「ヴァン…」

ルークの口から発せられたそれは、無意識に近かった。

先程まで居た博士の姿はいつの間にか消えてしまっている。

呆然に近い表情で佇んでいるルークに、ヴァンは至って揺れることのないどっしりとした重みのある声を掛けた。その声だけでも、ルークにとっては息苦しさを覚える。

「すまない。もっと早くに駆け付ける予定だったが、色々と事情が立て込んでな。無事で何よりだ、ルーク」

屋敷で会った時と変わりない様子でこちらへと向かってくる、落ち着いた動作はルークを追い詰めるかのような威圧感があった。

そして正面に立ったヴァンはルークの両肩へと手を置くから、それに合わせてルークもヴァンを見上げると、自然と視線が合う。

「……うむ。多少旅が堪えているかと思ったが…元気そうだな」

流石は我が弟子だ、と微笑み肩を叩くとヴァンは手を離す。それに密やかなため息を吐いて、ルークは視線を背ける。

「……ティアには色々と、世話になった」

「妹も一応軍人だ。お前のような立場の人間を守るのが務め、役に立ったのなら良い。だが、元々はその不肖の妹がしでかしたことで大変な迷惑を掛けたな、ルーク。まさかあそこで擬似超振動が起こるとは…」

「そのことに関してはもういい」

ヴァンの言葉を遮る。その話はルークにとってはもう、随分前に結論を出していることだったから、ここで蒸し返す必要はない。逸らしていた視線を再びヴァンに戻すと、ルークははっきりと強い口調で告げる。

「今回は危険を顧みず、侵入者に立ち向かおうとした俺が無謀すぎた。所詮、実戦経験のない者の、先走った行動による浅はかな自業自得だ。キムラスカがお前の妹に対しどうするかは解らないが、ティアのことは全てイオンに任せることで、話がついている」

他のことについては、役職を持たないルークは知る立場ではない。

そう、六神将が何故、マルクトを巻き込む形でイオンを連れて行こうとしたのかも、どうも焦臭いダアト内部のことも。

第三王位継承者と持て囃されながら、けれどルークは実際、国政には一切関わっていない。

あくまで厳重に護られた檻に居る。ナタリアと協力している部分はあるが、それはあくまで自分の判断で行っていることでしかなく、出しゃばるなと父親には何度も厳重に注意を受けていた。それを敢えて無視している形なのだから、後押しもない。大抵国王陛下の決裁よりももっと手前、将軍など重臣その他の判断で議論にもならずに却下される。

そうして、そのたびに小賢しい赤の雛鳥め、と囁かれることになるのだ。

確かに出過ぎた真似をしているとは思う。けれど国民に必要な政策ばかりを、誰もが後回しにしようとする、それがルークには耐え難い。それにだからといって、国王になるために求められている、様々な努力を怠ることもなかった。また、ルークにとって、実務を知らずに突然国の全ての決定権を持つのは、正直なところ抵抗がある。

せめて、出来る限り深く詳しく、知りたい。なにがキムラスカの為になるのか。全ては民の為で、それが国の為でもあるのに、未だ役職を持たないルークの言葉はどこにも届かない。

この状態で、ダアト内部のことを知り訴えたところで、誰が耳を貸すか。

分厚い壁を抱えたまま国王になるのは避けるべきだとは思うが、打破する切っ掛けを掴めないのが現状。それに自分の力の足りなさを痛感するのも、もう何度目になるか。

陥った思考の渦に思わずため息を吐いた。ヴァンはルークのその様子を見詰めながら、そうか、と静かに一つ頷いて、言葉を継ぐ。

「そのことは、後でイオン様から話を聞いておこう。…ティアはなにか、今回の件に関して言ったか?」

「何も。『たとえ話しても理解できない』とは言われたが」

こちらも訊く気はなかった、とルークが言えば、ヴァンは少し厳しい表情をする。

「ふむ…ティアはなにか、誤解をしているようなのだ。それにお前も」

「…俺も?」

掛けられた言葉にルークが顔を上げれば、ヴァンは厳しい表情のまま続ける。

「カイツールで確認をしたが、私の直属の部下である六神将たちが独断で勝手な行動を取り、マルクト軍艦を強奪したようだ。

だが、私は何故イオン様がここにいるのかすら知らない。教団からはイオン様がダアトの教会から姿を消したことしか聞いていなかった。部下の監督不行届の点は責められても仕方がないが、そもそも六神将は大詠師派だ。おそらく大詠師モースの命令があったのだろう」

「……部下の動きを把握していなかった点以外は、お前の与り知らぬところだと、そういうことか?」

ヴァンほどの男が、そんな不手際を起こすはずがない。

箱庭に飼われているルークとて、さすがにそのくらいのことは判る。それにシンクはともかく、あの副官はヴァンを裏切るようには思えなかった。

訝しむルークに、けれどヴァンは動揺一つせずに頷くと、身の潔白を証明するかのようなはっきりとした声で告げた。

「そうだ。お前とティアが消えた日、私はダアトに戻ることになっていただろう?あれも実は、マルクト軍からイオン様を奪い返せ、という大詠師モースの命令が待っていたのかも知れぬ。だが私は大詠師派ではない」

