『お願いが、一つだけあります。

 玩具も、本も要りません。

 我侭も言いません。

 泣いたりもしません、いい子にしています。

 丈夫な身体も、要りません。

 この部屋から二度と出られなくても構いません。

 だから、どうか一つだけお願いを聞いて下さい。

 他には、本当に何も…何も、要りませんから…。

 一つだけ。

 願いを叶えてくれるのは、父上でなくてもいい。

 誰でも良いから………で………』

 プラチナが目を醒ました時、揺れるカーテンの隙間から、朝の眩しい光が入って来ていた。

 目覚めたばかりの目には少々強く、だがその所為か直ぐに意識がはっきりとしてくる。

 昨夜寝苦しくて、窓を開けたまま寝てしまったのを思い出し、ベッドから立ち上がって窓に近づいた。思ったよりは天気は悪くない。昼には少々、暑くなりそうだった。

 カーテンを開けきって、部屋に備え付けてある洗面所へと向かう。

(…何故…今ごろ、あんな夢を見たのだろう…)

 子供の頃発作で苦しむたびに、あんな事を誰に言うでもなく願い続けていた頃の、記憶。

 しかし今では、発作もそう起こらなくなった事もあり、思い出す必要さえなかった。

 何を願っていたのか…それすらも、今のプラチナには判らない。

 発作の軽減だとかでは、無かったように思う。

 何か形のあるものを、願っていた筈だ。

(…しかし、それも今では…)

 考えている途中、ふ、と鏡に映った自分の顔を見て、何故だか動きが止まる。

 …忘れよう、と思った。

 何を望んでも…手に入らないと知ってしまった今では、もう…、何を願っても、叶えられる事は無いのだから。

「プーラーチーナ☆ おはよう!」

「ロード」

 天気のいい、少し暑いとさえ感じられるような日曜日の早朝に、プラチナが珍しく私服で外出しようとしているのに気が付いて、ロードは庭掃除をしている手を止め、声を掛けた。

 プラチナが足を止め、振り返る。

「今日も散歩か?」

「ああ」

「んで、ついでにカロールの教会にも、行くの?」

「そのつもりだ」

 カロールが見習として住み込みで世話になっている教会に、休日の朝は時折、顔を出している。休日の早朝はそんなに人通りも多くなく、人ごみを嫌うプラチナの散歩の時間になっていた。

 教会では特に何をするでもないが、信者に混じって牧師の説教を聞いたり、カロールが子供の世話をしているのを眺めたり、時には話に参加したりしている。

 カロールの教会まではそんなに遠くは無い上に、住宅街の中にあるため、ロードも特に護衛をする事は無い。

「そうか。じゃ、朝食は?」

「さっき軽く摂ったから、いい。…そのまま、ジルと稽古をしてくる」

「はー、この休日に朝から頑張るなぁ…」

 ロードは竹箒の柄に両手を乗せ、その上に顎を乗せて、うんざりしたような顔をする。

「それじゃ、昼には帰ってくるんだろ?昼食何がいい?」

「いや…午後からは…約束があるから、いらない」

 視線を逸らして、言い難そうにプラチナが答えるのを、ロードは首を傾げて聞く。

「ふうん…珍しい事もあるんだな」

「そう…か?」

 ちらり、とプラチナが、気まずそうに視線を寄越してくる。それを笑顔で返した。

「ああ。でも、まぁ、家の中でじっとしているよりもいいかも。気をつけて行ってこいよ。遅くなるようだったら、絶対電話しろよ?」

「わかった。…行ってくる」

 特にロードに追及されなかった事に安堵したのか、微かに微笑んでプラチナは歩き出す。

――…約束だあ!?)

 笑顔で何でもない様に、手を軽く振りながらプラチナを見送っていたロードの握っている箒の柄が、握力に耐え兼ねてみしりと嫌な音を立てる。

(プラチナが、他人と、外で、約束…!?)

 そんな珍しい事は今までに数える程度しかなく、ロードやルビイの許可無くそんな無謀な事をしでかすのは、今現在あの男しかいない。

(あの………セクハラエロメガネがぁ!!)

 箒の柄の部分が渇いた音を立て、ヒビが入る。

 まだ赴任して2ヶ月程度と言うのに、ロードやルビイの周りで、あの保険医が一般人にオススメ出来そうに無い、深夜限定の数々の店に出入りしているとか、週末連れている女は毎回違うとか複数だとか、酷い時には女だけが修羅場だとか。目撃情報が多々入って来ているのだ。

 そんなに穢れた身でプラチナを口説こうとは、言語道断。

(早速プラチナに手ぇ出すつもりか!?いい度胸だなぁ…ああ!?)

