ごう、と強い風が夜を渡る。
バチカルはその立地から遮るものもない上に、西と東のアベリア平野の間に連なる山脈の方から時折、海からの強い風が来ることがある。それでもこのバチカルがこの形で普遍に在り続けるのは、ひとえに発達した譜業があるからだ。
久しぶりに肌で感じるバチカルの夜風を受けながら、警備の白光騎士団以外は寝静まった屋敷の中を歩き、辿り着いた部屋の鍵をそっと、廊下に音を響かせないように開ける。
灯りが要らないほど皎々と月の光が入るその部屋――以前『彼』が使っていた部屋で扉を閉めたルークは、ひとつだけ、『彼』が居なくなってから増えたテーブルの上に安置された、未完成のパズルの表面をなぞった。
どうしたって、ルーク独りでは完成させることの出来なかった、それ。
遮光の布を被せ、手入れは充分にしているから七年経った今でも色褪せることもない。
ルークは軽く部屋を見渡す。特に意味はないが、過去何度と立ち寄ってもここには彼の気配が未だ、強く残っているような気持ちになる。
静かに、息を殺すようにしてベッドの傍らにあるサイドテーブルの方へと進んだ。
その引き出しには鍵が掛かるようになっている。
ルークは自分の上着の内側、右の内ポケットを探り、それを取り出した。
革の切れ端を編んで作った、天然石のブレスレット。七年前、彼が別れ際にくれたそれには、サイドテーブルの鍵が結び付けられている。
この七年、バチカルで過ごしている時も、旅の間も肌身離さず持っていた。見る度に切ない別れを思い出しては胸を痛め、それでもこれはルークにとって、自分を守ってくれる象徴だった。
『あなたの過去・現在・そして未来が輝くように』
そういう意味のあるブレスレットを最後に渡してくれた、彼の願いを想うと、そう願われた自分を想うと、たまらない気持ちでいつも体が、胸が苦しく震えた。
果たしてルークは、自分の未来が無いとして相手の未来が輝くように、と祈れるだろうか。死、に追い詰められてもなお、誰かを思うことが出来るだろうか。
引き出しの鍵を、そっと開ける。
そして中を確認するべく、取っ手に手を掛けたところで――、
「こんな夜中になにしてんだ、ルーク?」
「……ガイ」
肩越しに振り返った先、僅かに開いた扉を抜けて、するりと音もなくガイが部屋の中へと入り込んでいた。
ルークがイオンを連れて屋敷に戻った時、ガイは中庭にお茶の準備をしているところで、そこで母とイオンと共に小さな茶会を開いて短い時間を過ごしてからは、会っていなかった。ルークもガイも、仕事が溜まっていたからだ。
こうなるとかったるいと言っていた割には、疲れた様子もない。ただ、じっと真剣な表情でルークの動作を見守っている。
互いに無言で見つめ合った後、言葉を発したのはガイの方だった。
「――お前、ケセドニアであの人に会ったんだろう? 何て言ってた?」
低くひそめた声で問い掛けてくるのに、どこからどこまでを話すか、暫く悩む。
『彼』が未来から来た、己のレプリカであること。未来を変えたいと思っていること。一息に話すには、理解して貰う為の情報が多過ぎて、混乱させてしまうだろう。また、いつか裏切るガイに全てを話すのもどうか、とも思い迷う。
結局、無難なところを口にした。
「…一段落したらキムラスカに行く、とは言っていた」
「じゃあ、戻ってくる気はあるんだな!?」
「ああ。今はすることがあって無理だが、もうすぐ帰る、と」
「そうか…」
ガイの言葉に頷いて返せば、どこか安堵した表情で深くため息を吐く。そして改めてルークに視線を戻したガイは、首を傾げた。
「それで、お前はここで何をしてたんだ、ルーク?」
「あいつが、日記を読めと言っていたのを、思い出した」
他人の日記を読むというのは故人のものですらも、暫し躊躇する。『彼』が生きている、と信じていたルークやガイにとっては、なおさら。だから多大な興味があるのに、開けたいけれども開けてはならない、なんとももどかしい禁断の引き出しでもあったのだ。
それを開けてしまった、と言えば、ガイも興味深げに覗ってくる。
「読むのか?」
「――どうだろうな。お前こそ読むべきなのかも知れない」
開けた引き出しの奥から、持ち運びが出来るくらいの大きさをした帳面を取り出して、ベッドに放る。ガイに向けて。
