「今日ねぇ、嬉しいものを見たんだよ」

 放課後の美術教員室で、ベリルがジルの作品群をあちこち触ったり、持ち上げたり、移動させたりしながら楽しそうに呟いた。夕日が差し込んで、全体的にセピア掛かって見える。

「…何ですか?」

「プラチナが、声を出して笑ってた」

「それは…」

「凄いだろう?僕、嬉しくてねぇ…でも」

 そのときを思い出したのか、楽しそうに笑ってから、少し淋しそうに顔を上げた。

「何で、彼なんだろう…よりにもよって」

「……そうですね」

「保険医。彼は…可哀相な男だねぇ…」

「…ええ」

 ジルは目の前の画布から目を離すことは無い。そうしてもう、かれこれ一時間は経っている。

「でも、もしかしたら…もしかしたら…彼は最後の選択を間違えないで居てくれるかな…」

「プラチナがそう望めば、可能かもしれません。そうすれば、彼も哀れではなくなる」

「プラチナが傷付くのは見たくないよ…でも、それでも、その後の癒しがあれば、アレは…」

「彼が、プラチナを癒す存在にまでなれば、ですが…」

「なってもらう。もう、戻れないんだから…どんなことになっても」

* * *

 その日は元々土曜日だったから、写生会兼花見は生徒達に歓迎された。最初の1、2時間で適当な物を仕上げても、文句は言われないのだ。生徒に限らず、教諭陣もいい息抜きとなる。酒の管理は、生徒会長と教諭陣が行って、下手な事にならない様に防ぐ。

 教 育の場で未成年に飲酒など本来許されるものではないが、度数の低いノンアルコールと呼ばれるものであることと、この学園の暗黙のルールとして、「最低限の ルールさえ守れれば、そして責任がとれるなら、多少はみだしても構わない」というのがあって、敷居は高いが校則の緩いこの学園を生徒たちもそれなりに気に 入っているため、外部にばれないための結束は密かに固い。

 いい天気に恵まれて、青い空にピンクの花びらが大量に舞う。

 プラチナは、最後の力で咲き、散っている桜のその見事さに、言葉も無く根元に座り込んで眺めていた。

 ベリルが選んだその場所は学園の裏山で、見事な桜ばかりが揃っている。この裏山は、プラチナの知識では学園の所有地ではあるものの、放置されている場所で特に整理されているわけでもないから、気味悪がって近づく者は少ない。

 現在は、昨日の放課後皆で大まかに掃いたり雑草を削除して、人が過ごしやすいように整えている。ベリルはプラチナでさえ知らないような、こんな穴場を良くこんな所を知っていたものだ、とプラチナは思う。

 こうなった桜に頭上を囲まれていると、確かにアレクの言う「わくわくする」という気持ちになるのも判るような気がした。

* * *

「もう少し、そこの緑を深い色にしてみろ」

「……本当に、それを信じても大丈夫なのか…?」

「大丈夫だ」

「…その自信は、どこからくるんだ…?」

「やあやあ、2人とも。楽しんでるかい~?」

 自分の描いている風景画をジルに検討してもらっていると、ベリルが片手にあからさまな瓶を持ってやってきた。ひょいと、プラチナの手元を覗き込んで、つまらなさそうにする。

「って、何だ、真面目に写生して。楽しくないじゃないか、そんなの…」

「ベリル、人には人の楽しみ方があると思うが…」

「そうだね、それは認めるよ。でもねぇ…」

 ひょい、と油断していたプラチナから、ベリルはスケッチブックを奪った。そのまま背中の後ろに隠す。

「今日は、今日なりの楽しみ方があるだろう?」

「ベリル、返せ!」

「あっはは、駄目さ。みんなから、一回ずつお酌してもらって来たら、返してあげるよ」

「…みんなって…」

「うーんと、そうだねぇ…まずは僕だろう、そしてアレク、ジル、ロードにルビィに、カロールに、担任のサフィルス先生…ってところだね」

「そんなに、飲めるか!!」

「えぇ~?飲めるよ、当り前だろう。大丈夫、軽いやつだからね。君も知ってるじゃないか」

 それじゃあ早速、と返事も聞かずにスケッチブックをジルに渡して、瓶の口に被せてあった紙コップをはい、とプラチナに渡す。もちろん、ジルに延ばしたプラチナの手は、体ごと遮って。

