ナタリアと共に呼び出された謁見の間にはインゴベルト陛下、元帥である父、マルクト皇帝の名代フリングス、それから大詠師モース、その傍らにティアが立っていた。ティアは釈放されたのだろうか、見たところ拘束されているようにも思えない。

そしてルークは、たった今、インゴベルト陛下が発した言葉を頭の中で反芻し、口に出して繰り返した。

「キムラスカ・ランバルディア王国の親善大使として任命…、ですか?」

和平条約が無事締結されたことに、異論はもちろんない。目出度いことだと思う。国中が喜んでもいいくらいの出来事だ。それで、何故アクゼリュスの住民保護要請が、親善大使派遣になるのか。

ルークは首を傾げそうになるのを、意志の力でなんとか押し留める。確かに、アクゼリュスの住民をマルクトと協力して助けることになれば、両国にとって目に見える和平の印になる……だろう。恐らく。

ジェイドが、アクゼリュスの整備の任務に就いていたことを思い出す。

街が瘴気に覆われているとは、ジェイドの口からは一言もなかった。実際は瘴気によって街への道が完全に封鎖状態にある、それの打開策を練っていた、もしくは実行していたところか。機密に触れるから誤魔化したのだろう。機密だ、と切って捨てても良かっただろうに。おかしなところで気を遣う男に内心、苦笑する。だがその気遣いがなければ、ルークはジェイドに対してもう少し、壁を作っていたかも知れない。

住民の保護には軍が、タルタロスを使って行うのが一番適切だと思う。収容人数や安全、移動速度その他のことを含めて。どの角度から見ても、ルークが役に立つとは思えなかった。

実際には救助の方はマルクトが行っていて、キムラスカには救援……保護とは形ばかりのもので良い、ということだろうか。行った、という事実があればいいのか。それとも。

まさか、『超振動』の力を使え、とでも? ――なんのために?

ちらり、と父の表情を窺うが、相変わらず厳しいまま、特に変化もない。

真意は全く判らないがどれだけ謎があろうとも、どのみち、国王直々の命令を、ルークに拒否が出来るはずもない。跪いた姿勢のまま顔を上げ、口を開く。

「謹んで、拝命仕ります」

「うむ。この役目、お前でなければならないのだ」

満足そうに頷いた陛下の横で、父が傍らの兵士に持たせた譜石を示して見せる。

「これは、我が国の領土に降ったユリア・ジュエの第六譜石の一部だ」

「第六譜石……」

膨大に詠まれたという、ユリアの預言のかけら。それを今、持ち出す理由が判らない。不審に思うルークの前で、陛下に促されたティアが譜石の前に立ち、胸に手を当て精神を研ぎ澄ませていく。

そうして、淡い金色――第七音素の光を全身に纏うと、いつも以上に感情の欠落した声で預言を詠み始めた。

―― " ND2000。ローレライの力を継ぐ者、キムラスカに誕生す。其は王族に連なる赤い髪の男児なり。

名を聖なる焔の光と称す。彼はキムラスカ・ランバルディアを新たな繁栄に導くだろう "」

「……っ!?」

胸を、何に打たれたかのような衝撃を受ける。体に一瞬電撃のようなものが走って、震えた。息が詰まって、何も考えられない。

驚愕のあまり、現在の状況も忘れて、ルークは咄嗟に立ち上がった。

「 " ND2018。ローレライの力を継ぐ若者、人々を引き連れ鉱山の街へと向かう。そこで " …………この先は欠けています」

ふわりと風が止むように光が治まって、冷たい色をした瞳がこちらを向く。灰色掛かった栗色の長い髪がさらりと流れた。アイスブルーの瞳が、ルークをじっと、見ている。

ユリアの預言をその子孫が、ローレライと同じ力を持つ、人間に詠む。なんだこれは。なんだ、この、まるで誂えたかのような、場は。――いや、誂えている、のだ。これは預言、なのだから。

新年になって早々に行方を眩ませた自分が戻ってきて、もたらされた鉱山都市アクゼリュスの問題。まさに、舞台は整った。

誰に言われずとも、その預言が今、ここで読まれた意味を理解する。

古代イスパニア語で言う聖なる焔の光とは、『ルーク』。そして、ローレライの力を継ぐ――『超振動』が使えるのは、確かに、己以外居ない。

――……つまり、私のことですか」

目眩を堪えながら、なんとか声を出した。手が震えるのは何故だ。怒りではない。悲しみ?……それでも、多分、ない。

恐らく、恐怖……だ。

「そうだ、ルークよ。お前は預言に詠われた、選ばれた若者なのだよ」

陛下の言葉など、頭のどこにも入らなかった。ヘタをすれば頭痛に変わりそうなほどの酷い目眩を覚えながら、額を抑える。脈打つ心臓が痛いほど。冷や汗が背中を、てのひらを、じわりと不快に湿らせる。

