ジェイドがプラチナの屋敷に教育係として来て、一ヶ月が経ったころ、唐突にふと、身の回りのものが不足していることに気がついた。
いや、気づいてはいたけれど、積み重なりすぎてもうそろそろ自分を騙せなくなって来たというか。
この屋敷の持ち主であるプラチナの教育係という立場は、城での地位はそこまで高くないが、この屋敷ではある意味、主と同等に重く見られている部分がある。
その立場を使ってメイドや出入り業者に頼めば、それなりに良いものを選んでくれるだろうから任せておけばいいことなのだが(しかも料金は屋敷持ち)、口であれとかこれとか説明する方が面倒くさいし、なにより、城下町にも慣れておく必要がある。
気分転換にもなるからと、その日の午後は買出しの時間を貰うことに勝手にした。
そういう意味では、子供の教育係、という地位は悪くない。
子供には、必ず昼寝の時間があるからだ。
急いで片付ける必要のある書類もないし、適度に風も吹いていて天気もいいし、出かけるのに問題はない日だった。
「プラチナ様、私はちょっと出かけてきますから、ちゃんとお昼寝しておいてくださいね」
陽の当たるソファで毛布とクッションに埋もれながら、すでに半分夢の中へ旅立とうとしているプラチナに声を掛けると、緩慢な動きでジェイドの方を見上げる。
「どこ……?」
「はい?」
「どこ、行くんだ?」
「ちょっと、城下町まで。買い物です」
安心させて眠らせようとしたのだが、逆にぱちりと目が覚めてしまったようだった。
「『外』に行くのか」
大きな青い瞳が、じっとジェイドを見詰めている。
プラチナは今まで屋敷から一歩も出たことがないからか、城の敷地以外は全て『外』だ。
ええ、と返事をすれば、毛布とクッションを押しのけて、プラチナはジェイドの傍らに立つと、短く告げる。
「……おれも、行く」
「は…?」
「ジェイドに、ついて行く」
「駄目ですよ、お留守番しててください」
王子様を連れて行くなんて、そんな頭の痛くなるような面倒なことは勘弁して欲しい。
今日は息抜きのつもりで、外に出ようと思ったのだし。
さすがにそれは口には出来なかったから、ジェイドはプラチナの発言によって引き起こされた微かな頭痛を押え込みながら、少し屈んでプラチナの目線に会わせると、少し強い口調できっぱりと言う。
だが、プラチナとて小さいながらも立派に頑固だから、ジェイドの言葉に反論して来た。
「ジェイドは良くて、どうしておれはだめなんだ」
「人ごみが激しくて、きっとプラチナ様には向きませんよ。それに、迷子になったり、その所為でプラチナ様に万が一のことがあったら、大変じゃないですか」
そんなことがあったら、お父上に私が処刑されちゃいますよ、と言えば、少し困ったような顔をするが、やはり譲らない。
「……だれもおれが王子だなんて、しらないぞ」
まあ、言いふらす訳でもないし、まだ後継ぎがどちらかに決定しなければ、姿を民衆の前には出さないことになっているから、誰も『王子』とは思わないだろうが。
「王子とは思いませんでしょうけれど、裕福な家の子供だとは思うでしょうね」
何といっても身なりが違う上に、身についた気品だって、醸し出されるものが断然違うのだ。
ヒトというイキモノは意外と、『自分たちと違うもの』に対して、鼻が利くものなのだから。
「――……わかった」
暫く思考していたプラチナが、すんなりと頷いて見せたので、ジェイドはふうと息を吐いて肩の力を抜く。
が。
「まいごにならないように、手をつないでいればいい」
ジェイドはプラチナの説得を潔く諦めた。
* * *
「ジェイド、あれはなんだ」
不意にプラチナがジェイドを見上げて、問いかける。
「……?」
問いかけた後、ジェイド達とは反対側の通りを歩く親子をじっと見詰めているその視線を追ったが、質問の意味が判らない。母親が小さな子供を抱き上げて歩いている、至って普通の親子の姿だろうと思う。
「なにをしてるんだ?」
「…たぶんあの子供の母親が、子供を抱っこしてるんだと思いますが?」
それが何か?と問いかければ、不思議そうな顔でじっと既に後姿になっている親子を見詰めている。
「だっこ……」
彼らを見送りながらポツリと呟く。
気が済んだかと、手を引いてまた歩き出そうとすると、またジェイドを見上げて問いかけてきた。
「どうして、『だっこ』をしてるんだ?」
「さぁ…子供が歩き疲れたと、親に甘えたのかもしれませんね」
ジェイドがそう言えば、俯き難しい顔をして歩きながら考えている。
何か、子供に判り難いことを言ったか、とジェイドが自分の言葉を頭の中で思い出していると、独り言のような呟きで尋ねてきた。
「…『だっこ』は、おやがするものか?」
「ええまあ、大抵はそうですね。あとは身内の大人などでしょうか」
……もしや彼はその行為も、言葉も意味すらも、知らなかったのか。
賢い子供だから、多少ジェイドが難しいことを言っても理解できるため、考えたこともなかった。
後継ぎが決まるまでは、城の敷地内へ入ることも出来ず。
祭典でも同席することも叶わず、屋敷ではもちろん親との触れ合いがある訳もなく。
更に一月ほど前までは、教育係すら傍になく、独りで毎日を過ごしていた、彼。
…ああ、と漸く思い至る。
ああ、この幼い子供は。
誰にも、そういう触れ合いをされたことがないのだと。
ジェイドが歩くのを突然止めたため、プラチナが不思議そうな顔をして、ジェイドを見上げた。
「プラチナ様、失礼します」
そう言った時には、ジェイドの両腕に支えられることによって、プラチナの小さな体は既に宙に浮いている。
プラチナは余程驚いたのだろう、珍しくきゃあと可愛らしい悲鳴を上げた。
「はい、これが『抱っこ』ですよ」
恥かしがって、じたばたと暴れているプラチナに、ジェイドは微笑みかける。
ジェイドの言葉に、プラチナはきょとりと目を瞬かせた。
「口で説明するより、やってみた方が早いでしょう?」
ジェイドの言葉に納得したかどうかは判らないが、手の置き場所など探して、多少居心地が悪そうにしていたプラチナは、暫くすると子供がしていたように、ジェイドに寄り掛かり、首に腕を回してしがみ付いてきた。
ぺたりと頬を寄せてくる姿は、年齢相応の表情をしていて。
意外なことに、子供が苦手なジェイドにしては、王子であるが為に、精神的に少々早く成長しすぎたプラチナの、この子供らしい一面を嫌ってはいない……むしろ、そういう表情をひきだせたことに、喜びまで感じている。
「おとされたら、いやだからな」
「そうですね、落ちないように、ちゃんとしがみ付いてて下さい」
しがみ付く理由をわざわざつけるプラチナに、微苦笑しながらジェイドは穏やかな気持ちで返答した。
本当の気持ちを隠して理由をつけているのに、ジェイドが気付いていながら答えていることは、プラチナにも判っているのだろう。
むうと難しい顔をして見せる。
だが、暫くするとにこりと満足そうに笑んで言う。
「これなら、まいごにならない」
――これは、遠まわしにまた外出を強請っているのだろうか。
それとも、抱っこを強請っているのだろうか。
どちらなのか、それは判らなかったけれど、ジェイドはプラチナを抱き上げた腕に少しだけ力を入れてしっかり支えながら、城下町を歩いていた。
end.