ジェイドの厚い包帯も取れ、傷口も小さくなり、患部は軽く布で保護する程度で構わなくなってきた頃、久しぶりに、サフィルスと一緒にアレクがやって来た。
もう二度と来ないだろうと思っていただけに、来訪には何かしら意味があるのだろう。
どんなことを言われるのやらと、向かい合わせにテーブルについて、表面は何事も無い様に、だがアレクのどんな言葉にも対応出来るように、ジェイドは内心準備を整えた。
サフィルスはケーキを作ってきたと言って、備え付けの簡易キッチンでなにやら嬉しそうにいそいそと茶の用意を始めている。
道具の無かった最初の頃に比べれば、あからさまに危険なもの以外は、この部屋に置かれるようになった。
本や、茶を入れる道具や、食器類。石鹸やタオル等の生活必需品など。
アレクには、必要以上に自分を束縛するつもりはないらしいことは、ジェイドにも判っている。
…ただ、それがいつまでのことだかは、判らないが。
アレクは暇そうに椅子に座って、行儀悪く足をぶらぶらさせながらサフィルスの様子を見ていたが、不意にジェイドの方を向き直ると、
「なあ、お前湯治に行けよ」
と、唐突に言った。
一瞬意味を掴み損ねて、オウム返しに問う。
「……湯治に…?」
「そ。行って来て。怪我が完治するまで、帰ってこなくて良いから」
突然の提案に、ジェイドは思わずアレクを不躾なまでに見詰めながら、絶句する。
まさか、こんな事を言うとは思っても見なかった。
また前のように、罵詈雑言でも、裁判の日取りでも、処刑日でも言うのだと思っていたのだから。
「裏切り者に、そんな出費をして頂けるとは、夢にも思いませんでしたよ」
アレクの様子を覗うために、とりあえずは皮肉を言ってみる。
これで怒り出せばいつも通りのアレクだが、今日は違った。
アレクは詰まらなそうな顔をして、一つため息を吐くと、窓の向こうを肘を付きながら眺めつつ、どうでもよさそうに返して来た。
「俺も、そのつもりは無かったんだけど。…このまま、この部屋に閉じ込めておけば、お前なんて食事を与えないだけでも簡単に殺せるな、とか、少しずつ体に傷をつけて血を抜くだけでも殺せるな、とかって思うと…」
そう言葉を区切り、ジェイドの方へ顔を向けると、にこりといつもの曇り無い笑顔を見せて。
「つい、プラチナとの約束を破りそうだから、暫く俺の目の前から消えて?」
明るい声で、遊びに誘うように言う。
ジェイドが訝しんで眉を顰めると、アレクはまた詰まらなそうな顔をして、窓の向こうを眺める。
天真爛漫だったアレクの、この変わり様。
……そうさせたのは、彼の唯一の『家族』である、プラチナを奪った自分なのだろう。
そう思いながらふと手元のテーブルクロスの刺繍模様に目を落とした時、コト、と紅茶の入ったカップが置かれる。
ちらりと見れば、サフィルスは困ったような、哀しいような、変な表情でこちらを見ていた。
サフィルスにしても、彼のこの変化は望まないものなのだろう。
「お前を王族殺しの重罪で、処刑しても良かったんだけど…プラチナとの約束があるから、一生こき使ってやる」
背けていた顔をこちらに向けて、睨みつけながら言うアレクの姿に、継承戦争の時に彼がこうだったなら、強かったなら、プラチナもあんな決断はせずに済んだのに、と思った。
彼が、プラチナを殺すのに躊躇いを持たなかったら。
自分が、彼を殺さずに済んでいたら。
だが、それはプラチナにも無理だったことだし、済んでしまったことを今更思っても仕方が無い。
「お前も、逃げようとかするなよ」
「…判ってますよ」
彼が、ジェイドに生きる事を望んだと言うのなら。
彼の居ない世界で、生きろと言うのなら。
それが、罰だと言うのなら…――
最期まで、この地に足をつけて醜く生きていくしか、無い。
* * *
奈落王の死が間近だと告げてから、満月の夜を過ぎていた。
少し満月というには欠けた月の下で。
彼は、兄に、自分を殺させたくないと、言った。
彼の体はもう、決着を付ける時まで保たないことは、明確だ。
元々が弱い身体。
ここまで保ったことが、奇跡かもしれない。
決着が付いた時、今度こそ必ず、奈落王は勝者に敗者を殺させる。今まで、何度も逃れてきたことだけれど、奈落王の前でそれが拒否できるとは、思えない。
それに、その時負ければ、ジルやロードなどの部下にも迷惑が掛かる。
