この船に女性士官がいないことに安堵したり残念がったりするガイを部屋に置いて、それぞれが散ったキャツベルトの甲板の上、ルークは潮風を受け海面に当る光の反射を見つめながら、別れ際の『彼』の言葉を思い返す。
――ヴァン師匠には、気をつけて。
『なるべく、同じ場所に居ないように過ごした方が良いと思う。お前は大丈夫だとは思うけど、――俺は、暗示を掛けられたことがあるから。注意しといた方が良い』
『彼』はそう言って、気をつけてな、と笑って手を振った。
暗示。
そんなものを使うことが出来るとは思ってもみなかったが、考えてみればあの男なら可能なのかも知れない。耳に心地よい言葉ばかりを使うのが巧みなヴァンのことだ。ひと一人の行動など、思うように動かせるだろう。――かつて、自分が惑わされていたように。
レプリカには意志すらも必要ないとでも言うのか、あの男は。嫌悪感に眉間に皺が寄る。
ヴァンに関わる言葉全てが不穏で、不快だ。あれだけ表面は完璧に繕っておきながら、いや、だからこそか、その中身にはとんでもない闇を抱えている。その闇を飼い慣らし、そうして一体、何を望むのだ。
――俺たちを、世界を滅ぼす兵器を使って、どうするつもりなのか。
まさか、本当に世界を滅ぼすつもりでもあるまい。世界など滅ぼすなど、その行為に何の意味があるだろうか。
水面をきらと光をはじく、その眩しさに痛みを覚えて両目を細める。それを見留めたイオンが声を掛けて来た。
「ルーク? どうかしましたか、顔色があまり良くないようですが…」
「……何でもない。大丈夫だ」
小首を傾げて訊いてくるイオンの視線に、ゆるく首を振って見せる。煽られて乱れる髪はすでに結っていた。それに風が吹いても看板の上は、じりじりと照らされる所為かそれともキムラスカに近づくせいか、熱い。
『彼』の言葉に従って、ルークは今、独りにならぬようイオンの傍に立つ。
イオンには常にティアとアニスが控えているし、フリングスもイオンと、そしてルークに対する護衛の意味もあるのか、一定の距離を保ちながら、それでも近くにいる。ティアがヴァンに対して警戒しているのもあり、ヴァンも無闇にこちらに接触してこようとはしない。
ヴァンは朝、ルークが朝食の時間になっても戻ってこないことに対して少しばかり騒ぎになったところへ突然現れ、場を収めたというが、よりにもよってダアトとは全く関係のないルークが誘拐され、そして無事に戻って来たことで、ヴァンの己自身に対する釈明の言葉に少しばかり矛盾をはらむことになってしまった。すでにルークに説明している分、今更変えることも出来ないだろう。
それとも、ルークの油断を誘う為に敢えて放置されている、綻びかも知れない。だから安易に飛びつく訳にはいかなかった。いっそ飛びついた方が良いとも思うが、それは時期を見てからだ。ルークが出せるカードの種類は、実に少ないのだから。
だが、その僅かな矛盾に気づいたのか、それともジェイドに何かを言われたか判らないが、フリングスが常にルークの気配を追い、視界に入れているのに気づく。けれど近づきすぎず、観察しているようだった。ルークではなくおそらく、ヴァンを。
ヴァンの思惑をこの短い時間でフリングスまでもが、意識し始めている。いや、関わりがないからこそ、より客観的な思考を持てるのかも知れなかった。
「今回のことで、インゴベルト陛下の不興を買って、和平が失敗しなければいいのですが……」
イオンが不安そうに呟く。アスターとの交渉を経て今のケセドニアの自治をもたらしたであろう本人が、なんと気弱なことをとも思うが、今回六神将がルークを度々巻き込んだ件が足を引っ張らないとは限らない。そもそもの切っ掛けを思えば、イオンにティアを任せたことは間違いか、と今更後悔する。だが仕方がない。ここでティアが後ろ盾を無くすことの方が、後味の悪いことになりそうだ。
必ずうまくいく交渉などないが、なにが切っ掛けでこじれ、決裂するか判らない。そう、例えば窓から小鳥が一羽、入って来た些細なことですらも。
「…大したことは出来ないが、俺の話は信用して下さるはずだ」
決定権がある訳ではないルークの言葉は所詮気休め程度にしかならないことは判っているが、和平を望む一人として言わずにはいられなかった。六神将たちやモースが、二国間に戦争の火種を落とそうとしているのなら、なおさら。
ルークの言葉に、イオンが嬉しそうに微笑み、こくりと頷いた。
こういう時にあの男がいればまた、彼流の軽口でイオンの気分を持ち上げることが出来たかも知れないな、とここには居ない人物を思う。
