ルークの数歩前に立ったガイが領事館の前で衛兵に声を掛ければ、誰何もなく扉が開け放たれた。衛兵がガイの背後に居るルークを見たなら、こちらは名乗る必要すらない。
奥へと続く扉をガイが開ける、そこを急きすぎず、敢えてゆったりとした歩調で通り姿を現したルークに、その場にいた全員が立ち上がった。
「これは、ルーク様!」
赤い軍服に身を包んだアルマンダインが声を上げる。やはり来ていたようだ。彼に頷き部屋を見渡すが、領事と事務官は居てもヴァンの姿はない。もしかしたら、カイツールで手間取っているのかも知れない。あの烈風のシンクのことだ、色々と手は回してあるだろう。
そうしてルークは一度、領事へと視線を戻した。あれから会っていない分記憶はあやふやではあったものの、一目見れば感じるものがある。幾分年老いたようだが、覚えている雰囲気そのままに近い。
「ご無事でようございましたな! いや、マルクトから連絡が来た時は肝を冷やしました…!」
満面の笑みで近づいてきたアルマンダインの握手を受け、しっかりと目を合わせ握り返す。
「此度のこと、不手際から伯爵自らの手を煩わせ、大変申し訳ない」
「いえ、貴方様がお悪いのではありません。それに、お父上だけでなく、陛下からもその目で無事を確認するようにと申し付けられております」
叔父であるとはいえ国王までもが、ということに少し驚くが、恐らく、以前の誘拐事件のことを思い出されたのだろう。あれから度が過ぎる過保護、という名の監禁が始まったのだ。
…ルークの存在価値をどこに置いているのかは判らないが。
後継ぎか、超振動か、時折ヴァンに毒のように聞かされる、戯言か。
そう考えながら、ちらりとアルマンダインへと視線を向けた。言うなら今だろう。
「そうか…陛下が。そうだ、アルマンダイン伯爵、陛下へ前触れを頼めるか」
「前触れ、でございますか?」
突然の申し出に首を傾げる相手を正面から、強すぎない程度に見詰める。
「マルクトでは皇帝陛下の恩情の下、不法入国で捕虜とされても致し方ないところを、大変紳士的に対応して頂いた。それに報いたいと思う」
「…して、どのように?」
訝しんでゆっくりと、探るように問いを重ねるアルマンダインの視線は、やはり今までの、大将という身分に登り詰めるまでの、そしてその職に在り続ける為の経験が現れるように重く、威圧のようなものを感じさせる。
それに負けられるか、とルークは腹に力を込めよりいっそう、ぴしりと背筋を伸ばした。声も目も、強く相手に向かう。
「かの皇帝陛下は、キムラスカとの和平を望んでおられる」
「そんな馬鹿な! あのマルクトが、ですか!?」
領事と事務官は息を呑み、アルマンダインが反射的に言葉を返す。信じられないのも仕方がない、十数年前の戦を、その傷跡を、そして今もなおしこりのように残る確執を思えば。
感情を乱したアルマンダインが言葉を発する前に、ルークは言葉を更に継ぐ。
「そのために、名代としてアスラン・フリングス少将に和平の親書を持たせ、導師イオンと共に、我が国王陛下との謁見を求めている。それを実現させたい。数時間後には、二人ともここへとやってくる」
親書を携えた名代と言われれば、迂闊に追い返すことも出来まい。そして、更にはダアトの最高権力者である導師イオンも居る。アルマンダイン一人の判断で、拒否出来る範囲を超えていることは明白だった。
長い沈黙の後、呻くようにアルマンダインは低く、答える。
「……判りました。取り急ぎ本国へ鳩を飛ばしましょう」
そうして彼は足早に部屋を出て行く。それを目で追えば乱暴に開けた扉の向こう、控えているガイの後ろ姿がちらりと見えた。
そのまま背後で重い音を響かせ扉が閉じるのを聞きながら、ルークは領事へ告げる。
「すまないが、聞いていた通り、和平の使節を乗せる船の手配を頼む」
「了解しました」
そうして領事が傍に控えていた事務官に頷けば、頷き返した事務官もルークに頭を下げ部屋を出て行った。
ひとまずは、一仕事を終えたと見ていいだろう。
この場にヴァンが居なくてよかった、と心底思う。そうでなければ、和平の話など出来るはずがない。何と言われて妨害されるか。逆にルーク自身を説き伏せかねない。