…だから。
城に辿りつく前に、「病死」させて欲しいのだと、彼は言った。
それならば…まだ、部下にも生き残る術は残されているだろうから。
城に入る前なら、王子死亡の騒ぎに乗じて身を隠すチャンスを得られる。
…彼らの望みをかなえることは、残念ながら出来ないけれど。
殺し方は何でもいい。
何か薬を使ってもいいし、
もし――…
『このような結果で、お前の気持ちがおさまらんと思うなら、好きなように殺してくれ』
それが。
『王子ではなく、俺個人が、お前に対して唯一出来ることだ』
プラチナ個人で出来る、報いなのだと、言った。
『俺が「病死」したことにより、お前は多少の害を被るかもしれないが…
――兄上は、きっと、お前までを殺したりはしないだろうから…』
――…そう、言っていた。
川から彼を引きずり出すようにして、連れて帰った。
時折雪が降るようなこの季節に、こんな真似をして、さらに呆れたことに裸足。
仕方なしにジェイドがプラチナを川岸から抱えて戻り、冷えきった体に熱湯を何度も掛け続けて、タオルで擦って、温めている間。
まるで他人事のように、彼はそう言っていた。
それを、まるで寓話の朗読を聞くように、淡々と聞いていた。
そんな時でも、彼の声や、表情には、何もなくて。
時々「熱すぎる」とか「痛い」とか、文句ばかりで。
だから、ジェイドも「あなたの体温が低すぎるんです」とか、「自業自得です」とか、当たり前のように説教をして、最後には、特別苦い薬を飲ませて彼を寝台に押し込んだ。
そんな薬を飲んだ程度で、彼の中に深く入りこんだ病は、そう簡単に回復することはないが。
無かったことに、したかったのかも、しれない。
プラチナの、言葉も。
プラチナの吐血も。
それを知らなかったジェイド自身も。
全て、無かったことにしたかったのかもしれない。
翌日、街から医者を呼んで容態を見せた。
ジェイドの手におえる状態では既にない。
医者も匙を投げることは判っていたが、どのような状態なのか、知っておかなくてはならない。
奥の方の内臓に、とても負担が掛かっていて、だから血を吐くのだという。
内側から痛みがあまりなくても、血を吐くならば深刻であるとか。
とりあえず、薬を数種類と沢山の休養をとれば、少しは改善されるだろうと言うことだったが、完治をさせたいなら手術をすることが必要だと説明をして、医者は多額の金を受け取って帰っていった。
手術にこの体は耐えられないかもしれない、と付け加えて。
それからは、周囲には城での最終決戦に備えていると説明して、なるべく必要最低限以外のプラチナの外出を禁じた。
怪しまれないように、軽い訓練は避けられなかったが、それは仕方がない。
プラチナも、全てをジェイドに任せる気になったのか、大人しく従っている。
外出を禁じても、適当に本を与えていれば、特には文句は言わない。
殺せと言われて、はいそうですかとは、言えなかった。
そう言われて殺せるのなら、今までにすでに殺している。
セレスに急かされていたが、手を汚すのはこちらばかりで、腹立たしい気持ちもあり、すぐには殺そうとはしなかった。
その機会は、何度も訪れたし、傷をつけることを厭いながらも、その度に庇うことはせず。
誤魔化す術は幾らでも知っている。
だが、この王子に死を齎すことが、未だに出来なかった。
いずれ自分がそのつもりだったのをプラチナに知られていたようで、そんなにあからさまにしていたか、と思うと、落ち着かない、気持ちの悪い思いをした。
この感情を覚える必要はないと、判っているのに。
――…罪悪感など。
もともと優しくなど、していなかったのだから。
プラチナが、『ジェイドは自分を疎ましく思っている』と思っているのなら、この決断も、当たり前なのかも知れない。
…疎ましく思っているから、優しくなど…甘くなど、出来ないのだと、プラチナが思っているのなら。
プラチナを殺すのに、一番何の感情も持たないだろうから、選ばれたのだ。
* * *
プラチナの看病といっても、たいしたことは出来ない。
ジェイドは医者ではないし、怪我ではないのだから回復魔法が作用するものでもない。
もし、プラチナの身体が完治するとしたら、それは天上の…羽根を余分に与えられた天使か、神の成せる術だろう。
精々出来るのは、医者から与えられた鎮痛効果のある薬や、これ以上免疫が低下しないような薬を与えること。
