…想っても、想っても。

 ――…けして、救われたり報われたりなど、しないのだけれど。

 けれどそれは確かに、何よりも純粋な、祈り、に近かったかもしれない。

「ああ、もう大丈夫みたいですね」

 サフィルスが部屋に入るなり、ベッドに腰掛けている姿を見て、そう口にする。

 意識が戻って、暫く経つ。

 傷口からの違和感も次第に薄れて、体の自由も体力も、大分回復してきた。

 寝ている時間より、起きている時間が長くなり、その間、窓の外を眺めている。

 木の茂みに覆われた景色が変わるわけはないが、特にすることもないので、気が向いたら外をただ眺めている。

「包帯も、次からは要らないんじゃないかって、医師が言ってましたよ」

「そうか」

 何度か眠っている間に、定期的に医者が診ていることは、知っていた。

 しかし、人一倍警戒心が強いと思っていた自分が、包帯を変えられている最中に、薬の所為とは言え、起きることがないのが、ジェイドには不思議でならない。

 薬の睡眠作用が強くしてあるのではないだろうか。

――…医師を人質にして、逃げたりしないように?)

 そう考えて、その思考を軽く首を振って打ち消す。

 当たり前か。

 今は傷を治しているけれど、体が完治すれば裁判にでも掛けられるだろうし、あくまで自分は罪人なのだから。

 サフィルスには、アレクという存在がある。

 そもそも、同じようにセレスに攻撃を受けただろうに、自分より先に回復してこうして看病をしている辺りがそうだ。

 だから、こうして自由でいられるのだろう。

「そうそう、モノクルが漸く仕上がったんです。今の貴方に合うと思うのですが…」

 サフィルスがそう言いながら近づいてきて、はい、とモノクルを手渡した。

 それを受け取って、暫し見詰める。

「……お前の見立てなら、その言葉は怪しいな」

「失礼な人ですね、相変わらず!」

 憤慨するサフィルスを適当にあしらって、モノクルを右目に嵌めた。

 久しぶりの、金属の冷たい感触。

「どうです?」

――…悪くない。少し強いけどな」

「ああ、それはもし今後視力が下がっても、大丈夫なように少し強めだとか言ってましたけど…ムリのようなら、レンズの変更が出来るそうですが」

「いや、違和感が多少あるだけだ。別に問題はない」

 すぐ慣れる、と返答した際に、ポツリ、とサフィルスが呟く。

「大丈夫ですよ。……私一人の見立てじゃありませんから」

 その言葉は、多少どころではない驚きを齎した。

 サフィルス以外に、自分のモノクルに対して興味を持つ者がいただろうかと考えるが、全く思いつかない。

――誰だ?」

「秘密です」

 どうやらサフィルスお坊ちゃんは臍を曲げられたようで、ご機嫌悪そうにふい、と顔を背けた。そのまま、窓の向こうを眺める。

「今日は雨ですから、この部屋も何だか薄暗い感じがしますね」

「この部屋は、もともとこんなものだ」

 意識が戻ってから、何度か雨は降ったがここはいつも薄暗く、そして静かだった。

 モノクルのお陰で、窓から離れても、外の景色が良く覗える。

「……あ……」

 サフィルスが、小さく反応した。

 先ほどは居なかった白い小鳥が、木の枝で雨宿りをしていた。

* * *

「…ん?」

 シーツの数が足りない。

 プラチナのテント内で、不足している品を発注するために確認をしていた際、ふとシーツを仕舞っているスペースに不自然な隙間があることに気がついた。

 シーツの洗濯は先日済ませて、確かに補充しているはずなのに、そこにはたった一枚きりのシーツが、きちんと畳まれた様子で置いてあるだけだ。

 洗濯籠も確認する。シーツは今取り替えた分しかない。

 勘違いだったかと、他の物も確認してみる。

(…夜着も、足りない)

 これは、シーツよりも減りが一、二枚多い。

 不審に思って、物資を保管しているテントへ確認に行く。

「……ある……」

 保管数に問題はない。

 テントの生活をしているものの、王子の身の回りのものだから、上等な布を使っている。

 未使用のシーツや夜着を転売すれば、それなりの金にはなるだろう。

 そう疑うのが妥当なところだが、それなのに、まだ使用したことの無い、綺麗なシーツや替えの夜着はきちんと保管されているのは、何故だ。

――…何かおかしい)

 まさかロードがそんなマニアなことをしていない…とは断言出来ないが、それならジェイドの耳に入ってくるはずだ。

 洗濯中に、何かで駄目になったとかはあるかもしれないが…それにしても、この数は変だ。

――まさか、プラチナが、夜着とシーツを勝手に処分している?)

