「…プラチナ様」

 道場を出たところで、カロールがプラチナに声を掛ける。朝、教会で会った時には、今日は一日忙しいと言っていた筈なのに、何故こんな所にいるのかと疑問に思いながら、プラチナはカロールが近寄るのを待つ。

「どうした、カロール…今日は忙しいんじゃなかったのか?」

「ええ…ですけど、どうしても緊急の事が入りましたので」

 カロールの声が真剣なのを感じて、プラチナが顔を顰める。

「緊急?ならばこんなところで時間を使うのは、不味くないか?」

「いいえ。緊急と言うのは、他でもないプラチナ様のことですから」

「…?俺がどうかしたか?」

 今、自分は何か緊急な事態に陥っているだろうか、とカロールの言葉に、プラチナは考え込む。

 …別に、どうということはない。

「プラチナ様、お願いですから今日、お出かけになるのは止めて下さい。特に、あの保険医とは」

「何故、お前がそれを知っているんだ?」

 誰にも言った記憶が無かったから、酷く驚いた。

「それは今、問題ではありません。プラチナ様、お願いします。…プラチナ様、新しい本が昨日の午前中、届いたんです。プラチナ様が希望していた本もありましたから…今日はそれを読みませんか?」

 カロールの言葉に、惹かれるものを感じながらも、首を振る。

「今日は、医療の専門的な本を読めるかも知れない。父上の仕事には欠かせないことでもあるし、俺自身興味がある。…俺の病状についても、俺は詳しくは知らない。知る必要があるだろう」

