朝の光を浴びて、空気が一気に匂い立つ。
窓を開けた先から部屋へと入り込む、冷えた清浄な空気を肺まで深く入れて、ルークは空を見上げる。
雲を晴らしていくように輝くレムの僅かに下、空を囲うように広がる音符帯、そして譜石が見える。――記憶に鮮やかに残っている、七年前の、あの日の空のようだ。
「おはよう。今日も精が出るな、ペール」
「こ…これは、おはようございます、ルーク様…」
いつもとは違う、正装に近い服装に身装を整え髪を結ってルークが部屋を出た時、いつものように花壇へと身を屈めて世話をしている、ペールが居た。
昔、『彼』がこの庭師へこまめに声を掛けていたことを思い出しながら(時にはルークの部屋に来るのが遅れるほど、話し込んでいた時もあった)、声を掛ければ老爺は慌てて体を起こす。
「仕事中に悪いが、母上に贈る花を見繕ってくれ。匂いは薄くて優しい色のものがいい」
「承知しました。暫くお待ちを…」
そうして裏庭の方へと姿を消していく老爺の背から、先程まで甲斐甲斐しく世話をしていた花壇へと視線を向ける。花壇には、ましろい花が朝の甘露を重そうに受け咲いていた。
香りは奥深く沈めた記憶までもを鮮明に引き起こすという。ならば、渡す花には匂いがなければ良い。どうしても思い出すのなら優しい色が良い。せめて心を癒す色であれば。
――最初に、死を意識したのはいつだったか。
『健康診断』、という名の『超振動』実験での時か。それとも、誘拐されレプリカ情報を抜かれた時か。『彼』と別れた後、初めて人を、刺した、時か。
死が怖くない、はずがない。いつだって死ぬのは嫌だ。死んではならない、という立場的な義務感などではなく、本能だ。自ら進んで死にたいと望むほど、絶望はしてない。
いや、絶望していた時もあった。それを変えたのは、救ってくれたのは、他でもない『彼』だ。
そして『彼』がいるからこそ、再び絶望せずにすむ。
国王が父が、ルークを幼い頃から『超振動』の実験をさせたように、預言の為に死地へと向かわせることは、ある意味仕方がないことだ。
国の為。貴族に、政治に関わる人間にとって国は、家族よりも何よりも重い。ルークにもその教育は行き渡っているからこそ、理解出来る。ひとつの命で国が、それに住まう民の幸福が約束されるのなら。何も知らなければ、ルークは次期国王というその立場を喜んでなげうち、キムラスカの為に己の命を捧げただろう。
国の為、というのは、免罪符になるのだ。
だが、ルークは恐らく国王や父にとっては厄介な、知恵を付けてしまった。国の為に死ぬことは紆余曲折の末有り得ても、預言成就のためにと言われても安易には死ねないと判断する人間になってしまった。――言いなりにならず、自分で考える小賢しい人間になってしまった。だから、ルークには本当の預言を伏せ、真実を告げないままルークをアクゼリュスへ向かわせるのだろう。
それでもルークが安易に街を滅ぼすことは、絶対に出来ない。なにがあろうと。だが己の命が危険に曝された時、使わないでいられるか。以前は自分が兵器として扱われるくらいなら、死ぬ方を選べた。――でも、今は。
ルークが死ぬことが繁栄を導く、と預言を信じている人間達にとって、都合のいいことになってしまう。戦火の火種になってしまう。だから死ぬことは出来ない、そのルークが身を守る為に『超振動』を使わないでいられるか。その結果、街が滅びないと言えるか。
幼い頃、何故父が実験を望むのか、判らなかった。
自分が化物だから。普通にない強大な力を持つから。それが国の為になるから。そうだと理解出来るようになった時は、その力で役に立てば…成果を出せば、父も認めてくれるはず、自分を見てくれるはずだと信じていた。それが、ヴァンに付け入る隙を与えることになったのだが。
