…プラチナ様は独りでした。
独りで朝、目覚めてから。
お食事をする時も、お勉強の時間も。
遊ぶ時も、寝る時も…独りで過ごしました。
お屋敷は大変広いので、メイドや使用人は沢山います。
しかしその誰も、プラチナ様に親しくする者はありませんでした。
奈落王の怒りに触れるかも知れなかったし、
何よりプラチナ様はお体が大変弱く、周囲の大人たちにしてみれば、 手間のかかる子供だったのです。
プラチナ様も、大人たちが自分の事をどう思っているか、充分に判っていました。
だから、プラチナ様はいつも独りです。
プラチナ様は、独りお庭で日向ぼっこをするのが好きです。
書庫で本を読むのも好きです。
プラチナ様は自分で大抵の事は出来たので、独りでいることはそんなに苦痛ではありません。
それに独りで大人しくしていれば、メイドたちは嫌な顔をしませんでした。
プラチナ様は人と会話するのが、苦手です。
慣れていませんから、自分の気持ちを上手に伝えられないのです。
どんな顔をすればいいのかも、判りません。
だから、プラチナ様はいつも独りです。
遊んでいる時、本を読んでいる時。
時々、とても誰かと話したい時があります。
でも、誰もいません。
それに気がついた時、陽だまりに包まれていても、
冷たい水の中に居るような、そんな寒さが傍にずっとありました。
プラチナ様はいつも独りだったので、それを当り前の事だと思っていました。
それに名前があることも、知らなかったのです。
しかし、そんな毎日が続いていたある日、それは突然に訪れたのです…
『こんにちは、プラチナ・パストゥール様。綺麗な髪ですね……』
* * *
「――プラチナ様?」
屋敷中が寝静まった深夜。
突然、灯りを弱くした部屋に訪れた小さなプラチナの姿に、丁度湯浴みから戻ってベッドに腰掛け、髪の水気をタオルで拭っていたジェイドは、慌てて立ち上がってプラチナに近寄り、屈みこんで表情を窺う。
「どうしました?…怖い夢でも見ましたか?」
首を振ってプラチナは、眠そうに目を擦っている手の反対の手を、ジェイドに向かって伸ばして来る。それを見て、意味を悟りジェイドは苦も無くその子供特有の柔らかい身体を抱き上げ、軽く抱き締めた。寝起きのプラチナの身体は、湯浴みした後の身体にも暖かいと感じさせる。
目を擦る手をやんわりと掴んで止め、その手に口吻ける。
「目を擦っちゃ駄目ですよ。…ぬいぐるみは?置いてきたんですか?」
「ん…」
こくり、と頷きつつも寝惚けているような様子に、微笑みつつジェイドは掌でプラチナの頬を撫でる。
ジェイドの手付きにプラチナは何度か瞬きをしながら、ゆっくりと窓の向こうを指差した。
「外、星…」
「…星が、どうかしましたか?」
窓へ移動しながらジェイドはプラチナに問い掛けるが、プラチナは腕の中でぼうっとしたまま、何も言わない。まだ、完全に覚醒している訳では無いのだろう。
引いていたカーテンを開ければ、闇色の空の中で無数のそれらは瞬いていて。
腕にプラチナを抱いたまま、窓を開け、バルコニーへと進んだ。
「ああ…流星群ですね」
次々に流れては消えていく光の筋に、思わず見入る。
空気が冷え切っているのを感じて、腕の中のプラチナの体が冷えることがないよう、包み込むように腕を回して抱き締め直した。
「ジェイドといっしょに、見ようと思って…」
「それで、そんなに眠そうなのに、わざわざ来たんですか?」
こくり、と頷く。
随分前にベッドに寝かしつけたはずだった。今まで途中で起きることは滅多になかったのに、今日に限って不意に、夜中に目が醒めてしまったのか。
