「じぇいど!」

 昼寝をしていたはずのプラチナが、突然勢い良く隣室の扉を開け、駆け寄って来た。

 そしてそのまま、決して仕事中のジェイドの邪魔をしたことが無いというのに、無我夢中という感じで、本棚に向かって立っていたジェイドの脚にぎゅっとしがみつく。

「…プラチナ様?」

 静かに問い掛ければイヤイヤと首を振り、腕の力を強める。顔は良く見えないが、微かに震えているようでもある。

「どうかしましたか?怖い夢でも見ましたか?」

 腕を解いて屈み、俯いているプラチナの顔を覗くと、驚いた事に瞳一杯に堪っていた涙がぽたりと零れ落ちた。一つ零してしまえば後は止まらずに、ぽたりぽたりと雫は零れて白い頬を伝う。

「…じぇいど」

 嗚咽に紛れながら、小さな声で何度もジェイドの名前を呼ぶ。その響きは、とても悲しくか細い。

 いつに無い様子に、少々焦って涙を拭いつつ、問い掛ける。

「何です?どうしました?」

 そっと、ジェイドの頬を撫でる動きに促され、プラチナは力無く俯いていた顔を上げた。涙を纏った睫毛が瞬きして涙を零し、それがまた頬を伝う。それをただ見つめながら、プラチナの言葉を待った。

「…じぇいど、どこかにいくのか…?」

「俺ならここに居ますよ。何処にも行きませんよ?」

 涙を止めようと出来るだけ優しくものを言えば、それでも信じられないのか首を振って。

「じぇいどが、ほんとうはてんしだから、ならくはきらいだから、かえるって……」

 自分で言いながら悲しくなったのか、プラチナの嗚咽が酷くなるのをそっと抱き締め、落ち着くよう何度も背中を撫でながら、ああ、と納得する。

 記憶が、夢となって出て来てしまったのか。

 可哀想に、と思い、胸が痛む。

 また、傷付けてしまったのだと感じて。

 優しく抱き締めるジェイドの首にしがみ付いて、プラチナは嗚咽を一生懸命堪えながら更に続ける。

「じぇいどは…ほんとうはっ…、おれがきらい…っ?」

「まさか、そんなことありませんよ。どうして、そんなことを言うんです?」

「じぇいどが、いじわるだった…っ」

 絞り出すような声。

 その声でこうもダイレクトに言われると、流石に言葉に詰まる。同時に、またずきりと酷く胸が痛んだ。

 ジェイドの胸に埋めていた顔を上げて、正面から見つめる。

「じぇいどはおれがきらいだから、いじわるするんだろう…っ?だから…おれを、ひとりぼっちにして…っ、じぇいどはかえる…?」

 一生懸命涙を手の甲で拭い、嗚咽を堪えながら尋ねてくる幼いプラチナの様子に、申し訳なさが募る。

 プラチナは、以前の事について「もう良い」と、一言でジェイドを許してくれていた。更に、ジェイドの願いも叶えると言ってくれた。

 それに、甘えていたのは自分だったのだ、とジェイドは腕の中で嗚咽に体を震わせている、小さなプラチナに思う。

 自分がつけた傷口は深くて…そう簡単には癒すことは出来ないのに。

 判っているつもりでも、それは所詮つもりで。

 平気なフリをして、今まで傍に居てくれたのだと、そのことに漸く思い至る。

 傍に居る事ができるその幸せに浮かれて、また酷く傷つけていた、と思うと、更に申し訳なくなる。

 本当は、こうして泣きじゃくりたかったのかも知れない。

 何故裏切ったのかと…ただ、その事実に対して、こうやって子供のように泣きたかったのかも知れない。

 ――…泣き方を、方法を知らなかっただけで。

「…プラチナ様、俺が帰るところは、ここでしょう?俺の空は、ここにありますから…」

 まだ涙を零す、青い瞳に口吻ける。

「俺にとって飛ぶ事は、この空を抱き締める事と同じです」

 そう言って、言葉通りに小さなプラチナの体をもう一度引き寄せて、強く、それでも苦しくないように気をつけながら抱き締めた。

「奈落にいるあなただけが持っている、青い空ですから…」

 だから、と首にしがみ付くプラチナの耳に呟いて。

「あなたが、俺の帰るところですよ…」

 囁いて、また腕に力を込めた。

 ぎゅっ、とプラチナが更に力を込めて、抱き返してくる。熱い吐息が肩に掛かるのをジェイドは感じ、宥めるように何度も背中を撫でた。

――プラチナ様…」

 背中を撫でながら名を呼ぶと、体を起こしてジェイドの顔を見つめて来る。その涙で濡れて力の無い表情を変えようと、少し微笑んで見せて。

 ふとプラチナの肩の力が少し抜けた所で、真摯な気持ちで告げる。

「…意地悪して、傷付けて…、すみませんでした」

 この言葉は、彼が元の姿に戻った際にも、言おうと思う。

 本当に聞きたいのは、きっと彼だろうから。

 …それから。

 それから、この言葉も。

「あなたのことは、何よりも…誰よりも、好きです」

 ジェイドの静かな言葉に、小さなプラチナは暫くそのまま動きを止めて考えているようだった。

「…どのくらい?どれくらい、たくさんすき?にわの、いけよりも?」

 どうやら、この小さなプラチナには「大きい」「長い」等のサイズや距離を示すものと「たくさん」等の数を示すものの区別はまだつかないようで、サイズや距離の数値が大きければ、数が多いことと同じらしい。逆も同じだ。