――ローレライの力を継ぐ者。

最初から、ND2000に生まれる赤い髪の男児は、ローレライと同じ力を持つことが、判っていたというのか。だから、陛下や父は、ルークにあの実験を幼い頃からさせていたわけだ。ルークと名付けたのも、そう、詠まれていたから。全て、それが理由。

なんてことだ。

――なんて、ことだ。

『超振動』なんていう力を持つ化け物が、キムラスカを繁栄に導く、などと。何故そんなものを《預言》に詠んだのだ。繁栄に導くはずがない。『超振動』は、破壊の力なのだから。

「……そこで……?」

そこで、一体何があるのか。何をせよというのだ。何を、させるつもりなのか。

『超振動で、一つの街を滅ぼして、一万のレプリカを殺した。オリジナルの居場所と名前を奪うだけじゃない、人を、俺と同じイキモノを殺して英雄と言われた』

――っ……!」

『彼』の言葉が脳裏を過ぎって、ルークは思わず息を呑んだ。まさか、――まさか。

目を瞠り、父を振り返る。否定して欲しい。だが、父の口から零れた言葉は、表情と同じくこころの温度を感じない、無情な響きでもたらされた。

「お前の能力は、今この時の為…アクゼリュスの為に存分に振うがいい」

ルークの耳から、全ての音が消える。視界が昏い。自分が経っている場所すら、何を見ているのかすら、今がどんな時なのかすらも、見失いかけた。

使え、というのか、この力を?

信じられないものを耳にして、絶句する。血の気が引く音が聞こえた気がした。地面が揺れている気がする。これが、己の父の言う言葉か。

今、アクゼリュスを滅ぼせと、そう言ったのか。

「……正気、ですか……父上?」

空気を何度も声に出来ないまま、辛うじて、掠れた声を絞り出す。

そんな酷いことを、惨いことを、何の罪もない住民にせよと言うのか。

和平が結ばれたのではなかったか。ルークがそこで『超振動』を使えば、和平どころではない、宣戦布告だ。――六神将たちと同じように。

なんてことだ、キムラスカはそこまで堕ちていないと思っていたというのに。インゴベルト陛下は、大詠師モースの考えを完全に、受け入れてしまっているのか。

「ルーク。今までその能力を狙う者から護るため、やむなく軟禁生活を強いていたが、今こそ英雄となる時だ」

お前になら、ひとつの街と、キムラスカ全体のどちらを取るべきか、判るだろう。

厳かな音で父の言外に含ませた冷たい温度の言葉に、そんな馬鹿な、と返したかった。

絶望感に、胸を掻き毟って叫びたい気持ちになる。

アクゼリュスを滅ぼした後は、兵器としてマルクトを滅ぼせと、言うのか。

英雄?――ひとつの街を滅ぼし、マルクトに宣戦布告をし、両国を戦乱に巻き込んで、なにが英雄だ。英雄であるはずがない。――それはまるで、死神のようではないか。

『俺と同じイキモノを殺して、英雄と言われた』

『彼』の言葉が胸に何度も繰り返される。ああ、これがルークが聞くべき預言なのか。こんなものを聞いて、過去の『彼』はきっと――喜んだのだろう。

英雄になれると、そう、――……。

喜んで、街を破壊して兵器となって、そして罪の重さを識って、確かに『英雄』と呼ばれた。どんな罰だ。生まれて僅か七年の命に、なんてことを。なんて皮肉か。やめてくれ。ルーク自身は、いや、ルークも『彼』も、英雄という名の兵器になりたいなどと、そんなこと、望んだことなんて一度もないというのに……!

