ようやく謹慎が解けて、久しぶりに仕事をする為に執務室に行けば、案の定仕事は堪っていて。

 部屋に篭らされていた自分よりも、知っていたが、見るからに仕事の処理がなっていないのを確認をして、ため息が漏れる。要領が悪い上に、分類も下手で間違いが多く、早速そのフォローをする羽目になった。

(…どうしてこうもミスが多いんだ…?)

 ため息を吐けば、何人かの魔人がびくりと反応する。

 どうやら謹慎中に、いつもの面々の何人かが休みを取ったらしく、見慣れない若い魔人と入れ替わっていた。それが仕事を滞らせる要因にもなっていて。

(時間の無駄だな…)

 彼らの仕事が終らなければ、自分の仕事が出来ない。

 書庫から資料を大量に持ってこさせて、書類自体を何度も作り直させている間に、早めの休憩を取って出来上がった書類と不要になった資料を抱え、書類を各部署に回すついでに、書庫に戻しに行くことにした。

* * *

「よう、酷い顔してんなぁ?」

 書庫へと続く長い廊下を歩いていた時、珍しく書庫の方から歩いてくるロードとすれ違った。馴れ馴れしく話し掛けてきて、肩へと両腕を掛け、下から顔を覗き込んで来る。

「ん?ちゃんと寝てんのか?」

「…関係ないでしょう、貴方には。突然なんですか?」

 顎に手を掛けるロードの手を払って睨みつけるが、片方の腕はまだ肩に掛かったままで、ロードはにやりと笑って払われた手を、ひらひらとからかうように振ってみせた。

「お前を見るのが久しぶりだから、声掛けてやったんじゃねぇか」

「貴方こそ、珍しい場所で会いますね」

「今日の俺の仕事、プラチナの護衛だからよ」

 ということは、書庫室には向かえないということだ。

 そう思い至って、ふと先日の事を思い出す。

 プラチナ様の身に付けている香りが何故自分の上着からしていたのか。気になって暫く頭から離れなかったが、今では夢の起した錯覚だと思っている。

 それ以外に、説明がつかない。

 一切の接点も、ないのだから。

 ため息を吐いて、手に持っていた資料をロードに押し付けた。良く判らないままロードが受け取って、その重さに身体が一瞬下がって踏み止まる。

「うわっ!? 何だあ?」

「何って、代わりに本棚に戻しておいて下さいよ」

「こんな重いのを、女に押し付けんな!」

「私は仕事がありますので、プラチナ様が退室なさるまで、待っていられないんですよ」

 仕事が堪ってて忙しいんです、と身体を離そうと腕に力を入れるが、ロードは逆にその腕にわざとしがみ付いて来て、意味ありげな視線を寄越す。

「忙しい…ねぇ…」

「ちょっと、止めて下さいよ。重いですから」

「寝不足、夜遊びって訳でもないみたいだしな?」

 人の話を聞かないで、ロードは不躾に俺の目の下あたりを指で触れる。

「何なんですか、一体…。貴方、私の監視でもしてるんですか?」

 それもありえないことでもないな、と頭の片隅で考えていた。

 俺がここまで野放しなのは、変だ。

 ロードは金のためなら、プラチナ様以外の魔人の命令も受け入れそうだし。

 鬱陶しい、という気持ちを隠さない俺の視線に、ロードは首を竦めて見せる。

 それから突然まじめな顔をして。

「なぁお前、なんでここにいんの?」

「…は?」

「馬鹿みたいじゃねぇ?ここじゃなかったら、お前普通に暮らせるのに」

 腕を漸く解放して、ロードは両腕で資料を抱えると背中を見せ、ゆっくりと歩き出す。

「好きなところに行ってもいいじゃねぇか。もう、無理にここにいる必要ないんだし、自由になればいい。それとも…また何かしようとか、狙ってんの?なんなら…」

 言葉を区切り、振り返ると。

「俺が手伝ってやっても良いぜ?」

 にやりと、何かを企んだ笑顔を向けてくる。

 プラチナ様の護衛をしつつ、こういう発言も平気で出来るこの魔人に、心底呆れた。

 魔人らしいといえば、らしいのか。

 実に子供の様に目を輝かせてこちらを見ている。

