「…俺が…? 俺が、消した存在…」

『彼』が呆然とアッシュを見詰めるのに、アッシュはただ、無言で見詰め返している。責めているのではないだろう。ただ事実を――自分が行ったことがなんであるかを、『彼』に知らしめようとするかのような、静謐だが射貫かんばかりの強い視線でもって、『彼』ひたとを見据えている。

――アッシュ…?」

眉間に皺を寄せ呟く『彼』から視線を外すと、アッシュは深いため息を吐いた。いかにも大儀そうに、面倒くさそうな態度で。

「…過去に来た理由、か。理由は俺も知らん。知ってたのはお前だけで、お前は何も言わず勝手に行動したからな」

突然の話題の転換に、『彼』とルークが付いていけてないのをそのまま放置して、アッシュは言葉を続ける。

「理由は知らんが…大まかなことは俺の口から知る方が、まだいいだろうな」

長くなるぞ、そう前置きしてアッシュは背凭れに腕を組んで寄り掛かった。

正直言って、ルークの知識ではアッシュが話す内容についていけていない部分もある。

本来ならこの場にルークはおらず、だからこそ口を挟んで質問等出来るはずがない。ただ、『彼』という時間を超えた存在や事態がどうなっているのか、そのことは非常に気になっているから、判らないなりに静かにその場に居座る。

「死んだはずのお前と俺をローレライは取り込んで、第七音譜帯へと昇った。

第七音譜帯においてお前は、体――器と言ってもいいか、接触可能なそれでいて第七音素だけで出来た肉体を持つことに慣れた、意識集合体だった分、環境にいち早く順応した」

「意識集合体…ローレライと同じ…?」

「俺たちはローレライと同じものだ、不可能じゃない。

第七音譜帯には様々な情報が、他の音素との結合を可能にさせ、第七音素を作り出す記憶粒子と共に溢れかえっている。

その中を小さな意識集合体となったお前は、ふらふらとしては擬似的な空間を作り出して過ごしたが、規模は小さいとはいえローレライと同じように力を使うことが出来たから更に始末が悪い」

ち、と忌々しそうに舌打ちして、『彼』を睨む。『彼』の体が躾けられた子犬のようにびくりと反応する、それを見据えながらアッシュは続ける。

「散歩と称して記憶粒子を渡り、意識集合体だからこそ可能な時間移動すら勝手気ままにしやがった」

その時、どうして自分がそれを思い出したのか、ルーク自身でも判らない。いつもは忘れていたが、何かの折りには思い出し、ずっと意識の端に引っ掛かっていたこと。

それは自然に口から発せられた。

「…スカーレット、」

ルークの呟きに、アッシュは重々しく頷く。

「そうだ、アレはコイツの仕業だ。一応正体がばれそうな都心部は避けたみたいだがな、結局伝承だとか記録に残ってんじゃ意味がねえ」

「え、嘘、アレって俺のことだったのか!?」

話自体は知っていても想像もしたことがなかったのか、『彼』が体を跳ねさせて驚いた。

そうだ、御伽話、しかもその登場人物に擬らえられるということで深く考えることもなかったが、赤い髪の人間などそうそう居るはずがない。そのことがルークの頭の隅に違和感として引っ掛かっていた。

それが、こんなところに繋がっているとは。

「記憶粒子の、過去の星の記憶に接触するだけじゃなく、何が楽しいんだかその時間に紛れ込んでは戻ってくる。ローレライの失敗は、お前に首輪と紐を付けなかったことだ。

そして、紛れ込んで何をするかと思えば、出会った人間の傍にただ居るだけだった。その人間が死のうが生きようが、ただ見守るだけ。それで過去に影響を与えるつもりじゃないのは判ったが、だからといって何がしたかったんだ、お前は」