この小さな王子は、夢の中で星の降る音でも聞いて、目が醒めたのかも知れない。
時折、そんな事を感じる。
あまりに無垢だから、御伽噺の様に草葉の陰に隠れる、精霊すら見えているのではないかと、そんな事を考えてしまうのだ。
幼い姿には似合わず大人びているが、心は素直で綺麗なことを、ジェイドは知っている。
腕の中で夜空を見上げている、そのあどけない横顔を見ていると、ふと、脳裏に偶然耳にしたメイドたちの立ち話を思い出す。
『…この前、ジェイド様とご一緒に居るプラチナ様にお茶を運んだんだけど…声、初めて聞いたわ。あんな声をしているのね』
『私も、このお屋敷に来て二年になるけど…この前初めて聞いた。何時も首を振ったり、頷いたりしかしなかったから…』
『でも…、笑わないし、変に大人びてて…魔力も強いし、下手なことしたら殺されそうで…傍に居られたら、落ち着いて仕事なんて出来やしないわ…』
『そうね、子供らしくないし…全然可愛くないわよね。大人しいから扱いやすいけれど、まだ、アレク様の方が子供らしいから、良さそうねぇ』
ただ単に廊下を歩いていて聞こえる位なのだから、プラチナの耳にも届いているのだろう。
…恐らく、更に酷い言葉も。
この屋敷のメイドや使用人は、確かな素性の者でなければならないから、大臣などの地位を持った貴族や地方領主などの家から寄越された者ばかりだ。
…王子が王になった時に強い繋がりを持てるように、という政略から来た行為。
教育係のジェイドに、その権限が無いことは判っているが、そんなことは無視してしまって、プラチナの許可無くこの屋敷のメイドや使用人全てをクビにし、きちんと躾の行き届いた者達に新調する気になる。
使用人の躾すら出来ない者など、たかが知れるというものだ。
僅かな、たった一年と言う歳月で、ジェイドすら気付いてやれたというのに。
プラチナの表情が判り辛いのは、表情を作り慣れないからだと感じた。
生来の性分というものも、あるとは思うが。
…誰も、プラチナに子供らしい感情を、求めなかったのだ。
だから、あのメイド達は一生プラチナの笑みなど知らないだろう。
一年前に突然、教育係だと言って現れたジェイドには、何故だか初めて会ったその日から懐いてくれていて。
その時に、ご機嫌取りに使えたらと思って渡したウサギのぬいぐるみも、気に入っているらしく以来ずっと一緒に過ごしている。
先日は虹を見つけて、仕事中のジェイドを呼びに来た。
虹の根元には宝物があるのだと、膝の上でそんな寓話を聞かせると、『宝物を見つけたら、ジェイドにあげる』と振り返って言ったその顔は、満面の笑みで。
毎日毎日、呪いが解けたかのように少しずつ、新しい表情を見せてくれる。
…惜しみなく、ジェイドだけに。
そっと横顔に指先で触れる。
触れた頬は、外気に曝されている所為で冷たくなっていた。
ジェイドの指の動きに、空を見上げていたプラチナは視線を移す。
真っ直ぐに青空の色をした碧眼が、間近のジェイドだけを見つめている様子に、ジェイドは見えないというのに、頭の中の思考を誤魔化すように微笑む。
「…何かお願いしましたか?」
プラチナはジェイドを見つめたまま、首を振った。
「おや、良いんですか?こんなに沢山流れているんですから、どれか一つはお願いを叶えてくれるかも知れませんよ?」
からかうように言えば、プラチナは夜空を見上げて。
「…もう、かなった」
「え、そうなんですか?――…いつ?」
「ずっと、前に」
プラチナが甘えるように首に抱きついてくる姿に、寒いのかと思い抱き締め直し、背中を撫でて問い掛ける。
「へえ…何を願ったんです?」
