「お帰りなさい、ルーク!」

凜、と通る澄み渡った鈴のような声がそびえ立つバチカル城の手前、昇降機の最終着地点で響く。

そちらに視線を向ければバチカル城を背にして、燦々と陽の光を浴びて輝くその城の荘厳さに劣らない、目にも眩しいケンブリッジ・ブルーと純白で彩られた、バチカルを現すドレスを身に纏ったナタリアが守備隊を従えて待っていた。

頭上に広がる空よりも鮮やかなドレスと同じカチューシャのブルーは、ナタリアの光を弾く髪をより美しく映えさせる。

「ナタリア…」

「心配してましたのよ! 顔を良く見せて下さいまし」

駆け寄って来たナタリアはルークへと両手を伸ばすと、その頬へと手を当て、僅か上にあるルークの顔を食い入るように見詰める。そうしてその光を透かしてきらと光る翡翠の瞳がじわりと涙を満たしていくのを、ルークは直に覗き込む。

「ああ…ご無事でしたのね。この数ヶ月、どれだけ長かったことか…!」

「気苦労を掛けたな、ナタリア」

ルークが労れば、頬から手を離したナタリアはその手で胸を押さえ、緩く首を振る。

「いいえ。…ガイも良くやってくれました。前と違いあの人が居ない今、とても不安でしたけれど、ああ……」

良かった、と囁くようにそっと告げて、泣き笑いのような表情を見せる彼女に、ルークは申し訳ない気持ちになる。彼女に掛けた心労と負担を思う。彼女だけで手掛けているものが幾つもあるというのに、二人で手がけている医療と福祉関係の公共事業の負担を抱えさせた。気丈な女性だ。けれど強い訳ではない。支えがなくては立てない人ではけしてないが、それでも一人で背負うには重すぎるものを抱える女性だ。潰れてしまう前に、分かち合うべきだとは判っているけれど。

ナタリアは目元を手袋で覆われた指の背で拭ってから、姿勢を改める。

「再会の喜びを分かち合う前に、私は王女としてのつとめを果たさなくては。――ゴールドバーグ師団長」

「はっ」

ナタリアの声に、ルークの背後に立っていたゴールドバーグが声を上げ、それと同時に守備隊がぐるりとルークの周囲を囲んだ。

ルークの正面、彼女は気品溢れる佇まいでぴんと背筋を伸ばし、澄んだ声が硬い温度で告げる。

「ヴァン謡将、誓約通り貴方の妹君共々、拘束します」

「承知しております。――ティア、」

今まで借りて来た猫のように静かだった男が頭を下げ、冷厳に妹の名前を呼んだ。拒むことを許さぬ音だった。ティアはあれだけ頑なだった表情を一度びくりと振るわせたが、呼吸一つのうちに表情を消し、噛み締めるかのようにゆっくりと一度、頷いた。

ルークの周囲を囲んでいた兵士の過半数が範囲を狭めゴールドバーグと共に、二人だけを連れて行く。それを確りと見送ったナタリアがルークの方へと向き直った。その仕草に気付いたルークが立ち位置をずらす。

――導師イオン、それからマルクトのかた、ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。お許し下さいませ」

そうしてナタリアはドレスの裾を僅かに持ち上げ、会釈する。

「お初にお目にかかります。私はナタリア・L・K・ランバルディア。キムラスカの王女です。ようこそキムラスカの首都、光の王都バチカルへ。キムラスカは貴方がたを歓迎致しますわ」

毅然としたナタリアの洗練された笑みは、自信に満ちあふれている。相手があのマルクトの軍人だとしても、恐れもなにもないのだろう。なにより彼女の胸にははち切れそうな好奇心が常に満ちている。

「直々のお迎え、恐れ入ります。お目にかかれて光栄であります。私はフリングス・アスラン少将です。マルクト皇帝の名代として参りました」

ナタリアを眩しそうに見るフリングスは、膝は付かない。皇帝の名代だからだ。ここで謙りすぎては皇帝の名に傷が付く。それでも最低限の礼儀を持って言葉を返した。イオンもそれに続く。

「ダアトの導師、イオンと申します。此度の場をご用意頂いて、本当に有り難うございます。――すみません、ナタリア殿下。ヴァンは、ティアはどうなりますか」

この数ヶ月うちにルークから事情を聞いていた分、余計に二人に対する処罰が気になるのだろう。不安げに問うのに、ルークも気になってナタリアへと視線を向ける。

「ヴァン謡将は行方不明となったルークの捜索に向かう前に、ルークだけでなく首謀者であるティア・グランツの行方も捜し出し、必ず戻り共に拘束されること、そしてその後の処罰に従うこと、を誓約しました。あとはキムラスカの法に則って、なにかしらの裁きが下るかと思われますが、なにぶん初めてですし、特殊なことなので、時間がかかるやもしれません。