「…覚えてない…」

頑是無い子供のようにただ首を振る『彼』を見て、得られぬ答えにアッシュは強硬に問い詰めることもなくまた、ため息を吐いた。

「…まあいい。

お前は第七音譜帯を自由に歩きすぎた。ローレライや俺と違って、お前は暇を持て余してたからな。

そしてとうとう、第七音譜帯中に漂っているローレライの深層から、ユリアの情報に迂闊にも接触したお前は、最悪なことにその辺の第七音素を使いユリアの情報を素に、記憶にある、作り慣れた体を作り上げちまった」

そうして、ユリア――ティアと同じ色を纏った、レプリカルークが出来上がる。

――…判るな、どうなったか」

アッシュの言葉は威圧感そのもので、重量のある息苦しい雰囲気が周囲を満たす。じ、と見詰められて『彼』は操られたかのようにゆるゆると口を開いた。

「十年前の、オールドラントに降りた…?」

「ふらふらしてたと思ったら、それが目的だったってことだ。ったく、俺もローレライも呆気に取られたぜ」

「え、ええっ! な、なんで!?」

「だから理由は俺も知らんと言っただろうが! こっちの目を盗んで何やってんだてめえは!! しかもその記憶を失ってやがる!」

今まで溜め込んでいた鬱憤が吹き出たように怒鳴るアッシュの剣幕を、『彼』は俯いて縮こまりながらただ受け止めている。そのしょげている様子にルークは思わず手が伸びそうになったが、アッシュにぎろりと向けられた視線で甘やかすなと睨まれた。眼光で殺されそうだ。

「何故、第七音譜帯での記憶が今ないのかは、判らん。ただ相当な離れ業、流石のローレライも驚嘆を超えて絶句するような無茶なことをしでかしたんだ。その反動かもな。

さらには、お前が早々にその器を失えば第七音譜帯に戻れたものを、かつて『生きて』いたお前は、違和感を全く覚えずに自分が生まれる三年前のオールドラントでの生活に慣れちまった」

アッシュが言葉を重ねていくにつれて、『彼』の顔色がどんどんと青褪めていく。

「何故三年前だったかも謎だ。偶然にしちゃ出来すぎてる気がするが、本当のところはお前しか知らん」

――…?」

吐き捨てるようなアッシュの言葉に、不意にルークの頭を過ぎった疑問が口を衝いて出る。

「だが、誘拐された俺を助けたあとケセドニアで消えかけただろう? あの時、第七音譜帯に還らなかったのか?」

再会出来ている今だからこそ口に出来る疑問で、実際に第七音譜帯に還られていたら堪らないし絶対に口になど出来ないのだが、ルークがそう問うのに『彼』がこくこくと同意するように頭を縦に降っている。

だが、アッシュはその問いに答えずふい、と視線を遠くに逸らす。

「…お前が過去に行って、誘拐された『ルーク・フォン・ファブレ』をヴァンの手から助けた。レプリカは誕生したが生きる屍だった。それは俺たちの過ごした時間とは違う事実…過去だ。

――その結果、世界は新しい未来を紡ぐために時間を絵巻物を繰るように巻き戻し、この世界は一度通った道をもう一度辿り直すことになった」

「巻き戻る?」

時間は巻き戻るものだろうか?

いや、ここに実際に過去へと来た『彼』が存在するのだから、そういうことも可能なのかも知れない。だがしかし、『彼』の存在だけが紛れ込むのと、世界の時間自体が巻き戻るのはなにか大きく違う気がする。

ジェイドならともかくルークには良く判らないが、そういう場合時間が巻き戻るというよりも、その未来がなくなるということは、その時点から別の未来へ進む、分岐するということになるのではないだろうか。

「…別の未来へ進まなかったのか?」

アッシュがちらりと『彼』へ視線を向けてから口を開く。

「コイツが居るからな。コイツが居る限り、この世界は『預言から解放される未来を持つ世界』のままだ。だが以前との立ち位置が違う。だからこの世界は、過去とは違う道を辿って預言から解放される必要がある。

