――…夢を見た。
幸せだったとは、とても言えない時間の夢だった。
あのあと、鳥の墓は結局どうしたのか…――
全く覚えていない。
…きっと、彼は知らないところで、埋葬したのだろう。
神の愛を受けたものは、死んでもなお幸せだと、昔天上で多くの羽根を持つ天使が唱えていた。
死ぬことにより、永遠に神の傍に居られるからだと。
死んで、幸せと言う感情を感じることが出来れば、の話だ。
…彼は、魔人だから、神の傍には行けない。
死後のことまで、本人ではない人間が感情を惜しつける必要はない。
彼が生きている間、幸せだったのか、不幸せだったのかは、彼自身が知っていることで。
それでも思う。
彼は、幸せではなかったと。思う。
誰よりも、不幸にした自分が思うのだから、誰から見ても、不幸だったのだろうと思う。
…本当に酷い裏切りを選ぶなら、もっと、別の手段があっただろうに。
嘘をつけなかったのか。
数多く嘘をついてきた中で、惹かれる想いだけには、嘘がつけなかったのだろうか。
嘘がつけなかったから、偽りだけでも優しくすることが、出来なかったのだろうか。
サフィルスは話題をあからさまに避けているようだし、アレクにおいては意識が戻ったその日以降、ここには訪れないから訊きようが無いのだが。
(…彼の眠る場所を)
脱走の心配など、必要ない。
この奈落で行きたい所は、用がある場所は、もう、そこしかない。
もし、脱走するとしたら、それだけのために。
だが。
――…やはり、アレクのことだから、訊いても教えてくれないだろう。
誰が、彼をそこに入れたか。
誰の所為で、彼が冷たい土に眠る羽目になったのか。
それを、きっと誰よりも判っているだろうから。
『…プラチナが、一生懸命アレク様に頼んで下さったそうです…。自分がどうなっても…死ぬことになっても、貴方を助けて欲しいと…』
何故、そんなことを己の今際の際に頼むだろう。
最も憎むべき、裏切り者に対して。
自分のことだけ、考えていれば良かったのに。
(…どうして、あなたは。 俺を、助けたのか…)
正気を失った天使すらも、哀れんでいたあなた。
あなたの救いすら受け入れられずに、あがいている。
あなたを騙して、あなたの気持ちすら無視して、自分はそれでも帰るのだと言い張った、最低な生き物。
それでも。
それに縋って生きてきたのだから。
当り前すぎて。他の道を疑う余地なんて無くて。
ここで生きることなど、考えてもいなかったのに。
…自分一人で、ここで生きて、死んで土に還るなんて、思ってもいなかった。
(――…ここに、あなたがいれば、良かったのに……)
* * *
『Padre nostro,che sei nei cieli, sia santificato il tuo nome,
venga il tuo regno, sia fatta la tua volonta’,
come in cielo cosi’in terra.
Dacci oggi
il nostro pane quotidiano, e rimetti a noi i nostri debiti
come noi li rimettiamo ai nostri debitori,
e non ci indurre in tentazione,
ma liberaci dal male……』
* * *
「…ああ、やっぱり倒れましたか」
プラチナのテント傍に設置している机に地図を広げ、今後の戦略についてこれまで集めた情報と共に思考している際に、ジルが気配も無くプラチナを抱えて帰って来た。
ジルに横抱きされているプラチナは、死んでいるかのようにピクリとも動かない。顔色など、紙のように真っ白だ。血の気の無い、とはまさにこのことだろう。
「……判って、行かせたのか」
プラチナの顔色を覗いているジェイドに、ジルの静かな、低い声が問いかけをする。それににこりと笑んで見せた。
「そりゃあ、参謀ですから、王子の体調くらいは把握してます。いつ、倒れました?戦闘中に?それとも、それが終わってから?」
プラチナはマントの甲斐なく返り血を浴びているようだった。
戦闘は、ジェイドが得ていた情報よりも、激しかったらしい。
(運の無い…)
白いマントが、じっとりと濃い赤に汚染されている。
このマントはもう、洗っても白には還らない。
風に翻ると、少し羽根のように見えて、気に入っていたのに。
「すぐそこで、だ」
「そうですか。じゃ、プラチナ様のテントに運んで下さい」
こんな、死体みたいな状態のプラチナを抱えるのは苦労しそうだったし、何よりジェイドの服も返り血が移って汚れそうだったから、何もジルが言わないのをいいことに、テントまで運ばせた。
運び終わったジルの視線が、じっと強い視線で見詰めてくるのを、鼻で笑う。何も言葉にしないが、ジェイドを非難していることはこれ以上無いほど伝わって来た。
「…戦闘の強要なんて、別にしてませんよ?」
ただ、朝テントに行って、アレクが先んじて封印の祠へ進んだことを言ったまでだ。
それをプラチナなりに受けとめて、行動した結果がこうなのだろう。
「戦闘中に倒れるような王子様では、困りますが…まあ、よく我慢したものです。他の兵士などには見られなかったでしょうね?」
噂には聞いているだろうが、実際に総大将が倒れるところを見られるのは、士気に関わる。裏切られて、アレク側に筒抜けになるのは避けなくてはならない。
「…ああ」
