帰る準備といっても特にする事は無く、すぐに部屋を出て、エレベーターに乗り込む。エレベーターが動き出してからも、プラチナは暫くまだ本の内容を頭の中で追っていたが、ふと自宅までどれほど時間が掛かるのかと、ジェイドに尋ねる為に口を開いた時。
ガタン、という衝撃音と共に、エレベーターが僅かに振動しながら動きが止まった。
「…停まりましたね」
衝撃の際に、揺れたプラチナの細い身体に伸ばされたジェイドの腕が静かに離れる。つい身構えて俯いていたプラチナが顔を上げれば、ジェイドは天井部分を見ながら管理会社に連絡するべく、連絡ボタンを押していた。
すぐに繋がったらしく、低い声で会話をしているジェイドの背中を、プラチナはじっと見ていたが、大まかな情報交換を終えたらしく、プラチナを振り返って肩を竦めてみせた。
「5階と4階の途中で停まっているそうですよ」
「そうか。エレベーター自体の問題か?」
プラチナの問いに、にこりと微笑みながら天井を指す。
「…どうやら、エレベーター自身を吊るしている、ワイヤーの問題のようですが」
「何?どうして判る」
「エレベーターが止まった時、変な揺れ方しましたから」
何なら確かめましょうか?とこの状況を楽しんでいるとしか思えないジェイドの声に、プラチナは疲れた表情を隠さず、首を振った。
「いい。…あまり動いて、状況を悪くしたらどうする」
「大丈夫ですよ。これぐらいの高さなら、まだ何とか助かりますから。あ、でも下手なことをして打ち所が悪ければ、死ぬかも知れませんね」
どうしたら、こうも無駄に明るく出来るのだろう。思わずため息が漏れる。
「……」
「怒ったんですか?冗談ですよ。大抵のエレベーターのワイヤーは、何本かありますから。例えそのうちの一本や二本、切れたってどうって事ないですよ。…ワイヤーが二本でしたら、一本切れても二本切れてもそこで終わりですが」
ジェイドの言葉に相槌を打つ気力も無く黙っていると、怒ったんですか?ストッパーがあるから大丈夫ですよ、とジェイドが重ねて言う。
「…もういい。このマンションでは、エレベーターの点検すらも、怠るのか」
「点 検は先日やってたはずですが…まあ、この様子じゃ、碌な点検をしていなかったんでしょうね。変な事に、作った人間ならともかく、こういうものの管理会社 は、今まで壊れなかった物が壊れるのは、まだ先だと根拠も無く信じているものです。…そして事故があってから、漸く自分たちの愚かさに気付く」
少し何かを思い出したかのように、伏せ目がちに言葉を紡ぐ。その様子に、プラチナはジェイドの表情をそっと伺う。
「事故の…診た事があるのか?」
「ええ、何度か。子供なんて大変ですよ。事故の記憶が強烈に残っていますから、怪我が大した事がなくても、突然泣き出したり」
「そうか…」
何故だか、ジェイドの言葉に朝見た夢の中での、子供頃の自分が重なる。
何かをひたすらに、願っていた自分と。
少し、不思議なような気がした。過去の自分が、何を願っていたにしろ、何故…誰に言うでもなく…、ただ願うという行為をしていたのだろう。
誰にも願えないものを、願っていたのか…。
「…暇ですね」
深く考えていた所為か、全く周囲を気にしておらず。
ぼそり、と呟いたジェイドの声がやけに耳元で聞こえた瞬間、不意をつかれて馬鹿馬鹿しいほど簡単に、エレベーターの扉に背中を押し付けられ、自由を奪われる。
「こらあっ!何をするっ」
「え?だってほら…密室で、二人きりですし?」
そう言いながら、プラチナの首筋に顔を埋め、肌にそっと口吻けると、そこに痕を付けるように強く口吻けて。ゆっくりとその痕を舌先でなぞるようにする。
押さえつけていた片方の手は容易に服の下へと侵入してくる。その感覚にジェイドの身体を引き離そうと、体のあちこちを押したり、暴れたりするのだが、いつものように何をどうするのか、びくともしない。
「何を考えてるんだ、お前は!!」
「暴れないで下さいよ、エレベーターがその衝撃で落ちちゃったらどうするんです」