あの未来は、預言に詠まれていない『レプリカルーク』の存在がなければ得られない。だから、ファブレ家に戻されたレプリカがいなくなればあの未来には辿り着けない」

お前がいなけりゃ、《預言》は無くならないんだよ、『ルーク』。

アッシュは当たり前のように、『彼』をルークと呼ぶ。自分の居場所を奪った相手に。そうして彼はアッシュという名前を、当たり前のように受け止めている。

「お前がコイツを助ける前、タタル渓谷で俺と逢ったあの時にお前が戻っていれば、まだ未来はそこまで大きく変わることもなかったが、逃げやがったしな。あの瞬間からあの未来の先は消失した」

「………消失?」

一瞬、何を言われたか判らなかった。それだけじゃなく、その言葉を聞いた瞬間頭が真っ白になって思考が止まる。

やはりあまりの内容に頭の処理能力が鈍っていたのか。その言葉を口にして初めて、やっと現状が実感を伴って理解出来た瞬間だった。

「え…?」

『彼』も呆然として、聞き返す。

そうだ。『彼』が目の前に居ることで全く理解していなかったが、時間が巻き戻るということは。

――巻き戻った時間までの全てがなくなった、ということだ。

――ッ、じゃあ…あそこにいた皆は…」

ルークと同じ思考に至ったのだろう、『彼』が身を乗り出し焦ったようにアッシュの肩を掴んで問い掛ける、が。

「いねえよ。どこにも」

アッシュはその手を払うと、切って捨てるように言った。

――どこにも…?」

「言っただろう。全て、やり直しになったんだ。当然、起きたことだけじゃなく、人間関係も。お前のやったことを全部覚えている人間は、俺以外もうどこにも存在しない」

「っ…!!」

『彼』は目を見張った後苦しそうな表情をし、顔を背けるようにして席を立つと、そのまま中庭の方へ走って行く。

思わずルークも立ち上がるが、その心情を思えば追えるはずもない。

『彼』は中庭の中央ほどで立ち止まり、そのまま暫く佇んでいた。アッシュは微動だにせずそのまま席に着いているので、気掛かりだがルークも大人しく席に戻り、『彼』が落ち着くのを待つ。

理解して欲しい人がいたと、かつて『彼』は言った。

最後には認めて貰えたと喜んでいた。殺さずに済むならそれでいいと、とても優しい願いを口にして、『彼』はその理想のために、様々なことを乗り越えて強くなったはずなのに。

そして何よりの拠となる、その笑ったり苦しんだりと成長する『彼』のことを見守っていた仲間がいて。

レプリカだろうと、その世界では両親を『父』や『母』と呼ぶことが出来、そして甘えることが可能だったはずだ。

それが全て失われてしまったというのか。

今までの自分のことを誰も知らず、思い出を共有する相手もおらず、自分にとって確かなものがなにもない、世界。

なんてことだろう、それは。

そんなのは、死ぬのと同じくらい、怖い。

――だがそれは、きっと、この目の前にいるアッシュが味わったことにとても似ているのだろう。

それを思えば彼がこうして(表面上、なのかも知れないが)随分と落ち着いているのも、経験上のことだからか。

佇んだ『彼』は振り返らないまま、掠れた声で呟く。

「…俺、皆はあの先の未来で、しあわせになってるんだと思ってた。俺がいなくてもそれならいいって、それなら俺はここで、頑張れるって…」

「自業自得だな、この馬鹿レプリカが」

『彼』の弱い響きはあっけなくアッシュの強い言葉にかき消されてしまった。アッシュは鼻で嗤って続ける。

「お前は、この世界にとって異物だ。――『金紅石』、『ルチル』か。正しくお前のことだな、レプリカ。お前という異物を内包して、この世界は新しく歪な未来を紡ぐ」

レプリカイオンはよく判っていたということか。

そう告げるアッシュを訝しげに振り返る『彼』に、「髪の分、こっちに来てんだよ」とこめかみの当たりを指し示し、ルークには判らない遣り取りをした。それに些かむっとするルークの隣で、アッシュは肩に流れる髪を払う仕草する。