「まあ、上出来と言ったところでしょう。貴方もここまで運んでお疲れ様でした。もうそのマント要りませんから、捨てておいて下さい」
ジルがベッドにプラチナを寝かせる際、外していた白いマントを指して言う。じっとりと多の血を吸ったそのマントは、かなり重そうだった。
視界の中にそれがあるのも煩わしくて、さっさとジルごとテントから追い出そうとするのに対し、ジルはテントの入り口で佇み、立ち去ろうとはしない。
暫くの沈黙の後、ジルは漸く言葉を発した。
「…それ以外、無いのか」
「ええ、勿論。アレク様側に、プラチナ様の虚弱体質を、知られたら困るでしょう?」
にこりと微笑んでみせると、ジルの視線が険しいものと変わった気がしたが、ジェイドはジルが何かを言う前に、追い出すための決定的な言葉を告げた。
「さあ、出てって下さい。治療の邪魔ですから」
とりあえず王子の衣服を寛げて、ベッドに横たえ、楽なようにしてやる。
回復魔法で回復するようなら良いのだが、怪我ならともかくこのような症状相手に回復魔法が通用した事は少ない。
仕方なく、いつも通常の医療行為で何とか凌いできた。
寛げた白く細い首に手をやり、脈拍を軽く測る。浅い息遣い。熱が多少あるようで、顔色も良くない。吐き気もあるのかも知れない。
試しに回復魔法を暫く唱えてみたが、回復した様子は見られない。
状態を確認して、香炉に火をつけ、安息香の香りがテント内へ広がり始める前に、薬や氷などの用意をするためにテントを出る。
氷は流石に常備していないため、兵士の一人に近くの街まで調達に行かせて、王子のテントに戻った時。
がしゃんと派手な音がした。
「…プラチナ様? 失礼しますよ?」
訝しんで、声を掛けつつ中に入れば、テントの中にきつい香の香りが充満している。
不審に思ってテント内を見渡し床を見てみれば、ベッドの傍らの小さな机に置いておいた香炉と水差しが落ちて、無残にも中身が散らばってしまっていた。
どうやら、香炉の傍に置いていた水差しを取ろうとして、手で引っ掛けてしまったらしい。
先ほどまで気を失っていたプラチナが、酷い顔色のままベッドに腰掛けた状態で喉元を押さえている。
きっと、濃い香の匂いが気持ちが悪いのだろう。
「あーあ。なにやってんですか…」
呆れてため息を吐くと、屈んで床に転がった香炉を拾った。水差しのほうはガラス製故に割れてしまっている。香と灰が水を吸って、テントの絨毯の毛に溶け込んで掃除が面倒だが、仕方が無い。
「――…片付けておけ。俺は水を浴びてくる」
プラチナは一つため息を吐いて、緩慢な動きでベッドから立ち上がる。
息をするのすら、苦痛だと言う様子で。
「…水、ですか?お湯のご用意をしているんですが…」
「水でいい」
「お風邪を召されても、困るんですけどねえ?」
「……」
沈黙が返答を拒否する。
言葉を発するのも辛いくらい、疲弊しているのだろう。
実際顔色は悪いままで、これで水浴びなどをして具合を悪化させるのは止めて欲しい。
漸く、先日酷く寝込んでいた状態から回復したと言うのに。
「お手伝いしましょうか?」
「いい」
他意無く言ったつもりだが、迷いもせず、あっさりと断られてしまった。
「即答ですか。でも、裸で倒れるより、良いんじゃありません?」
「…何をされるか判らんから、いい」
「裸で倒れたら、結局一緒だと思うんですけど」
もともと、王子気質のプラチナが、裸ということに今更羞恥心があるとは思わないが。
プラチナは一つ大きなため息を吐くと、睨むようにジェイドを見詰めて、きっぱりと言う。
「とにかく、いい。お前はそれを片付けておけ」
「はいはい」
どうやらプラチナは顔色は悪いものの、体調は幾分回復した様子だから、ジェイドもそれ以上体調に付いては言わないことにした。顔色も、一晩寝れば、回復するだろう。
濃青の布地が、所々変色しているのを見てジェイドは顔を顰めた。
「服、その返り血じゃもう駄目ですね。落とすのも大変そうですし、仕方がありませんから新調しましょうか。王子様が酷い格好じゃ、兵士の士気も下がりますし」
「…任せる」
「はいはい、面倒臭がりなんですから…次はもっと気をつけてくださいよ?新調する金も馬鹿になりませんし」
「判った」
「…お湯、使って下さいね」
生返事のように答えるプラチナに、ジェイドはにこりと笑んで見せ、強めに言って聞かせる。
こんな所で風邪などひかれては、アレク側に遅れを取る事にもなる。
なるべく、先手を打ってはいるのだけれど、決定的な駒がこの調子では、頼りなくて仕方が無い。
「…ああ」
いつもの、感情が込められない声で短く返事をすると、そのままテントの外へと消えていく。きっと返事だけをして、彼は使わないだろう。
あの頑固さは、誰に似たのやらと思う。
先ほど、すれ違いざま、ふと血の匂いがした。
天使との戦闘で血に塗れたまま、気を失い寝ていたのだから、仕方がないのだろう。
見れば、先ほどまで寝ていたシーツに血が微かに滲んでいる。
他に移るほどに、返り血を浴びていたのか。 血も死臭も、なかなか取れないものだ。
こんなにきつい香の中でも、それと判る匂い。
自分の体にもきっと、染み付いているだろうと思った。
腕に、脚に、髪に。
………背中に。
天に帰ったその時に、あの穢れない空気の中では、さぞかしそれと判る匂いを発しているだろうと思い、少し自嘲の笑みが口に浮かぶ。
同胞を毎日のように殺し、最後には奈落の王と王子を殺し。
体に禁忌とされる死臭を身に纏い、そうして帰る。
――…それでも、帰れるような場所。
『…A men…』