ケセドニアを離れ、本来の移動時間に比べれば短時間に砂漠を渡りオアシスへと辿り着いた途端、容赦なく魔物はルークを離した。

乱暴には落とさなかった分、着地の瞬間に衝撃を殺す余裕もあったがいかんせん、長時間不自由な姿勢のまま宙にぶら下げられていた分、体のあちこちがぎこちない。着地の際膝を付いたまま、くそ、と悪態をつく。

なんで、こんなところに。

そもそも、ルークはただ日課である鍛錬を行おうとしただけで、最低限の装備はあるとはいえ極めて軽装だし、なによりとっくに鍛錬の時間は通り過ぎ、周囲は起き出している頃だろう。何の伝言も残してないうえに、これは間違いなく誘拐だ。誘拐犯はこの場合、シンクとこの博士となるのだろうか。――それとも、六神将か。それならば、イオンを誘拐するはずだ。

いったい、ルークを誘拐して何の意味があるだろう。まさか、イオンと交換するつもりで? ヴァンに気を取られていたとはいえ、誘拐されすぎだ、自分。

とにかく何が目的なのかを訊いて、交渉し、身の安全を確保する必要がある。

そう考えた時、足元に落とした視線の先で、ふと影が差す。

近づく砂を踏む足音に顔を上げようと、して。

「ルーク? 大丈夫か、ほら」

どくり、と心臓が跳ねた。

あ、と無意識に声が漏れそうになるけれど、喉は焼けるような感情に震えるだけで何の言葉にもならない。

――ああ。

喉と同じように胸が震える。胸が疼くように痛い。込み上げてくるものを必死に耐えようとするけれど、溢れてしまいそうだ。

幼い頃、よく耳にした言葉が、同じ温度の音で俯くルークの頭上から降って来る。

この世で一番心地のいい音だと、ずっと思っていた『彼』の。

ゆっくりと、時間を掛けて顔を上げれば。

ルークに向かって、まるで幼い頃のように『彼』が柔らかい眼差しを向け、少し屈んだ状態で右手を差し出していた。

――…っ、」

太陽の逆光で少し表情は見え辛いものの、間違えようがない。髪が短くなって、闇色に染められていても。

思い切り笑うのではない、少し淡い、儚いとも言っていいような、柔らかいふにゃりとした笑い方をする。

まさか今、会えるとは思ってなかった。

再び会えるのは、ちゃんと言葉を交わせるのは、もっと先だと思っていた。

シンクと博士が自分を『彼』に会わせる為に、わざわざヴァンという危険を冒すとは全く予想もしておらず、ルークはただ目を瞠ってじっと見詰める。ひたすらに、幻ではないことを確かめようとして。

「…どうしたんだよ、どっか痛いのか?」

いつまでも反応しないルークに『彼』は小首を傾げると、そう言って差し出した手でルークに触れようとする、その手を咄嗟に掴む。――掴める。消えそうになったりもしない。まじまじと掴んだ『彼』の手を見詰めていると、『彼』はそのまま体を起こした。それにつられてルークも立ち上がる。

「うおっ、すっげー!」

呆然とするルークの正面で、今度は『彼』の方が驚いた。そこで目線が同じことにルークも気付く。同じ高さ。どきりとした。解っていたけれど、こうしてまざまざと見せつけられると、さすがに動揺する。

――同じ、だという、こと。

表情も性格も顔つきも、違うのに。けれど二人は同じつくりを持った同じ存在なのだ。

世界で唯一の対。

驚いていた『彼』はそのまま、子供の様な興味津々、という表情で、グローブをはめたままの互いの手を重ね合わせる。

まるで計って作られたかのように、その手はぴたりと合った。それに『彼』は感嘆のため息を吐く。

「すげー…ぴったり」

あ、でもやっぱちょっと形違うな。剣を使ってる時間の長さとかが違うからだろうな。

そう呟きながら、何度もなぞるように触れて時々感嘆の声を漏らしては、ひっくり返す。

そうして、ルークの手を解放した『彼』は、ゆっくりと当たり前のように両手をルークの頬へと当てた。

普通なら、煩わしくて誰にも触れさせるはずのない、そこに。

グローブに包まれても判る、剣を握り慣れた武骨な硬いてのひらが触れてくるそれを、ルークは素直に心地良いと感じた。

あの頃もこうして『彼』と触れ合い、最初こそ慣れずに抵抗もしたが、嫌ではなかった。そう、一度も苦痛だと思ったことがない。『彼』はよく、ルークの髪に触れたがり、そして額を、頬を撫でる仕草にルークは確かに、安堵を覚えた。