「貴方も、本当に落ち着いていられない人ですね…。プラチナ様の部下になって、多少の手癖の悪さが直ったかと思いましたが」

 ため息混じりにそう言うと、ロードが顔を顰め、咎めるような声で尋ねて来た。

「なあ、それ、クセ?」

「何がです?」

「どうしてサフィルス以外の奴には、普通に話さないんだ?」

「…どうしてでしょうね。何となくですよ」

 やっぱり監視しているのだろうか。

 そんな些細な事まで気にしているのなら、それこそ監視する方も大変だろう。

 ロードに監視を命令している魔人に、お疲れさん、と言いたくなった。

(そんな無駄な事する暇があったら、仕事して下さいよ…)

「そうやって距離を作って。天使以外の奴とは、普通に話す価値も無いってか?天使様の優越って感じ?」

 挑発するように顔を覗き込みながら言うロードに、作り笑顔で返してやる。

 それを見たロードが、ちぇ、と目を逸らし頭を掻いて。

「だからお前って、胡散臭いんだよな」

「いえいえ。貴方ほどじゃありません」

 ロードはちらり、とこちらを見て、急に気分を変えるように背伸びをして明るめの声を出す。

「まぁいいか。…なあ、もし、夜が暇なら声掛けろよ。相手になっても良いぜ?」

「…私は、身体がいくら女でも、中身が男の魔人を抱く趣味はありませんよ。相手に困っていませんし。それに貴方の場合、やってる最中に、平気で首を掻き切ってくれそうですしね」

「あはは、言ってくれるじゃねえか。…酷ぉ~い、これでも少しはお行儀良くなったのにぃ!ロード傷ついちゃう」

 そう言って、べっ、と舌を出してロードが書庫の方へ去っていくのを、何だか酷く疲れた気がしながら見送った。

 どこか、好きな場所へ?

 自由に?

 ――わざわざどこかにいかなくても、既に辿り着いているのに。

 …ここが、望む場所に今一番近いのだから。

「…はい、結構です」

 最後の書類を確認して、そう言うと、その書類を作成した若い魔人が緊張を解いたのが伝わった。

 窓の向こうは既に何刻も前に、暗闇に包まれている。

 城の食堂が定めた夕食の時間は過ぎてしまっていたが、仕事が遅いのが悪いのだから、仕方が無いだろう。

 こちらも夕食抜きになったが。

「お疲れ様でした。それではこれで」

「あの…資料の後片付けは…」

 魔人に答えようと口を開きかけた時、扉が軽くノックされてサフィルスが部屋に入ってくる。

「アレク様から書類を預かってきました。よろしくお願いしますよ、ジェイド」

 そう言って、机の上に掌分の厚みがある書類を積み上げた。就業時間外に当然のように書類を置いて、そのままさっさと去ろうとするのに腹が立ち、魔人ににこりと笑って見せて。

「…サフィルスに手伝って貰いますから、部屋に戻っていいですよ」

「ジェイド…、何故私が…こんな事を…」

 書庫に向かっている間中、ぶつぶつと文句を言う。

 資料の殆どをサフィルスに持たせているのに、まだ文句が言えるのだから、意外と体力があるのかもしれない。

「あの場に来た、お前のタイミングの悪さを呪えよ」

 煩いので黙らせようと、文句の合間に口を挟んだ。

 書庫の中に入ると、さすがに利用する者も書庫番もいない。静かな中に、天井に近い位置に設置してある弱い灯りが、ぽつぽつと広い書庫内を薄暗く照らしていて。

 本棚の前の床に資料をどさりと音を立てて積むと、サフィルスは怒りが爆発したのか、情けない顔で詰め寄ってくる。

「もう!アレク様のお世話をするのが、遅くなったじゃないですかぁ!」

「お前がのろのろ運ぶからだろう?」

「私の所為なんですか!?」

「文句言ってたら、また遅くなるぞ?」

 からかい気味にそう言うと、サフィルスは言葉に詰まって。

「本当に、毎回毎回…!この貸しはいつか絶対返してもらいますからね!」

 捨て台詞を吐いて、サフィルスは慌しく書庫から立ち去っていく。

(…やれやれ、いちいち騒がしい奴だ)