何せ、ティア・グランツは兄であるヴァン・グランツの暗殺を、よりにもよってファブレ公爵の屋敷で成し遂げようとしていたのですもの。もし暗殺が成功していたら、キムラスカはダアトと剣を交える結果になっていたかも知れないのですから、事態はとても複雑ですわ」

そう告げてから、少し考えるように小首を傾げる。

――もし、ヴァン謡将が本当に暗殺されるような理由をお持ちでないのなら、ということが前提ですけれど。これがグランツ兄妹の共謀でルークを亡き者にしようとする企みでなければ、極刑は免れますわ」

ナタリアの言葉にこの場に居る人間の殆どに僅かな緊張が走る。疑惑を持つフリングス、ダアトでのヴァンを知っているだろうイオンとアニス、そして深い繋がりを持つガイと、身をもって知っているルーク。それぞれが沈黙する。

「ですが失礼ながら、イオン様にはひとまず二人のことは切り離して和平交渉へと臨まれた方が、マルクトの為にも、またダアトの為にも、よろしいかと思います。和平条約が結ばれることを、私も、またキムラスカの一人の民としても、切に願いますわ」

ここはあの二人のことを一時的にも無関係としておく方がいい、と促されたイオンが俯いた。キムラスカは二人を和平交渉とは別々に考えるつもりだと、ナタリアの口から最大限の譲歩が出れば、イオンはなにも言えない。それならば、和平交渉に専念し、結果を出した方が良い。

「…そう、ですね。キムラスカのお心遣いに、感謝いたします」

顔を上げたイオンの顔にはもう、迷いはない。未だ幼さを残したその貌は、けれど意志を強く宿している。ダアトの導師としての、表情。イオンの視線に頷いてナタリアが体を城の方へと向けた。

「さ、貴方がたはこちらへ。マルクトの兵士の方はバチカル守備隊の兵舎の方にご案内致します。ルーク、あなたは後ほどお父様にお顔をお見せになっても…」

「いや、俺もご挨拶に伺う。それに是非、マルクトの情勢など、陛下にお伝えしたいこともある」

「まあ…ルーク、貴方お疲れではないの?」

少しお屋敷で休まれては、と促すナタリアにルークは大丈夫だ、と首を振る。

「貴方がそう仰るのなら…。では一緒にまいりましょう」

ガイを先に屋敷に帰すと、先導して歩き出すナタリアの後をルークも追った。

* * *

「ナタリア、実のところ、ティアの処分はどうなる?」

踵の音すらをも閉じこめる質の良い、絨毯の敷かれた廊下を歩きながら、ナタリアの斜め後ろから問う。先程イオンに告げた内容よりももっと、実情の方を聞きたい。

ナタリアはちらりとルークの背後に続く三人を意識したが、噂程度に話すことにしたらしい。顔は前に向けたまま、声音を落としてルークの言葉に返す。

「あの軍人は大詠師モースを長に置く、情報部の人間らしいですわね。今回の事件を聞きつけた大詠師モースが慌ててキムラスカへやって来て、随分熱心に弁明されていましたわ」

思わず舌打ちしそうになる。もちろん城中でそんなことをしようものなら即刻追い出されてしまうから、出来る訳がない。ただぎり、と奥歯を噛み締めるだけで耐える。

別にティアを弁明をすることが悪い訳ではない。モースが本当に部下を思って告げた言葉なら。それだけじゃない、余計なことまで陛下へ吹き込んでいるだろう、そのことがルークに頭痛を覚えさせる。預言を遵守する世界とはいえ、依存するのとは違う。モースは必要以上に…まるでキムラスカを陰から操るかのように、預言を重視しすぎる。

「また、導師イオンという後ろ盾もありますし、貴方も無事にお帰りになったから、お父様もきっとモースの望む通り、ご恩情をお掛けになるでしょう。おそらくは、国外強制退去の後、二度とバチカルに立ち入らないという誓約を守るならば不問、とされるはずです」