化物と言われるルークに触れたがるのも、『彼』だけだった。

――世界で唯一の化け物が、ここにふたり。

まじまじと正面にあるルークの顔を間近で見詰めていた『彼』は、やはりあの頃と変わらない仕草でそっと頬を撫でると、目を合わせたままぽつりと呟く。

「おっきくなったなあ、ルーク」

変わらない温度で、しみじみとした感情で零れた言葉に、ふ、とルークから力が抜けた瞬間。

「…っ、な、!?」

突然頬を挟んでいた両手が首に肩に、そして背中に伸ばされた。反応する間もなく、ぎゅ、ときつく抱きしめられるのに、触れ合った自分の首筋と彼の頬に、動揺したルークの心臓が痛いくらいに脈打った。

――ああ、そうだ。こいつはこういう奴だった…!

呆れの混じった、けれど変わらないその様子に込み上げてくるおかしさと懐かしさで、ルークは苦笑する。目の奥が熱くなるのは気付かないふりで、胸の痛みをため息をそっと吐いて逃がす。

視界の端に、闇色に染められた、『彼』の短い髪が映った。

ルークの肩に額を乗せた『彼』が、抱きしめる腕の力をよりいっそう強くして、言う。

――あの時。あの時さ、一人で行かせたお前に怪我がなくて、無事でホント、良かったよ…」

「…ああ」

もしかしたら、『彼』の中ではルークはこの七年間ずっと、別れた時のまだ幼い、子供のままだったのかも知れない。

どこにも行くなと泣いて縋ることしか出来なかったあの時の。果物ナイフ程度の小剣を握るのが精一杯で、虚勢を張ることばかり上手いような。それではさぞかし不安だったに違いない。

「けど、その後も意識不明になるくらいに、熱出したっていうしさ。すっげー心配したんだからな、俺」

あの時誓った強さはまだ全然手に入れていない。それどころか、自由でもない。ルークにしてみれば不満ばかりのこの、自分を。

この、ルークの成長をこうして、ただ純粋に喜んでくれる存在が居るということ。

無事で良かったと、生きているだけでいいと言ってくれる、『彼』が居ること。

こんな存在を、ルークは辞書でしか、知らない。

「…俺だって、心配、した」

いつもなら絶対に口に出来ない言葉も、抑えることなど出来ずにするりと出る。

少し躊躇ったが、ルークも素直に手を伸ばし、そっと『彼』の背中に回した。

服越しに伝わる反応に、『彼』が顔を埋めているルークの肩に、回された腕に、熱が疑うことなく伝わって、こころを満たしていく。その充足感に体が震えるようで、ルークは回した腕に、『彼』と同じように力を込めた。

