話し声が聞こえる。

意識は徐々に鮮明になっていくが、体はどうしたことか、指先ひとつ動かそうにも億劫だ。

微睡みのような夢現の状態、半覚醒した柔らかい意識の向こう、近い距離で二人の人間の気配がする。

二人は会話をしているようだった。その雰囲気にもしや自分に危害を加える相談でも、と生来命が狙われやすい環境に育った警戒心と、培った戦士としての危機感が騒ぐ。

二人の声は、最初はぼそぼそとしたものだったが、次第に大きくなり。

「なんだ、この髪の色は。俺の情報をこんなもんで汚しやがって」

「いたっ、ちょ、乱暴にすんな! ハゲる!」

「いっそハゲちまえ」

「ヤだっつーの! お前のデコじゃあるまいし!」

「…いい度胸だな、あァ?」

最終的には低次元な言い合いにまで発展していた。

一人はルークにとってとても聞き覚えのある声音――自分と同じものではあるが、どうしてだろう、発声の仕方が違うのか、若干高く、伸びやかに聞こえる。

だが、もう一人は。

もう一人はあまりにも、自分と同じ、だった。

けれどルークは今、ここで半分眠っているような状態で、会話している人間では当然、ない。

――では、誰だ?

一体、そこに居るのは誰だ!?

思い至った瞬間、ぞっと皮膚が粟立つのを感じてルークはすぐに目を開き、強引に力を込めて横たわっていた体を勢い良く起こす。

そして眼前に広がる景色にぎょっとした。

見たことがないような、異質な空間だったからだ。

無限に広がる黄金色がたゆたう空間、そこに次々に現れる景色は透けている。その景色はオールドラント各地の光景だったり、また人間たちの日常であったり、様々で取り留めない。重要そうな場面もちらりと過ぎれば、他愛ない風景を映すこともある。

――これは、なんだ。

そしてここは、どこだ。

体を起こす時に着いたてのひらの下もまた、黄金色。床や地面のような感触も感じられない。かと言って何かの感触がするかというと、――何も感じない、のが一番近い。だからここがどんな場所なのか、理解が全く追いつかない。

それに、自分はヴァンと『彼』の疑似超振動に割って入ったはずだ。今思い返せば良く無事でいられたと背筋を寒くするし、無事『彼』と同じ場所に飛ばされたことに奇跡的な喜びを感じてもいるが、それにしてもこの場所は直前の行動と繋がらない。

疑似超振動に割って入って、それから。――それから?

なにがどうなって、ここに居る?

ヴァンはどうなった。皆は、アクゼリュスは――。判らない。状況を飲み込もうとするが、頭が麻痺しているのかただぼんやりと目に入るものを見ているしかなかった。

「あ、ルーク!」

呆然と体を起こしたままのルークの背中に先ほどの気配のひとつ、良く知った方からの声が掛けられる。

そちらへと振り向こうとして、続いたそれよりも若干、低くて尊大な声に動きを止められる。

「目を覚ましたか。寝汚いのはお前の所為か?」

揶揄する言葉に思わず言い返しそうになって、けれど迷い、結局口を閉ざす。この自分と全く同じ人物のことを目にするのに、僅かな躊躇いがまだ、あったからだ。

「なんでだよ」

「コイツに昼寝なんていう甘っちょろい習慣を付けさせたのは、お前だろうが。ったく、軟弱くせえな」

それはいつの話だ。今はさすがに昼寝はしていない。

それにしても、この二人は、口を開けば言い合いをしなければならない決まりでもあるのだろうか。というよりも、片方が口を開けば文句しか出てこないのは何故だ。

自分の背後でまた始まったそれを聞きながらため息をひとつ吐く。この子供の喧嘩レベルの言い合いを聞いていたら躊躇はどうでもよくなり、ルークはゆっくりと立ち上がり振り返る間に覚悟を決めると、二人を視界の中に入れる。

