「…疲れたな…」
シャワー室の脱衣所からぐったりとして出てきたプラチナに向けて、ルビイはスポーツドリンクの缶を投げた。プラチナはそれを受け取ると、傍にあったパイプ椅子に座り込む。
「今日は負けてしもたな。まぁ、しゃーないか、最近サボり気味やったしな?プラチナ様。ま、コレに懲りて、今後真面目に部活に出れや~」
「…うるさい…」
「うわ、コワっ!」
意地悪く笑うルビイに向けて、ギロりと睨みつけると、慌ててルビイは跳び退く。
「もうもう、そんな怒んなや!おっ、もうこんな時間かいな、俺バイトあるし、ほな気ぃつけて帰れやー!」
あからさまに不自然な動作で時計を確認し、ルビイは更衣室を出て行った。
「調子のいいやつめ…」
それでも、ルビイの用意したスポーツドリンクに口をつける。罪があるのはルビイであって、スポーツドリンクには無い。
(思ったより、遅くなったな……帰るか)
プラチナも時計を確認して、手近に置いていた荷物を取り、立ち上がった。道場内の灯りは既に落ちていて、薄暗い。人が居なくなった途端に、妙に広く見える。外から入る僅かな外灯の灯りを頼りにプラチナは道場から出、自分専用の鍵で、扉の鍵を閉めた。
4月の始めとは言え、日が完全に落ちれば、何となく肌寒い。風が吹いているせいもあるかもしれない。
桜は相変わらず散り続けている。
(兄上は…もう帰っているかもしれないな。それともまた、どこかで寄り道をしているか…)
そう思いながら、校庭のスミにあった缶専用のゴミ箱に、手に持っていた飲み終わった缶を捨てる。
ガコン、と思ったより、人気の無い校庭に音が響いた。
「…プラチナ様?」
疑うような感じの問いかけに、プラチナはゆっくりと振り返る。最初はどこから声を掛けられていたか判らなかったが、アスファルトの上を靴が滑る音に、右手の校舎側から近づいてくる気配に気がついた。
一番最初に目に入ったのは、モノクル。
(ああ…新しい保険医か)
保険医は常に見せている人当たりの良い笑みで、プラチナに近づいてきた。
「お前か。…今日は良く会うな」
「…そうですね。どうしたんです、こんな遅い時間に。…おや」
そう言って、間近にプラチナに近づいた。そして身を屈め、プラチナの肩口にまで顔を下ろして。
「いい匂い、させてますね」
「いい匂い?」
「ええ。…石鹸の」
「ああ、さっき汗を流したからな」
「…誰かの家で?」
何かを思わせぶりなこの男の笑顔が、プラチナを居心地悪い気持ちにさせる。
「いや、道場で…稽古をしたからな」
妙に言い訳の様になってしまった自分の発言が悔やまれた。保険医はプラチナの肩口から顔を起こしてから、実に人の悪い笑顔を向けて、
「なぁんだ、残念」
と、ゆっくりプラチナの耳に響かせるように、言った。
「残念?」
「ええ」
「…わからないな。何が残念なんだ」
「何でしょうね」
そうやって、特に何をするでもなくじっとプラチナの顔を見つめる。
(何なんだ…?この男は…)
「それにしても、無用心ですね。こんな遅い時間に、あなたほどの人が一人歩きなんて」
「そうか?家は近いし、特に問題は無い」
「…私だったら…」
「ん?」
囁くような保険医の言葉に、そらしていた視線を合わせる。
返してきた保険医の視線は、真剣な光を宿していて。
「私だったら、このままあなたを車に連れ込んで、私の家まで連行する事なんて、たやすく出来ますよ?」
「…笑えない冗談だ」
「冗談に、聴こえますか?」
「…別に、本気でも構わないぞ」
意外な返事に、保険医の眉が微かに動いた。そんな事など気にもとめずに、プラチナは淡々と言葉を繋ぐ。
「そうしたら…俺の命も無いだろうが、お前の命も無い。別に俺が居なくなっても兄上が居れば、問題は無い。だから、俺の命など、何の足しにもならない。狙うだけ、損だ」
「…あなたは、兄上の囮なのですか」
「そうだ」
卑下でもなく、自棄でもなく、とうに事実として納得している、そう言う表情でプラチナきっぱりと断言した。それ以外に、事実は無いのだと。
「…確かに、あの兄上よりもあなたの方が、後継者らしいですもんねぇ」
「不遜なヤツだな」
「私の性分というヤツでして」
少しおどけたように、保険医は声を明るくするが、プラチナは牽制するかのように、鋭い表情のまま、言葉を続けた。
「……俺は兄上の為に生きている。今までも、これからも」
「では…私が、ただあなただけが欲しくて、ここから攫ったら、どうします?」
その言葉にも、プラチナの表情に変化は無く。少し目を伏せて、低く呟いた。
「…そんなことは、あり得ない…」