先程イオンに告げていた内容から、もっと重い罰になるかと思っていた。意外だ。驚いたそのままに言葉が出る。

「随分軽いな」

「ええ。その代わり、ダアトではもっと重い懲罰を科すことで、許されたのですわ」

ナタリアは一度言葉を句切って、ふう、と息を吐く。話が重い所為だ。こういう話題は施政者であろうと胸が塞ぐ。

「ただ、ヴァン謡将の方はどうなるか、判りませんけれど。ティア・グランツの分も、キムラスカでの罰を受けるのではないかしら。血の繋がりだけではなく、組織全体で言えば上司と部下ですもの。――でも謡将の立場から、そこまで重いものにはならないでしょう」

そうでなければ今度は、ダアトがキムラスカに反感を抱き抗議が上がるだろう。きりがない。その辺りを天秤に掛け調整しながら処罰を決める、それには相当な時間が掛かりそうだ。その間、おそらくはヴァンは決定的に疑わしい部分がなければ、キムラスカに幽閉されることなく自由に動くに違いない。ヴァンほどの男が、処罰が下っても逃げも隠れもしないだろうという、判断――暗黙の了解の元において。

その間に、ヴァンを監視する役目のものがいたとしても、そんなものは容易く誤魔化せてしまうだろう。そうして暗躍を許すのか。

どうしても暗くなってゆくルークの思考を打ち消すかのように、ナタリアは明るい声を上げた。

――そうそう、叔母様が貴方の帰りを心待ちにしていますわ、ルーク。本当はガイと共にケセドニアまで向かおうとされていたのですけど、さすがにそれは、と皆でお止めしたの。ルークが帰るまでは倒れてなど居られないとおっしゃって。首を長くして待ってらっしゃるわ」

くすりとナタリアが笑う、それにルークも屋敷の方へと視線を向け、僅かに笑んだ。

母は体の弱さは変わらないけれども、精神的に以前よりは少し、強くなった。ルークが一度誘拐されて、戻って来てから。『彼』を屋敷から失って以来、『彼』がルークに与えたものを、母なりに与えようとしている。

――『彼』が変えたのは、ルークや、ガイだけではなかった。

* * *

バチカルにとっては珍しくも緑の茂る最上階、久しぶりに戻った屋敷で、門を警備していた白光騎士団員を始め、玄関ホールでメイドたちから一斉に出迎えられる。

それに答えて、玄関ホール内を見渡す。見慣れている室内の様子が懐かしい。中庭から入る光を受けて、きらきらと光を弾く空気中の音素まで目に映るようだ。

漸く帰って来た。じんわりと体を包むのは安堵か、疲れか。長い旅だった。けれど、ルークの世界を覆すようなことの連続でもあった。――いい意味で。

よりいっそう、ヴァンに対する疑惑ばかりが強まった旅でもあったけれど。

戻した視線の先、父であるファブレ公爵が立っている。ルークほどではないが、確かに赤い、その名の通りの髪。その斜め後ろには、セシル少将も居た。恐らく報告を受けたところだろう。ガイの姿は見えない。

父とセシル少将の二人をこの屋敷で見るのは正直不快だと思う、そのこころを押し隠す。

『彼』が望んだようには、父とは歩み寄れては居ない。やはりルークにとってヴァンとは違う、威圧のような、恐れのような、――壁、のようなものを感じている。けして触れ合おうとしない、拒絶の壁だ。

それでも、昔のように言いなりにはならず、『王位継承第三位』という己の身分に甘えることなく、自分の頭で考え、手足を使って行動している。それを疎ましく思われようとも。そうやって生きたいと、自分が望むのだから。

「…父上。ただいま帰還しました。ご心配をお掛けして申し訳ございません」

ゆっくりと、急きすぎないように近寄り、父親に頭を下げる。その下げた頭の上から、威厳のこもった低い声が落とされた。

「再び、絶望の旅から無事に戻ったか。それがどういうことか判るか、ルーク」

「はい」

自分独りでは生き延びることは到底、出来なかった。ここまで不自由なく過ごし、なにも損なうことなく、手をなににも汚すこともなく、なおかつ無事に戻ってくることが出来た。自分を救ってくれる誰かと出会う、その出会い――運と言ってもいい、それを掴めたことが最大の僥倖だ。

「…お前には、軍神の守護があるのやもしれぬ。お前だけの、神が」

父親の言葉に頭を上げる。向けられた視線に、ルークが思うのは『彼』のことだ。父も同じように、『彼』のことを思い出しているのだろう。

誰よりもルークに命の重さを伝えた『彼』を軍神と喩える父も恐らく、『彼』の強さに気付いていた。気付いて、更になにかを考えて、ルークの傍を許していたのだと、今でならそう思える。なにを考えているかは、判らないにしても。