左手で上着の上から、鼓動の激しい胸の部分を握りしめる。噛み締めた唇が切れそうだった。

ルークがここで抗ったとして、逃れることはけして、出来ないだろう。

キムラスカ国の未来が掛かっている、預言の成就だ。陛下や父はなんとしても成し遂げようとするはずだ。ルークの自由を奪ってでも。それに完全に抗うことが出来るだろうか。六神将、ヴァン相手になら出来ると思っていたことを、キムラスカの国に、兵士達に…己の父に、出来るか。――出来るはずもない。守ると決めていたものに、力を振るえるはずがない。

それなら。――それなら。

ジェイドは、『彼』はなにか、有効な手段を知っているはずだ。この『超振動』が破壊だけの力を持っていないと、――、そう、だ。

――第二超振動。

あれはどうだ。

あらゆる音素攻撃を無効化する現象。瘴気はノーム…第二音素からなる毒素だというから、あれなら――、あるいは。

大丈夫だ、『彼』はこの預言のことも、ルークがどうなるかも、判っているはず。だから必ず会えるだろう。アクゼリュスで。焦ってはいけない。最善の機会を見失わないように、目を曇らせないように、神経を研ぎ澄ませていなくては。

落ち着こうと瞼を閉じ息を何度か吐く、その合間にぽつりと呟きが落ちる。

「ルーク。――三度(みたび)目も、あると思うか?」

それは間違いなく父の声だった。胸を押さえたまま、顔を上げ父を振り返るが、言葉の続きはなく、ただひた、とルークを見詰めている。

「……父上?」

訝しんで問い掛ける、けれどその問いは黙殺された。そのルークの背に、ナタリアが気遣わしげに声を掛けてくる。

「ルーク。帰って来たばかりでの大役、お体の方が心配ですが、貴方のことですもの。きっと難なくこなして無事、帰って来られると信じてますわ」

「あ、ああ……ナタリア。また、面倒を掛ける」

「大丈夫ですわ。叔母様のことは任せて下さいまし」

にっこりと笑うナタリアの顔を見て、いくらか平常心を取り戻したルークは、未だに震える手を隠しながら、フリングスと共に現地に向かう人数の確認などを行う。

どうやらティアは本当に釈放されていたらしい。国外永久追放の際に、ルークと共にアクゼリュスへと向かうことになっていた。これはルークが、ティアが確かに国外から出たことを見届ける役目も担っている。ヴァンは残るようだ。平和条約の方を優先した為に、審議がまだ纏まっていないのだという。

フリングスは連れて来ていた小隊と共に、ケセドニアでジェイドと合流する手はずになっている。イオンはすでに仕事を終えたとのことで、城から出ているらしい。彼も導師という忙しい身だ。残念だが、もう会うこともないのかも知れない。

確認を終えたルークに、インゴベルト陛下が声を掛ける。

「ルーク、ヴァン謡将がお前に面会を希望しているそうだ。出立前に顔を見せておきなさい」

* * *

「レプリカに会ったか、ルーク」

地下牢へ踏み込んだそこで、囚われの身とは思えないほど威風堂々としたヴァンは相変わらずその体躯をぴんと伸ばして佇み、そして前触れもなく唐突に、そう言った。

正直、会いたくはなかった。

この動揺したこころのまま会っては、ヴァンの思うように絡め取られてしまう。その危険性をはらんでいたからだ。けれど会わずにこのバチカルを出立するのも、また、躊躇われる。ヴァンを置いてバチカルを留守にする、そのことが後に憂いを残すような気がしてならなかった。

「ヴァン…」

ルークが充分に距離を取った状態でヴァンを見詰める、それを見たヴァンが口角を上げ嗤う。

「ああ…その目だ。お前はけして、嘘が吐けない。昔から」

やさしい、優しいと感じてしまう柔らかく、低い、心地の良い声で誰よりも昔からルークを、その内面までもを識っていると、ヴァンが告げる。それに判っていたさ、とルークはこころの中だけで返した。なにがヴァンにつけ込まれる隙になるか、判らないから。言葉ひとつでさえも。

もう既に隠そうともしてない警戒態勢のルークに、ヴァンはことさら優しい響きで語りかける。……もう、そんな手管は意味がないはずだというのに。

「レプリカに何を言われた?――お前の代わりに死ぬと、言われたか?それで殺そうとしていたものに、情が移ったか? お前は優しいな、ルーク。だが、その優しさでお前はいずれ、死んでしまうだろう」

――死ぬ?」

『彼』が――ルークが、死ぬ?