この船に、ジェイドは居ない。彼とはケセドニアで別れたからだ。
* * *
「私はここで、お別れです」
船へと踏み込むタラップの上で足を止め、ルークはその紅い髪を海風に靡かせながら、ジェイドを振り返った。
砂漠の環境と潮風ではさすがに、滅多に絡まったりクセを残すこともないルークの髪も傷む。それにこの長旅では手入れのしようもない毎日だった。面倒でいっそ切ってしまおうかとすら思ったが、今では切らなくて良かったと思う。切ってしまえば、『彼』との区別が付かないような、面倒くさいことになっていた。
振り返った先のジェイドは乱れ一つもない軍人らしい仕草で佇み、こちらを柔らかく笑みながら見ている。朝、帰って来たルークを出迎えた時と同じような表情をしている彼に、ルークは声を落として言った。
「…まだ、必要なことは聞けていない」
「大丈夫です。すぐに再会することになりますから。それまでに、私はアクゼリュスの任務を完了させる必要がありますので」
そういえば、ジェイドはルークたちが擬似超振動を起こしてマルクトに現れる前は、アクゼリュスの整備指揮をしていたのだった。
ジェイドにとっては判っていたことだろうが、アクゼリュスの住民達にとっては迷惑なことだったろう。恐らくジェイドは何らかの手を打っていただろうと思うものの、もし物資の補給路の確保が上手く行ってなかったら、申し訳ない。もし補給路に、地震で落下した巨大な岩や、もしくは隆起した地面が阻む場合、ジェイドの譜術が重要な意味を持つだろうに、今では彼はアンチフォンスロットを身に受けているのだ。もし必要なら、キムラスカから譜業を送ろうかとも考える。情勢的に難しいことかもしれないが、それでも。
「そうだったな。――色々と世話になった。感謝している」
ルークをマルクトで保護してくれたことと、七年前に『彼』を保護してくれたことと。
二重の意味を込めて、告げたルークは右腕を伸ばした。その意味に気付いたジェイドはおや、と器用に片眉を上げた後、にこりと笑ってルークの右手を握り返す。
「……私も、貴方にお会い出来て、良かったと思います。あの子の言う通りの貴方で、貴方のままで、良かった」
あれだけのことが身に起こって歪まない人間なんて、どこにもいません。
そう自嘲するジェイドの表情に、ルークは僅かに目を瞠る。
「お前、もしかして、」
今まで見ていたのは、ルークを常に監視していたのは。
ルークがどういう人間であるのか、見極めようとしていたのか。長い、普通なら掛けるはずのない、長い時間を掛けて。
ジェイドにとって、ルークとそのレプリカである『彼』は未だ実験対象だろうと思っていた。とうに封印したフォミクリーという技術だとしても、その結果が生きていて無事に成長し、更には被検体の健康にも問題ないとくれば、生体データ(あの博士はメンテナンス、と言っていたが)をとりたくなるはずだ。比較し、何かしらの現象が互いの体に起きてないかの検証。学者である彼なら必ずやるだろう。以前口にしていた、蝶のたった一度の羽ばたきの責任を取るつもりなら、なおさら。
だからどのようにかは判らないが、ジェイドはルークの長期間のデータを手に入れるために、傍にいたはずだ。
それだけじゃなかったということだろうか。
『彼』が力を貸す程の人間であるかどうかを、ヴァンに操られていないかを、ルーク自身が、人としてどうなのかを、仕草の一つ一つ見逃すことの無いように、この旅の間中時間を掛けて見ていたとでも?
ヴァンの企みを止め、更には定められた未来の道筋を望む通りに変える。ある意味傲慢なそれに相応しい人間であるかを、見定められていたのか。
目を瞠るルークに、ジェイドは自嘲の笑みを隠すかのように眼鏡のブリッジを押さえる。
「……そうですね。貴方に今言っておく必要があるのは、これだけです」
そうして敢えて口許を隠した仕草のまま、風にかき消える程の音量で告げた。
――ヴァン謡将は、全てご存知のようですよ。
その時、ルークの背に走ったのは、間違いなく震えだ。
だが、それは恐怖からではない。自分の仕掛けた他愛のない罠に、まさか引っ掛かるとは思わなかった罠に、大きな油断をした大物が掛かったということ。まさに武者震いに近い。
「…釣り餌に掛かったか」
「目の前をちらちらとこれみよがしにちらつかせていたとはいえ、さすがの謡将も我慢が出来なくなったわけではないでしょう。時期が来た、と見て間違いありません。近いうち、あなたに本格的に近づいてくる。八割の真実と、二割の嘘を吐いて、あなたを混乱させようとするはずです」
準備はよろしいですか、ルーク様?