「そ…、それは、とても大事な事だと思います。ですが…」

 カロールが俯いて、しかし尚も言葉を重ねようとした、その時。

 プラチナの体に背後から抱きつく者がいて、プラチナの細い身体が揺れる。

「プーラーチーナっ」

「兄上、ロード…」

「あのさあ、今日は出かけるのやめて、俺達に勉強教えてくれよ?もうすぐテストだろ?俺、次のテスト、めちゃくちゃやばいんだよぉ~」

 ロードが涙目で見上げて訴える。

「それは良いが…今日帰ってきてからでは駄目か?」

「そ…それは…」

 好きで勉強したい訳ではないロードが思わず怯みそうになるのを、アレクが強い声で即答し、遮る。

「それじゃ駄目!」

「駄目?…何故だ?」

「あ、あぁ、駄目、じゃなくって、それじゃ遅いんだよ!ほら、俺達って殆ど全教科勉強しないと駄目だし!」

 あはは、と笑って誤魔化しながら、カロールと同じ様にお願い、と頼み込む。その勢いに押されそうになりながら、プラチナは記憶しているテスト期間への日程を考える。

「まだ、テストまでには時間があるだろう。勉強する気になってくれたのは、嬉しいが、今日は約束しているから」

「今日がいい!今すぐ、勉強したいんだって!」

 アレクがプラチナの両腕を正面から掴んで、じっと顔を見つめて子供がお菓子を強請る時のような、声を上げる

「そうか…、本当に珍しい事があるものだな…。折角、二人が勉強する気になっていることだし…」

「じゃあ、今日は家に居てくれる!?」

 喜びに満ちたアレクとロードの表情に、プラチナは申し訳ないと思いながらも、横に立つカロールを見つめて。

「カロール、すまないが教えてやってくれ」

「えええっ!嫌だ、プラチナが良いんだよー!!」

 アレクが両腕を掴んだままプラチナに言い募るが、その効果は無く、そっと掴む腕は離されて。

「では、カロール。よろしく頼む」

 立ち去るプラチナの背に、アレクが癇癪を起して怒鳴った。

「馬鹿っ!プラチナの、ばかーっ!!」

「プラチナ様、お待たせしました…って、どうしました?」

 車を学園の駐車場に停めて、運転席から降り立ったジェイドが、背後を振り返っているプラチナに声を掛ける。

 プラチナは、ジェイドの声に振り返り、ジェイドの車に近づく。

「今日は変な日だ…。何処に外出するとも言ってないのに、何故だか兄上やロードや、カロールまで、今日に限っていろいろ誘うし…」

 体は一つしかないんだがな、とプラチナが首を傾げる姿に、ジェイドはくすりと笑って。

「その一つしかない、貴重な体を私の為に空けて下さったことに、感謝します」

「あ~~…。三人して、引き止められないなんてなぁ~~!」

 動き出した車を見送り、ロードが大きなため息をついて、ガクリと項垂れた。そこに突然、駐車場に停めてあった車のひとつが、唐突にエンジン音を立てはじめる。

「ジル、何してるんだい?早く車を出さないと、見失っちゃうじゃないか」

 見れば、ジルは駐車場の外れに立っていて、勝手にベリルが車のエンジンを掛けている。

 途端に三人は元気になり、車の後部座席に勝手に乗り込んだ。

「ルビイには携帯に連絡して、現地集合ってことで」

「とりあえず、作戦は車の中で立てよう!」

「では、ジル先生、よろしくお願いします」

 ジルは運転手として、強引にメンバーに加えられていた。車の中から、期待に満ちた三人の眼がジルを急かすように見ている。

「マスター…」

「ま、たまにはいいんじゃないかい?刺激ある休日で」

 出発進行、と助手席に移動したベリルの声に、ジルは一つため息をつくと運転席へと向かった。

* * *

(…まだ、付いて来てるな…)

 皆さんお暇な事で、とバックミラーを見ながら内心呟いた。

 とりあえず、背後の車とそれに乗る人間達は無視して、ジェイドは車を降り立つ。

 プラチナを促しながら店内に足を踏み入れて、店員に勧められるまま、窓際の日の当たる席へ付いた。

 窓の向こうの小さな庭には、美しくガーデニングで整えられた景色が広がっていて、プラチナは少しそれに目を奪われているようだった。

 気付きたくは無かったが、アレクたちが店内へ案内されているのが目の端に映る。大人数の為か、奥のテーブルに案内されているのが見えた。

 ちらちらと、こちらを見ているようだったが、それは完全に無視する。

 どうやら三人と違って、ベリルはこの状態を純粋に楽しんでいるだけのようだし、ジルはベリルの言う通りにしているだけのようだ。

 …相変わらず、得体が知れない二人だと思いながら、案内した店員が渡したメニューを開く。

「…紅茶は何にします?」

 声を掛ければプラチナは我に返って、ジェイドが広げているメニューを覗く。

 銀髪が光を浴びて、綺麗に輝く、その様に暫く見惚れる。

 メニューを見ている為に、伏せ目がちになった睫毛や、そこから覗く瞳の色も本当に美しい。暫く目だけではなく、意識すら奪われて、メニューよりもそちらの方を見ていた。

「いらっしゃいませ~」

 唐突に間に割って入った能天気な声に、現実に無理矢理引き戻される。

 視線をやった先には、ギャルソンユニフォームに身を包み、その上にソムリエエプロンを付けたルビイが、完全に元からそこの店員のような顔で、立っていた。

「…ルビイ…。どうしたんだ、こんなところで…」

 プラチナが驚いた声で、慣れた手つきで恭しく氷水の入ったコップを二人分置いていくルビイを見上げている。

「ん?新しいバイトや!苦学生は、大変なんやで?」

「そうか…」

 そんな偶然があるわけ無いだろう。

 感心したように、微笑むルビイを見つめるプラチナの天然ぶりに、ジェイドは頭痛を覚え、顔を顰める。

「そこで納得しないで下さいよ。プラチナ様…」

「プラチナ、俺のオススメ教えたろか~?」

 呟いた言葉は、強引にルビイの大きな声に遮られた。声だけでなくルビイは身を乗り出してまで、プラチナの視界からジェイドを消そうとする。

「いや…いい。お前は仕事中なんだろう?」

「ええんや。プラチナは特別やし!」

「客を贔屓してはいかんだろう…」

 プラチナの言葉に、ジェイドはため息を吐きながら同意する。

「全くです。決めるのに邪魔ですから、さっさと仕事に戻って下さいよ」

「俺はアンタとは会話して無い」

 ルビイの失礼な物言いに、ジェイドは表面上だけは上機嫌そうな笑みを作って見せながら、低い声で言い放つ。

「…いい加減にしないと、上の人呼びますよ?」

 ジェイドの言葉に、ルビイがぐっと感情を押さえるのが判る。

「……ご注文が決まりましたら、お呼び下さいませ」

「はいはい」

 ルビイを追っ払って、ジェイドはふ、とアレクたち以外の視線さえもが、自分たちのテーブルに集中している事に気付く。

 ジェイドが以前、この店に訪れた時もそうだったから、この結果は予想済みだったが、目の前の銀髪の麗人は、下手な女よりも美しい為か、男女問わずに面白い程視線を集めていて、不意に悪戯心が働く。

「あ、プラチナ様」

「ん?」

 声を掛けて、顔を上げさせた。

 単に、周囲に見せつける為だけに、そっと手を伸ばして、プラチナの頬に触れる。そして頬を優しく撫でて、そのまま首筋に移動し、髪を指に絡ませてゆっくりと痛めないように、手で梳いていく。頬を撫でたり、髪を梳いたり。何度も繰り返した。

