あなたをこんな風に傷つける偶然は、欲しくなかった。
背後から抱き締める俺の腕の中で、細い身体が深く息を吐いたその隙に、腕を解き力任せに本棚に身体を強く押し付ける。痛いのだろう、顔を僅かに顰めるのを無視して、強引に唇を重ねた。
「…っん…っ!」
声を僅かに上げたが、ただそれだけで。
歯列を割って、舌を無理矢理侵入させ口内を蹂躙しても、固く目を閉じて、抵抗すらしない。
力の入っていない手が一応抵抗するように、身体を押さえつける腕に添えられているだけ。
…馬鹿にされている気がした。
我慢した所で、気持ちが悪いだけだろうに。
俺を蔑んで、拒絶して、たった一言言えばいいだけだ。
『もう、お前の顔など見たくない』と。
とても簡単な事だ。
そうすれば、こんなことはもう終るのに。
俺を生かす理由も無いのに、何故言わないのだろう。
唇を離すと、力の抜けた身体が崩れ落ちそうになる。その体を支え、爪が食い込むほど強く手首を握った。咄嗟に声を堪えて、苦痛に眉を寄せ瞳を閉ざす。耐える風情のプラチナ様の顎を強引に掴んで、上に向けた。
じっと顔を見つめていると、視線を感じたのか瞼を緩々と開けて、先程のように俺を見つめ返してくる。
――勘違いしそうなほど、直向に。
「…抵抗、しないんですか」
何を考えているのだろう。
俺も、あなたも。
不意に可笑しく思えて、少し笑った。
「あなたに命を助けて頂いたからといって、危害を加えないとは限らないんですよ?…現に、こうやって、ね?」
手首を握る力をより酷くすると、一度苦痛で瞳を閉じかけるが、浅く呼吸をして痛みをやり過ごして。
「お前の気の済むように……好きにしろ」
そう小さく呟く。
俺のされるがままになっている、その姿に無性に腹が立った。
俺の、この行為は、あなたに何も伝えることは出来ないのか。
嫌悪も殺意も…何も。
どうでもいい存在なのに、理由さえないのに、何故生かしたのだろう。
――こんなにどうしようもない、俺を。
…違う。
この苛立ちは、あなたに向けるべきものではないのに。
あなたの抵抗がないことを理由に、俺は何を期待しているのだろう。
…離さなくては。
離さなくては、この細い腕を、身体を。
まだ、今なら間に合う。
「――…冗談ですよ。本気にしましたか?」
薄く笑んでやっと、ただそれだけを言って。拘束していた手首を解放して身体を突き離し、顔を背ける。
馬鹿みたいだ。
…勝手に傷ついて、そして傷つけた。
「…ジェイド…?」
問い掛けるような呼びかけに、答える余裕は無い。
苛立ちに、本棚を力任せに拳で強く乱暴に打ち付けて、背を向けその場から足早に立ち去った。
取り繕うことも出来ず、扉を荒々しく音を立てて閉め、足音高く深夜の廊下を歩いていく。
自分に対する苛立ちなのか、プラチナ様に対する自分勝手な苛立ちなのか、それすらも冷静に判断する事が出来ない。
ただ。
ただ、あなたの傍にいられたらいいと思っていたのに。
…つくづく、俺は救いようの無い馬鹿だ。
「ジェイド…」
背後から追って来たのか、プラチナ様がそっと腫れ物に対するかのように声を掛けてくるが、それには立ち止まりもしなかったし、振り返らなかった。
こんな暴力的な気分のまま、立ち止まったら本当に何をするか判らない。
「…ジェイド…!」
何度か付いて来るのをやめようとして、足音が遅くなるのに、その度に何故か諦めずに後を追って来て。
それを繰り返すうちに、いつしか俺の部屋の前まで辿り着いていた。
ここまで来たら、引き返すかと思ったその気配は立ち去る事も無く、じっと背後に佇んでいて。
このまま、どうするつもりなのだろう。
話し合いだとか、そういう気持ちには到底ならないのに。
あなたと二人きりなら、俺のしたいことは一つだ。
――…あなたを、酷く傷つけること。
深く息を吐いて、プラチナ様を振り返る。