まさか、本当に願い事が叶うとは思っていなかったから興味で尋ねたのだが、プラチナはジェイドに僅かに首を振って見せて。
「ひみつだ」
「おや、私にも言えない事なんですか?」
「そうだ」
悪戯っぽく、くすくすと笑ってみせるプラチナに、ジェイドは微笑み返す。
その事で責めるつもりはない。
…ジェイド自身も、言えない事はあるのだから。
――…いつか、伝えるつもりではあるこの短い言葉は、彼が大きくなり自分の役目が終ってからでも、遅くない。
永遠に伝えることがなくても、それはそれで良い、と思う。
自分だけが知っていればいいのだ。
ただ今はこの小さいこの王子の成長を、私情を立ち入らせることなく見守れたらいい。
すっかり冷えてしまった小さな肩を、ジェイドは掌で包み直して。
「さあ、もうお部屋に戻りましょう。随分と遅いですし、体が冷えていますから」
明日寝坊するのは良くないし、これの所為で風邪をひいても、夜更かしする癖がついてもいけないから、ジェイドは名残惜しそうに、まだ星の瞬く夜空を見つめるプラチナを抱えたまま部屋の中へと入る。
窓を開けていたのは失敗だった。
外気が入り込んで、すっかり部屋の中の空気は冷たくなっている。
湯浴みの後のジェイドの身体も、僅かな時間のうちに冷え切ってしまった。
それでもジェイドは自分のベッドから毛布を剥いで、プラチナをベッドに下ろすと跪き、毛布で包み込む。
「プラチナ様のベッドも、多分冷たくなっちゃってますね」
子供でもこの屋敷の主はプラチナだから、ベッドはとても立派なもので、大人でも余るほどの広さだ。この小さな体の体温の名残は、もう残っていないだろう。
顔を上げた時、大きな瞳と目があった。
その瞬間に、無意識にジェイドの口から言葉が零れる。
「――…今夜は、一緒に寝ましょうか」
とても寒いですし、と付け加えた言葉よりも早く、プラチナは嬉しそうに微笑んで。
包まれた毛布の合間から、細い腕を伸ばして来る。
その腕は、当り前のように跪いたジェイドの首にしがみ付く。幼い身体の力の全てで。
ジェイドはその身体を抱きしめ返そうとして、不意にプラチナが身体を起した。
「…ウサギが、ひとりぼっちだ」
…どうやらプラチナの中では、あのぬいぐるみも『ひとり』という勘定に入るらしい。
まだ名前は決めていないらしいが、本当は秘密にしているのかも知れない。
先程の、願い事のように。
…いつか。
いつか、ジェイドがあの言葉を言うことが出来た時に、教えてくれたらいい…と思う。
その頃には、プラチナは子供の頃のことなど忘れているかも知れないが、その時は、新しい秘密を教えてくれたらいい。そう思う。
「それじゃあ、プラチナ様のベッドに行きましょう」
不安そうな顔をするプラチナに微笑んで、抱きつくプラチナをそのまま抱え上げ、扉の方へ歩き出す。
「ん…」
嬉しそうに首にぎゅっと抱きついて来る、その甘えた仕草を暖かい体温と共に抱き締めた。
* * *
プラチナ様は、もう独りではありません。
寒い時は、暖めてくれる人が居るからです。
その人は、いつも傍に居てくれます。
プラチナ様を独りにしたりはしないのです。
彼がお仕事で忙しい時は、ウサギが居てくれるから、
プラチナ様は寒くありません。
プラチナ様の言葉を彼は最初から最後まで、時間を惜しまず聞いてくれます。
彼の前では、どんな顔をしても良いのです。
病気になったら、心配してくれます。
悪い事をしたら、怒ります。
泣いていたら、優しくキスをして。ぎゅっと抱き締めて、頬や頭を撫でて。
何度も何度も丁寧に髪を梳いて、一緒に寝てくれます。
プラチナ様にとって、彼は一番の宝物。
だから願いはもう、叶ったのです。
end.