導師イオンと大詠師モースの内部分裂。

キムラスカにとってそれは無関係とは言い難いが、今のルークでは、ナタリアの耳に入れる程度しか出来ない。そんなものに振り回される国政というのも問題があるだろう。ナタリアの負担になることを考えれば、早くに王位を継承するべきか、とも思うけれど。

――まだ、まだやりたいことの、一つも為していない。

身動きが取れなくなる前に、せめて。『彼』をキムラスカに連れ戻したい。『彼』が自分の傍に居て、支えてくれるのなら。

それさえ出来たのなら、雛鳥と嘲られようとも何があろうと、ルークにとって後悔も臆することもない。

キムラスカの為に、生きていけるだろう。

「…判った」

口では何とでも言える。

ルークのレプリカを作ろうとするくらいなのだから、穏健な導師イオン寄りではなく、大詠師派だという方がむしろ納得がいく。だが確証がないのだ。

そう思いながら表面上は大人しく頷けば、ヴァンも満足したようにゆったりと微笑みを向けた。

「判って貰えてなによりだ。――ところでルーク、今から鍛錬か?」

「あ…ああ」

そう言えばそのつもりだったというのに、すっかり手に握っている存在を忘れていた。途端にずしりと重みを伝えてくる剣に視線を向ければ、ヴァンは更に笑みを深くして言う。

「では、久しぶりに相手をしよう、ルーク。旅の間どの程度成長したかを私に見せてみろ」

やっぱりそうなるか。

こうなっては仕方がない、精々猫を被って素直に稽古を付けて貰うとしよう。そう思いルークが頷き掛けた時、突然、視界が黒く埋め尽くされ風が吹いた。不意に体が不安定に傾ぐ。

足、が。

足が浮いている、と思った瞬間には体を抱えられて移動させられている。

状況が理解出来ずに、ただルークは上がりそうになった声を堪えた。

時々起こる強い衝撃をおかしな姿勢で感じる。どうやら、物凄く力強いなにかに強引に掴まれ、屋根の上だとかを移動させられているらしい、とちらりと黒の端から見えた光景に思う。混乱する頭で視界を埋めている黒いものは何か、と必死に視線を巡らせれば、緑と金の彩りが目に入る。その途端完全に体が、宙に投げ出されていた。

時間にすれば短い時間だっただろうが、一体何が起きているか判らないルークは非常に焦った。バランスを無理に取ろうとして逆に不安定になる。

――落ちる、と思った瞬間、ぐい、と空中でなにかに支えられた。

――っと! じゃあディスト、任せたよ!」

「わーかってますよ!」

やれやれ、とため息混じりのあの博士の声がして、声に釣られてルークが顔を上げれば。

ばさり、と羽ばたきをする猛禽類の魔物が、空中でルークの体を掴んでいた。

さすがにこれにはルークも顔色と言葉を失う。

一体なにが自分の身に起きているのか。それよりも、ここで爪を離されでもしたら、大変なことになる。じっとしておくしかない。

冷や汗を覚えながらルークが大人しくなると、椅子に座った博士がくるりと向きを変えるのに合わせて、ルークを掴んでいる魔物も羽ばたき移動していく。

ルークが顔だけで地上を振り返る、そこにはヴァンと、――シンクが居た。

* * *

ああ重かった、とルークを抱えていた肩を回しながら身軽に建物を降りてくる、それをヴァンが冷徹な目と声で迎えた。

「シンク、私に逆らうつもりか」

「ボクはアンタよりあの人の願いを優先してるだけ。ボクにとってアンタも所詮ただのオリジナルだってこと、忘れないで欲しいんだけど」

とんとん、とリズミカルに地上へと戻って来たシンクは相変わらず、飄々としたしぐさで肩を竦めて見せる。その仮面の僅かな隙間から覗くのは、冷笑。

まるで人間のようなその感情の動き、仕草にヴァンは目を細める。

惑星預言が読めなかった為に破棄されていたはずの、ダアト式譜術を戦闘で軽々と使う導師のレプリカ。

それを救ったのはあの出来損ないだ。その後も守り通し甲斐甲斐しく世話をして育て上げ、鍛錬を積ませた。その結果あの出来損ないに多大に影響されているだろうと思ったが、蓋を開ければシンクはあの出来損ないとは全く、正反対と言ってもいい程の冷酷さを持ち合わせていた。

冷酷でありながらそれでも一応恩を感じているのか、レプリカ同士結託して水面下でなにやら動いているが、シンクはまだ、己の利になると思えばヴァンの命令も比較的聞き入れた。逆に出来損ないの方にいいから聞き分けなよ、と言い聞かせることもある。

