「ヴァン謡将は、貴方の到着に合わせて必ずアクゼリュスに来るでしょう」

ケセドニアで待機して二日。

とりあえず、カイツールの砦から集まってくる情報を元に、最低限の数を揃えた救援物資を携えて旅立ったその日、要人警護の関係でこの二人で乗り込んだ馬車の中で揺られながら向かい合ったジェイドがそう言うのに、ルークは記憶からヴァンの現状を思い返した。

「…まだ、自由になるには早いと思うが」

「まあ、普通に罪を問われるのならば」

相変わらずの胡散臭い笑みをして、ジェイドはさらりと肯定しておきながら、間髪入れずそれを覆す。

「ですが、キムラスカ国王陛下が御恩情をお掛けにならないとは限りません。――予言成就の前祝いとして」

預言の前にはヴァンのことなど、些細なことだ。それより、預言成就のために動いているのは間違いないのだから、逆に褒美を取らせても…罪を軽減させてもおかしくはない。

預言のことを知らない相手が疑ったとして、それらを黙らせるにしても、モースやヴァン自身の弁舌も巧みであるし、ヴァンを拘留する期間とて、ルークが無事に戻ったことが有利に働いて切り上げられると判りきっている。それに今頃、マルクトへの開戦準備で忙しいキムラスカは、おそらくヴァンやその妹の罪などどうでもよくなっていることだろう。

「失礼ですがそういうことがありそうなので、今回はヴァン謡将の拘束――いわゆる足止めをマルクトの方からキムラスカへ要請したのですが」

「なに?」

「マルクト側にしてみれば、六神将に保護していた貴方ごとタルタロスを襲撃された訳ですから、その権利はありますよ」

そんなことまで。けろりと言う国軍大佐の面の皮の厚さに、思わず呆気にとられてしまう。

それは先日の和平交渉の折の話だろうが、まさかそこまで口を出していたとは思いもよらなかった。しかもキムラスカは、マルクトが預言以上のことを知っているからこその申し出とは少しも思わなかっただろうから、訝しむことも少なく受け入れたに違いない。

「更に是非マルクトにも身柄を移送して欲しいとも要求してみましたが、これは当然無視されるとして、キムラスカ側にとっては預言のためにマルクトを油断させておく必要がありますから、マルクトからのヴァン謡将の拘束要請はよほどのことがない限り、そのまま通ると思います。――アクゼリュスが墜ちるまでは」

アクゼリュス。

その地名を聞くだけでルークの胸に何とも言えない不快な感情が広がっていく。キムラスカで自分の役目を果たせと言われたことをどうしたって思い出す。今まで自分に無関心でいた父親と、逆にルークを気遣う言葉をくれていた叔父である国王が告げた言葉が胸を何度も抉って、その穴こそ崩落したコーラル城跡のように黒々と望まないのに闇を生んでいる。アクゼリュスで犠牲を出さずに済んでも、この穴はいつまでも胸の奥に有り続けるのだろうと、ルークは半ば確信していた。

ヴァンを拘束することはしても、攻め落とす国に身柄を移送するなど、そんな手間は掛けないだろう。開戦と同時に解放するのが目に見えている。自分の国のことながら、頭が痛い。ルークは瞼を閉じ無言で額を抑えた。巡る懊悩に舌打ちして唸りたいのを辛うじて堪える。

「それまで、キムラスカとしては大詠師モースがどれだけ舌を酷使しようとも、ヴァン謡将を解放することはないでしょう。しかし、謡将にとってそれはまずい。

アクゼリュスで貴方ではなく『彼』を殺すという役目を他人任せには出来ない謡将にとって、自由になるのがアクゼリュス崩落後では意味がないのです。しかしキムラスカは一番警備の強固なところに牢があるわけですから、一人では人を操る術でもない限り、さすがに謡将とて脱出は不可能でしょう。

