在なのか?」

「うーん?どうだったかな。 いや、何もしないんだよなあ、確か」

ガイの答えに手を離して顔を上げれば、彼は顎に手を遣って目を閉じ、眉間に皺を寄せて思い出そうとしている。

「何もしない…?」

「ええ。何もしないけれど、ずっと傍にいるんだそうですよ」

ガイから引き継いで、ジェイドが答える。

全く、この稀代の天才は譜術以外の知識もまた、深いらしい。その脳の容量は本当に周囲の人間と同じ作りなのか。感嘆を通り過ぎて些か呆れたような感情で見る。

「私が生まれたのは雪の深いケテルブルグですが、たとえば誰かが山で遭難したとして、その人が助かるかどうかは天候や前準備や知識、そして運など様々な要素が関係してくる訳ですが、助かる時も助からない時も、傍にいるようですよ」

――看取る為か?」

ルークの問いには、ジェイドは肩を竦めて返した。

「さあ、結果的にそうなるだけで、実際彼が何をしたいのかは判りません。助かった人間にとって、この幽霊の悪い面が残ることは少ないですから。助けられた、と思えばいい話ばかりが残っていくことになる。それに対し、助からなかった方は死人に口なし、です」

悪い話は残らない、ということか。

だから、本当に人間を優しく見守ってくれている幽霊かどうか、真実は判らない。誰にも。

「彼に出会ったからといって、助かるとは限らない。――恐らく彼は、助かる人間が判っていた。その人間が間違って死なないよう、見守っているのではないかという仮説があります」

眼鏡のブリッジを押さえながらそう口にする、ジェイドの表情はいつも通り思考の読めないものだったが、ルークはその仮説にただのお伽噺にはしてはいけない、なにかひやりとした温度のものを感じてしまう。

「それは…――

その幽霊は、本当は一体、『何』を見ているんだ。

人間じゃない。人間を見守ってるんじゃない。

そう、ヒトのこれから生きるそのみちすじ、預言、と呼ばれるもの。それらを見て、いるんじゃないか。人の輪から外れたところで。

それは、なんと呼ばれる存在だ。幽霊、という枠に収めるには、あまりにも不釣り合いな、その。

そこまで考えて脳裏にある問いが掠める、それから思考を逸らせない。

――もし、死ぬはずの人間が無事だった場合は、どうなる?」

その恐ろしい想像を打ち消して欲しいという無意識の行動が、ルークに言葉を紡がせるけれど。

「さあ。ユリアでもなく預言士でもない私には生憎、誰がいつ生きて死ぬのかなんてことは、知り得ませんので」

ずらされたジェイドの答えに、ああ、とため息が漏れた。

――死人に、口なしか。

* * *

領事館に入る前に、ガイが捜索に出る際にラムダスから持たされていた金を使い、服やその他を軽く見繕った後、宿屋で簡単に身なりと髪を整える。

正式な場ではないが、話す内容が内容だ。それなりに整えておいた方が良いだろう。

あらかじめ用意していたのか、ルークの長い髪を乾かし着替えを手伝っていたガイがそつなく横から、いつも使う控えめにファブレ家の紋章を象った髪留めを差し出してくる。

その場で用意したり、あり合わせの装飾品にはない小細工。ルークの身分をこれ以上なく証明するもの。貴色である赤と緑を同時に、装飾品としてまとえるのもまた、ファブレ家の特権だ。

その髪留めで緩く編んだ最後を留めて、肩から胸の方へと髪を流した。黒に紅が映える、視覚的効果を狙って。

絶対の力を持つ、キムラスカの貴色。そして名前が今のルークの持てる政治的価値だ。最大限に効果的に使わなくてはならない。

そう、わざわざこうやって、年齢だとか長旅の疲れだとかそういうもので値踏みされたり侮られないように見栄も虚勢も張って。そうして、戻った際に屋敷の者に対し威厳を保つ為にも。

「…行くか」

憂鬱げに漏れた声に、こちらもシャワーを浴び準備を終えたガイが、はい坊ちゃま、と鏡の中で巫山戯て笑う。

落とした前髪が視界の端でちらりと紅く揺れた。

「うん? ルーク、何か落ちてるぞ」

足を踏み出したその先に視線を落としたガイが、アッシュの足元にあるそれに屈んで手を伸ばす。

「セレニアの花…?」

「なんでこんなところに、セレニアの花が?」

床に一輪、昼間だというのに花開いた状態で落ちている。

摘むように掴んだガイが、顔近くで広げたてのひらの上、ゆらりと転がした途端、それはまるで氷のようにぱきんと壊れ萎れてしまう。

「……!」

驚いたガイは肩を揺らすが、それでも花の残骸をてのひらの上から落とすことなく、じっと凝視している。

その欠片をルークは指でそっと触れるが、それでもあっけなく崩れてしまった。

「譜術か…?」

普通のセレニアの花ではないことは明白だ。なにか特殊な譜術が掛かっていたのは間違いないだろう。しかし、いつの間にこんなものが紛れ込んでいたのか。覚えがない。

そして花は目の前で自然に空気へ融けていき、最後には完全に消えてなくなった。

「……消えた。 何だったんだ、いったい」

「ああ……、それにしても、お前にセレニアの花なんて、まるであの人の――

ガイが苦笑しながら言う、その途中で表情を変え口を噤む。ルークもさすがに気付く。

偶然じゃない。

これは、『彼』からのメッセージだ。昔、熱で寝込むルークに送られた花束と同じ意味を持った。

「確か、烈風のシンクが言ってたよな、あの人はケセドニアに居るって」

――さっきのスリか…!」

直接の接触が出来ないから。

この花の為に、あのスリはあのメンバーの中で敢えて、ルークにぶつかる必要があった。財布を掏る、というケセドニアでは日常的に行われる行為を隠れ蓑にして。

セレニアの花は、以前からヴァンには隠されてルークに渡されて来たものだ。だからこの花が意味するのもまた、ひとつ。

――ヴァンに警戒しろ、ということ。

手紙にしなかったのは、ガイが見ても判らないようにした為だろう。ただのセレニアの花、というだけでなく、『隠して』渡されるセレニアの花について、その意味を本当に理解しているのは、ルークだけだ。

ガイが復讐を諦めない限り、そして離反する可能性のある限り、仕方がない。情報を漏らしてヴァンを有利にさせるわけにはいかないのだから。

兄を討とうとするティア、表向きには行方不明になったという、和平を望む導師イオン、それに相反して戦争でも起こしかねない六神将の動き、そして、『彼』とジェイド。

この旅の中気が付けば、これだけの要因が出揃っている。

ルークの知らないところで、いつの間にか始まっているのかも知れない。それとも、あの誘拐から…レプリカが誕生したあの日から、全てが始まっているのか。

未だヴァンの目論見がなんなのか、明確なところは解ってもないが、それにルークが重要な位置を占めているのは違いない。

バチカルでは父であるファブレ公爵の目や周囲の監視があるが、ここではそんなものはないのだから、ヴァンにとってはかなりやり易い環境だろう。いつも以上に警戒する必要がある。

ルークはぎゅ、ときつく手袋に包まれた拳を握った。

トラウマだなんだと言っている暇はない。利用される気もない。それなら、やるべきことは決まっている。

「…行くぞ」

「ああ」

ルークが扉へと向かう、それにガイも続く。

宿屋から出た途端往来を埋め尽くす雑踏に一瞬顔を顰め、ふとあの女のことを思い出す。

報酬として財布の一つくらいは、見逃してやるべきだったか。