「…何の御用でしょうか」
先程あんな事をしたばかりというのに、プラチナ様は警戒もなく手の届く範囲に立ち尽くしている。
俺の作った笑みに、少し身体を強張らせたものの、それだけで。
じっと、俺を見ていた。
――…嫌な気分だった。
「ジェイド…」
「カロールも寝てしまったようですし、何か御用があるのでしたらやっておきますから、早くご自分のお部屋にお帰り下さい」
言葉の端々に、善意から成る言葉ではないことを伝えているのが、判らない訳ではないだろう。
早く立ち去らないと、どういうことになるか。
「そんなのは…無い…」
俯いて、目を伏せてしまう。
「無い?それで、どうして私の後をついてくるんですか?どういうつもりなんです?プラチナ様」
こうして、あなたが逃げられるようにしているのに。
あなたは逃げない。
そんなに。
「――そんなに、私にヤられたいんですか?」
俺の言葉に弾かれたように顔を上げ、顔を僅かに苦痛に耐えるように、顰めてみせる。
ケガラワシイ。
そう、子供の持つ潔癖な感情からの心の呟きが、聞こえそうな表情だった。
「私の部屋に入るってことは、そういうことになりますよ?あなたがどういうつもりでも」
「…ジェイド」
途方に暮れたような顔で、俺を見返してくるその幼い仕草に、甘えを感じて。
より一層、嫌な気分だった。
…少なくとも、俺の前では見せたことの無い表情。
一体誰に、教えてもらったんでしょうね?
――…そんな表情は見ていたくない。
「話を聞いて欲しいのなら、あなたを抱いてから、一晩だけなら寝物語に付き合って差し上げても良いですが。それぐらいのことは、私にも出来ますよ。優しくなんて出来ませんが、それはあなたが一番ご存知ですし?」
にこりと笑ってみせれば、自覚はしていないのだろうが、酷く傷付いたような表情をして。
こうして、俺はいつもいつもあなたを傷付けてばかりだった。
――…今も。
傍に居たくても、こうして傷付けるならそれは所詮、夢だ。
もっと早くに醒めていれば、傷つけることも無かったのに。
「単に人恋しいだけなら、カロールのところにでも行くんですね。きっと歓迎してくれますよ」
それに、私と違って彼は優しいでしょうしね?
そう付け加えると、プラチナ様は表情を隠すように、顔を背ける。
深い青い瞳から解放される。
それはとても安堵する事ではあったが、同時に何か深い罪を犯したような気になって。
「それでは…おやすみなさい、プラチナ様」
今更、罪など何も恐れる必要は無いのに、逃げるように自分の部屋へと入り込み、扉を閉めて背を預け、深く息を吐いた。途端に脱力感が全身を支配し、暫くそのままで扉の向こうの物音に耳を澄ます。
もう、立ち去っただろうか。
そこまで考えて、頭を振った。今は何も考えたくない。
手元の灯りを燈して部屋の奥に進み、ベッドに深く腰掛けた。前屈みになり顔に掛かる髪を払って、ため息を吐く。暫く何もする気にはならなかった。酒が欲しいような気もしたが、その場所まで移動する気にもならない。
酷く息苦しい気がして、上着の首元を緩めた時。
かちゃり、と僅かな音が物音一つ無い、この部屋に響く。
鍵は掛けていなかった。
扉が微かな音を立てて開いて、入り口附近にあるの淡いランプの灯りが、するりと入り込んだ銀色の髪を照らす。
少し俯き加減に扉を閉める、その人形のような無表情からは何も伺えない。
何故か俺の方が、正視することが出来ずに目を逸らしてしまう。
何を思って、この部屋に来たのか。
俺は、あなたを傷付けるだけなのに。
…あなたは何をしたいのだろう。
俺に抱かれるという屈辱に耐えても、何かを伝えたいのか。
…人恋しいだけなのか。
「…あなたは…馬鹿ですね」
前言を撤回するつもりは無かったから、そう呟いた。
あなたの気持ちが判らないまま。