――その場合、どうすると思いますか?」

目の前の年齢不詳の男は自分を唆(そそのか)す悪魔のように笑んで問い掛けるが、答えは判っているのだろう。

考えるまでもない。あの男には他に自由に動かせる手足を持っている。

「六神将が迎えに来るのを待つだろうな」

「ええ。だからこそ、こちらの足止めをする人員も割かれようというものです」

「わざわざ、足止めになど来ると思うか? 六神将ともあろうものが」

今までろくに表に出たこともない親善大使の一行を、押さえるために。一個師団の長達が。自虐的に問えばジェイドは肩を軽く竦めて言う。

「ええ。熱烈に出迎えて下さると思いますね」

アクゼリュスを確実に墜とすために、わざわざ足止めまでする彼らの用意周到さ。抜かりはないということだろう。いや、抜かりがあってはいけないのだ。それはこちらとて同じことなのだけれど。

足止めは、誰だ。――ジェイドはアンチスロットが掛かったままだろうし、こちらはイオンが居る。厳しい相手でないと良いが。

「解放されるまで大人しくしていればいいものを……」

ふう、と深くため息を吐いてルークは視線を窓の向こうの景色へと向ける。もうそろそろ、カイツールの砦が見えてくる頃だ。アクゼリュスからの避難先でもあるし、セントビナーやエンゲーブの物資もそこに集まっている。ケセドニアの方で調達した食糧や薬以外の物資はガイが責任者として管理しているから、この馬車には乗っていない。イオン達は救援作業の邪魔をするわけにはいかないと、ダアトが用意した馬車の方に居る。

視界に広がる草原の緑は艶々と光を乱反射して、過ぎ去る景色はうつくしく豊かでとてものどかだった。ほんの数週間前、ここを自分の足で歩いたことがまるで遠い日のことのようだ。あの時の開放感を今は少しも感じられない。

外を眺める視界の端に、向かいに姿勢正しく座る軍人が入る。この男の金髪までもが陽光をきらと弾いたからだ。

「ヴァン謡将は他人を全く信用しない用心深さがありますが、何より、『彼』を殺せるものが六神将にいないのです。戦士としての強さとしても、心情的にも」

それは『彼』の意図したことではありませんが。

ぽつりとジェイドは零して、眼鏡のレンズの向こう、思考を辿るように赤い譜眼を僅かに伏せる。

「まあ、ヴァン謡将が拘束されている今のうちに、裏をかいてしまいましょう。こちらの初動で油断しているあちらが混乱した隙にすべてを押さえるのが得策です」

ぴんと伸ばした背筋のまま、眼鏡のブリッジを押さえて告げるジェイドに、ルークも頷き返した。

「そうだな。抵抗されるなどと思っていないだろうから。もしされたとしても、そんなことはあの男には露程もないと思っていることは間違いない」

「ああ…彼はそのあたりが既に、麻痺してますからね。今までおおよそ自分の思う通りに物事が進んでますから、全能感もあるでしょうし――なんと言っても彼は、アクゼリュスは絶対に墜ちることを知っているからこその油断もある」

「…………?」

今の言い回しは変じゃなかったか。

ルークがその言葉が耳を通り抜ける際の違和感に瞬いた時には、ジェイドは窓の向こう、アクゼリュスの方角を見詰め、窓から入る光に眼鏡のレンズを光らせながらにっこりと微笑んだ。

「準備は滞りなく進行中です。アクゼリュスで思い切り油断しているヴァン謡将に対して、その鼻っ柱をへし折ってさしあげましょう」

この男に爽やかな笑顔というのはなんて似合わないのか。背筋が寒くなるようなその笑みにルークが思わず二の腕を擦っていると、不意にジェイドはルークへと顔を向ける。

――そう言えば、キムラスカにはナタリア王女が残ってましたか」

「…………っ、!」

ケセドニアに着いてからこっち、詰め込まれた知識や情報ですっかり忘れていたが。

ナタリアの信念や正義感は、通常の人間よりも倍近く強いのだ。それが彼女の長所とはいえ、この場合は無謀すぎる。キムラスカがあっけなく解放するヴァンを引き留めることだって、躊躇わないだろう。大人しく見送るなんてことが彼女に出来るはずもなく、なまじ腕に自信もあるのだ。だが、彼女の武器も譜術も遠距離を得意とするのであって、同じ第七譜術士で耐性を持ち、剣を得意とするヴァン相手にはどうにもならない。それでも挫けないどころか、彼女なら天然かつ大胆に立ち向かってしまいそうだ。幼い頃から努力し続けて来た品格はそのまま、何故だか思い切りの良さまでもを備えてしまっているのだから。