父には、いつも壁を感じていた。触れ合おうとしない、拒絶の壁。
それでも己の父だ。幼い頃からそう気持ちが変わることもなく、尊敬している。求めても得られぬのは、もういい。ルークが与えるのに相応しくない子供だったからか、それとも与えることが苦手なのだと思っていた。ルークが生まれる時、『超振動』を持たないことを選べなかったように、父もそうであったと、思っていた。
だが、ルークの誕生は預言に全て、詠まれていたのだという。
『超振動』の力を持つ子供が生まれ、その子供に、ルークという名前が『ある』ことも。そして、国の為に死ぬことも。
ルークは与えるのに相応しくないのではなく、与える意味のないイキモノだったのだ。誰も、実らないと判っている果実の花の世話はしないだろう。
父とて、預言の為に利用されたようなものだ。そうと判って結婚をしたとは思わないが、けれどルークが生まれた時、聞かされたはずだ。いつか、でも必ず、早くに死ぬと判っている子供を育てなくてはならない。しかも生まれる子供は、化物なのだから。
そう、解っているのに。
父に、兵器として働け、と言われることが、最も人格を…存在を否定されるようで、嫌だった。
「ルーク」
聞き慣れた声が、背後から掛けられて振り返る。そこには朝陽を眩しく弾く金髪を持つ、ガイが立っていた。彼の準備もとうに終わっているようだ。
この男も、帰って来た早々また旅に出る羽目になってしまった。溜まっていたという仕事はどうしたのやら。
「お前にはいつも、色々と面倒を掛けて悪いな」
この旅にはガイにも、命の危険があるかも知れない。もちろん今までも危険ではあったが、和平条約を締結したと言ってもそれはまだ、国の主幹のみの話。数年前の戦の傷は色んなところで深く残っていて、ガイはそんな場所をキムラスカの親善大使の共として付いて来るのだ。身の危険が無いとは限らない。もっとも、腕の立つガイには不必要な心配かも知れないが。
ルークの言葉に、面食らったような顔をしたガイが苦笑する。
「はは…なんだよ。今回に限ってそんな、殊勝なこと言って…」
「たまにはな」
そう返した時、わざわざルークの正面に回り込んだペールが、うやうやしく花束を渡して来た。
「ルーク様、どうぞ」
「ああ、有り難う。――綺麗だな」
淡い色合いの花々を混ぜ合わせたそれは、とてもうつくしい。これなら喜んで貰えるだろう。ペールに感謝して、その花束を丁寧に右手に抱える。
「ガイ。お前にどんな命令が下されたかは知らないが、俺がアクゼリュスで役目を果たすまでは、実行するなよ」
それだけを告げて、中庭を後にした。
一晩掛けて、思い悩んだところで判っていることは、ただひとつ。
死んでも、死ななくても、バチカルには、……この屋敷にはもう、二度と戻れない。それだけは確かで、あとは依存する訳ではないが、『彼』とジェイドに会って、それからだ。
何も判らないのに悩むのは、止めた。今から疲弊しては意味がない。
旅の準備を整えるついでに身辺の整理もした。必要な書類は纏めてナタリアに渡すよう、メイドに頼んである。他に大切な物も特にはない。――人、以外は。
ナタリアとは結局、あれから会うことは叶わなかった。それで良かったのかも知れない。実際、何と言えばいいか判らなかった。聡い彼女に気付かれてはならない、とも思う。
警護の白光騎士団たちから敬礼を受けながら、さんざめく光の射し込む廊下を歩いて、母の寝室へと向かう。
「おはようございます。お加減はいかがですか、母上」
「ええ、おはよう――まあ、素敵ね、とても綺麗。有り難う、ルーク」
花束を細い腕で受け取って、朝の陽射しに包まれた部屋で母は機嫌良さそうに、今日は気分がとてもいいのよ、と上品に微笑む。