正しいことは読まないと判らないが、ルークは『彼』から直接様々なことを聞いて来た分、急いで読まなくてはならないほど、日記の中に真新しいことは無いかも知れない。『彼』の様子からも、急かすようには見えなかった。それに、詳しいことはジェイドからいずれは聞ける。あの男はすぐに会えると言った。ジェイドがそう言うからには、近いうちに詳しいことを聞けるはずだ。それに。
ヴァンが――必ずしもガイの味方ではないことを、知らせるべきか。
出来ればガイは、こちらの味方であって欲しい。その身のこなしや剣術もそうだが、何より『彼』にとって、この時間ではなくてもガイは親であり兄代わり、という特別な感情を持つ相手だ。敵対するよりは傍に居て貰えた方が、ルークとて有り難い。ガイには復讐の相手だと思われているだけだろうが、ルークにとってガイはやはり、幼馴染みだ。
ガイでなければ、復讐の相手、と定められてなお、傍に居続けることはない。あいにく、簡単に殺されてはやれないけれども。
この『超振動』という力がある限り、ヴァンはけして、ガイにルークを殺させたりはしないだろう。つまり、復讐は成し遂げられないことを――最悪、邪魔することすら考えておきながら、それを告げもしないで居る。それはある意味、裏切りだと、ルークは思う。
それにきっと、ガイは何も知らされていない。――レプリカのことも。
「……ガイ、お前はレプリカ、というものを知っているか。フォミクリーという技術で作り出された第七音素のみで構成される、複製のことを言う」
日記には手を付けずにガイを振り返って問う。ガイは少し考えてから、首を横に振った。
「レプリカ…? いや、聞いたこと無いな。そんなもの、実際にあるのか?」
「あった、というべきか。もし今もあるとするなら、それはきっとベルケンドの研究所くらいなものだろう」
そこではレプリカ研究が盛んだったと、ルークは本で読んだことがある。今では公にしていないにしても、研究が完全に廃れたとは思わない。考えようによっては、便利なものだから。
興味を持ったのか、ガイが腕を組み首を傾げながら、言う。
「へえ…複製を作る、か。想像付かないな。同じものをもうひとつ作るのと、どう違うんだ?」
「音機関や譜業なら、時間と材料の節約にもなるし、手間を掛けることもない」
「ああ…完成品が瞬時に増える訳だ。はは、なるほど便利だな」
笑って頷くガイから、視線を逸らす。
今まで、誰にも言えないでいた。誰に言えるだろう。言って、信じて貰えるだろう。
『超振動』という力とはまた別の、不安もあった。自分は『何』なのか。レプリカのオリジナルというものは、『何』であるのか。レプリカと共にこのまま生き続けることが出来るのか、それは厄災にならないか。『超振動』という力を抱えてなお、忌避されるものではないか。だからこそ出来るだけ資料を集め調べ尽くし、それでも拭いきれない不確かなものへの、懸念があった。
けれど今回の旅でレプリカをよく知るジェイドに、そして『彼』に会えたからこそ、自分…オリジナルとレプリカという存在を認められたし、レプリカが生まれたことによって起こる未来――先のことに対する漠然とした不安も僅かに減ったように、感じている。
それに、ガイが本当に復讐を遂げる気があるのなら。その為にまだ、傍にいるというのなら、これから避けて通れる話題でもないだろう、きっと。それなら、何かの偶然で知られるよりは、自分の口で告げた方がマシだ。…たとえ、告げたことによって避けられることになろうとも。
ルークは深くため息を吐くと、重い口を開いた。
「……それを生体で行った人間が居る」
「生体? 動物で、とか?」
「人間だ」
「――っ、ひと、で!?」
ガイの驚いた声が、部屋の中に響く。びくんと体を揺らしてその青い瞳を瞠り、それから体全体で言葉を吟味しているかのように動かない。
「え、それは、赤ん坊じゃなく…最初から、育った、大人の人間が、作れるってことか?」
余りの驚きでなかなか言葉を継ぐことが出来ずに居たガイが、額を抑えながら言葉を紡ぐ。月の光だけでなく、僅かに青褪めた表情で。
