何故か、その感覚は安堵した。
(何だろう…冷たくて、心地が良い)
冷たいものが額に触れる感覚に導かれるように、プラチナはそっと目を開けた。
間近に予想もしてなかった保険医の顔があるのに、驚く。
いつも、なんとはなく笑みを口元にたたえている感じだったから、今、プラチナを思っていたより、真剣な表情で診ているのに少し、意外だと思う。
(…いつもこんな顔をしていれば、俺は居心地の悪い思いをしなくていいはずなのに…)
「…寝惚けてるんですか?」
「……?」
「どうしたんです。私、そんなに男前ですか?」
(……口も開かないと、いいのかもな…)
視線を外すと、保険医がクス、と笑うのが聴こえた。それすらどうでも良いぐらいに、頭痛がする。
(頭が痛い…)
「ああ、気が付かれたんですね!よかった…」
少し離れたところから、カロールの声がして、視界に心配そうな顔が移った。
「カロール…」
「すみません…僕が無理をさせてしまったんですね」
「いや…迷惑を掛けて、すまない…」
額から、冷たいものが去ってから、それが保険医の手のひらだった事が判る。
図書室の奥の、ソファーの上に横たえられている事に気付く。保険医は膝を付いて、プラチナに目線を合わせているようだった。
「気分はどうです?」
「……頭が、痛い…」
「倒れた時に、どこかぶつけましたか?吐き気は?」
「どこも…ぶつけてはいない。吐き気もない。単に頭痛がするだけだ」
「そうですか」
プラチナの答えを聞くと、立ち上がって後ろに立ち尽くすカロールに声をかけた。
「とりあえず、保健室に運びますから。鞄とか、そういうの持って来て下さいよ」
「判りました」
カロールがカウンターの方へ向かうのを見てから、プラチナの上に軽く屈む。プラチナは頭痛が酷いのか目を閉じていた。保険医はそっとプラチナの身体の下に手をいれると、
「よいしょっと」
声と共に、プラチナを抱き上げた。
「…!何だ!?」
「じっとしててください、落とされたくなかったら」
もはや逆らうのも面倒になって、プラチナはそのまま、大人しく運ばれていく。
「ま、こんなに軽かったら、落とすも何もないんですけど…」
* * *
「プラチナ様、保健室に着きましたよ」
保健室に運ばれて、ベッドに座らされた時には、またもやプラチナの意識は遠くに行く寸前で、ジェイドの言葉にも反応がない。
「仕方ないですね…」
一 つため息をついて、やれやれというように微笑むと、手早く上着を脱がせ、靴を脱がせる。髪のリボンを外して髪留めを外すと、今まで堰き止められていた水が 広がるように、さあぁ、と髪が広がっていく。その様は、ジェイドの目を楽しませるほど、充分に美しい。ジェイドは少し機嫌を良くして、きちんとベッドに横 たえて、布団をそっと胸まで掛けた。
「先生、プラチナ様は…」
図書館の戸締りなどをしてきたせいで、遅れて保健室に辿り着いたカロールが、走ってきたのか息を整えながら尋ねる。
「今は寝ていますから、ま、そっとして置いて下さい」
「…そうですか…。あ、では僕はご自宅の方に直接ご連絡しておきます。きっとロードが迎えにきますから、それまでよろしくお願いいたします。それじゃ、僕はこれで…」
「ああ、迎えはいいですよ。私が車でちゃんとお送りしますから」
(そのまま攫って、いろいろ俺の良い様に仕込んでも、もちろんいいんだが…)
「…本当ですか?」
静かな声は、ジェイドの胸の内を聞かれたかと思う程のタイミングで。
「嫌ですね、本当ですよ。嘘ついたって、しょうがないでしょう」
(サフィルスとの連携が上手くいってない状態で攫ったって、どうしようもない)
「判りました。そのように伝えます。…ちゃんと、プラチナ様を看病して下さいね」
「判ってますよ、それが私の仕事ですから」
カロールはジェイドの言葉が気に入らなかったのか、鋭い一瞥を投げかけて、去っていった。
(なかなか、人を殺せそうな視線を持つお坊ちゃんで……生意気~)
咽喉の奥で、低く笑いを噛み殺す。無謀なほどの生意気さは、嫌いではない。それを握りつぶす瞬間が好きだからだ。鼻をへし折ってやるのも、ある意味教育者の勤めだろう。ただ、それが二度と戻らない折れ方をしても、こちらの知った事ではない。
(仕事以外に、どうしろっていうんだか…)
肩を竦めて、ドアから室内を振り返る。室内に灯りはまだ必要ないくらいの夕方。窓の外の校庭からは、いろんな生徒達の、部活動に励む声が聞こえてくる。
(学園に来て二週間足らずの俺が、誠心誠意世話するのも、変だろうに…)
むしろそんな人間の方が、下心がありそうなのだが。
(まぁ…実際、ありますけどね……)
そう思いつつ机に向かっていると、プラチナの寝ているベッド付近から、プラチナの声が聞こえたような気がして、ジェイドは書類を整理する手を止めた。
「…プラチナ様?起きたんですか?」
席を立ってベッドに近づきながら、問い掛ける。何か変化があってもすぐに判るように、カーテンは元から引いてなかったので、プラチナの表情は良く伺えた。
―― 眼は、開いていた。
彼はじっと天井を見詰めている。ジェイドは天井部分を見たが、別に何があるわけでもない。
「…どうしました?」
声を掛けながら近づいて、仰向けのプラチナの顔を覗き込んで、驚いた。
ジェイドの顔を瞳に映しても、瞳孔の凝縮が無い。ピクリとも動かない。開いているが、見えてはいない。もしかしたら、意識すら無いのかも知れない。
(寝惚けているのか…?)
しかし、そのうちゆっくりと光を宿していくかのように、意思を持っている人間の瞳に変わる。それを確認して、もう一度ジェイドは声を掛けた。
「どうかしましたか?」
「……ここはどこだ?」
「え?…保健室、ですけど」
何を当り前の事を聞いてくるのだろうか、とジェイドはプラチナを訝しげに見つめた。誰よりも、ここの天井は見慣れているだろうに。
「……何故、俺はこんなところに居る……?」
「は?」
「俺の居るべき所は、ここじゃない…俺が求めている所は、ここじゃない……」
言葉を返せなかった。言葉を紡ぐプラチナは、表情が恐ろしいほど無くて。もともとあまり表情は豊かな方ではないが、これは異常だ。
「あそこは…どこだ?」
そう呟いて、眉根を寄せて酷く辛そうな表情をして、ふ、と気を失う時のように目を閉じた。
それ以降、何も起こらなかった。