 頬や髪に触れる事は、プラチナのタブーには引っ掛からないのか、手馴れたジェイドの仕草に気持ち良さそうに、無防備にも目を閉じて。

 その隙に、唇にそっと掠めるだけのキスをする。

 店内の遠い席から、椅子が倒れる音に混じって、けたたましい騒音が立て続けにしたが、それは事もなく無視した。

「…っ!? …何だ…?」

 驚いて、プラチナは閉じていた目を開ける。

 どうやら、少し眠りそうになっていたらしく、ジェイドが公衆の面前でキスしたことには、全く気付いていないようだった。

「大丈夫です、私たちには関係ありませんから」

「そうか。…どうかしたか?」

 ジェイドが突然触れた来たので、そのことを尋ねているのだろう。幼い仕草で首を傾げてみせるその姿に、ジェイドは薄く微笑む。

「いいえ、髪が…ね」

 綺麗だったんですよ、という言葉は省いてジェイドが言うと、プラチナは髪が絡まっていたのかと勝手に思い込んで、ジェイドが触れていた部分の髪を、プラチナも触れる。

「そうか…ありがとう」

「どういたしまして」

 にっこりと、ジェイドは極上の微笑みで、プラチナのその言葉を受け取った。

 何も知らない者たちが見たら、完全に恋人同士、と呼べるような雰囲気。

 ただ、プラチナの性別判断で、暫く悩むかも知れないが。

「ご注文は、お決まりですかぁ~?お客様!!」

 ルビイが引きつった笑顔でやって来て、注文を取る姿勢になる。プラチナが先程とは違う意味での驚いた表情をしながら、ルビイの顔を見つめる。

「どうしたんだ、ルビイ…変な顔をして」

「何でもあらへん、ちょっと機嫌が悪いだけや」

「そうなのか…?」

「っていうかな、プラチナ。後で皆とちょーっとばかしお話しような?テーマは『身近な危険人物に対する、危機管理の甘さについて』や」

 引きつった笑顔のまま、「なぁ?」と強く念を押され、ぎこちなくプラチナが頷く。

 それを横目で見ていたジェイドが、ぼそりと言葉で邪魔をした。

「私情を仕事に持ち込むのは、格好悪いですよ?」

 ジェイドがそう言えば、ルビイは殺意を込めた視線を寄越す。

「そりゃ、アンタとちゃうか?私情の為に、仕事も利用してんのやろ?」

「いいえ?私今、オフですから」

 痛くも痒くもないという微笑みで、ルビイの怒りをさらりと流した。

「あ~~~っ!アンタのそのすました顔、ものごっつ嫌いや!!大っ嫌いや!!」

「それがお客にする態度ですか?ウェイターさん?」

「アンタが仮にも教員てとこが納得出来んわ!アンタなら、何処かの馬鹿女引っ掛けるホストでも、充分やろ!」

「誉めて頂いて、どうも有り難うございます」

 悠然と、ルビイの言葉など雑音にもならないと態度で示してやれば、やはり気性の所為か、簡単に頭に血が上って。

「違うわ!何でプラチナに構うんかて訊いてんのや!」

「俺がどうかしたか?」

 プラチナの静かな声に、ルビイがは、と我に返った。面白い所だったのに、と思いつつも、プラチナには首を振ってみせる。

「何でもありませんよ。…じゃ、注文良いですか?ウェイターさん」

「…どうぞ」

 支払いを済ませる間、ふと視線を感じてその方向をちらりと見れば、アレクを始め、ロードやカロールが今にも殺せそうな程の、殺意に満ちた視線を送っている。

 それにはわざと、にっこりと…これ以上は無いくらいの作り笑顔を返してやった。

 その方角にいた店内の女性客の視線を、殆ど釘付けに出来るほどの、笑み。

 勿論、その三人に効果が有るはずも無く、逆に怒りが増したのを確認して、くつくつと上機嫌に笑うと、傍に立つプラチナが不思議そうな顔をする。

「どうした?」

「いいえ、子供が面白い顔をして見せるので、つい笑ってしまいました」

「…子供なんて居たか?」

「ええ、奥の方にね」

 奥を確認しようとするプラチナの背中を押して促して、店の外へと出た。

「さて、と…」

 運転席に座り、これからのことを考える。

 ジェイドのマンションには、あと十分ほどで着くのだが、このまま彼らを案内するほど、馬鹿馬鹿しいことは無いし、そのつもりも無い。

 第一、飽きてきたし。

「プラチナ様、少しだけ遠回りをしますが、構いませんか?」