それは識らない。聞いていない。

何の話だ、そう視線を向ければヴァンがふ、と柔らかく師匠の顔で笑む。

「預言を聞いただろう、ルーク。キムラスカにとって、都合の良い預言だ。だが欠けていただろう?もちろん、その預言には続きがある。
" そこで若者は力を災いとし、キムラスカの武器となって街を滅ぼす。その後にルグニカの大地は戦乱に包まれ、マルクトは領土を失うだろう " ――結果、キムラスカが栄えるのだ」

ぞくり、と。

背筋に衝撃が走った。隠そうとしていた罪状を暴かれ目の前に突きつけられて、肌が泡立つ。どうしたって動揺してしまう。

ルークの様子を黙って見ていたヴァンが、両目を眇めて口を開いた。

――ほう、偉大なるインゴベルト陛下と尊敬する公爵に既に言われたか?キムラスカの為に、アクゼリュスを滅ぼせ、と」

「…………っ!!」

読まれた。

ルーク自身が読みやすいのもあるだろうが、この男は恐ろしいほど、人のこころを読むのが上手い。聡いのだ。言葉を重ねるうちに相手と自分の望むものを、容易く見出してしまう。

今だって動揺の種類を見分けてしまった。真実を知った驚きではなく、第三者の口からそれを言われた、その動揺だと見抜かれた。

ルークが無言でヴァンを睨み付ける、それに対しヴァンは僅かに喉を鳴らすように笑って続ける。

「お前は滅ぼせるのか? 優しいお前にそんな酷いことが出来るはずもない。お前には出来ないだろう、ルーク。私に任せれば、お前はそんなことをしなくてもいい」

一歩、近づくヴァンの歩みに会わせ、一歩、体の位置をずらす。ヴァンはそれ以上進まなかった。けれどまるで悪魔の囁きのようにそっと、声を落とす。

「ルーク、私なら、お前を救ってやれる」

「……ヴァン?」

「ユリアの子孫である私なら、ローレライと完全同位体であるお前を、救うことが出来る。その超振動で人を救えることを、教えてやろう。――どうだ、お前も死にたくはあるまい?」

この力が破壊ではなく、人を救えるというのなら、それは知りたい。だが、それはヴァンにではなく、『彼』に教わればいいことだ。ヴァンとて所詮、この力を持たないのだから。

ヴァンの表情はどこまでも、優しい師匠の顔だ。七年前まで確かに信頼して来た顔。でも今は信じることなど到底、出来るはずもない、顔。

その言葉、ヴァンの真意を、動揺の中、探る。

……さっきから、ヴァンはルークやレプリカ……『彼』が死ぬことを前提に話している。父からは、暗にだが、アクゼリュスを滅ぼせとしか言われていない。そこで死ねとまでは、聞いていない。

先程、『お前の代わりに死ぬと、言われたか?』と、ヴァンは言った。

『彼』はそんなことは言わなかったが、もしヴァンの言葉が本当なら。『彼』がルークの変わりに、死ぬような危険を冒そうとしていたとしたら。

――絶対に、ルークに教えたりしないだろう。

黙って、ルークを守って死ぬのだろう。あの、七年前の時のように。

「レプリカは盲目的にお前を慕っているが、それが完全同位体というものか。――だが、ルークよ。所詮は違う生き物、出来損ないだ。絆されてはならぬ。信用する価値のない、ただの人形に惑わされるな。いつか、お前の居場所を奪い取る隙を狙うかも知れん、卑しい存在だ」

そんな馬鹿なことがあるか。

ヴァンの言葉にこころの中だけで返して、動揺する自分を叱咤して必死に思考を巡らす。

今日まで告げられなかった預言と、ヴァンの言葉と言い足した預言を元に考えれば、すぐに予想は立つ。

――…死ぬ。

ルークは、アクゼリュスという街で、兵器となって死ぬ、のだろう。

『三度目も、あると思うか?』

先程の、父の言葉が頭を過ぎる。

ルークが旅から戻って来た時、そう言っていたことを敢えて今日、繰り返したのは。

知っているからか。

ルークが死ぬことを。二度と、ここには戻らない。そのことを知っているからか…!