今までの常識からは、――倫理的にはとても、俄に受け入れがたい話なのだろう。ルーク自身とて、自分の話でなければまず、信じられない。実物をみないことには荒唐無稽な話のはずだ。
「レプリカを作る為には、まずひとりの人間から、レプリカの基、となる情報を抜く必要がある。この人間は被験者――オリジナルと呼ばれる。
レプリカは複製品だが、オリジナルと同じ性質を持つことが出来る。だが音素振動数は全く違う」
「つまり――、つまり、計算が得意なヤツのレプリカを作ったら、」
「計算が得意だろうな。だがオリジナルと比べて、多少、能力は劣化するものらしい。オリジナルの六割程度だ。それでも充分だろう」
「はー…、本当なら、そりゃ凄いな。でも、実際には居ないんだろう?人間のレプリカなんて。そもそもそんな凄い技術のことだって、聞いたことなんか無いしさ」
力なく苦笑してそう訊いてくるガイに、頷くことが出来ない。僅かに目を伏せ、言葉を続ける。
「居る。――俺の、レプリカだ」
「…っ、」
今度こそ、完全にガイは絶句した。
夜風が、寝静まった屋敷の窓を揺らしているしばらくの間、沈黙が訪れる。
その間、ルークは何も言わずガイをただじっと、見返していた。
「お――お前の…?」
ガイが震える声で問うのに、頷く。馬鹿な、と口が動いた気がした。
――そうだ、なんて、馬鹿な。馬鹿なことをしてくれた。
こんな、化け物のレプリカなど…けして作ってはならないものを作り、生命を弄んだ。
たとえヴァンの企みが、なんらかの理由のある仕方のないものだったとしても、歪な形で命を生み出したこと、それだけは人として、許されてはいけない。それも望まれていない、ただの兵器としての命など。
それは悲劇しか、生まない。
「…七年前、俺が誘拐された時、レプリカ情報を抜かれて俺の複製が作られた。作った奴は、レプリカの方をこの屋敷に戻そうとしていた。
――ガイ、もしかしたら今ここに、お前の目の前にいる俺は、『ルーク・フォン・ファブレ』のレプリカかもしれない、と言ったら、どうする?」
「そん、な…馬鹿なこと、」
「言い切れるか?レプリカはオリジナルと見分けが付かないんだぞ」
未だ衝撃から立ち直っていない状態のガイに言葉を重ねれば、彼は髪をかき混ぜながら俯いた。苦渋の表情に、やはり、と実感する。ガイは、何も知らされていない。それがガイを慮ってのことだとは、ルークには到底思えなかった。
ふ、と息を吐いて、ルークは悩むガイへ声を掛けた。
「――嘘だ。オリジナルとレプリカの決定的な違いは、記憶の共有が出来ないことだ。どんなにオリジナルの真似は出来ても、これだけは別の存在だからこそ、出来ない。俺にはちゃんと、誘拐される前の記憶もある。――あいつの記憶がある」
「脅かすなよ!」
顔を上げたガイが声を上げる、それににやりと人の悪い笑みを向けてみせれば、ガイも僅かに平静を取り戻す。ふう、と深くため息を吐いた後、気分を誤魔化すように頭を掻いた。
「……その、…レプリカは結局、どうなったんだ?お前は、自分のレプリカがどうしているのか、知っているのか?」
「ああ、あいつに教えて貰った。――その日記には、多分、俺のレプリカについて書いてあるだろう」
ベッドに置かれたままの日記を視線で示して言えば、ぎょ、としたようにガイは半歩後退った後、日記とルークの顔を交互に見る。
「え…!? ちょ、ちょっと待て、あの人はお前のレプリカを――…知って、いる、はずがないだろう!そんな前から!」
この日記は、『彼』がこの屋敷を離れる前に書かれたもの。レプリカは『彼』がこの屋敷を離れた後に誕生した、もの。
「どうしてだ? おかしいだろう、なあ、ルーク!?」
言い募るガイの言葉には返さず、月の光の下、ルークはガイへと言葉を続けた。
「――さあ、読むか?ガイ。誰が、俺を誘拐し、そしてレプリカを作ったのかもきっと、書いてある」
ガイはもしかしたら、ルークの誘拐が誰によって行われたか知っているか、もしくは薄々感づいているのかも知れない。
それを知らずに生きていくのも、こっちに踏み込んでくるのも、ガイ次第だ。
ガイが『彼』を求めるのなら、復讐を遂げるつもりがあるなら、避けては通れないもの。
――ガイ、お前は、ここまで深みにはまる気が、覚悟があるか?