 その発想に思わず顔が綻んで、それでも首を振ってみせた。

「いいえ、もっと、です」

「もっと?このしろよりも?」

 驚き大きな目を更に見開いて、微笑むジェイドを見ている。

「それよりも、もっとですよ」

 ジェイドが微笑んで言えば、プラチナは、自分の中で比較できるものを探して、一生懸命考えているようで、次第に首を傾げて。

 そして、自分の中での一番「たくさん」を表現する物を思いついたのだろう、一瞬で表情が変わり、首が元通りになる。

「…そらの、ほしよりも…?」

 思いがけず、詩的な表現になった。それに対し少しジェイドは苦笑すると、涙でプラチナの頬に張り付く細い髪の毛を、丁寧に払ってゆく。

「そうですね、それよりも…もっと、あなたが好きですよ」

 髪を払っていた手でそのまま頬を包んで、顔を見つめながらそう言うと、不思議そうな顔をして直向に見つめ返して来る。

――…俺を、許してくれますか…?」

「じぇいど、ずっといっしょ?」

 一つ瞬きをして、ぽつりと尋ねる。それに強く頷いて。

「ええ…あなたさえ良ければ…、ずっと、一緒ですよ」

 ジェイドの返事に、心の底から嬉しそうに…ふわりと微笑んでから、ぎゅ、と幼い腕と力でジェイドの首へと抱きつくのを、優しく抱き締めた。

 まだ涙の残る笑顔で、それでも許してくれる。

「…じぇいど、だいすき」

 こっそりと、秘密を打ち明ける時のように、小さなプラチナはジェイドの耳に囁く。

 どうやら、どこまで理解をしたかは判らないが、落ち着いたらしい。小さなプラチナが『だいすき』と言う時は、ご機嫌な証拠だ。

 ジェイドにしがみ付いているその背中を、元に戻ったら、彼は絶対に口にしない言葉だろうなと思い、苦笑しつつ何度か優しく叩いた。

 部屋に備えついている洗面所に連れて行って、冷たいタオルで涙で酷い事になっているプラチナの顔をそっと拭う。

 ただ、こうしても泣いている時に散々目を擦っていたから、暫くは腫れてしまうのだろうけれど。

 折角の可愛いお顔が台無しですね、とジェイドが言えば、プラチナは相変わらず不思議そうに首を傾げる。

「さてと。もう一度お昼寝をしますか?」

 抱き上げて執務室へと戻りながら尋ねると、暫く考えていた様子だったが、首を振る。

「とりにえさをやりたい」

 …少し、驚いた。

 小さなプラチナに、鳥に餌をやる所は見せたことは無かったから、そんなことを言い出すとは思っても見なかった。

「鳥に…?珍しいですね、あなたがそんなことを言うなんて。サフィルスにでも聞きましたか?」

 小さく首を振り、そして言葉の短いプラチナにしては珍しく、説明する。

「ゆめで、じぇいどとふたりでえさをやって、たくさんとりがきて、たのしかった」

「楽しかった…ですか…?」

「たのしかった」

 ゆっくりと床に下ろしながら問えば、にこりと微笑みながら返事を返すその様子が、嘘ではない事を意味していて。思わず微笑み返す。

「…いいですよ。それじゃあ、着替えてきて下さいね」

「ん」

 頷いたものの、ジェイドの服を握る手を離し難いのか、暫く迷っているようだった。

 その手を離した瞬間に、ジェイドがどこかに消えてしまうかもしれないという、不安を抱えているのだろうことは、想像しなくてもジェイドには判る。

 安心させる為に、その手を握って。

「大丈夫、ちゃんとここで待っていますから…あなたの傍に、いますから」

 その言葉に安心したのか、漸く、手を離すと隣室へ走って行く。きっと急いで着替えて、戻ってくるのだろうと思い、少し笑ってそのまま待った。

 …ほんの少し、救われたような気がした。

 自分の望む救いは、プラチナが本当に癒えた時だろうとは思うが。

 プラチナが持つ、自分に纏わる記憶の欠片の中に、優しいものなど一つもないと思っていた。

 でもこうして、酷い夢の中で…楽しい夢も、確かに見てくれていたのだから。

 嘘だらけの時間の中で、あの些細な出来事が楽しかったのは、ジェイドも同じだったから。

 ――…彼が元に戻った時に、せめて楽しい夢の記憶だけが残りますように…

end.