 …何故。

 理由らしい理由と言えば、一つだけ思いつかないことも無いが、だからと言って処分するだろうか。

 洗濯籠に突っ込んでおけば、いいことだ。

 プラチナほどプライドが高ければ、人目につかないように処分するかもしれないが…しかしシーツと夜着以外は、別に怪しむべきところはない。

 何か、おかしい。

 嫌な感じがする。

 いつのまにか、プラチナに何か、変化が起こっているのだろうか。

(……嫌な、予感が、する)

* * *

 ふとざわついた空気が伝わってきて、テントの中に居ながら、プラチナの帰還を知る。

 あの王子が帰ってくれば、やはり空気が浮つく。

 赤の王子のように愛嬌があるわけでもない彼が、それでもあのように遠巻きとはいえ囲まれるのは、彼の美貌あってのことだろうと思う。

 自分のテントから出てプラチナのテントへ向かおうとした時、不思議なものを見て思わず足を止めた。

 ジルとプラチナが、話している。

 今日の供はジルではなかったから、きっと帰ってきたプラチナを引き止めたのだろう。

 二人とも余り無駄口は好まないから、話をしている二人、という姿に違和感を感じる。

――そういえば)

 何故だかあの日以来、二人が一緒にいるところを良く見るような気がした。

 ジルがまだ、余計なことを言っているのだろうか。

 もしそうだったら思い切り邪魔をするために、そっと、気配を忍ばせて近づく。

 話が聞き取れる範囲まで来たものの、二人とも声を潜めている分、聞き取り難い。

 ……どうやら、少しタイミングが遅かったらしい。

 話は、終わりかけの雰囲気を纏っていた。

「…このままで、いいのか?」

 ジルの低い声がする。

 相変わらず、教師のように…父親のように、プラチナに語りかけている。

――…お前が黙っていれば、問題はない」

「参謀殿に…知られたら、どうする」

 ジルの言葉に、プラチナはため息を吐いた様だった。

「…あいつは、興味などないだろう。俺が普段通りにしていれば、普段通りに動くことが出来れば、それで良いはずだ。干渉はしない。疑問にも思わないだろう」

 暫くの沈黙のあと。

――…そうか。お前がそれで良いというなら、俺も黙っていよう」

 ジルが、決断をしたかのように目を伏せてそう言った。

「だが、俺はいつもお前を案じていることを、忘れるな」

 ジルの言葉に、プラチナも顔を少し俯けると、低く呟く。

「…すまない」

「謝る必要はない。お前が忘れなければ良い」

「判った」

 プラチナの返事に、ジルはフ、と視線を和らげて、プラチナの頭を子供にするように軽く叩いた。

「……何だ今のは」

 子供扱いされた事に、不服そうな声を上げるが、そこには微かでは有るものの、年齢相応の表情が見受けられて、かなり驚いた。

 ……あんな表情をするのを見たのは、初めてだった。

 途端に、気持ちが悪くなる。

 言い現し様のない、胸の内のそれ。

 そこに居るのが酷く馬鹿馬鹿しくなって、吐き気を堪えながらジェイドはその場から立ち去った。

* * *

――プラチナ様、明日の予定ですが…」

 夜。

 プラチナのテントの入り口に立って、声を掛けてみるが返事がない。

 討伐の疲れで早々に寝ているのなら良いが、もしや発作でも起こしてはいないかと思い、「失礼しますよ」と一応断って、テントの中を覗う。

 灯りは点いているものの、テント内に姿が見えない。

 湯を使っているのかと思ったが、そこにも居ないようだった。

 それならば、何処か部下のテントにでも居るのかと思い、そちらの方向へ歩き出したところに、自分のテントから出てきた様子のロードと出くわした。

 一応、問い掛けてみる。

「プラチナ様をご存知ないですか?」

「プラチナ?何、いねぇの?」

 キョトン、と問い返す様子は、本当に知らないようだった。

「ええ」

「ふぅん。――勝手に抜け出すようなら、お仕置きしちゃう?」

 突然、小悪魔的な(あくまでも外見上は)笑みを浮かべて、ロードが尋ねてくる。

 試すような、探るような問い。

 返答は決まっている。

「そんなもの、必要ありませんよ」

 にこりと笑って返答すれば、ロードはあからさまに胡散臭そうに見詰め返した。

 まあ、説得力など皆無なのだろうけれど。

「何よりも、ご自分の立場を理解されていると思いますので」

 そう付け加えると、ロードは首を傾げる。

「ふーん…お前、本当に何も知らないんだ」

「何をです?」

 引っ掛るものを感じて、すぐに問い返せば、弱みでも握ったかのように、ニヤリと人の悪い笑みをロードはして見せた。

 マズイ反応をしたか、と咄嗟に思ったときにはもう遅く、ロードはからかう様に声音にしなをつくり、そっと囁くように言う。

「プラチナ様のこ・と❤❤」

「…そういう貴方は、何を知ってるっていうんです?」

「なーいしょ❤」

