恐ろしいほど静かな夜だった。
この陣営地には、幾人もの兵士がいる。見張りも居るはずなのに、人の気配というものが無い。
雪で、物音は失われて行く。
寒いから、きっと息を潜める様にして、過ごしている所為もあるのだろう。
空気が冷たい。雪も適度に吹雪いていて、視界が悪い。雲で月は見えないから、光も無い。
(――…ああ、やるならたぶん今夜だろうな……)
この時間にはすでに眠っているだろう、プラチナのテントへ向かう。
見張りの目を盗むことなどせず、当たり前のようにテントの入り口の布を払って、するりと入り込む。ジェイドはプラチナの参謀なのだから、姿を隠す方が怪しい。
テントの中に入れば、中の空気は仄かな暖かさがあって、ふうとため息を吐いた。短い距離を歩いただけで、寒さの余り、身体に無暗な力が入っている。
不要な力を抜き、起こさないよう気配は殺したまま、無防備に眠っているプラチナの寝顔を覗きこみながら、そっと、ベッドに腰掛けた。
(…こんなに幼かったか……?)
目を閉じると、かなり幼くなる。
いつものあの、冷徹な雰囲気を纏った瞳がなければ、彼はこんなにも頼りない。
時折、残酷なことを感じた。
…奈落王は、アレクが王に相応しい力をつけるための成長剤として、プラチナを利用したのかもしれない、と。
継承戦争が長引けば、不利になるのは完全にプラチナなのだから。
例え、プラチナが早々に戦争を終わらせて、王になったとしても、それは長くは続かないだろう。
体の弱い王など、奈落以外のどの世界でも相応しくない。
賢いプラチナなら、そこまで考えるのすら、奈落王は知っているのではないだろうか。
賢いプラチナなら、自分の命よりも、奈落の、アレクの未来を選ぶと判っているのではないか。
そう、常に感じていた。
この王子は結局、奈落王にとっても、駒に過ぎなかったのだろう。
この王子もまた、幼い子供に変わりはなかったのに。
何故だか酷く気持ちが悪くなった。
怒りのような、吐き気のような、得体の知れないものが胸を支配する。
彼のことを思うと、いつもこうだった。
簡単な死を齎すことも出来ず、何かに葛藤し続けるのも。
こうして、ジェイド自身でも理解出来ない感情で、吐き気を堪えるのも。
目の前のプラチナの白くて細い首に右手を掛ける。
彼の肌に触れた時、温かいと感じて、自分の手の冷たさを実感した。これで目を覚ますかと思ったが、そんな気配はない。まじまじと、いつもは髪で隠されている、首筋を見詰める。
人の首は、こんなにか弱いものだっただろうか。
それとも、彼が痩せ細ってしまった所為だろうか。
病的だけれど、それでも、美しいと感じた。
…いつまでも、こうして眺めているわけにはいかない。
長居しすぎた気もするし、この状態では、誰かに見られても、言い訳が出来ない。何より首を絞めては、『病死』には程遠い痕を残してしまう。
もともと、首など絞めるつもりなどなかった。ただ、目の前に晒されている白い首筋を見たら、触れてみたくなっただけで。
ふと、空気が動いたような気がした。
視線を上げて、プラチナの表情を見る。
――微笑んでいた。
見たことのない、綺麗な笑みだった。
目を閉じたまま、まるで何か嬉しい事があったかのような、自然な微笑み。…まるで、幼子が楽しい夢を見ているような。彼がこんな表情を持っているとは、想像したこともなかった。
その笑みを前にしたら、何も…何ひとつ、出来なかった。
首を絞めることも、瞬きも、呼吸すらも。
「――殺さないのか?」
いつまでたっても力のこもらない手が気になったのか、プラチナは目蓋を開いてごく普通の表情で尋ねて来た。
怯えも、悲しみも伝わってこない、淡々とした表情。
いつから起きていたのだろうか。
起きていて、自分が殺されることが判って、どうしてあんなに幸せに微笑むことが出来るのだろう、この王子は。
ジェイドが本当にプラチナを殺す時に、そうやって笑うつもりなのだろうか。
どうして。
(どうして、こんなにも…―――)
「継承戦争など無い世界に、行けるとしたら…どうします?」
気が付いたら、そんなことを口にしていた。
プラチナが訝しむように、見詰めてくる視線を受けたまま、もう一度口にする。
「もし、私があなたをどこかに…例えば、天上に連れて行けると言ったら、どうします?」
彼を、助けたいのだろうか、自分は。
今まで、そんなことを考えたことも無かったのに。
継承戦争を続けることでしか、奈落での居場所がないこの王子と。
天へ帰るしか、奈落での居場所がない俺と。
どちらも、失敗すれば、何処にも行けないまま、朽ちていくだけ。
この感情は、同情なのか。
似ている者への。
「…そこで俺は、見せしめに処刑されるのか?悪趣味だな」
プラチナは冗談と思ったらしく、微かに微笑みながら、そう言った。
先ほどの笑みには、程遠く、力無い笑み。どれだけの、苦痛を彼は抱え込んでいたのだろう。―――今も。
「そう、ですね…。あなたは王子ですから…、奈落以外の何処にも、行けませんね……」
予想していた答え。では、彼を殺すのは、自分の役目だ。アレクにも、奈落王にも、天使にも、誰にも殺させない。
「…まだ、今は…殺しません」
首に当てていた右手で、プラチナの前髪を軽く梳いてから、ベッドを立ちあがった。
プラチナが体を起こし、ベッドから離れるジェイドの方へ、身を乗り出す。