「……三度目もあると思うか」

――は?」

ひたとルークを見据えたまま、ぽつりと告げられた父らしくない言葉に、ルークが戸惑い思わず聞き返す、それにゆるりと首を振って、ルークの背後に揃うイオンとアニスを見た。

「これは…導師イオンもご一緒か」

「勿体なくも、この旅の間私を友として接して下さいましたので、屋敷に招待させて頂きました」

謁見はモースが同席することになったものの、一応はつつがなく終了した。ルークもマルクトの現状を説明し更にはイオンの仲介もあって、マルクト皇帝の名代としてフリングスが持って来た親書を前にしては、モースも自分だけの主張を強く通すことは叶わない。それを許すほど、陛下はモースに傾倒していないようだった。その場で棄却することなく一考すると答えたところで、今日は解散となった。

フリングスやイオンには城に部屋が用意されていたが、イオンがルークの屋敷を見たがったので、そのまま連れて来たのだ。

「それはそれは。長旅でお疲れでしょう。どうかごゆっくりおくつろぎ下さい」

「ありがとうございます」

イオンが弾んだ声で答え、頭を下げる。それを受けた父親がルークを再び見遣った。

「ルーク、応接間でシュザンヌが待ちかねている。早く顔を見せてやりなさい。私は登城する」

「いってらっしゃいませ」

恐らくこれからしばらくは和平条約についてや、グランツ兄妹に対する会議で遅くなるのだろうな、と思いながら、セシル少将を従え歩き出す父親の背中に向けて、ルークは静かに頭を下げた。

屋敷の中を歩く度、メイドや白光騎士団員たちから次々と声を掛けられる。

「ふわ~、ルーク様って、すごいんですねえ」

泣き出すメイドを見たアニスが、口許を押さえながら小さく感想を漏らした。ルークとて、ここまで喜ばれるとは全く思ってなかったから、少し、胸がむず痒いような照れくさいような、何とも複雑な心境になる。

旅立った時に比べてはっきりと暖かい温度を含んだ光が射す眩しい廊下を通り、応接間に静かに立ち入った。

部屋に満ちた静寂。降る陽の光すらも遠慮するかのような静謐。

中央の白い、大きなテーブルの前に、俯きがちなほっそりとした背中が見えた。

旅立つ前に見た時よりも、また痩せられた気がして、掛けた心配の深さに胸が抉られたように痛む。病状が悪化していないといいが。

そう思いながら、そっと、声を掛けた。

――ただいま帰りました、母上」

控えめに発したはずのルークの声音が、静寂を保っていた部屋に際立って響く。

はっと彼女は俯いていた顔を上げ、細い背中がルークを振り返りながら椅子から立ち上がる、それを制する為にルークは距離を縮め、膝を付いてその体温の低い、やせ細った左手を出来るだけ優しく、取る。

母の手は、震えていた。その手が、ルークの手を儚いか弱さでそれでも強く、握り返す。

「長い間、留守をして申し訳ありません。ご心配をお掛けしました」

「おお…ルーク……本当にルークなのね」

じわりと潤む瞳を見て、ルークは慣れないけれど出来るだけ、安心出来るように柔らかく笑んで見せる。彼女は震える右手で、ルークの頬、瞼、額、と続けて触れ何度も辿って行った。今ここに居ることを確かめるように。

そうして声までも震わせて、彼女は言う。

「ずっと、貴方の帰りを待っていましたよ、ルーク」

「有り難うございます。ですが、どうぞお体を大事にして下さい」

これほどまでに心配などしなくてもいいのに。そうルークは思う。彼女はルークが、自分の息子がこの世で最も恐ろしい、破壊の力を持っていることを知らない。なにがあろうとも、この身に危害が加えられそうになれば瞬時に敵味方関係なく爆発してしまう、それを知らない。彼女がこんなにもこころを砕いてまで、心配するような人間ではないと、ルークは思う。それでも。

「なにを言うのです。今日まで無事に生きた貴方の命を容易く失ってしまうかもしれない、そのことを思えば、母だけがのうのうと寝ていることなど出来ませぬ。第一、命をもって貴方を助けてくれた、あの人に向ける顔がありません」

落ちる雫が母の手を握るルークの手の甲へと落ちる。

とても優しい温度だった。

あたたかい、感情のこもった、慈雨だった。