馬車の狭い中で思わず立ち上がりかけ、揺れに体勢を崩し掛ける。それでもケセドニアの方角へと焦った顔で振り返るルークに、ジェイドはまあ落ち着いて下さい、と声を掛けた。

「大丈夫だとは思いますが、彼女が無茶をしないと良いですねえ」

それを聞いて一体、どうやって落ち着けと言うのか、この男は!

相変わらずの胡散臭い笑みを向けてくる男に対し、ひとつ、深いため息を吐いてルークは仕方なく席に腰を下ろしたが、カイツールの砦に着くまで始終今すぐキムラスカへと向かいたいと思う、自分を押さえつける忍耐力を試される羽目になった。

* * *

「閣下」

副官の呼び掛けにヴァンはゆったりと振り返り、ご苦労と労いの声を掛けると、急ぐ様子もなく泰然とした足取りで囚われていた牢屋から出、階段を上がっていく。

階段を上った先、衛兵が廊下に所々伏している姿があった。それを気にすることもなく二人は足音を立てずに、それでも堂々と進んで行く。行く手を阻むものはない。

まるで自分の城を歩くかのような足取りで、そうしてたどり着いたバルコニーで、相変わらずどこか不安げに佇むアリエッタと彼女を守るかのように手摺に降り立つ魔物の姿があった。

ヴァンが一つ頷き、バルコニーへと一歩、踏み出した時。

――お待ちなさい」

凛とした声が、ヴァンの足を止めた。

副官はすでに譜銃を構えはしないがいつでも抜けるようにホルスターへと手を回し、声を掛けて来た人物に向けて背中を見せているヴァンを守るように立ち塞がる。

その人物はちらりとリグレットへ視線を向けたものの臆する様子もなく、背後に衛兵を従わせたまま、口を開いた。

「ヴァン謡将、貴方はご自分の意志でキムラスカに身柄を拘束されることを良しとしたはず。それなのに、勝手にどこへ行こうというのです」

――ナタリア王女」

振り返ってヴァンは淡く微笑んで見せた。そうして表面上は恭しく王女へと礼を取る。

「これはこれは、夜分に騒がしくして起こしてしまいましたかな。ダアトの方で用事が出来まして、審議の途中ではありますが、私は一度ダアトの方へ戻らせて頂きます」

「語るに落ちるとはこのことですわ、謡将。ご自分に否がないのであれば、このように逃げるように去らずとも、正式な手順を踏めば良いのではなくて?」

一歩を踏み出したナタリアの踵が、かつんと咎めるように高く響いた。それは木槌の音にも似て、宵闇に甲高く鳴り渡る。

「それとも、その用事は至急なのですか?――手続きを忘れて部下を城へ無断で侵入させ、衛兵を問答無用で昏倒させるほどの」

ナタリアはその素直さ故に挑発は一切しない。全て己の信じる正義感からの正論を述べる。だが、時としてその正論は挑発と同じ効果をもたらすことがあって、まさに今がその時だった。

上官を侮辱されたと判断した彼の副官が、とうとうホルスターから譜銃を抜き出し構える。それにもナタリアは動じない。貴族にありがちな鈍感に近い鷹揚さとは違う、ルークと同じく城の奥に大切に仕舞われているこの王女にそんな度胸があるとは思っていなかったリグレットが、ナタリアの表情から何かを読み取ろうとするかのように眼を眇めるが、ナタリアはその視線に対抗するかのように背筋を伸ばしたまま見据えた。