そんなことは無いだろうが、やはりどの状態に置かれているか判らない今では、ジェイドの言っていた不吉な言葉を思い出して、その言葉にびくりと反応し、つい力が弱まっててしまう。
「じゃあ、今すぐ止めろ…!」
「嫌ですよ」
「ちょっ…、…っ!」
当り前のように、口吻けを強要し、慣れた感じで口内を犯して、舌を絡めて来る。
この行為も、プラチナには理解が出来ない。
何故、この男がこういう行為で自分を求めてくるのかも。
好き勝手に動く、服の下の腕に邪魔する為に手を伸ばし、漸く唇を振り切って、顔を背け怒鳴る。
「離せ!くすぐったいっ」
「うーん、もう少しイイ反応が欲しいですねえ」
あまりに勝手な事を言う、この男に心底呆れた。
同時に、今の自分の姿にも。
何を、この男の好きにさせているのだろう。
「何言って…っ!?」
「はい、騒ぐと危ないですよぉ~」
その言葉に、びくりと暴れていた身体が止まる。
プラチナの肌を弄る手は、止まることなく隅々に触れていく。辿り着いた胸の頂きも、刺激するように、また優しくも触れて。
今度は差し出す形に逸らしたプラチナの耳朶に、唇を這わせ、甘噛みをする。
「ぅ…っん……っ」
「ああ…ここ、みたいですね?…あと、ここも…」
ジェイドの言葉と共に指が肌に這うと、短時間で慣らされた感覚にびくりと身体が反応する。
身体の反応は、どれだけ堪えても反射的に起こってしまい、ジェイドはプラチナが反応した所を何度も指先でそっと撫でる。
「…っ…!」
「慣れてきましたね…」
耳にそう囁いて可笑しそうに低く笑う、ジェイドの声が癇に障るが、下手に口を開けば声が漏れてしまいそうで。
何とか意識を逸らそうと顔を背け、ふと、背中を預けている扉の向こうから、扉に何かしているような音が微かに振動と共に聞こえ、安堵する。
「ジェイド、誰か来た、から…っ、止めろ!」
「そうみたいですねぇ…」
漸く解放されると思ったのに、押さえ込まれたまま、ジェイドの手は執拗に動いていて。
「ジェイド…、いい加減にっ…!」
「え?折角、イイ感じになって来たのに、ここで止めるの勿体無いじゃないですか」
「この…っ、馬鹿!!」
「あ、そういうこと言いますか?」
プラチナの言葉を聞いて、ふと何かを企んだのだろう、にこりと笑う。
「そうですねぇ…。じゃあ、プラチナ様が可愛くお願いしてくれたら、止めてもいいですけど」
「何を、馬鹿なことをっ…」
そんな事、出来るはずが無い。
育ちからして、他人に『お願い』などしたことは無いし、何と言っても自分にこんな屈辱を与えている人間に対して、『お願い』など到底出来そうも無い。
「別に私は、このまま他人に見られても全然構いませんが?プラチナ様、とても男には見えませんしねえ?」
更に笑むことで促している、その顔がこんなに憎らしいと思った事は無い。
怒りとあまりの羞恥心に、頭の中が如何にかなってしまいそうだった。
背後では、相変わらず扉が開きそうな音がしていて。
「はい、早く言わないと、扉が開いちゃいますよ~?」
からかうような声。
酷く腹も立ったが、この姿を曝す事には耐えられない。
「…お…お願い…だからっ、…止めて下さい…っ」
屈辱のあまりに涙目になってジェイドを見上げれば、上機嫌ではいるようだが、腕の力は弱まる様子も無く。
「う~ん、もう少し…ですね」
「もう、嫌だ…」
これ以上、何をすればいいのかなんて、見当もつかない。
早く解放して欲しかった。
途方に暮れて俯いていると、ジェイドのプラチナの肌を這っていた手がすっ、と離れる。
「こう言う時は…」
そう言って、ジェイドはプラチナの腕を掴み、自分の首へと回させてしがみ付かせる。
そんな姿勢になれば、お互いの顔は簡単に触れ合うほどの距離にあって。
「これぐらいして頂かないと」
「…っ!」
「尚且つ、『お願い』の後にはちゃんと『先生』ってつけて下さいねv」
咄嗟に首に回している腕を解いてジェイドの身体を力任せに押しのけようとするが、当のジェイドはしっかりとプラチナの身体を抱き込んでいて、少しの隙間さえ許しそうに無い。
「ぜっ…」
「絶対嫌だ、とか言ったら、扉が開こうがこのまま離しませんし、無理矢理部屋につれて戻りますから」