そうして笑うジェイドの表情は、朗らかのようでいて実に黒い。裏を掻こうとするルークが呼び込むかも知れない破滅を笑うか、それともヴァンの、ルークのことならば全て見通しているという、浅はかな油断を嗤うか。
思うような結果が得られるとは考えていない。二割ほど上手く行けば良い方だろう。でも仕方がない。ルークにはこの体ひとつ、超振動しか取引に使えるようなものがない。だから使う。それだけだ。準備という覚悟なら、もう七年前にとっくに出来ている。
「俺には疑うことなど、迷うことなどひとつもない」
『彼』に再び出会えて、同じ時間を僅かながら過ごし、その間多くの言葉を交え剣を交えた。それだけで構わない。それだけで、充分だ。
『彼』がしようとしていることがたとえ間違っているとしたって、ルークにとって『彼』が真実なのだから。
ルークを捕らえるなりなんなりして、幾らでも企てを話せばいい。何度も理解させようとすればいい。
ルークの望みは、ヴァンの企みを知り阻止すること、そして『彼』を奪い返すことなのだから。幾らヴァンがルークを兵器として使いたかろうが、ルークは自分の判断以外でこの力を使うことはない。たとえ、血の繋がった人間の命が危険に曝されようと、この力を使うこと以上に危険なことは、どこにもない。
その場合はヴァンを巻き添えに自分の命を絶ってやると、決めている。兵器になるくらいなら。
ルークの視線を受けたジェイドはふ、と微笑んだ。一度か二度くらいしか見たことのない、ごく自然に向けられた、彼にはらしからぬ温度のやわらかい笑みだった。笑んだ唇が言う。貴方には。
「余計なことを、言いましたね。……頑張って下さい」
「ああ」
頷き返すルークに、ジェイドはふと声を上げる。
「あ、そうです。フリングス少将を、よろしくお願いします」
マルクトの名代は、ケセドニアに駐在していた小隊をひとつ引き連れ、けれど実際にはたったひとりで、キムラスカに乗り込むことになる。
彼自身はとても優秀な男だが、なにが起こるか判らない、今まで断絶に近い状態だった敵国とも呼べる場所へ赴く。もしかしたら、戦の火種になることもあるかも知れない。先の戦争の傷跡はまだ、深いのだ。なにが切っ掛けになるかは判らない。
その存在を、ものを渡すかのような気軽さでルークに頼もうとする。ルークがここで頷けば、フリングス少将はルークの名前をキムラスカにいる限り、いつでもどこだろうと使うことが出来る。切り札にでも何にでも。
厚かましいというべきか、それとも。どういう表情をするべきなのか判らないまま、充分世話になったその代わりになればと、ルークは頷く。
「俺に出来ることなら、協力しよう」
「有り難うございます。――それでは、どうぞお気を付けて、ルーク様」
* * *
数日掛けて船旅を終えたルークは数ヶ月ぶりに、光の王都と名高いバチカルの、その港へと降り立った。
その通り名の通り抜けるような青さのなか、輝くバチカルの光やコントラストが目に眩しい。上へと階層が上がる度に富裕度が上がる為に、屋敷の外壁の細工も窓の数も増えて行き、光が光を呼ぶ。そうして格段に目を灼くような、音さえしそうな程鮮やかな彩(ひか)りを放つのは、うつくしい、白亜のバチカル城だ。
戻って来たのだ。――鳥籠へ。
それでも、久しぶりに触れたバチカルの空気は、酷く懐かしい。天空滑車から降り立ちバチカル城を見上げながら、思う。たとえルークにとっての檻だとしても、これが故郷だ。殆ど屋敷から出られなくとも、やはり馴染んだ場所。――『彼』との、思い出がある、だからこそ離れがたい場所。『彼』がいつか、帰る、場所。
『彼』との思い出が、そしていつか帰ってくるという思いが、キムラスカを少しでも良い国にしたいと、ルークに思わせる。その為になら鎖で繋がられたとしても、耐えて生きていけるとそう、思えるのだ。
ひとつ無意識に息を吐く。体から無闇な力が抜けるような安堵感を憶えた。――まだ、早い。一仕事残っている。