「プラチナ~、遅いから迎えに来ちゃったvv」
突然、場の雰囲気を壊すような、明るい声にプラチナは少し驚いた。振り返れば、見慣れた顔が全開の笑顔で、こちらに向かって来ている。
「ああ、ロード、すまない」
「もぅ、アレクがお腹を空かせて待ちくたびれちゃってるわ」
そう言って、プラチナの腕に自分の腕を絡ませ、ぴたりと密着する。
「ロード、重い」
「嘘でしょう!?このナイスバディを前にして!」
ぶーぶー文句を言っていたが、ちらりと後ろに視線をやると、
「先生と、何お話してたのぉ?」
そういって、保険医の方を挑発するように見る。
「…特に何も無いですよ、お嬢さん」
「そぉ?じゃ、これからプラチナ様はぁ、お食事がございますので、失礼させていただきますわ☆」
声だけ可愛らしく、ぐいぐいとプラチナの背中を押して、先に進ませる。
「お休みなさい、プラチナ様」
「ああ」
保険医の声に少し振り返り、返事をしてからプラチナは背中を押すロードの手を振り切って、家へと歩き出す。その数歩後ろに従っていたロードが、くるりと振り返った。
暫く、保険医と睨みあう。
「あんまり変な事を言ってると、身のためにはならないわよぉ、先生☆」
「…立ち聞きとは、メイドらしくない行儀の悪さですね。しかもあんな所で」
と、保険医の視線はここから数メートル離れた、桜の木に向いている。
「話が長いからよ、断ち切ってやったんじゃねーか」
声だけは可愛く、しかし言葉遣いががらりと変わる。そして次には表情と、声、そして雰囲気さえも。
「あんた、めちゃくちゃ態度怪しいよなぁ…何者?」
「ただの、保険医ですよ」
「保険医のクセに、何プラチナのことに興味持ってんの?」
「興味は、そりゃああるでしょう。あれだけお美しくて、魅力あふれる方ですし」
「俺は、アレクじゃなくて、プラチナに興味もたれる方が、イヤなんだよなぁ…」
「…プラチナ様の囮が、兄上、アレク様なんでしょう?」
「!」
「おおっと、怖い怖い」
とっさにナイフを構えたロードから数歩、保険医が退く。
「プラチナ様もアレク様も、お互いを補う囮同士ということか…」
「てめぇ!」
「ロード、何をしている」
プラチナの静かな声に、ロードが今にもナイフを投げようとしていた姿勢のまま、びくりと身体を止めた。
「兄上が、待ちくたびれているんだろう?」
「……すぐ、行くよ」
「早くしろ」
そうしてまた歩き出すプラチナを目の端に捉えながら、ロードは保険医に苦々しく呟く。
「今度会ったら容赦しねぇぞ?」
「お好きなように。お嬢さん」
「へっ、そう言ってられるのも、今のうちだ」
軽い足音を残して去ってゆくロードを見送りながら、密かにまた保険医が言葉を呟く。
「…そしてお互いがお互いの囮である事を、気が付いていない…」
「それなら、2人を同時に失ったら…どうなるでしょうね?」
カツン、と足音を立てて、校舎の影からサフィルスが姿を表した。
「本当に彼、あなたの名前も、あなたが話すことも、どうでもいいんですね。何か、お父上から絶対のお言葉でも頂いているのでしょうか?」
その言葉に、保険医が気だるそうにため息をついた。
「…お前って、本当にさり気無く性格悪いよな」
「私は紛れも無く、あなたの影響だと思っていますよ」
「はは、言うようになったもんだ。…さぁて」
駐車場の方に歩き出す保険医を、サフィルスは数歩離れて追いかける。
「どうするつもりです?」
「これから考えるさ。お前はお前で、アレク様のご機嫌と哀れみを買って、協力してもらえよ。俺は―――そうだな」
上着の内ポケットから、手馴れた動作でキャメルを取り出し、ジッポで素早く火をつける。
「やっぱり、多少オイシイ目も、見ないとな」
「あなた、プラチナ様に、一体何を――!?」
「言わなきゃ、判らないか?お坊ちゃん」
「あ…あなた、最低です、第一にそれは犯罪ですッ!」
小馬鹿にしたような言葉と笑みに、思い至ってサフィルスは思わず声を大きくした。調度校舎の影に入り、保険医の表情はわからないが、ホタルのように煙草の火が一拍強く光っては消えた。
「最低結構。それに合意の上なら、犯罪にはならないだろ?」
「合意なんて――今の、あなたに可能ですか!?」
出来もしないくせに。その言葉を言外に含ませて言い寄ると、足を止めていた保険医にぶつかりそうになった。そのまま保険医に襟首をつかまれ、引き寄せられる。眼前ギリギリに煙草の火が突きつけられ、冷や汗が出た。
「可能にしてみせるさ。あんな何も知らないような、綺麗な生き物…汚してみたくなるだろ?」
「…あなた、本当に最低ですよ……ジェイド…」