そうして花束を膝に抱いて愛でている、その姿をルークは静かに見詰めた。
自分がいなくなったらこのひとは、また、昔のように儚い感じになってしまうのだろうか。そう思うと、胸が詰まって切なくなる。
「……行くのですね、ルーク」
「はい」
花束から視線を外し、寝台に腰掛けたまま姿勢を正してルークをまっすぐに見て来る彼女に、ルークも自然と背筋が伸びる。
「つい先日戻って来たばかりなのに、本当に急なこと。ルーク、貴方は今までずっと屋敷で暮らしていたのですし、体の方はまだ、疲れが取れていないのではありませんか? 顔色が悪いように見えますよ」
そう口にして、憂いに顔を曇らせる母の心配を拭うように、ルークは薄く微笑んでみせる。
「…少し、緊張していますが、私は大丈夫です」
「そう…? 貴方がそう言うのなら私はもう、無闇に心配しません。母の悪い癖ですね。貴方ならばきっと、立派に大役を果たして無事に帰ってこられると、それを信じて待つことにします」
「はい。必ずや、役目を果たして参ります」
体温の低い母の、か弱い手をそっと取る。
これが自分の母の手だと思うと、そして最後だと思うと、感慨深いものがあった。この手に、胸に抱き上げられたことがあるのか。そのくらいの、『超振動』も、なにも知らない、小さな頃もあったのだ。今では自分の方が背丈も追い越してしまった。
そう考えて、『彼』を思う。
『彼』は『ルーク・フォン・ファブレ』として屋敷に来てから、母に触れたことがあるだろうか。……そう言えば、『彼』はルークの世話をしていた時は、奥様、と呼んでいた。それは使用人としては当たり前のことだが、本来なら母上、と呼んでいたのではないか。…呼びたかったのでは、ないか。
それでも、『彼』にとってこの母は、『彼』の母では…レプリカルークの七年間を知る、シュザンヌではないのだ。
この世界には、『彼』が変えたという世界を、『彼』が必死に生きた時間を知る人間は誰一人として、いない。
それはとても寂しいことじゃないのか。そんな中で、この時間の未来を変えようとしている『彼』は、どうして、そこまで。――ルークの為に。
母の己より小さくやさしい手が悲しかった。この手を得られない『彼』を思うと、尚更。
ルークは感傷を振り切って、口を開く。
「――…母上に孝行らしいことのひとつも出来ぬまま、お傍を離れることになってしまい、それだけが心残りです」
きっと、寂しく心細い思いをさせてしまうだろう。ルークに兄弟でも居ればまだ、慰められただろうに。
そう思うルークを前に、母は驚いたように一瞬目を瞠り、それからそっと綻んだ。
「何を言うのです、ルーク。私の心配症が移ってしまったのかしら、まるで一生の別れのよう」
そうしてやはり儚い力でルークの手を握り返し、言った。
「大丈夫ですよ。貴方はしっかりと成し遂げることが出来ます。貴方は私の誇り。今回のお役目のことも糧にして、近い将来立派に国を治めて下されば、母には充分なのです」
* * *
ルークが昇降機で港に繋がる広場へとガイと共に降り立った時、ティアがバチカル守備隊に左右を固められた状態で待っていた。フリングスは既に港の方で、マルクトと先遣隊であるキムラスカの兵士達と待機しているので、そこにはいない。
守備隊からティアを引き受けた後、天空滑車の方へと向かおうとしたその時、軽い足音が近づいてくるのに振り返った。見れば、疲労困憊気味の状態でアニスが膝に手をつき、前屈みに荒い息を吐いている。
そうして僅かに呼吸を整えた後顔を上げると、ティアへと声を掛けた。
「ティア! ねえ、イオン様、どこにいるか知らない!?」
「いいえ。……まさか」
ティアの顔色も変わる。六神将もその身を狙っていたというのに、なんて無防備な。