あとはなるべく負担の掛からない、栄養価の高いものを摂らせること。
熱があれば、解熱剤を与えて。今抱えている病状とは違う他の発作が出たら、別の対応をして。
それくらいしかない。
一応、プラチナの様子を見に、一日一度はプラチナのテントへ行くようにはしているが、他のことはジルなどの部下に任せた。
プラチナも、殺すように命じたジェイドが傍にいるのは、落ちつかないだろう。
だから敢えて、最低限の世話だけをした。
「よーう、参謀殿❤」
ジェイドがプラチナのテントへ向かう途中、ロードが背後から声を掛けて来た。
振り返って見れば、ジルと、カロールも揃っている。
「皆で見舞いに行こうと思ってたんだけど…もしかして俺達邪魔?」
「いえ…」
特にプラチナと何か話をする訳でもないし、彼らがいる分、間が保つ。
プラチナの視線を感じるたびに、急かされているようで。
彼らとの話に夢中になっているところで、抜け出せば良いだろう。
「そ。じゃ、ご一緒しよーかなー」
そう言って、先を歩き出すロードの背中に、思わず問い掛けていた。
「…何故、もっと早くに知らせてくれなかったんですか?」
「ん?」
ロードがくるりと振り返る。
ジェイドはそのまま、ロードだけでなく背後のジルもカロールも見渡して、今まで隠していた理由を訊いた。
「もっと早くに私に伝えていたら、手遅れにならなかったんじゃないかと思いますが」
自然と、強くなる語調。
全て今更だが、それでも、伝える義務は彼らにあった。
それをしなかった彼らを責めても、プラチナの病状が回復する訳は無いが、隠していた所為でプラチナが長く苦しんだことは、確かだった。
プラチナを大切にしていると言う彼らにしては、あるまじきことだ。
雪のちらつく空気は肌を刺すようで、告がれる言葉を待つ間も、しんしんと身体を締め付けるかのように苦しめる。
「僕達は、何度もプラチナ様に、そう言いました。…手遅れにならないように、早く治療を受けるべきだと」
「だが、プラチナは拒否した」
「拒否した…?」
静寂を破った、だがそれでもカロールと、ジルの静かな言葉に、怒りの感情は逸らされる。
何をおいても、自分には病状を報告するようにさせているのに、それをプラチナは拒否した?
眉を顰めて、三人を見詰める。
「プラチナは、お前に知られることを嫌がったんだよ」
ロードはため息をついて、ジルの傍にあった物資の詰まった木箱へと軽く寄りかかる。
「自分が倒れると、またアレク側に遅れを取ってしまう。そうなるのを避けたがっていた」
「だから、隠していたのは…貴方自身の所為です」
カロールの言葉は常に荒くなることは無いが、瞳は、強くジェイドを責め、睨みつける。
プラチナの具合が悪くなれば、そのたび説教をするジェイドに、言い辛いところがあったのだろう。確かに、頼る存在にはならないようにしたが。
「――…一体、いつから酷い状態なんです?プラチナ様は」
胸の内にまた、言い現し様のない、吐き気に似た感情に侵され、それを堪えるために表情を硬くしたまま、尋ねる。
「ん~…ちょっと前だと思うけど」
ロードが記憶を辿るように、指を曲げていく。
最初は目立つようなものではなかったが、とうとう倒れたのはジルが、プラチナを抱えて戻ってきた日。
それから何度か、討伐が終わった後に倒れることがあり、そのたび同行していた彼らが途中まで支えたり、ある程度歩けるようになるまで回復してから、テントへ戻って来ていた。
そして一番最近では、ジェイドが…捕まった日も。
プラチナのテントを出て、自分のテントに戻るために暫く歩いた後、ふと、月を見上げた。
空気が冷え切っている所為か、濃紺の空にくっきりと白銀の姿を現している。
円というには、少し足りない、欠けた形。
ロードに、甘く接してやったらどうだ、と言われたのを思い出す。
いつか、裏切る相手に甘くしたり、優しく庇護してやったり。
親愛の情を持って接したり。
馬鹿みたいだ、それは。
そんな行動は、まるで。
――…自分を愛して欲しいと、言っているみたいじゃないか。
そんな行動は、意味が無かった。
耀ける不完全な姿の月の下で。
その不完全な感情の名前を、知った。
たとえ気付いても、知っても。
思っても、想っても。
――…決して、救われたり、報われたりしないのだけれど。