そこには、いつの間にか染料を落とした朱い髪の『彼』ともうひとり、髪の長い男が立っていた。

ルークよりも若干明るい髪の、だが『彼』ほどでもない。二人の中間の色をして、しかし目つきはこの中で誰よりも鋭く、碧の冷たい視線を向けるその男は。

――で? 自殺願望でもあるのか、この大馬鹿野郎のお坊ちゃんは。進んで預言成就に走るとは、レプリカ並か?」

――顔は全く同じ。けれど、あからさまに傲岸で不遜な態度と、とにかく言葉が汚かった。

「完全同位体の疑似超振動に割って入るなんざ自殺行為だ。この段階で、コイツとお前に《大爆発》が起きた場合、どうやってヴァンに対抗するつもりだった? 言ってみろ」

「ちょ、ちょっと待ったああ! まだ言うな! それまだ禁句なんだって!!」

「はァ!? 過保護も大概にしろ!」

大股で近寄りルークを見下ろして凄んで詰め寄る男を、『彼』が腕を引っ張り下がらせ止める。

そうして再び始まった二人のやりとりはかしましいがとても自然で遠慮などなく、しかも、『彼』もこの相手だと、会話がかなり砕けているように見えた。

ルーク相手には絶対使わないスラングがぽんぽんと口を吐(つ)いて出るのに、それが素か、と思う。身に纏う雰囲気も、『彼』はこの相手にはガイ以上にとても気を許しているように感じられて、ルークは途端に胸が焼け付く感覚と、疎外感が湧き上がる。

こんな風に言いたい放題出来るのは、それを向けても相手が退いたり避けたりしないことが判っているからだ。仲が良い、とは一概に言える間柄ではないかも知れないが、しかしここまで好き勝手に出来ると言うことは、甘えとどこが違うだろう。彼らはこのスタイルが普通なのだ。互いにこころを開き、甘え頼り許し合い、受け入れているように見える。

『彼』はルークにけして、甘えたりしない。いつも年上の人間として振る舞うし、ルークを常に護ろうとしてくれる。けれどこの目の前の人間には、随分と深い場所で信頼して頼っているような、揺るがない確固たる絆を互いに持つような、そんな印象を受ける。

目の前の男は、『彼』がどんな生き方をしてきたか、識っているのだ。――この世の、誰よりも。

「お前は…」

間近に居る存在に、無意識に問い掛ける言葉が出た。

本当は、訊かずとも判っている。これが誰であるかなんて、一目見れば判ることだ。疑いようもなく。

「教えてやるよ、『ルーク』」

ルークの呟きに向き直った目の前の男はにやりと笑って、ずいと距離を詰めると無遠慮にもルークの顎を掴んで引き寄せ、顔を近づけてくる。

「俺はヴァンて悪党に誘拐され、レプリカに家族も居場所も、全部奪われちまった、バチカル生まれの貴族――

交わった、至近距離で睨み付ける強い視線が離すことを許さない。

正面にあるこの顔、これこそ鏡だ。だというのに、目の前の男から発せられる自分とは段違いの気迫は、ヴァンと似通った強者ゆえの威圧感を持ってルークを圧迫し喉を押さえつけ呼吸を困難にする。

この男は、ルークの知らない戦場を識っている。命の激しい遣り取りを、肉体だけでなく精神力も振り絞りギリギリのラインで生き残る術を持ち、血反吐を吐きながら生き残って来た、それが誇りであり自信であり、何者にも屈さないこころとしてその高い矜恃――自尊心となっている。

そしてそれは、ヴァンによる洗脳を受けてなお、自分自身を鍛え耐え抜いて得たものであるのだ。

そんな相手を前に、ルークが出来ることはその熾烈な視線を受け止めるのみだ。顎を捕まれているだけというのに身動ぎすることも許さない強引さで、そうして彼は厳かとも言える声音をもって、告げる。

「俺は、正真正銘、お前自身だ。『ルーク・フォン・ファブレ』」

唇は皮肉るように口の端を撓らせ、向けてくる緑の瞳は挑発するような彩(ひか)りを放っている。

ただその雰囲気に呑まれ、目の前の貌を焼き付けるかのように凝視するしかなかったルークの金縛りを解いたのは、『彼』だった。

「アッシュ! てめ、ルーク威圧すんな! 俺の時と同じこと言うとか、酷え!! 鬼!」

俺のこころがもう一回抉られただろ! うっかり泣きそうになっただろ!