* * *
二人で取り掛かっている福祉や教育関係の進捗状況を確認しに、ルークがナタリアの部屋へと訪れた時、ルークが屋敷に帰って来てから四日、経っていた。
書類を見てはナタリアへ問い、時に議論を交わし合う。そうして二時間程過ごした頃、一区切り付けたルークは眼鏡を外し、メイドが淹れた紅茶へと口を付ける。
ナタリアはルークなどいなくても、充分にその力を発揮している。ルークと違って数年前から実際に自分で公共事業に携わっているのだし、その分ルークよりも経験がある。二人で、とは言ってもナタリアの考えを理解し、使える人間が足りない分を、ルークが補っているのが実体だ。
幼い頃はルークの方が色々と教えることがあったのに、今では逆に舌を巻く。そう感心すれば、彼女は上品に頬に手を当て、謙遜して見せた。
「いいえ。まだ、貴方の考えには及びませんわ、ルーク」
「何を言う」
一体、ナタリアの中で自分はどれだけ優秀な人間になっているのか。これでは期待を裏切らないよう、ルークとて努力を怠れるはずがない。カップを置いた手でルークがもう一度、書類を手に取り、ナタリアの手腕に感心していると、ふ、とナタリアが小さくため息を吐いた。
「…ルーク、もしわたくしが……」
俯きがちに両手でカップを支え、ナタリアが独り言のように呟く。
「私が、王女などではなくて普通の、キムラスカに住まうただの民でしたら――どんな生き方をしていたと思います?」
「……ナタリア?」
「もしも、のお話ですわ。 ふふ、普通はお姫様なら、と夢想するのでしょうけれど、私の場合は逆ですわね」
小首を傾げて少女のようなことを訊いてくる、彼女は昔からそういうたとえ話をしてルークに答えをせがんでは、判ってないわとよく怒った。未だにルークにはナタリアの言う、女心というものは計りかねる。判らないが、答えないのも今までの経験上、機嫌を確実に損ねるので、少しの間思考して思った通り正直に答える。
「その場合は――俺は国王になって、平民の、かつ女性が政治の場に立てるような制度を作るだろうな」
「まあ、ルーク! それが本当に実現出来たら、どんなに素晴らしいことでしょう」
ナタリアが花開くように、鮮やかに破顔する。
政治は一部の貴族のもの、そして男社会だ。――ルークが、ナタリアの手伝いをする理由でもある。雛鳥が差し出がましいと誹られようと非難されようと、ナタリアの考えを形にする為に男、という性別が必要なら、名前と同じくルークは使うだけだ。その代わり、ルークには自由と、立場…役職がない。そこはナタリアに補って貰う。互いにどう動くのが一番か、理解出来ている最も近しい間柄だからこそ可能なこと。
身近で見てきたからこそ、ナタリアがたとえ平民と生まれても、今とそう変わらない――、第七音譜術士としての力を惜しみなく使い、福祉に率先して関わっているだろうし、指導者としての力を発揮していることだろう。常に好奇心を持つ彼女は、教育者にも向いているのではないだろうか。そして、どこに居ても彼女の周りには彼女を慕う人間達が集まる。そういうことだ。聡明なるキムラスカの光。どこに生まれようとも、その光は隠しようがないだろう。ならば光が消えないように、そういう人間が自分の力を存分に発揮出来る場所を、用意するのが政治に関われる人間の努めだ。
「きっと、お前はどこにいようとも、どんな境遇でも変わらない。そう、俺は思う」
「あら、買い被りじゃないかしら、ルーク」
うふふ、と鈴を転がすような声で笑った後、ナタリアは膝の上に揃えて重ねた両手の、綺麗に整えられたつま先を見詰めながら、ため息を吐くように続ける。
「…そうだと、いいわ……」
「ナタリア? どうした」
力のない呟きを不審に思い問い掛けるのに、ゆるくナタリアはその煌めく髪を揺らして首を振る。
「いいえ、なんでもありません」
真意を探ろうとルークが無言で見詰めれば、ナタリアは安心させるように淡く微笑む。
「本当になんでもありませんわ、ルーク。ただ…よく判らないのですけど最近、漠然と不安になることがあるのです。私は、ここに居ても良いのかしら…って。もう子供でもないのに、本当におかしなこと。私にはこの城以外、帰る場所などどこにもないのに……」
もしやまた、謂われのない中傷を受けているのでは。
ルークが無言のまま眉間に皺を寄せれば、そのエメラルドの瞳を細めてナタリアはにこりと、いつもの自信に満ちた笑みをルークに向け、きっぱりと言い切った。
「いいえ、違います。何もないのです。いつも通り、平穏で多忙な毎日ですわ。ご安心なさって、ルーク」
ひた、と合った視線は少しもぶれない。
ナタリアが何もないというのなら、そうなのだろう。そう思い、ルークはひとつ、息を吐いて無意識に込めていた肩の力を抜く。こちらが過剰になり過ぎては本末転倒だ。なにがナタリアを不安にさせたのだろう、そう考えて、自分が行方不明などになるからか、と思い至った。目的があったからこその無謀だったが、ナタリアや母には七年前の記憶を甦らせ、悪戯に不安にさせてしまったかも知れない。ルークは苦い気持ちで幾分冷めた紅茶へと手を伸ばす。
ナタリアは不意に窓の向こう、眩しく広がる空へと視線を向け、無限に広がる青を見詰めながら、口を開く。
「平穏…そうね、それに間違いはないのだけど、何故か私にはどうしても、嵐の前の静けさのように思えて仕方がないの。なにか、――なにか、近いうちに世界がひっくり返るようなことが、起こるのではないかと…」
識っている、気が、するの。
「私、変ですわよね。……おかしなことを言ってごめんなさい、ルーク」
忘れて頂戴、そう苦笑するナタリアへ、声を掛けようとしたところで、部屋の扉がノックされた。