水音に目が覚めた。

「気が付かれましたか?」

 間近から声がして、顔をそちらに向ける。保険医が、洗面器で濡れたタオルを絞っていた。何だか、身体が少々動かしづらい。

「動かないで下さい、熱があるんですよ」

 そうして額に濡れたタオルを置かれる。ひやりとして、気持ちが良かった。

(熱か…どおりで身体の感覚が判らない…)

 倒れた時、頭が痛かったのもこの所為だったのだろうか。

 保険医はプラチナの額のタオルを代え、自分の机のある方に戻っていく。それを目で追うと保険医は視線に気付いたらしく、少し微笑んで机の方を指差した。

「ちゃんとそこに居ますから。大丈夫ですよ」

 プラチナは自分の行動を強く恥じたが、保険医は笑んだまま、ぽんぽんと布団の上を安心させるように叩いてから、プラチナの視界から姿を消した。

 そんな事をされたのは、久しぶりだった。

「薬、飲みましょうか。ただの熱さましです…起きられますか?」

 暫く眠っていたらしい。保険医の声に目が醒めた。

 起きるのは無理だったから、素直に首を振った。声を出そうとしたが、咽喉が渇いていて声を出すのが難しい。

「そうでしょうね、あなた今自分がどれぐらいの熱があるか、判らないでしょうから…」

 そう言って、額や頬の汗を額のタオルで拭ってから、プラチナの上半身の下に手を入れて、抱き起こした。プラチナ自身嫌に成る程、体に力が入らない。

「あらら、これはかなり…駄目ですねぇ。仕方ない」

 保険医は自分の胸にプラチナを凭れ掛からせると、空いた手で口に指を這わせた。指の動きに口が軽く開いたその隙間に、保険医は容赦なく指を入れる。

「…っあ…」

 指が上顎の部分をなぞり、舌の上をゆっくりと這って出て来た。

「そのまま、口を開けてて下さいね」

 プラチナの口に錠剤を入れてから、保険医は自ら水を含むと、プラチナに口移しで水を飲ませる。

 咽喉が渇いていた所為か、水が口の中に入ってきただけで、いとも簡単に飲み干した。すぐに解放されると思った唇は、そのまま保険医の舌に口内を蹂躙され、舌を捕らえられる。

「んっ…ふ、あ…っ」

 あまりに苦しくて、途中で保険医の肩を何度か叩いた。

「痛っ、乱暴は止しましょうよ、プラチナ様」

「………」

「え?何です?」

「…咽喉、渇いた…水」

 プラチナの呟きに、にっこりと上機嫌そうに保険医は笑う。

「また、口移しでいかがですか?」

「時間が掛かる割には、飲める量が少ないから嫌だ」

 その言葉に、水差しの水を渡しながら、おや、と保険医はまた意味ありげな笑顔を、胸に凭れたまま自分から逃げもしないプラチナに向ける。

「じゃあ、するのは別にいいんですね?」

「……何をだ?」

 水を一気に飲み干して、プラチナは熱で潤んだ瞳を保険医に向けた。保険医はそっと、水気の残るプラチナの口唇をまた指でそっと、なぞって。

「…キス」

 耳に低く囁いた。

「…別に、そういう行為ではないだろう」

「そういう行為ですよ。いろんな名前がついていても、結局する事は同じなんですから」

「気持ちを込めている訳でもあるまい」

 会話をするのが煩わしそうに瞳を閉じかけるプラチナの、汗ばんだ頬や額に貼り付いている髪を払い、髪をそのまま手で梳いていく。

「…込めてましたよ」

「…ん?」

「さっきの。……気持ち良かったでしょ?」

「…苦しかった」

「そうですか?顔は物凄く気持ちよさそうでしたよ」

 保険医の言葉に、プラチナは瞳を大きく開いて、髪を梳く保険医の腕を掴んだ。保険医すらも、一瞬戸惑うような力の強さで。

「…俺は、薬を飲ませる行為だから大人しくしていただけだ。余計な事はするな」

「あなたが寝てる時も、薬を飲んで頂くためにしたんですけど」

「……とにかく、余計な事は、変な事はするな」

「余計なこと、ねぇ…」

 プラチナの言葉に少し考えるように唸って、それから、人の悪い笑みをした。

「でもそれって、私に多少のイイコトも、無いですよね」

「何だと?」

「私は正直ですが、それと同じくらいかなりの捻くれ者なんですよ。面倒な事とか、疲れることとか、他の人間ならあなたの為に無償で頑張るような事、私は何の見返りもなしに頑張ったりしませんから」