 肩を竦めて足音が消えるまで見送ったが、すぐに床の積み上げられた資料を本棚に戻し始めた。

 さっさと終らして、部屋で休みたい。今日は酷く疲れた。

 そう思いながら、先程、サフィルスが持ってきた書類に必要な資料を部屋に持って帰る為に、本棚を物色していると、人の気配が少し離れた背後に立つのに気付く。

 サフィルスが忘れ物でもしたかと、特に気にもせず、振り返らずに声を掛けた。

「何だサフィルス、まだ文句を言い足りないのか?」

 …反応が無い。

 サフィルスだったらすぐに食って掛かってくるのに。

 そう、気配の反応が無いのを不審に思った時。

 扉の開く小さな音がして、声が聞こえた。

「プラチナ様、いらっしゃいますか?」

 声は聞こえていたが、その内容を理解するのに馬鹿みたいに、時間が掛かったような気がした。

 言葉が全て、バラバラに頭の中で分解されて処理されているような感じで。

 漸く言葉の意味を理解した瞬間、心臓が止まるかと思うほど驚いて背後を振り返る。

 銀の長い髪がまず眼に入って。

 深い青い瞳と、正面から目が合った。

 ――…何故、あなたがここにいるのだろう。

 扉の開く音すらしなかったのに。

 上のテラスにでも居たのか。

 プラチナ様は、俺のようには驚いていなかった。

 ただじっと、見つめてくる。

 目が合ったら、もう離すことなど出来なくて。

 泣きそうな、と見えたのは光の加減だろうか。

 手で触れられたら、確かめられるのに。

 それほど離れていない距離。

 数歩歩いて手を伸ばせば、触れられる距離に。

 細い頼り無い身体が、灯りに弱々しく照らされていた。

 咽喉に何かが支えたように、掛ける言葉も無く、立ち尽くす。

 告げたい言葉はあった。尋ねたい事も。

 それなのに目の前にしたら、感情が先走って。

 …呼吸をするのが苦しい。

「プラチナ様?」

 カロールの呼びかけに、プラチナ様は俺から目を離し、少し俯きながら扉の方へ進んだ。本棚の間に姿が消え、俺に判るのは声だけになる。

――ここだ」

「やはりここでしたか。お部屋に戻られないんですか?もう、お休みにならないと…」

「本を選んだら部屋に戻るから、お前は先に寝ていい」

「…あまり、無理をしないで下さいね」

「判っている」

 ふと、気付いてしまう。

 その、扉さえ閉まってしまえば。

 ここには、二人きりだ。

 二人だけなら、抵抗など無視して。

 …あの、細い腕を捕らえる事など、簡単だ。

 そのまま、身体を抱き締める事も。

 ――組み敷く事も。

 ただ、傍に居られたらいいと、思っていたはずなのに。

 傍で、俺を見て笑ってくれればいいとか、名前を呼んでくれればいいとか。

 好きだと伝えられたらいい。

 俺の生き続ける、理由。

 そんな、何気無いささやかなことを求めていたはずなのに。

 何故だろう。

 あの青い瞳を見たら。

 細い身体を触れられそうなほどの近い距離で、実感したら。

 …犯したい。

 プラチナ様の意思など関係なく、力で捻じ伏せて。

 あのか弱そうな身体を、無理矢理傷つけて、壊してしまいたい。

 泣かせて、縋らせて。

 俺の腕の中で、どういう表情でどんな声を上げるのか、どうしても知りたい。

 その考えが、頭から離れない。

 …その扉さえ、閉まってしまえば。

「それでは、おやすみなさい、プラチナ様」

「…ああ」

 カロールの声が途切れ、開ききっていた扉が閉まる軋んだ音が広い書庫に響く。

 歩き出した、と意識もせずに静かに、ゆっくりと近づいて。

 扉が閉まる際の重々しいバタンという音が合図となり。

 どんなことになるか、自分でも良く判らないまま。

 そうするのが当然かのように、腕を伸ばして。

 目の前の細い身体を、背後から強く掻き抱いた。

 細い身体は警戒もしていなくて、抵抗も無くあっさりと腕の中に収まって。

 俺を待っていたと、誤解しそうなほどに、容易く。

 こんな偶然は、二度と無くても。

 ――無い方が良かった。