「そこの貴女、控えなさい。それとも言わなくては判らないのですか。私に銃口を向けておいて、未だに命がある意味を。遠距離は私も得意とするもの。夜の闇だろうとけして、的を外したりしませんわよ」

冷徹な声で王女が不作法をぴしゃりと窘めるが、譜銃を扱うリグレットが王女とその背後に控える近衛兵に対し、怯むこともまた、ない。互いに一触即発の状態で睨み合う。

――この、ニセモノが…!」

リグレットの口から零れた低い罵りに、ナタリアはぴくんと体を揺らしたが動揺はたったそれきりで、すぐにきりりと眉を上げ弓を構えた時と同じく真っ直ぐにリグレットを視線で射貫くかのように見詰めながら、静かに口を開いた。

「…私が何であろうと、キムラスカの国民からならまだしも、貴女から糾弾されることではありませんわ。それに私はとても愚かでしたが、それでも同じ間違いは二度とは犯さないと、強く誓ったものですから」

貴女はどうかしら。同じことを繰り返すおつもり?

ナタリアが告げた内容に、有能な副官であるはずのリグレットはらしくもなく僅かの間、狼狽え銃身がぶれた。その隙にナタリアはヴァンへと視線を移し改めて向き直るのに、ヴァンが淡く笑んだままゆったりと言葉を連ねる。

「ナタリア王女。貴女はご存じないかも知れませんが、此度のことは陛下もご了承下さったことで、」

「ヴァン謡将、貴方にとって私たちのことなど取るに足らないのでしょうけど、でもその慢心がいつか、貴方自身の首を確実に絞めると私は知っています」

子供に言い聞かせるかのような響きを持ったヴァンの言葉をナタリアは遮った。ヴァンの一見柔らかく包容力に満ちた低い声を、芯のある澄んだ、何者にも汚されない温度で断ち切ったのだ。

「……私の首を?」

「ええ。――きっと貴方はしたことは知っていても、何故そのような結果になったのかは、判らないのではなくて? 記憶は、主観ですもの」

何を馬鹿なと揶揄する雰囲気だったヴァンの空気が突然、変わった。

今までナタリアに向けていたものとは全く違う、狡猾さを隠さない光を湛えた視線を向ける。たったそれだけでその場に重圧感が満ちた。ナタリアがそれに負けじと握った拳を胸に当て、毅然とヴァンを見上げて立つ。力の差は目に見えていようが、ここで引く訳にはいかない。そう強い意志の籠もった視線を静謐に見詰め返しながら、ヴァンは口を撓らせ言った。

「…これは、もっとよくお話を聞かせて頂く必要があるようですな」

「それは貴方が地下牢にお戻りになってからなら、幾らでも時間を取りますわ。それ以外では一切、お話ししません」

ナタリアの背後に沈黙を保って控えている近衛兵達が武器を構えるのに、副官もまた、改めて譜銃を両手に構えて立つ。静かに佇むアリエッタの傍らで、魔物が警戒の鳴き声を上げた。仲間を呼ぶそれに緊張が走る。

未明のバチカルに、暁よりも早く閃光が夜を払った。

* * *

黄金色がたゆたう空間で、地の底からの呼び声をぱちんと指を鳴らすことで、本来届くべき相手に届く前に、遮ってこちらへと向けさせる。

アイツに今更頭痛なんか、必要ないだろう。

地底から送られてくる声は、いつも同じ響きを伝えて来た。幾度も繰り返される言葉。

――ああ、時間がないのは判ってるさ。焦るんじゃねえ。何のために、俺がここで面倒を引き受けてると…」

それもまた、あと少しのことだ、と考えたところで、不意に第七音素が騒ぎ始めるのに視線を下げ、その視線の先の出来事が見えているかのように眼を眇める。

次第に共鳴が波のように広がっていく。それに己の髪を靡かせながら呟いた。

「さて、このくそったれな喜劇の幕がやっと引かれる時が来たか」