 声音も仕草も可愛らしくしているが、ジェイドはロードを女として見ていないので、気持ちが悪いだけだ。

 ジェイドの冷めた視線に、ちぇー、とロードは素に戻ると、ばりばりと頭を掻く。

「…でも、すぐに、ばれると思うんだよな。もう、あれじゃあ…――

 少しだけ、遠くを見てから、不意にジェイドとの距離を詰めた。

「な、お前ってさ、もうちょっとプラチナに判るように甘くしてやったら?」

――は?」

 もともと、質問に答えるつもりなどなかったのだろうが、話が急にあちこち行き過ぎて、ジェイドにはついて行けない。

 ロードはそんなジェイドに構いもせずに、更に言う。

「別に、あっちの参謀みたいにしろって言ってるんじゃないんだからさ、少しだったら別に良いんじゃねぇの?」

 ロードの言葉は、ジェイドには不思議でならなかった。

 甘くして…それが、何になるだろうか。

 甘さなど、プラチナに望んではいないし、プラチナも望んではいないだろう。

「時間の無駄でしょう」

 馬鹿みたいだ、それは。

 そんな行動は。

――何の意味も持たない)

「そーかそーか、時間の無駄と来たか…」

 疲れたようにひとつ、ため息を吐いて。

 背を向けて歩き出しながら、投げやりにロードが言う。

「プラチナはきっと、ここのテントのどこにもいねえよ。探すだけ無駄。もっと違うとこ探せばぁ?」

 見つかるとは思えねぇけどな!という捨て台詞を残して、去って行った。

「…違うところ…?」

 尋ね返したが、本人はすでに夜の闇の中で。

 こんな場所で、テント以外の違う場所など…周囲の森か、近くの街か…かなり大雑把な捜索になる。

 しかも、プラチナの不在を知らせるわけにはいかないから、ジェイド一人で行わなければならない。

 …ため息が出る。

「簡単に言ってくれますよ…」

 いっそ、帰ってくるまでテントの中で待っている方が、楽だろう。

 …だが。

 ロードの言葉を信じるわけではなかったが、嫌な感覚がまた唐突に、じわりと胸に染み込む。

(何なんだ…)

 判らないけれど、急速に、広がってゆく。

 一体、これが何なのか、感じている自分が表現できない、奇妙な感覚。

 そこに冷たい水でも流し込まれているような。氷の棘を突き刺されるような。

 鈍痛の痛みを伴う、それ。

 暫く考えて、街の方角へは向かわずに、森の方へと足を進めた。

* * *

 水の跳ねる音がした。

 気のせいかもしれないが、それでも一応、川の方へ足を運ぶ。

 陣営地には、安全性のほかに水辺が比較的近いことが優先されるから、そんなに距離はなかった。

 せせらぎの音が確かに聞こえてきた時、白い姿を視界に捕らえる。

 遠いけれど、あの銀髪は間違いなく。

――プラチナ様?」

 訝しんで、そっと声を掛けるが、気がついた様子ではなかった。

 何をしているのか、白い夜着を着た後ろ姿が、川の深い部分に進んでいこうとする。

 その体は、膝まですでに浸かっているのに。

 結っていない銀の髪が水に浸かり、川の流れに従って、川下の方へたゆたっている。

「プラチナ様!」

 声を強くすると、びくりと体が揺れた。

 だが、振り返りはしない。

 進む足が止まっただけだ。

「勝手にテントを抜け出して…そこで何をしているんです!?風邪を引くつもりですか!自分の体のことは、自分で判ってるんじゃなかったんですか!?」

 何を言っても、振り返らない。

 きちんと聞こえているのかも、判らない。

 ふらりと、プラチナの体が揺れ、水の中に膝をついた様だった。

 そのまま倒れる気がして、慌ててジェイドは水の中を流れに逆らって進み、プラチナの腕を掴んで立ち上がらせようとする。

「何を、して…――っ!?」

 非難の言葉は、最後まで言えなかった。

 白い、その夜着に。

 赤い。

 赫い、それは…

「これ、は…何です、何事ですか、プラチナ様…?」

 胸の部分を中心に、無残に広がる赫い跡。

 プラチナから漂う、血の匂い。

 嫌な予感。

 自分が知らなかったこと。

 プラチナは、目を合わせない。

 口も、硬く閉ざしたまま。

「まさかこれは…」

 あの日。

 ベッドや服についていたのは返り血ではなくて…――

 プラチナの、吐血だったというのだろうか。

「ジェイド…お前に…」

 そこまで具合が酷いことを何故隠していたのかとか、

 早くそこから出て、体を温めなくてはとか、

 いくらでも言えたはずなのに

 何故だか

 その時にはその言葉を聞きたくなくて

 聞きたくなくて

 しようがないのに

 それでも口が挟めなくて

 いっそ彼の口を塞ごうとして

 それでも指先も動かなくて

 結局、間に合わずに。

「俺を殺す権利をやろう。

 ――…俺を、殺してくれないか」

 ――いずれその日はやってくるのに。

 何故か聞きたくなかった。

 …聞きたくなかった。