ルークにしがみつくように抱きついて『彼』が訴える、それをアッシュと呼ばれた男は睥睨しこころの底からというような表情で、言う。

「うぜえ。黙れ」

「ウゼエて言うな!」

『彼』がまだきゃんきゃんと言い募るのに、片耳を押さえ鬱陶しそうにあしらいながら周囲を見渡し、ふむ、とひとつ頷いた。

――場所を変えるか」

その言葉と同時に、音もなく一陣の風が吹くように、黄金色が流れて新しい場所へと変わっていく。

晴れ渡る青い空が頭上に広がり、ましろに背伸びする雲と共に音譜帯が空を無尽に走り彩る。そうしてきらりきらりと真昼の星の代わりに譜石が輝き、今まで感じなかった陽の光が柔らかく降り注いで体を包み込み、瑞々しい緑の芳しい風が、驚きの余り言葉を失っているルークの頬を撫で髪を揺らしていく。

円形に取られた空間の周囲は見慣れた建物が連なって囲み、そうして靴の底からは石畳を踏みしめる感触と音がする。

そこは記憶との寸分の違いなく、ファブレ家の中庭だった。

「これは…屋敷の、」

一体どういうことだ。

さっきよりも場所の認識は明確になったものの、それでも訳が判らない。あの不可思議な場所から、どうやってファブレ家の中庭へ移動出来たのか。どういう原理なのか、全く見当も付かない。

それに、ここには人の気配が全くない。常なら白光騎士団員が警備をしているはずだというのに、生きた気配はこの場に居る三人だけだ。後は死に絶えたかのような静寂だけが満ちている。

混乱する思考をなんとか落ち着かせようと、必死にルークは状況判断に努める。

「わ、中庭かー。懐かしいな」

戸惑うルークと同じく『彼』もきょろきょろと周囲を見渡していたが、ぴたりと動きを止めて見詰める先、あるのはルークの部屋だ。しばらくじっと見ていた『彼』は、ルークをゆっくりと振り返ってふうわりと笑む。

その微笑みにルークは自然と安堵して入り乱れていた感情が少し、穏やかになる。この場所で『彼』が居る、それだけでルークは不思議なくらいに自分が落ち着いてくるのが判った。

「おい、テラスでいいだろう。来い」

ルークの部屋のテラスへと勝手知ったるようにアッシュが歩き出し、それに躊躇しながら二人も慌てて続く。

そしてそこでもまた、ルークは驚きの余り目を見張る。テラスへと設置されたテーブルには、たった今用意したばかりのような姿で、お茶の準備がされていたからだ。

一体いつの間にしたのか。いや、その前に、ここで飲食は可能なのか。だとしたらどうやって調達して来たというのか。――誰が?

ルークの許容量をそろそろ超え始めた状況の横で、席に着いたアッシュは当然のように顎で『彼』に指図する。

「茶を淹れろ、使用人」

「うっ、くそ…」

困惑しつつもさすがにそれにはむっとして、ルークは男を睨み付けた。

指図された『彼』の方は、確かに元使用人なので、しぶしぶとワゴンの方へと歩いていく。

コレ大丈夫だろうな、ホントに飲めんの? とワゴンの上に置かれた茶葉の缶を開け、くんくん匂いを嗅いでいる『彼』の背中を見ながら、ルークは手近にあった椅子へと腰を下ろし、アッシュへと強い口調できっぱりと告げた。

「人の使用人を勝手に使うな。幾ら同じだろうとお前のじゃない」

ルークの言葉に、アッシュは優雅に足を組んで鼻で笑い返すだけだ。

その態度がよりいっそう腹が立つ。これが本当にもうひとりの自分かと思うと、よりいっそう堪らなかった。同族嫌悪とはよく言ったものだ。

――正真正銘、レプリカとは違うもうひとりの、自分。

本来なら出会うはずのない相手と、何故対面しているのだろう。

この場所の不可思議さの余り頭が麻痺していたが、実際これは有り得ない現象だ。一体、何が起こっているのか。

それに、『彼』がアッシュにだけ見せる表情や感情は、正直面白くないし、居心地が悪い。

そして、ルークにとってアッシュの存在は、受け入れがたい他人であるはずだというのに、どこまでも自分と同じで当たり前のように自分へと馴染みそうになる(それこそ、『彼』以上に近い感覚で傍らに座っている)、それが異質過ぎて違和感の余り気味が悪く、ジェイドとは違った意味で扱い辛かった。

このまま、アッシュの傍にいるのは、よくない。強く他人だと意識しなければ、境界線が曖昧になっていきそうな、奇妙な不快感がある。

全く何もかも理解出来ないが、今現在の主導権は自分と同じ存在――アッシュが握っている。それならばもう、どれだけ考えようがなるようにしかならないだろう。ルークはあらゆることを強引に『そういうもの』と判断し理解は全くしてはいないが無理矢理納得して、開き直ることにした。そうすることで意識的に深呼吸出来るほどの余裕も、冷静な思考も戻ってくるはずだ。