この遣り取りを目にするのは二度目だな、とルークが眉を寄せ思っていた時、今度はルークへとアニスが不安げに問い掛けて来た。
「あ、あのルーク様は、イオン様をどこかでお見掛けしませんでしたか!?」
「…いや。イオンはバチカルを発ったんじゃなかったのか?」
「いえ、あの、実はまだ滞在してたんです……ど、どうしようー!」
ルークの返事を聞いた途端、アニスは両手で頭を抱えて叫ぶ。
「本当にもう、あの兄弟気配の消し方だけは上手いって言うか、それもこれもシンクとアイツが色々ロクでもないことあの二人に教えるから…!今度会ったら絶対しばき倒す…」
頭を抱えた状態でその場に蹲って、ぶつぶつと呟き始める彼女の背後から、
「ボクはここですよ、アニス」
そっと耳元に声を掛けられたアニスがうひゃあ!と甲高い悲鳴を上げて、跳び上がった。そのついでに距離を離して背中を庇うように勢い良く振り返る。
「…イ、オン、様…」
そこにはアニスが必死に探し求めていた、穏やかに微笑むイオンの姿があった。
そのまま小首を傾げ、アニスに心配させてすみません、と謝る様子に、相変わらず仲の良い主従だと思いながら見ていたルークを向き直ると、イオンは頭を下げる。
「ルークにもご迷惑をお掛けして、すみません」
「いや、俺は何も……お前はとうにバチカルを発ったものと思っていた」
「教会の方で、今後のことを協議していたんです。アクゼリュスの件はダアトからも救援を送ろうと考えていて、モースはヴァンに任せるつもりのようでしたが、今は立場的に難しいでしょうから、代わりにボクに任せて貰えないかと思って」
そこで言葉を句切ったイオンは顔を上げて、しっかりとルークの顔を見詰めた。交わった視線の気迫に一瞬、怯みそうになる。
「アクゼリュスの皆さんの力になりたいんです。ルーク、お願いです。ボクも一緒に連れて行って下さいませんか」
まるで戦いを知るかのような強い視線。イオンは実際に己を戦場に置かずとも、ナタリアのように常に戦い続けている、そういう彼らが持つ気迫だと気付く。
イオンの切実な声に、けれどルークは即答出来なかった。
「…体の方は、大丈夫なのか?」
ルークの問いに、今まで何故か固まっていたアニスが我に返ったように大きな声を上げる。心なしか、顔が青褪めて見えるのは気の所為か。
「だっ、だだ、大丈夫ですよね! ね、イオン様!」
「ええ、この数日お城でゆっくりさせて頂いたので、もうすっかり落ち着きました」
アニスに、にっこりと笑い返すイオンは、確かに顔色は悪くないし、立つ姿も前より力が満ちているように見える。
これならば大丈夫だろうか。だが、今度の旅とて安全とは限らない。僅かに兵士を連れて行くが、イオンに割けるほどの人数は居ないだろう。それとも、イオンひとりだからこそ、アニスひとりでも何とかなる、ということだろうか。
悩むルークに、イオンは言葉を続ける。
「モースにも報告は済んでいます。これでボクがどこに行っても行方不明や、誘拐だと、間違われることもないはずです」
モースと言えば色々あって失念していたが、六神将は大詠師派、というものではなかったか。
いや、その大詠師が現在キムラスカに当たり前のように居る訳だが、結局、六神将の件はどうなったのだろう。それはダアトで話し合われることなのか、話し合うにはヴァンが不可欠で、現在キムラスカに囚われた状態では無理と言うことなのか。それでもこのまま放置はまずいと思うが。――しかし、国王自体がモースに依存しているようでは、どうしようもないのだろうか。
……ルークが死ななくても、キムラスカはいずれ滅びてしまうような不安定さが滲み出ているような、そんな気がする己の思考に、憂鬱になりかけた。