「…今は…?」
「ええ。継承戦争に決着がついた、その時には…必ず」
にこりと笑んで見せて、おやすみなさいと短い挨拶をしてから、ジェイドはテントを離れた。
いつもは意識をせずに出来るはずの笑みが、今日は少しわざとらしかったかもしれない。
どうして、こんなにも。
――…哀しいと、思うのだろう。
* * *
鎖の解ける音が、寒々とした地下牢に響く。
戒めを解いて、床に落とせばそれは金属の重い音がした。
プラチナの両腕を捕らえていた手枷は、食いこんで白い手首に無粋なような、ある意味儀式的な、赤い痕を残している。
気怠げに壁に背を預けていたプラチナは、ゆるりと緩慢な動きでジェイドを見上げた。
「…約束を、果しに来ましたよ、プラチナ様」
声を掛けたが反応が鈍く、立ちあがるのに通常の倍の時間を要した。ふらりと揺れる体を腕で支えれば、息が熱く、荒いのを感じる。
「――…辛いですか?」
だからと言って、もう戻れはしないけれど。見張りの死体が見つかるのは、時間の問題だろう。ジェイドの問いに、プラチナは小さく笑ったようだった。そのまま、プラチナを支えているジェイドに皮肉気に言う。
「…もう、熱があろうがなかろうが、関係あるまい?」
「そうですね。最後に一太刀、剣を振り下ろす力さえあれば、結構ですよ」
「――何を、させる気だ?」
熱の所為で腕に抱え込んだ体も熱く、頬が仄かに紅潮している。頭もはっきりとしてはいないだろう。それでもジェイドの発言に必死に思考を巡らそうとする。
それにいつものように、微笑んで見せ、静かに告げた。
「プラチナ様、奈落王を殺していただけますね?」
「父上をか…?」
プラチナが驚いて、目を見張る。
アレクすら傷つけたくないと思っていたプラチナにとって、考えたことも無かっただろう。それでも、ジェイドは躊躇いも感情も含めず、ただ肯定した。
「ええ。私に報いてくれるんでしょう?」
無碍も無くそう言い切る。
プラチナは眩暈でも感じたのか、額を軽く押さえる仕草をして、言葉を継ぐ。
「それは…そうだが…――何故俺が父上を…」
「もう、次期奈落王はアレク様と決まっているんですから、今の奈落王を殺したって、ちょっと、死ぬのが早いか遅いかの違いじゃありませんか」
プラチナの掠れる声を遮って、ジェイドは言葉を続ける。熱で正常な思考をする事が出来ないプラチナの扱いは、難しくない。
「部下の人達のことは、大丈夫ですから。後は、あなたが」
あなたが、奈落王を殺してくれれば、良いんですよ。
言葉にしなくても、プラチナには判っている。どんなに、正常な思考が出来なくても、ジェイドが望むことは判るはずだ。
身体に、習性のように染み付いた、それ。
「あなたのことは…――俺が責任もって、あなたを殺します」
体を支える腕に力を込めて、俯くプラチナの耳に低く、囁いた。
何も、余計なことを考えることも出来ないまま、ただ、言うことを従順に聞いてくれればいい。父親を殺すことがタブーなんてこと、奈落ではありえないのだから。
何故、奈落王を殺させるのかなど、考えなくていい。何も判らないままであれば、裏切られたと、知らずに済むのだから。
「…最期まで、あなたの息が止まるまで、見ていてあげますから…」
『奈落王』はアレクが継ぐが、だが、危篤状態の現在の『奈落王』を殺してしまえば、王位は奪われたことになり。
王位は、殺してしまった者の、もの。
だから息が止まるまでは、あなたは『奈落王』だ。
「あなたを、『奈落王』にして差し上げましょう」
笑みを残したままそう囁いて、ぼんやりとした目をするプラチナの背を押し、支えながらジェイドは歩き出す。隠し通路を通って、アレクが辿りつく前に王の間へ。支える為に繋いだ手が熱い。プラチナは歩くことに精一杯のようで、足元に視線を落としたまま、苦しそうに息継ぎをしている。
「―――…俺を恨みますか?プラチナ様」
突然、訊いてみたくなった。
(あなたを見ていると、何度も、同じことを考えた)
正気を失った天使すらも、哀れんでいたあなた。
俺は、あなたの救いすら受け入れられずに、あがいている。
あなたを騙して、自分はそれでも帰るのだと言い張る、最低な生き物。
それでも。
それに縋って生きてきたのだから。
当り前すぎて。他の道を疑う余地なんて無くて。
今この時も、あなたを殺す事に対する気持ちよりも、天へ帰れる喜びの方が勝っていて。
けれど俺は、確かにあなたに対して、矛盾を抱えた。
胸が痛かった。
苦しい思いをした。
――…この想いについた名前など、気付かなければ、良かったのに。
「…行くぞ」
プラチナは、答える事を拒否した。
…きっと、判り合えないと知っていたのに、訊いてしまった。
あなたは、最初から俺と同じ場所には居ないのだから。
奈落に堕ちたあの屈辱の日々を、この王子が、理解できるはずもない。
何も知らない、綺麗な王子様。
俺が生きていくのに、あなたの気持ちは要らない。
…それを、哀しいと感じるべきなのか、嬉しいと感じるべきなのか。
迷う間もなく、答えを得る間もなく、この細い無防備な背中に魔力を振るう時が来る。
あなたが、その剣を下ろしたら。
――…さよなら、プラチナ様。
俺が生きていくのに、あなたは要らない。
そう、疑いもせず思っていたんです。
…その時は。