「そのコップ、君のにしていいからね」

「…少なく注げ…」

「おおっと、ごめんよ、手が滑った」

 とくとくと音を立てて注がれた冷酒は、コップの八分目までなみなみと注がれている。

「ベリル!」

「…まさか、捨てないよねぇ?」

 少し悲しげな顔で見られると、飲まないわけにはいかない。

「…くそっ…」

「悪態吐かない、吐かない」

 大人しく、冷酒に口をつけた。特別美味いという訳でもないが、不味いとも言えない。舌に軽く走るのは…辛味だろうか。よく判らない。多少の香りがあるようだ。

 酒を飲みなれない所為か、アルコールは確か1~2%程度だったと思うのに、口に含むとじんわりと浸透してくる気がする。

「どうだい?美味しいだろう?」

「…わからないな…」

「なぁんだ、つまらないねぇ…君って子は…」

 けらけらとベリルは笑って、ジルにも勧める。ジルは紙コップの中に注がれた液体を、まるで水かのように飲んでいる。それに比べて随分遅いペースでようやく自分の紙コップを空にすると、ジルが無言で注いできた。

 これもまた、八分目ほど。

 …半分自棄になって、その液体を水だと思って口にした。

「それじゃあ、次行ってみよう!」

「…付いて来るのか…」

「あたりまえじゃないか。僕か、先生方しかお酒持ってないんだから」

(…それもそうだが……移動すると、酒が回る気がするんだが…)

 ベリルの酒瓶が実は他のものと良く似た、それでいてアルコール度数はけた違いのものにこそりと変更されていることを知っているのは、酒を口にしたジルしかいない。

 そんなことも知らずに、よろよろとプラチナが立ち上がると、ベリルに腕を強く掴まれそのまま引きずられて行く。

 ジルは引きとめもせずに、そのまま無言で二人を見送った。

* * *

「あー、プラチナ~~」

 顔を真っ赤にしたアレクが、プラチナを歓迎して抱きついてきた。そこにはロードやルビイ、カロールも一緒にいる。どうやらロードがこっそりとベリルのを一本くすねている様で、更には個人的に持ち込んだのであろう飲み物、食べ物の羅列。完全に宴会スタイルだ。

「ようよう、プラチナじゃねぇかー!」

「もう一つの華のご登場やな」

「花の中のプラチナ様も、お綺麗です…」

 それなりに皆、楽しんでいるらしく、酔いも適度に回っているようだ。それなりにほんわりと皆顔が赤い。それを嬉しげにベリルはうんうんと頷いて見渡して、声を掛けた。

「さぁさぁみんな、プラチナにお酌をしてくれないかい?」

「いいけどよ、その前に!プラチナ様~、お酌して下さる?」

 ロードの言葉に皆が湧いた。ベリルも喜ぶ。

「そうだよねぇ、僕もそれを忘れていたよ。是非ともしてもらわなくっちゃ」

(飲まされるよりは、いいか…)

 素直に受け取って5人の間を行ったり来たり。途中腰を抱かれて頬や額にキスされるわ、抱きつかれるわ、とにかく散々な目に合って、尚且つこちらもなみなみと酒を注がれて。

「プラチナー!一緒に寝ようよー!!」

 突然アレクがプラチナを草の上に押し倒して、胸に顔を埋める。その衝撃に頭に酔いがかなり回った気がした。

「兄上…やめてくれ…気持ちが…」

「てゆうか、既成事実作っちゃおうって!な、プラチナ!」

 そう言って、アレクを押しのけてロードがプラチナの身体を跨いで、馬乗りになり、プラチナの詰襟のホックを外そうとする。

「良いねぇ~、無礼講、無礼講!」

「良くない!助けろ、ベリル!!」

「俺が助けたるから、プラチナ、俺といいトコ行こや!」

「最低です、交換条件なんて!あなたは何て下劣な人なんですか!ルビイ!!」

 ルビイの腕に助けられたかと思えば、カロールが勢い良く奪い取る。その移動の衝撃が気持ち悪い。吐きそうになる。

「…なんで…こんな事に…なったんだ…?」

 ベリルを置いてそこを脱出する頃には、プラチナはくらくらと立ち眩みさえ覚えていた。

* * *

 先ほどまで、サフィルスの傍に居たジェイドは、はしゃぎ過ぎた生徒が木から落ちた騒ぎの方に駆り出されてしまった。

(まぁ…あの人がいない方が、美味しいし。お酒に失礼ですよね、あんな気持ちで飲むの)

 ジェイドがいればいたで、女生徒の往来がが引っ切り無しで、楽しい事は一応、楽しいが。

(…あんまり、美味しく飲めませんよ…自分のしている事を考えれば…)

 ジェイドも、そんな気持ちで飲んでいるのだろうか。だから、ぼろが出ても良いサフィルスの傍に居たのだろうか。八つ当たりできる相手を、選んだんだろうか。

「サフィルス…」

 突然頭上で声が聞こえて、サフィルスは顔を上げた。そこには、美しい銀の長い長い…髪。

 サフィルスの傍にたどり着いた途端、プラチナは力尽きてサフィルスの胸に倒れこんだ。

 酒によって、プラチナの白い肌に朱が差して、頬の赤さ、目じりの赤さなど、色気以外の何でもない。そんな状態のプラチナが自分からしな垂れ掛かってくれば、どんな人間でも驚くだろう。