このままではいけないと強く思う。ルークに出来ることがあるなら改善したい、と思うのに、もう既にこの身には、継承権はないのだ。
――ナタリア一人には、荷が勝ち過ぎる。
キムラスカの未来にぞっとする、それを今はなんとか流してイオンに向けて、言う。
「六神将がまた、狙ってこないとは限らないが」
「それはもう、大丈夫だと思います。…あの人が居るので」
顰められた語尾に、はっ、とする。そうだった。ジェイドの言う『あの子』は、シンクやイオンにとっての『あの人』だ。
なんてことだ、やはりイオンは知っていたのだ。ルークのレプリカを。もしかしたら、ルークと出会った最初から。
「イオン、お前は…今の『カンタビレ』が何者か、知っているか」
ルークが低い囁きで問うのに、イオンはぱちりと瞬いた後僅かに頷いて見せてから、眉を下げた。
「……ええ、知っています。黙っていてすみません。本当は、貴方のことを聞いたのも、ヴァンではなく今のカンタビレからです。彼はよく、貴方の話をボクたち兄弟、アリエッタ、そしてアニスに聞かせてくれました。あの人の大切な大切な、……バチカルに居る貴方の話を」
ルークを見詰めてふふ、と柔らかく微笑むイオンに、自分の知らないところで一体どんなことを聞かされたのか、非常にくすぐったいような、何とも言えない気持ちになる。
アリエッタというのは、六神将に連なる名前にあった。それなら思い当たるのは一人しかいない。ルークに『死ね』と言った、彼女のことだろう。
それにしても、アニスまで『彼』のことを知っていたとは。そんな素振りを見留めたことがなかった為に、純粋に驚いた。イオンの従者だからか?それとも、なにか、敢えて接触する理由があってか。
思考に沈みかけたルークの耳に、イオンが小さな呟きを落とす。
「ルーク。人は、何かに成功すると、同じことをまた、する。繰り返す。――そうでしょう?」
「イオン……?」
訝しんだルークがイオンへと改めて視線を向ける。イオンは変わらず微笑んでいたが、声はどこか、聞いたことがない温度をしていて、耳を通る時に違和感を感じるように少し、硬い。
いつものイオンのまま、イオンらしくない声音で、言う。
「ヴァンが貴方で成功したことを、他の人間にしなかったと、思いますか?」
イオンから投げられた言葉に言葉が詰まる、そこに背後に立つガイの喉が、悲鳴を殺すように鳴ったのが、聞こえた。
――しない、はずがない。
七年もの時間があって、ヴァンがしないはずがない。でもそれは、誰に対して行うのか。何の為に?レプリカを作る理由として、何がある?
ルークのように特別な力を持った人間が、他に居たとしたら。特別な、なにか。
たとえば、類い稀な頭脳を持つジェイドであれば?――だが、あの男が容易く己の複製を作らせるはずがない。
たとえば、世界で唯一……その人物しか出来ないことが、あるとしたら。
答えが頭の片隅をちらつくのに掴めない、そのもどかしさに眉間に皺が寄る。
「ルーク!」
不意に聞き馴染んだ澄んだ声に名を呼ばれ、顔をそちらに向ければ降ろした前髪の向こう、きらと眩く光る髪とドレスの裾を乱しながら、駆け寄って来るナタリアの姿が見えた。徐々に近づく彼女を目にして、胸に痛みが走る。
「ナタリア…」
「ああ、ここで会えて良かった…。お見送りしたかったのですけど、時間が取れなくて」
目の前に立つナタリアに、何を言えばいい。何を言えば、後で思い出す時に辛くないだろうか。多くを語ればナタリアに感づかれよう。
幼い頃から、一緒だった。最初は互いに使命感からだったと思う。けれど今はそれだけではなく、互いに同じ夢を抱き、信頼し尊敬し合って来た。彼女はそのこころに柔軟な、ばねを持つ。幼い頃から己に向けられる中傷に対し毅然とした態度で堂々と受けて立つのに、憧れてもいた。彼女の気高さに、そうであれとルーク自身、言い聞かせたこともある。己が化け物だろうとなんであろうと、『ルーク・フォン・ファブレ』に違いないのだから、と。