だが、あの出来損ないとは違い、シンクは徹底的にオリジナルを憎んでいた。

己のだけではない、全ての人間と預言を憎む。ヴァンとてレプリカを飾りで参謀にしている訳ではない。恐らく世界の真理と謳われるジェイドに近しい頭脳を持っているだろう、その存在から目を離せるはずがない。生殺与奪権を持つヴァンとて、このレプリカを甘く見るべきではないと解る。その頭脳はヴァンの目的の為に使われなくてはならないのだ。それまで勝手に人間を滅ぼそうとされても困る。

そういう意味で、出来損ないよりも注意するべき存在。縛っておけばいいというだけの存在ではない。多少の自由も許してやらねば、導師のレプリカである分明日の朝、同士討ちでダアトの神託の盾本部が潰れていてもおかしくはないのだ。

「それに別にアンタの命令違反をしてる訳じゃないよ。あのオリジナルだったら、敢えてレプリカに会わせてやった方が、アンタの言うこと素直に聞くんじゃないの?」

告げられた言葉に視線だけでヴァンが問えば、シンクは冷笑を浮かべたまま説明する。

「バチカルじゃ下層地域の教育とか福祉だとか雇用に携わって慕われてる、そんなお優しいオリジナル様なら、無理矢理誕生させられたレプリカだって充分被害者だ。そのレプリカがオリジナルを憎みもせず、代わりに死にに行きます、なんて殊勝なことを言ったとしたら、偽善的な負い目を覚えないはずがないと思うけど」

「…あのルークであれば、そうだろうな」

その葛藤を上手く利用すればいいと促すシンクの言葉にヴァンは一つ頷いた。ルークはヴァンに対して警戒心が強い分、そういうものを使う方が隙を突けて上手くいくだろう。

あのレプリカはルークに執着している分、様々なことを知っていても何も告げずにアクゼリュスに向かうだろう。それをヴァンが言ってやればいい。

「それにしてもさ、アイツなんであんなに必死なの?見苦しいったらないね」

「…とっくに死んだ、居もしない人間を求めて哀れなことだ」

シンクの呆れ混じりの声に、ヴァンの声にも嘲笑が混じる。

「へぇ?」

興味を示したシンクが続きを促すのに、ちょうどあの辺りか、とヴァンが通りを一つ二つ越えた先へと視線を向けた。

「七年前、ルークを救出に来た護衛の一人が、ケセドニアで追っ手のオラクル兵ほぼ全てを道連れにして死んだ。――死んだ、はずだ」

「ヴァン総長にしては一番大切なところを、不確定のまま放置じゃないか」

どうしたって言うのさ、とシンクが揶揄する、それにヴァンは苦笑を返す。

「死体がなかったのだから、仕方があるまい。どれだけの損傷を負っていたかすら、掴めないままだ。だが確かに一人、ファブレ家から消えている。ルークを救出するという大役を果たしているのだから屋敷に戻れば騒ぎになるはずだが、それもない。ケセドニア一帯を探させたが、どこにも重傷人を保護したという報告はなかった」

「…ああ、その居なくなったヤツの行方を、アンタが知ってるんじゃないかって、あの坊ちゃんは疑っている訳か」

「誘拐時の記憶を失ったフリまでしてな」

先を読んだシンクの言葉にヴァンが頷けば、余程大事にしてたんだと嗤う。

その通りだ。大事にし過ぎて盲目になっている。所詮は箱庭で餌を与えられ大切に大切に飼われている、哀れな小鳥。

警戒を幾らしようとも、自らの翼で空を飛べないのなら、己の手で餌を狩ることが出来ないのなら、檻から抜け出さない限りは結局は意味のないことだ。出された餌を大人しく喰らうしかない。それが腐っていようとも。たとえ毒だとしても。

自由を手に入れることを切望している、けれどその時は預言に従わされ死ぬ時、だけだ。そしてその預言はもう、すぐそこまで来ている。

キムラスカは必ず、ルークを殺す為にアクゼリュスへと向かわせる。

それならば今の生活を捨てヴァンの思惑通りに動く方が少なくとも、自由は与えられる。その期間が短く、そして最後はやはり避けられない死が待っていたとしても。

レプリカの死を見ればいかなあのルークでも理解が出来るだろう、そう考えるヴァンに、シンクは探るような声で問い掛ける。

――それで、結局アンタはどっちだって思ってる?」

「死んでなければ、脅威の一つになっただろう」

あの護衛は死んだ。それが最終的に下された結論だった。どれほど強かろうとも、今ここでルークの周囲に居ないのなら、ヴァンの前に現れないのなら、計画に乱れを生むこともない。畏れることはないだろう。

ヴァンの答えにシンクが一瞬、黙る。仮面の向こう、見えない部分で驚いている気配が伝わった。

「…ボクの聞き間違い? 神託の盾の総長であるアンタが脅威、って言った?」

「あの惨状を知らぬのは、救いかそれとも…」

シンクの言葉に、ヴァンは知らず自嘲の笑みが零れる。

誰も知らない。いや、誰もが知ることはなかっただろう。あの時、ヴァンの純白の長衣の下で。

あの惨状と、場に残った第七音素に、思わず腕が、背筋が震えたことなど。