己の想像に精神的な疲労を覚えて深くため息を吐いた時、領事がルークにソファを勧める。それに従い腰を落ち着けると、メイドがワゴンを押して入室して来た。
紅茶の芳しい香りが、ゆったりと広がっていく。旅の間は諦めていた、随分と久しぶりのその香りにルークは迷わず手を伸ばす。
紅茶を素直に愉しむルークの様子を見ていた、向かいに座る領事がそっと、静かに声を掛ける。
「お久しぶりでございます、あの、私は――」
「ああ、覚えている。七年前に世話になった。息災か?」
カップをソーサーに戻して問えば、覚えているとは思わなかったのか、一瞬領事は驚いた顔をした後、破顔した。
「はい! ルーク様も大変ご立派になられて…。またも誘拐、との情報にどれだけ胸を痛めましたことか…!」
「そして今回もまた、世話になるな。――よろしく頼む」
もちろんでございます、と答えるその実直そうなその様子も変わらないようだった。足を組み替え両手を膝に置くと、ルークは領事をアルマンダインに向けたのとは違う視線をまっすぐに向ける。
「毎年、石碑に献花してくれていると聞いた。…感謝する」
「…は、勿体ないお言葉でございます」
恭しく、頭を下げた領事が瞼を伏せる。
会ったこともない、たった一人の護衛の命を永く悼むことが出来るこの領事だからこそ、この領事館で働く兵士たちは信頼を寄せよく働くだろう。
そうして、この領事だからこそ、ルークも伝えたいと思ったのかも知れなかった。
「……もしかしたら、近いうちに朗報が耳に入るかも知れない」
「朗報、でございますか…?」
怪訝そうにする領事に対し、ルークは淡く、笑った。
明確な言葉にはまだ、出来ない。そのもどかしさに。
* * *
砂塵に包まれたケセドニアの地で、大変珍しい人に再会した。
キムラスカ領事館でメンバーを迎えたルークが身なりを整えているのを見て、周囲には聞こえない小声で、おや凱旋ですか、とジェイドがからかうのに睨み返した。確かに、色々な障害を越えての帰国には違いないが。
領事の部屋ではなく、きちんとした応接室でフリングスとイオンがアルマンダインと顔を合わせ挨拶を済ませた後、船の準備に一日掛かる、との連絡が入り、一晩をケセドニアの街で過ごすこととなった。
イオンたちがアスターに誘われていたのもあり、それに便乗させて貰ったルークは初めてアスターと対面したが、なるほど、下手ではあるが抜け目のない男だと思う。
そしてしっとりと幾分水気を含んで冷え込む早朝、露店すらもがまだ準備も始めてない通りを、相変わらず独りで鍛錬へ向かっていたルークの背中に、随分と上の方から声が掛かった。
「おーや、ファブレ公爵のご子息じゃありませんか」
こんな調子で出会う知り合いなどいない。変だ。警戒しながら振り返って、少なからずルークは驚いた。
目線の位置で、椅子が浮いている。
更に、その椅子に座っている人物が居た。恐らく譜業だとは思うが、人が、椅子ごと浮くなどいったいどういう仕組みなのか。絶句して言葉を発せないルークのことなどまったく頓着せず、その人物はずずいと距離を縮めて来る。
そこまで来ると、眼鏡もいらないほど相手の顔がくっきりはっきりと判って、ルークのシナプスを刺激した。
――ああ、様々な事情が関係して忘れようとしてもなかなか忘れられない、この人物は。
「……これは。お久しぶりです。大変ご無沙汰しておりますが、博士もご壮健そうでお変わりなく…」
……たぶん。
実際の所、変わりがないかは正直自信がない。発熱で意識が朦朧としていたのもあるし、なにせ幼少の頃の記憶な分、不確かだ。
でもまあ、粗方間違いはないだろうと思う。この声と、白髪かと思うほどの色素の薄い髪の色と、奇抜な色合いの服装にはどことなく覚えがあったので。
今改めて考えてみればこの博士はヴァンの部下、ということだったのだから、これはもう間違いなく六神将なんだろう、と思う。が。
そう言えば、名前も知らない。
「五年三ヶ月と二十八日ぶりですね。はて、息災のはずですが、また発熱ですか?」
「……いえ、健康は特に問題はありません」
「そうでしょう、そうでしょうとも!私に診察の依頼が来ないと言うことは、貴方は健康体のはずです!」
私の手に掛かれば発熱など、大したことじゃありませんがね!