前触れを受けて待機していた第一師団師団長のしかつめらしい迎えを受け、そのゴールドバーグに、イオンとフリングスを紹介する。
「マルクト帝国皇帝ピオニー九世陛下に請われ、親書をお持ちしました。国王インゴベルト六世陛下にお取り次ぎ願えますか?」
「無論です」
イオンの言葉に重く頷くゴールドバーグが、傍らを振り返り続ける。
「皆様のことはこの、セシル将軍が責任を持ってバチカル城へとお連れします」
そう促され、一歩前へと控えていた人物が前へ出ると顔を上げはっきりと見せた。
すっと伸びた背筋、きりりと意志の強さで引き締まった瞳。光を受けて絹糸の様に輝く金髪をきっちりと纏め赤い軍服に身を包む女性は、表情を柔らかくすることもなく踵を鳴らし敬礼してフリングスとイオンの前に立つ。
「セシル少将であります。よろしくお願い致します」
彼女の登場に、ルークの胸に複雑な感情が過ぎる。彼女の方もそうだろう。彼女はけしてルークに視線を合わせることは、ない。ルークの背後に立つガイでさえもが、戸惑ったような気配を纏う。
「……セシル少将……貴女が」
セシルを目にしたフリングスが僅かに目を瞠り、呆然としたように呟いた。冷静沈着が売りだろう彼が動揺しているようにも見える。いや、動揺と言うよりも。
ルークが己の思考に答えを見つける前に立ち直ったフリングスは、全く彼らしく爽やかに微笑んで、彼女へと声を掛けた。
「失礼しました。初めてお目に掛かります。ケセドニア北部での貴女の戦いぶりを聞き及んでおります。我が国では陛下の懐刀と名高い、ジェイド・カーティス大佐を前衛に出させたのは、貴女が初めてです」
「……ご冗談を。私の軍はほぼ壊滅でした」
低く返したセシルの声は硬い。功績が称えられようと、己の部下を喪ったことには変わりなく、彼女はもちろんそれを喜ぶような人間ではない。むしろ、彼女の行動は藪を突いて、余計なものを引っ張り出してしまったことになる。彼女の言葉にフリングスはすぐに悟ったのだろう、笑みをおさめ速やかに頭を下げた。
「すみません。不謹慎でした。……でも、私は貴女に是非一度、お会いしたかったのです。お会い出来て良かった」
真摯なフリングスの言葉に、セシルはなにも言葉を返さなかった。初めて会ったフリングスからの言葉に、返す言葉が見つからないようにただ彼を見詰め返し、は、と我に返った彼女は頭を下げて促す。
「――皆様、バチカル城までご案内致しますので、どうぞこちらへ」
「では、ルーク様は私どもバチカル守備隊とご自宅へ……」
「待ってくれ」
ゴールドバーグの言葉を遮る。巻き込まれたとはいえ、ルークはマルクトに命の借りがあり、そのために叔父である陛下へこの和平条約が上手く行くよう、取りなさなくてはならない。そして、イオンに友人として出来る限りの言葉を尽くすことを、約束をした。それにフリングスのこともジェイドに頼まれてしまった。
実際、自分が余計な口出しなどしなくても、経験や場慣れしているだろうイオンやフリングスの方がそつなくこなしてしまうだろうことは、予想が付いたけれど。
この国では、ルークには唯一有効な、地位…名前、がある。
「俺も城まで付き合おう。屋敷に戻るのも城に行くのも、そこまで変わりあるまい。ナタリア殿下にも、戻り次第顔を見せるように言われている」
本当のところはナタリアに会うだけが目的ではないが、今ここで告げてゴールドバーグに拒否されても困る。身分など関係なく、彼にはそれだけの力がある。使うようで申し訳ないが、ナタリアに会った時に頼んだ方がいいだろう。
ルークの言葉にゴールドバーグは瞬きの短い間思考して、速やかに返す。
「承知しました。ならば、セシル将軍にファブレ公爵への使いを頼みましょう」
行ってくれるか、とゴールドバーグが声を掛けるのに、セシル将軍が頷き、颯爽と踵を返して去って行くのを見送る、その傍でイオンが小さな声で言う。
「ルーク、ありがとうございます。心強いです…!」
素直に喜ぶイオンに頷き返して、ルークはゴールドバーグの案内に従った。