 ばきりと音を立てて箒の柄が折れた。

 許せるはずが無い。

 これは全力をもって阻止しなくては。

「ん~、おはよ、ロード。…何やってんの?」

 庭に立ち尽くすロードを、食堂の窓を開けて目覚めたばかりのアレクが背伸びをしつつ、声を掛けた。その声に勢い良く振り返って、ロードがアレクの襟首を掴む。

「馬鹿!早く仕度しろ!プラチナの後をつけるんだから!」

「プラチナ?…なんで?」

「プラチナが、あの保険医と午後から約束してんだって!」

 まだ寝惚けていたアレクが、途端に覚醒する。

「えーっ!?聞いてないよ、何それ!!」

「俺もさっき知ったんだ!作戦立てて、何が何でも強引に付いて行って、めちゃくちゃにブチ壊すぞ!!」

「判った!とりあえず、ルビイに連絡しよっ」

 朝連の為に早起きしたはずだが、そんな事は完全に忘れてアレクは自室に戻る。

 勿論ロードも同じで、壊した箒を見つからないように、物置の奥の方に隠してから、着替える為に部屋に走った。

* * *

 アレクが教会の扉を開けて中を覗いた時、カロールは礼拝堂の掃除をしている最中らしく、アレクの気配に気付いたのか、椅子を拭く手を止めて顔を上げる。

「おはよ、カロール」

「おはようございます。プラチナ様なら、もう学校の方に…」

 何も事情を知らないらしく楽しそうにカロールが言う、その表情を気の毒な気持ちで見ながら、アレクは周囲でカロールと同じように働いている人間達に聞こえないように、そっと問い掛けた。

「それなんだけど、さ。カロールは、今日プラチナが午後から誰かと約束してるって…聞いた?」

「約束…?誰です、相手は」

 瞬間的に、カロールの瞳に殺気が過ぎった気がして、咄嗟にアレクは身構える。

「多分…あいつじゃないかな、って思うんだけど…」

 カロールの瞳に怯えながら、恐る恐るアレクが口にした言葉に、カロールはあっさりと片づけを始めてしまう。

「…着替えてきます。すみませんが、ここでお待ちになって頂けますか?」

「え、でもカロール、まだいろいろ、することあるんじゃないの?」

 アレクには良く判らないが、いろいろと『お務め』と呼ばれるものがあるのだと、プラチナから聞いた事がある。それは簡単に途中で止めていいものでは無いだろうという事も、アレクには想像がついたのだが。

「これも試練の一つです。きっと、主もお許しになるでしょう」

 きっぱりと断言され、アレクは二の句が告げなくなり。

「あ…そう…」

 何かのオーラを発していそうなカロールの背中を見送りながら、そう呟いた。

* * *

 プラチナが道場に訪れた時、そこには用意の整ったジルと、端の方で壁際に寝そべっているベリルがいた。ベリルはつまらなそうに床をごろごろしていたが、プラチナが近づくと途端に楽しそうに声を掛けて来る。

「おはよう、プラチナ」

「ベリル…。珍しいな…」

 用も無いのに、ベリルがこんな所に居るのは、本当に珍しい。驚いてベリルを見つめれば、にこにこと微笑み返してくる。

「そうかい?僕は朝、ジルが出かけるのについて来ただけなんだ。もっと面白い所に行くのかと思ってたんだけど、外れたよ。こんなところに来るって判ってたら、付いて来なかったんだけどねぇ…」

 少々呆れたように、ジルを見ている。ジルは相変わらず無言のまま、ベリルとプラチナの会話を見守っていた。

「面白い所?…ジルが?」

「そう。最近ジルにご熱心な女性から、頻繁に電話が掛かって来ていてねぇ…。てっきり、僕はその方とのデートだと思っていたのだけど…どうやら甘かったようだ」

 はあ、とため息を吐いて、ベリルは起き上がり胡座をかいてジルの顔を下から覗き込む。

「君も君だよ。もっと休日くらい、楽しく過ごせないのかい?」

「すみません」

 ジルの返事は短い。

 ベリルもそれは判っていたらしく、プラチナの方に向き直って。

「でもまぁ、君の腕がどれだけ上達したのか、拝見出来る唯一の機会だから、楽しむ事にするよ。僕の事は気にしないで、頑張ってくれたまえ」

 またごろり、と床に寝そべった。

「ジル、今日は午後から外出する用事があるから、余り長くは出来ない」

 プラチナがそう言うのに、ジルとベリルの動きが止まる。二人ともまじまじとプラチナの顔を見て、耳を疑っているようだ。

「…珍しいな」

「…ホントだね、君が外出するなんて…どうしたんだい?」

「約束がある」

 少し言い辛そうに、視線を外しながら言うプラチナに、ベリルは考える素振りをしたあと、にやりと笑って。

「…ふぅん…。どうやら、今日僕がここに来たのもそう悪い事じゃなかったようだね。良かったねプラチナ、天気になって?」

「あ、ああ…」

 突然上機嫌になったベリルの変化が理解できずに、ぎこちなく頷く。

「それじゃあ、早く稽古を終らせてくれるかい、ジル。疲れさせたり、時間に遅れたりするのは、プラチナが可哀想だからね」

「…ええ」

 ジルは静かに目を閉じて返事をする。背後の二人を気にしながら更衣室へと移動するプラチナに、ひらひらと、ベリルは愛想良く手を振っていた。