「……っ、」

死ぬ。

いやに自分のこころの中でおさまりの良いその言葉に、間違ってないだろうことを悟った。じわりと、こめかみを冷や汗が辿っていく。傷む唇は血の味がした。

――ああ、死ぬのか。

だからか。だから、預言によって生まれる前から全部が判っていれば、兵器として育てるのに何の抵抗もなかったのか。

だから、兵器としてアクゼリュスに向かえと、言えるのか。

キムラスカの為に死ねるか、と問われれば、すぐに答えは出ない。死にたくはない。『彼』が望んでくれている。絶対に死ねないと思う。出来るだけ足掻く。預言通りに死ななければ、追われるか、もしくは確実に死ぬよう、処刑人を同行させる旅になるか。……それはもしかしたら、ガイの役目になるかも知れない。

すぐに母と、ナタリアの顔が思い浮かぶ。

抗って、それでどうしようもなく死んでも、やはり母とナタリアには二度と会えない。ならばせめて、別れの言葉を言う時間を与えて貰えるといい。たとえ僅かでも。

――だが。

『彼』は死ななかった。そして、預言から離れた、別の未来を導き出した。ならば、ルークにも等しくその機会はあるはずだ。生き延びる為の何かの方法があり、それを成し遂げさえすれば。

――たとえそれで、キムラスカに繁栄をもたらせなくても。

ヴァンが本当のことを言っているとは、限らない。

だがもし、ルークが兵器となる所為で戦争が始まったとして、マルクトがなくなるのなら、この世界にはキムラスカしか国が存在しないのだから、繁栄するも何もない。ただひとつきりを、普通繁栄とは呼ばないだろう。

――それは、滅びだ。

古来から、頂点に上った帝国はゆるゆると衰退し、いずれは滅ぶ。繁栄や発展は競い合う相手が居るからこそ起こる現象であって、競う相手が居なければ傲る。研磨を怠る剣など、曇って斬れるはずもない。

これは、世界が滅ぶ、預言だ。

そこに思い至った瞬間、無防備な後頭部を殴られたような衝撃を受けて、びくんと体が震えた。呼吸が高熱を発した時のように震える。ずっと走っているかのように心臓が内側で脈打つ、それに吐き気すら催す。絶えず握りしめるてのひらには血が滲んでいた。

今日何度目だろう。恐ろしい結論に達するのは。

ヴァンの声はとうに聞こえない。ルークの動揺は、ヴァンの言葉に酩酊しているからだとでも思えばいい。

ああ、本当に、なんてことだ。なんてことをしてくれた、ユリア。

それなら、キムラスカは繁栄してはならない。預言の通りになっては、ならない。力を使って兵器になることはけして、許されない。そして。

――絶対に、ルークは死んではならない。なにがあろうとも。

ルークには、『彼』が必要だ。ずっと求めている相手というだけでなく、己のレプリカというだけでなく、この世界を滅ぼさない為にも。

七年前の夜、極めたはずの決意。強さを、何があっても、這い蹲ってでも、手に入れる。

――預言の成就を願うキムラスカと、たとえ決別することになっても。

オアシスで、まるで、ルークこそが未来を変えるその役目を担っているかのように、『彼』は言った。

まさしくそうだった。当たり前だ。『彼』の時間では『ルーク・フォン・ファブレ』という存在は、『彼』…レプリカの方だったのだから。

『彼』と二人で、預言にない、新しい未来を紡がなくてはならない。

「ルーク、知っているか」

ルークと違い心情を表になど少しも漏らさず、黙ってルークの様子を見ていたヴァンが口を開く、それに遠いところから意識を戻し、ゆるゆると顔を上げて見る。

ヴァンの目にどう見えていようが、今のルークには構わなかった。動揺による憔悴と取られようとなんだろうと、ヴァンの言葉は耳に入らない。頭を通らない。

『彼』に逢いたい。早く。一日でも早く、逢いたかった。

そうしてヴァンは、とっておきの魔法の言葉を謳うように告げる。

「完全同位体のレプリカは、オリジナルが死ぬと、消えてしまう。だからお前の為でなく、自分のために、お前を守ろうとするだろうな。生存本能だ。本能には意味も、理由も感情も、全て関係ない。慕っている振りをしているだけなのだ。けして、信用するな。寝首を掻かれてしまうぞ」

その言葉を聞いたルークは、まるで呼吸をしない人形のようにヴァンを見詰めた。

ただじっと、吟味するようにヴァンを見ている、その感情を覗わせないルークらしからぬ視線にヴァンが訝しむ、その時には赤い髪を揺らし、踵を返している。

扉が閉まる前、呟きが滑り込んできてヴァンの耳に届いた。

「…それは知らなかった」

だが。

――ヴァン、知っているか。

そのレプリカは、自分が消えても俺が生きていればそれでいいと、言う。