「ん?別にいいぞ、俺は」

「それじゃ、行きましょうか」

 プラチナの返事と共にキイを回し、エンジンを掛けた。

* * *

 結局、大した成果を出せないまま、ルビイはツテを使って無理矢理頼み込んで入れてもらったバイトを途中で抜け出す訳にはいかず、そのままカフェに残る事になった。

 ベリルとジル以外の雰囲気は重いのに対し、ベリルはジルと共に、暢気に「海も良いねえ」等と言っている。

「絶対…絶対、あんなやつクビにしてやるっ!!」

「命令さえあれば、あんなやつ…殺れるのに…」

「……………呪います」

「牧師は祈る者であって、呪いはしないだろう」

「そんなことはどうでもいいからさあ!ジル、もっとアクセル踏めよ!!」

 ジルの冷静な言葉に、ロードが癇癪を起す。

 追っている車は、高速道路へと入っていくようだった。

「う~~~っ、こうなったらとことん付いて行ってやるっ!」

「ジル!もっとスピード出さないと、どんどん離れちゃうよ!」

 アレクが言っている傍から、ジェイドの車はスピードを上げていって、車線変更を繰り返しながら前を走る車を次々に追い越していく。

「ちょ…っ、アイツここを何処だと思ってんだ!」

 ロードは思わずメーターを確認する。一応、法律許容範囲ではあるものの。

「プラチナ様を乗せているというのに…っ!」

 カロールの言う通りだった。見ているこちらがヒヤヒヤする。

「ジル、頼むから後を追ってっ!」

 アレクが運転席を背後からバシバシと叩いて急かすが。

「えっ…!?」

 ふと気付いた時には遅かった。

 前に走る車の中には、追っている車の姿は無くて、思わず後ろを確認するものの、やはりその姿は無く、完全に消え失せていた。

「あれ!? 何処行った!?」

「もしかして、さっきの所で降りたんでしょうか…?」

 そう言えば、いくつかの出口とサービスエリアがあったような気がするが、全く気にせず通り過ぎてしまった。

「え~~~~!? マジかよー!」

 引き返せるはずも無く。

 後部座席で三人が力無くぐったりとするのを、助手席のベリルがにこやかに笑って振り返る。

「あはは、残念だったねぇ、君たち。今日は向こうの勝ちってことで、このままどこかに遊びに行っちゃおうよ。天気が良いから、海はどうだい?」

「ルビイに怒られるよ~!」

 アレクが現在バイトに追われているだろうルビイが、この結末を聞いたらさぞかし怒るだろうと、頭を抱える。

「まあ…仕方ないよ。…だって、ねえ…」

 ベリルはよしよし、とアレクの頭を撫でてから、正面に向き直ると、無言で運転するジルをちらりと見て。

「何だかそうなるように…回り始めてるみたいだから…仕方ないよ…」

* * *

「さて、出発しますか」

 サービスエリアで車を停め、時計を確認していたジェイドが、高台に上って景色を眺めていたプラチナに声を掛ける。

 プラチナは風に煽られる長い髪を手で押さえながら振り返って、素直に階段を降りてきた。歩き出したジェイドに並ぶように近寄る。

「遠くに海が見えた」

「ああ…、今度海にでも行きます?」

 誘うジェイドの言葉には、小さく首を振る。

「じゃあ、水族館にしましょうか?植物園でもいいですけど」

 重ねるジェイドの言葉のどれにも首を振ってみせてから、無機質な声のままプラチナは低く返した。

「…次のことなど…考えない」

 プラチナがこの外出を嫌がっているように見えなかったから、その言葉を意外に感じた。アレクや周囲を気遣ってそう言っているのかと思い、問い掛ける。

「何故ですか?」

――…行けるとは、限らないだろう」

 ジェイドはプラチナの髪に手を伸ばす。髪は手に絡まることなくさらりと流れ、ジェイドに物足りなさを与える。

 頑なな様子のプラチナの言葉に、掛ける言葉を暫く考えて。

「…あなたが約束して下さったら、必ず行きますよ?」

 車に乗る直前にそう告げる。

 プラチナは、高台の方を一度振り返って、静かに呟いた。

――…そんな約束は、しない…」

「何故ですか?」

 もう一度、同じ言葉で問いを繰り返すジェイドを、プラチナは視線を戻して静かに見つめる。

「…いつまで、生きていられるか…判らないだろう…」