そんな彼女に、何が言えるだろう。――誤魔化しの、別れの言葉など。
一晩悩んだ割には良い言葉は導き出せず、だから。
「…ナタリア、息災でな」
ルークはそれだけを告げて、淡く微笑んだ。彼女の姿を刻みつけて。
それを目にしたナタリアの、若草色した瞳が大きく見開く。それに未練を断ち切るように踵を返して、ルークは天空滑車の方へと歩き出す。
「――っ、ルーク!」
その背を、悲鳴に近い声が追った。
振り返った先のナタリアはどこかそわそわとして、様子がおかしい。もしや悟られたか、と内心焦るが、彼女の方は何度か躊躇った後ようやく、口を開いた。
「わ――、わたくし、あなたが帰って来たら聞いて頂きたい話がありますの。ですから、早く…無事に戻って来て下さいまし」
余りに彼女が必死だったから、その話を聞いてやれないことを悲しく思いながらも。
「…ああ、判った」
ルークは頷いて、あの時の『彼』と同じように、けして叶えられない約束を、した。
* * *
ジョゼット・セシルはとうに旅立った船の姿のない、凪いだ海を見詰めていた。
「何故、貴女のことがこんなにも気になるのか、私にも実は判らないのです」
このバチカルでは見慣れない、小麦色した肌の色と色素の薄い髪をしたフリングスが、旅立つ際にそう告げたのを、何度も思い返す。
会う度にどれだけこちらが事務的な、表面上の態度を取ろうとも、少し困ったように笑ってそれでもなお紳士的に、誠実に話し掛け、近づこうとした。
ジョゼットには判らなかった。どうして、この男は私に近づこうとするのだろう。敵国の人間であるのに。けして相容れないはずだというのに、どうしてそんなにも、親しげに。まるで、昔からそんなジョゼットの戸惑いなど、判っているかのように。
――会ったこともないのに、何故。
恐ろしかった。ジョゼットにとって、フリングスの他意のない優しさは、本当に恐ろしくて堪らなかった。
そして、フリングス自身も判らないのだと言いながら、彼は自分の中の不思議な感情に、疑問は持っても恐怖などは一切感じてないのだった。それが一番、恐ろしかったのかも知れない。ジョゼットはこんなにも混乱しているというのに、彼は平気なのだ。
それでも、彼をきっぱりと拒絶出来なかったのは。
ジョゼットを見るその優しい瞳に、何かを感じるからだ。
戸惑い怯むジョゼットを前に、苦笑して彼は、言葉を継ぐ。
「でも、私は貴女に直接会って、ひとつだけ解ったことがあります。私は、貴女に――そう、多分、なにかを渡したかった。捧げたかった」
青く広がる空、そしてそれよりもっと深い色で地平を満たす海、その境界線を生み出す白い雲のコントラストを見詰めながら、彼は何かを思い出すかのような、遠くを見る目で言った。
その横顔を見ながら、無意識に問う。
「何を…?」
「判りません。でも、これだけは言えます。――私は、」
フリングスは顔をジョゼットの方へ向けると、なにかを達成した後のように、すっきりと爽やかに笑って見せた。
「ここで、バチカルで貴女に会えて、良かった。またいつか必ず、貴女には会える気がします。それまでどうか幾久しく、幸多かれと祈ります」
祈ります。
その言葉に、途端ジョゼットの胸に込み上げるものがあって、咄嗟に声を上げる。
「っ! あ――、私、私は…!」
それだけを口にしたものの、けれどどんな言葉を続けようとしたのか、どうしても判らなかった。
海を見詰めながら、ジョゼットは胸に宿る不思議な感情を言葉にする為に、自分のこころを探る。
「私……? 何かを、……あのひと、に」