 ですからね、と重ねて保険医は続ける。

「私があなたの看病をする時は、それなりの見返りが欲しいんですよ」

「……何が欲しいんだ」

「あなたですよ、プラチナ様。あなたが欲しい」

「…この間も、そんな事を言っていたな」

 ふう、とプラチナが保険医の胸の上でため息をつく。

「俺には何の価値も無い…」

「私には充分あるんですけどねぇ…。ま、覚えておいて下さいね」

「覚えておくだけはな」

「はは、あなたは記憶力もいいから、覚えておくのなんて大した事じゃないでしょう。…じゃ、着替えましょうか」

「…?着替え…?」

「だって、汗かいてるじゃないですか。汗を拭いて、上だけでも着替えないとまた酷くなりますよ?今だって気持ち悪いでしょう?着替えは生憎、私のシャツになりますが、そのままで居るよりはいいでしょう。お手伝いしますよ」

 私は何か間違っていますか?と言われてプラチナは返事に詰まった。

(…間違っては、いないと思う…が…)

 信用できない。

「…自分でやる…」

「無理ですよ、自分で体も支えられないのに」

「いい…また何か、見返りを求められるのは嫌だ」

「ああ…いいんですよ、これに限っては」

「…何?」

「これは、好きな仕事なので❤」

 いつもの、プラチナが居心地が悪くなるような笑みを見せて、保険医がプラチナを見つめる。

 視線を合わせているのが何とは無く辛くなって、俯いた。

「…変な事はするな」

「さあ?どうしましょうか」

 楽 しそうに言いながら、用意の為に一度プラチナをベッドに戻した。私物を入れているロッカーから、着替えのシャツを出して、保健室の備品のタオルを数枚、用 意する。洗面器に熱過ぎないように湯をはって、プラチナのベッドの傍に置いている椅子に置いた。洗面器の中にタオルを一枚漬け込んでから、自分はベッドに 腰掛け、プラチナを抱き起こして、シャツのボタンを一つ一つ外していく。

 その下は、保険医が予想していたとおりに白く美しい肌で。そして熱のせいか、うっすらと朱が差している様は、妖艶な雰囲気を醸し出していて、保険医は眼を細めて眺めた。誘われているようで、口付けたい衝動を堪える。

 プラチナは、この他人に着替えを手伝ってもらう行為自体は慣れていたので、視線を外してじっとしていた。

「綺麗ですね…」

 汗で濡れたシャツを取り去って、絞ったタオルでそっと肌の上を拭っていく。保険医の呟きに、プラチナは少し視線を移すが、また目線をそらした。警戒心丸出しの目線に、思わず笑ってしまう。

「…何がおかしい」

「いいえ、何でも。さ、次は背中をしますから、髪を前にやりますよ?」

 後ろ髪を軽くまとめて前にやると、魅惑的な白い項に眼をしばし奪われる。

 何でもないように、背中の綺麗な肩甲骨のラインや、滑らかな背骨のラインを辿りながら、プラチナに声を掛けた。

「ねぇ、プラチナ様」

「…何だ」

「いい加減、訊いてくれませんか?」

「何をだ?」

「名前を呼んで欲しいんですよ。あなたの綺麗な声で」

「お前の名前をか?」

「ええ」

「…何と言う?」

「ジェイド、と申します」

「ジェイド、か…――んっ」

 呟いた瞬間、項に柔らかいものを感じて、思わず声を上げてしまい、慌てて後ろを振り返った。

「何を…」

「あ、気持ち良かったですか?そこ」

 乾いたタオルで背中を拭いながら、ジェイドが何事も無かったように笑顔を向ける。

「敏感なんですねぇ」

「変な事はするなと、言っただろう!」

「すみません、目の前の誘惑に負けてしまいました」

 申し訳ないなどと思っても無いような顔をして、抜け抜けと言う。

「お前は…!」

「嫌ですね、名前で呼んで下さいよ」

「お前なんか、それで充分だ…!」

 声を上げた瞬間、咳き込むプラチナに自分のシャツを掛けながら、背中を擦る。

「無茶しないで下さいよ」

「誰のっ…所為だ…っ!」

「いや、今じゃなくて。倒れるまで頑張らないで下さいよ。明日から、一日に一度はこちらに来てください。その時にちゃんと診察して、その日一日どう過ごすかを、決めましょう」

 背中を擦るその手つきは、心地よくて。次第に咳はおさまって行く。

 ジェイドの行動は、プラチナには理解しづらいもので。身体を気遣うかと思えば、無茶をさせたり。腹の立つようなことを言うかと思えば、こうやって優しい素振りさえもする。

「ね?プラチナ様」

「…わかった」

 優 しい囁きに、絆されたのではない。間違っていないから、認めただけだ。そう思いながら、そう自分に言い訳しながら、プラチナは頷いた。涙目になっているプ ラチナの目尻に、謝罪するようにジェイドは唇を寄せる。その当り前のような、自然な動作にプラチナはもう、拒む気力も無かった。

「判っていただけて、嬉しいですよ。それでは、帰りましょうか。私の車で送って行きますよ」

 プラチナに手早く袖を通させ、さっさとシャツのボタンを止めていく。

 先ほどの余韻など、微塵も残ってないかのように。