「まあ、そこまで悲観することもない。

確かにお前のことを知っている人間は誰一人としていないが、お前という異物は、この世界に少しばかりやっかいな現象を発生させている。

お前に記憶がある所為なのか、それとも時間が巻き戻ったからなのか…あの未来でお前に近しかった人間には、お前を軸にしてなにかしら残っている」

「何か?」

曖昧な言葉にルークが首を傾げるが、『彼』は思い当たるのか、はっと顔を上げる。それに、心の底まで見透かすように目を眇めて、アッシュが『彼』に問う。

「思い当たる節があるだろう?

どうなろうと、どうしようと消えようのない想いのようなもの。

お前がかつてあの未来でその人物に関わって起こったこと…お前と関係が近ければ近いほど、本来辿るはずだった未来の記憶、《預言》とでも言い得ていいかも知れないが、そのことをはっきりと、詳しく主観で《思い出す》。

――以前の知り合いは、お前に優しかっただろう? すぐに打ち解けられたはずだ」

「思い出す…? 違う時間のことなのにか?」

「違う時間だが、同じ世界の、同じ人物だからだろうな。

コイツとの関係が遠くなれば、記憶と言うほどはっきりしたものじゃなくても、おぼろげに何かを感じる。

だから今、お前にもう一度出逢えば次第に《思い出す》し、その戻り始めた記憶に関係する人間と出会えばまた、同じようにその人間も《思い出》すだろう。

それを、素養もないのに自分は《第七預言士》だと勘違いする人間もいるようだがな。

だが結局、かつてお前と関係が近かろうが遠かろうが、所詮自分が経験したことじゃねぇ。たとえガイだろうと正確には《思い出》さねぇよ」

――俺は? 俺は、一番近いはずだ!」

まさにオリジナルである自分なら、アッシュの記憶を《思い出す》はずだろう。なのに、この段階においても全くそれらしい記憶の片鱗はない。それどころかこうやって、アッシュという存在まで居る。

声を上げたルークに、アッシュは頷き返す。

「ああ、お前だけは完璧に俺の記憶を《思い出》せるはずだ。

だが、俺がこの時間の意識集合体として第七音譜帯に存在しているからな、お前は俺が存在する限り《思い出》せない。

俺が記憶を持ったままなのは、俺のレプリカであるコイツがここで記憶を持って生きているからだろう」

そう告げて、アッシュは音も立てず流れるような動作で席を立つ。

こつりこつりと階段を降り行く足音が、時計の秒針のように中庭にゆったりと響いた。

晴れ渡る青空を渡る涼やかな風、その中を鮮やかに舞う赤い髪が広がって目を灼くようだ。

白い上着をさらに覆う黒が、ルークの視界を棚引いていく。

「…あの未来が消失した後で、お前の体が消えて第七音譜帯に還ったとしても、この世界は最悪の結末しか迎えねえ。

お前は過去に干渉したその後始末をする責任があったが、お前には巻き戻るべき自分が居なかった」

落ち着いた声音はただ淡々と言葉を紡ぎ、こつり、とまた一歩、アッシュは佇む『彼』へと距離を縮める。

その足が止まり、その踝が石畳を踏み締めた音がした。そうしてアッシュはひたと『彼』をこの中の誰とも違う鮮やかな緑の瞳で、見据える。

「この世界のレプリカルークは、生まれなかった。体しかなかった。そしてお前は体を失っていた。だから、

――ローレライの剣で、レプリカ同士を繋いだ」

アッシュの言葉が途切れたその瞬間、風が凪いだ。

他に生物の息遣いも鳴き声もない、そんな景色ばかりが美しいこの場で、厳かに逸らされた問い掛けの答えを告げられる。

「そうだ。意識集合体に戻ったお前と、生きる屍だったレプリカの体を歌で引き寄せて、繋いだのは俺だ。

俺が、この世界の未来をお前の体を通して繋いだんだ」