――帰って来た。

やっと、帰って来た。間違いなく今、ここに居る。それが全部で、それだけでよかった。

沸き上がる感情で埋め尽くされ溢れそうなこころを、吐き出したため息一つで落ち着かせようとする、そのルークの吐息もまた熱い。

「お前…、お前の体の方は、どうなったんだ」

てのひらには確かに感触があって、別れた時の様子は微塵もない。

それに、その成長しない外見は何故か。そしてジェイドとの関係はいったいなんだ。

色々訊きたいことが頭に浮かぶが、けれどどれから訊けばいいかが判らない。だから一番優先するべきことをまず、訊く。

もう、命に危険はないのか。消えたりしないか。――どこにも、いかないのか。

「うん…俺もよく判ってないけど、たぶんルークのレプリカの体を貰った、んだと思う」

顔を上げ体を離した『彼』の目は相変わらず綺麗な翠で、少し潤んでいる分きらと朝陽を弾く。

間近でその光を受けながら、ルークは彼の言葉を繰り返す。

「貰っ、た?」

その短い『彼』の言葉を理解した時、とうとうその時が来たのが、ルークにも判った。

避けていた答え。けれど明確にしなくてはならないこと。

「ああ。第七音素はコンタミネーションが起きやすいから。それにルークの情報を持ってる第七音素なら、俺が取り込みやすかったと思うし」

「…それなら、俺のレプリカは…」

「貴方のレプリカは、生きた屍だったのですよ」

突然割って入った声に、ルークの肩がびくりと跳ねる。

誰も居ないと思っていた、というよりも、自分と『彼』意外に誰かがいるだなんてことを、少しも考えていなかった。幾ら求めていた『彼』がこうして、目の前に現れたからと言って、警戒心を失うなど迂闊なほどの失態。

『彼』が傍にいるだけで、どれほど自分が安心感を覚えるのか。そのことを嫌と言うほど理解させられたルークは、慌てて背後を振り返る。オアシス特有の木の木陰で椅子に座った状態の博士が、こちらを向いて涼んでいた。

もしかしなくても。

今までの一部始終、全て見られていた、のだろうか。

それに気付いた途端、かっ、とルークの顔に朱が走った。

今までの全部が誰かに見られていたなんて、冗談じゃない。恥ずかしさで死ぬ。死ねる。出来ることなら、博士の記憶をどうにかして今すぐ消したい。そう、例えば殴るとか、衝撃を与えるとかで!

焦るルークの横で、『彼』が声を上げた。

「あ、そうだった。俺、朝食の準備してたんだよ」

お前も食うだろ?と何でもない様子で博士の居る木陰へと駆けていく『彼』に、ルークは絶句する。

ちょっと待て、どうしてお前は平気なんだ。

* * *

「お前をコーラル城に助けに行った時に、俺が適当に壊したのが原因で、実験中に事故が起こったらしいんだよな」

小さなテーブルに用意されたささやかな朝食を、誘拐犯と被害者というおかしなメンバーで囲む。先程の感動の雰囲気の名残は微塵もない。

チキンサンドを口にしながら『彼』が言うのを、博士がナプキンで口を拭いながら引き継ぐ。博士が傾けるカップに『彼』がすかさず紅茶を注いだ。

「その所為で、上手い具合に同位体となったものの、急激に音素が不足した時間が長引いたせいかレプリカは自我を持つことが出来なかった。――つまり、」

「…生きているだけ、だったのか…!?」

食事の手を止めたルークの言葉に、博士は紅茶を飲みながら頷く。

「そうです。ですから破棄され再構成される予定でした。ですが不思議なことに、その状態でレプリカルークは超振動を起こした」

生憎私はフォミニンの調達で不在でしたがね、と博士は続ける。

「…何故、生きているだけの、俺のレプリカが超振動を起こせた?」

――たぶん、俺と繋がったんだと、思う。その時俺は、お前と別れて超振動を思いっきり使ってた時だったから」

死んでもいいってくらいにさ。

そう、眉を下げて苦笑する『彼』に複雑な気持ちになる。使われた超振動の強さ、その惨状は石碑でしか目にしてないが、報告では何度も聞いて知っている。それに気付いた『彼』は慌てて首を横に振った。

ルークが気にする必要はないと、その仕草だけで伝える。

「あの時同じ時間に、同じ人物がふたつ、存在したんだ。フォンスロットが開放されてなくたって、どちらかの影響を受けてもおかしくない。片方に自我がないなら、なおさら」

同じ時間に、同じ人物がふたつ。

ぞくりとルークの背筋になにか冷たいものが伝って、動きが止まった。避けていた話題に近づこうとしているのが嫌でも判る。

その様子を見た『彼』が力なく微笑んだ。

「ルーク、もう判ってるだろ? ――…俺は、『ルーク・フォン・ファブレ』、ヴァン…総長に作られた、聖なる焔の光のレプリカだ」

良いながら、『彼』はそっと、自分の胸へと左手を当てて、瞼を伏せる。

その下には心臓がある。オリジナルと同じなのだから、同じように脈打って熱い血液を巡らせる命の源がある。

「でも今のお前の情報から出来たレプリカじゃない。――ここよりもっとずっと先、全部が終わった時間から来た、レプリカなんだ」