仰け反りながら高らかに笑ったかと思うと、博士は突然前屈みになりルークの方へとよりいっそう近づこうとする。椅子から降りればいいのに。
そうして博士はじろじろと不躾に遠慮なく、上から下へとルークを見て矢継ぎ早に言葉を続けた。
「それより記憶の混乱・喪失の方は回復しましたか?残念ながら、そちらの方はファブレ夫人の方から無用と断られたので、研究することが叶いませんでしたが」
「…まあ、それなりに」
元から混乱などしていない。そういう様子を演じただけだが、音素学の権威だというこの博士に調べられるのは多少、厳しかったので正直助かった。根っからの学者肌なのか、治療と言うべき所を研究と言ったりと、どうもこの博士は正直すぎる分、危険だ。――あの、オールドラント一の頭脳を持った、稀代の天才を連想するのは何故だろう。
「そーうですか!ほう、どのようにして回復したと認識しましたか?徐々に思い出しましたか、それとも強い刺激、または衝撃を与えられたことによって? 大変興味深い」
興味を持とうがどうだろうが、実験台にされない限り別に構わないが。
その、椅子に乗ったまま周りをぐるぐると旋回するのはやめて貰えないだろうか。
その独特な会話のテンポに付いていけず僅かに戸惑うルークを放って、博士は一方的に感情を高めて興奮していく。
「それともメンテナンスを希望しますか?私は構いませんよ、かねてからオリジナルとレプリカのデータを比較して検証したいと考えていました。遠慮は要りません。どちらかといえば、先程レプリカの方のメンテナンスを終えたばかりですからちょうどいい――」
…すっかり頭から抜けていたが、と、戸惑いの上に冷静な思考がルークに戻ってくる。
彼に訊くのが一番なのか。かつて診察の度にセレニアの花を持ってきた、この博士に。ルークが知りたいことを、ジェイドとは違う方面から、全て知ってそうな気がする。どうやら、口も軽そうなので。
そう考えた矢先、ルークの目の前でぴたりと惰性もなく旋回を停止した博士が、おもむろに口を開いた。
「それで、貴方はあの子のセレニアの花を――」
「……そこで何をしている、ルーク」
低い、低い男の重く響く、声。
殴られたような衝撃が頭を襲う。心臓が煩い。それにつられたように息が浅くなる。次第にし難くなって苦しい。
びくりと体が跳ねた気がした。かた、と手が、指先が僅かに震えた気がして、きつく、爪がてのひらに食い込まんばかりに握りしめる。
完全に不意打ちだ。目の前の博士ばかりに集中していて、油断していた。取り戻せ。平常心を、こころの壁を築け。動揺するな、弱みを見せるな、つけ込まれる隙を作るな。考えろ。冷静に、なれ。
ぎこちなく、声がした方へと視線を遠く、向ける。
宙に浮いた椅子の向こう、いつの間にかヴァンが佇んでいた。