ルークは思い切り息を吐き出し乾いた唇を湿らせ、自然と握った拳に力を込めて、問う。

「…ここは一体、どこなんだ」

「第七音譜帯だ」

「第七音譜帯だと!?」

あっさりと返された答えに、思わずルークは頭上に連なる音譜帯を仰ぐが、アッシュは軽く手を否定の形に振って続ける。

「お前等を落ち着かせる為に、擬似的な空間を作り出してやってんだ。第七音譜帯で、俺に出来ないことはねぇよ。疑似超振動の瞬間にお前とアイツだけ、俺の方に引き寄せたんだ。ヴァンの野郎は知らねえが、ま、図太く生きてるだろ。以前、地核に落ちてもローレライ引き寄せて意地汚く生き延びてやがったし」

忌々しげに舌打ち混じりに言うアッシュの言葉に、『彼』が目の前で甲斐甲斐しくするテーブルセッティングの際に立つ音やテーブルの質感、座った椅子の感触、それから眼前に広がるファブレ家の様子をまじまじと眺め、信じられないと呟いた。

何度瞬きしようと、どこにも歪な変化はない。ただそう、生き物の気配が全くしないこと以外は。鳥のさえずり一つもなかった。

「これが、擬似的なもの…?」

「まあ、質感のあるリアルな夢を見ているとでも思っておけ」

それぞれの前に置かれたカップに満たされた液体からは芳しい香りがして、触れたカップも陶器の質感を持って温かい。テーブルに影も落ちているし、ソーサーとカップの擦れる僅かな軋みすらするというのに。

用意を終えた『彼』も椅子に座り、泰然と座るアッシュへと視線を向けると、改まった様子で口を開く。

「なあ、アッシュ。俺はさ、なんで過去に来ちまったのか、全然覚えてねぇんだけどお前、何か知ってる? それにさ、アッシュは何でここにいるんだ? 前の時間…あの未来は、どうなった?」

『彼』の問いを、アッシュはただ静かにカップに口を付け聞いていたが、洗練された綺麗な動作でソーサーへカップを戻すと、二人を見据えた。

「俺達は人間の構成を持っているが、元々の本質は第七音素と変わらない、このオールドラントでは異端の存在だ。今は地核にいるローレライの代わりに、俺がここに居てもおかしかねえだろ。――ま、この時間軸の世界じゃ居場所がここにしかないってものあるが」

「…? 居場所がない?」

首を傾げる『彼』へ、アッシュはルークが目覚めた時とは対照的に、淡々と感情を交えない口調で語り始めた。

――おい、レプリカ。お前が変えた過去の中で、一つだけ確実に失われたものがあったとしたら、それは何だと思うか? それが、過去からあの未来に繋がる道を消したとしたら」

「え……」

言葉を継ぐこともなくぱちぱちと瞬く『彼』の動揺が、ルークへも伝わる。どくり、と心臓が嫌な跳ね方をして、咄嗟に服の上から心臓の辺りへ手を当てた。じわじわと痛みを伴って広がる感情に顔が自然と強張る。

「お前は過去を、未来を変えるため、何一つ取りこぼさないようにして来た。それでもお前の手に、力に余るものは、この世界自体――預言によって失われた。お前が変えようとするその力は、世界にとって微々たるものだ。だから変えられないことも――救えない命、も多々あった。

それはお前が気にすることじゃない。お前は全能ではないし、過去を、未来を変えることなど、普通は出来やしないのだから」

びくり、と『彼』の緊張した肩が揺れた。

『彼』は食い入るようにアッシュを見詰めて、この問いの真意を探ろうとしている。『彼』は逃げない。その鮮烈な視線を受けるアッシュにも、柄になく優しい言葉通り責める色合いは全くない。

そこにあるのは、深い思慮に満ちた澄んだ彩(ひか)りだけだ。

「だからこそ。お前が善かれと思い、変えて来た過去の中で、確実に、存在が消されたものがあったとしたら」

それは、何だ。

――答えろ、『ルーク』」

そうしてアッシュは『彼』に向かって、己のものであるはずの名前を、呼び掛けた。