「わあ!!どうしたんですか、プラチナ様!!」

「止めてくれ…頭に響く…」

 熱い息で耳元に囁かれて、サフィルスはぞわっ…と背筋に走る感覚を自制した。

(…ジェイドが今いなくて、本当に良かったですね…)

「どうなさったんですか?こんなに酔って…」

「…ベリルに…みんなに酌をして貰わないと…スケッチブックを…返してもらえない…」

「ああ…何となく判りました」

 プラチナが受けた、散々の事を簡単に想像が出来て、思わずため息をつく。

(本当にもう…こうなる生徒が出ないように、管理しているんじゃないんですか…?)

 あの生徒会長と来たら…。よしよし、と背中を軽く抱きとめていると、胸の中のプラチナが、もぞ、と動いて潤んだ瞳でサフィルスを見上げた。

(うわぁ…これは、ちょっと…目の保養って言うか…目の毒…?)

「サフィルス……」

 薄紅色の艶やかな唇が、そっと呟く。

 サフィルスの眼はそこに釘付けで。眼が、離せない。

 こんなにじろじろ見るのは、怪しまれると判っているのに。

「な…何でしょう…か…」

「……してくれ……ないか…?」

「…………へっ!?」

 一瞬、頭の中身が真っ白になった。

(ええ、ええと…何て?)

 酷く長い時間、心の中で焦っていたような気がしたが、実際は短い時間だったかもしれない。

「酌…お前で終わりだから」

「あ?ああ、ああ!そ、そうですよね、そうなんですか…」

(吃驚した…ああ…本当に心臓に悪い…)

 同時にジェイドじゃあるまいし、と自分にツッコミを入れて、サフィルスは平常心を取り戻す。

「…判りました。じゃあ、これに注ぎましょうか」

 新しい紙コップを用意して、ペットボトルの中身を移した。そして、腕に抱えたままのプラチナに渡す。

「はい、飲んでください」

「…多い…」

「大丈夫です。ただのミネラルウォーターですよ」

 その言葉に安心したのか、口をつけて一気に飲み干す。咽喉の動きが艶かしい。飲み終わって、は…、と息をそっと吐く様も、思わず抱きしめている腕に力がこもりそうになった。

「もっと、飲まれますか?」

「ん…くれ」

「はい」

 コップを受け取って、上機嫌で水を継ぎ足す。

(役得…ですね)

 こんなに素直なプラチナを間近に見られるのは、実は珍しい事ではないだろうか。

 そっとコップを渡すと、今度はゆっくりと水を飲んでいた。その様子を見守りながら、額の乱れた前髪を掻き分けてやっていると、プラチナが、ん…、と小さく呟いたのが聴こえた。

「サフィルス…」

「はい?」

「…そのまま…額に手を置いていてくれないか…」

「…ええ、いいですよ」

「冷たくて、気持ちが良い…」

 ふう、と安心したように息を吐き、瞳を閉じられれば、サフィルスも手を離すわけにはいかなくなる。

「どれくらい飲んだんです?」

「…紙コップで…6人回った」

「6人もですか!?…何考えてるんでしょうか…あの生徒会長は…!」

 幾ら度数が低いからって限度があるだろう、とサフィルスは思ったが、実のところプラチナが酒に慣れていて強い部類に入るからこそ、ここまで保ったのだということは判らない。

「途中…酌もさせられた上に…何か暴れられたから…酔いが回って…」

 暴れられた…いつも周囲にいる人間を見れば、暴れっぷりが用意に推測出来た。

「良く、ここまで持ちましたね…プラチナ様」

「本当だな…途中で何度か、意識がとびそうになったが…」

 でも…、と小さく呟いて、プラチナが続ける。

「…楽しかった、な…」

「…そうですか。良かったですね」

 微かに微笑むプラチナの口元を見て、サフィルスも微笑む。楽しかったのなら、これも良い思い出になるだろう。これがきっかけで酒が嫌いになるよりは、良い。

「最近…兄上が世話になっているようだな」

「え?…ええ、お世話というか、私が作った物を食べて頂いているのですけど…お片付けとか、手伝って頂いてます。何故か私が料理をつくると、ついつい多くなっちゃって…」

「…楽しそうだ…」

「そうですか?」

「今度、俺も…見学に行ってもいいか…?」

「ええ。お兄様とぜひ、2人でいらして下さい。…少しこのまま、休まれてくださいね」

「いいのか…?」

「ええ、どうぞ」