その言葉に悲しくも、動きを止めてしまう。
扉は今にも開きそうで、時間が無い。
…逃げ道も、無い。
早く解放されたい。
それでも、ジェイドの望む『お願い』は受け入れ難い。
「…何故…そんな事をしなくてはならないんだ…」
泣きそうになってそう呟くが、ジェイドは何も言わない。
ただ、プラチナの居心地が悪くなるあの笑みで、じっと見つめて待っているだけだ。
本当に仕方が無く。…やむを得ず。
再度、ジェイドの首に両腕を回し、何かを強請るように顔を近づけて。
言っている言葉を理解しないよう、機械的になるように言葉を紡ぎ出した。
「…お願い…だから……、止めて下さい……先、生…っ」
声は震えていたし、とても掠れていて、プラチナ自身かなり自己嫌悪に襲われそうだったが、ジェイドはいたく気に入ったらしく、見上げた視線の先で、心底嬉しそうな笑みをしてみせる。
「よく出来ました」
その笑みについ目を奪われて、ほんの少し動きが止まっている間に、あっさりと約束は反故にされ、抱き込む腕は強引なまま、口吻けられた。
深く浅く、角度を何度も変えて。息苦しい熱に意識を持っていかれそうになるのを、プラチナは必死で堪える。
「…っんぅ……っ」
いつまで経っても離れそうに無い、執拗な口吻けに、ジェイドの首に回した両手を顎の方に移動させて、強引に引き剥がした。
プラチナは荒い息を吐きながら、強く殺気だった目で、睨みつける。それが涙で潤んでいて、あげくに自分の身体を支えるのに必死、というのがとても腹が立つことではあったが。
「離せっ…!!そういう約束だろうっ!!」
「ああ、そうでしたね」
そう言って、ジェイドが腕の力を緩めたのと、咄嗟にプラチナがジェイドから大きく離れたのと、エレベーターの扉が開いたのとは、全く同時だった。
エレベーターは5階の昇降口をほんの少し降りたところで止まっていたらしく、扉が開いてしまえば、プラチナは自力で5階に降り立つ事が出来た。
エレベーターの点検に、4人ほどの人間が訪れていたようだが、それに目を向けることも無く、勿論後から来る筈のジェイドを待つ事も無く、ひたすら非常階段を目指して足早に歩いていく。
「プラチナ様、エレベーターは反対側にもう一つありますから…」
背後から声をかけられても、それを無視して更に進む。
もう止まりたくなかった。
非常階段を降りかけた時、足早に近づいてきたジェイドが腕を掴んで行動を止める。
「プラチナ様。…あなたではここから階段を、1階まで全部降りきる事が出来ないでしょう?途中で目眩とか起こったらどうするんです?」
この腹が立っている状態で、そんな正論を言われても、よりいっそう腹が立つだけで。
意地になり、腕を乱暴に振り払って、階段を降りる。
ため息を吐いて、それでもプラチナの後を続いて降りてくるジェイドのその足音すらも、癇に障る。
この男が、何をしたいのか判らなかった。
これ以上、背後に居られるのも嫌で、足を止め振り返り怒鳴る。
「近づくな!!この…馬鹿!!」
「約束は守ったじゃないですか」
平然とジェイドがそんな事を言う。
「よくも…っ、そんな恥知らずな言葉が言えるな!散々…っ」
好き勝手にしておいて。
隙がある自分も、充分に甘いのだとプラチナは思う。その罰でああいう目に合っているのだとも。命を落としていないだけ、マシなのだとも。それでも腹が立った。
ジェイドが何もしなければ、約束自体、必要の無かった事で。
飄々としたその態度に、酷い屈辱を受けた気持ちになる。
「ああ…、あれは、よく出来た生徒にご褒美です」
にっこりと、微笑んで言う、その顔がどんなに綺麗でも。
「そんなものは、要らないっ!!」
そこがどんな場所かと言う事すら頭から失われて、非常階段の上にも下にも響くような強い声を出した。
もう、思い出したくも無い。
二度と、するのも嫌だ。
こんな弱い自分ではきっと、父上に、嫌われてしまう。
だから要らない。
あんな、情けない姿で得た褒美など…要る筈が無い。
「そんなものって…酷いですね…」
ため息と共に、強引と言うより、少々乱暴に腕を捕まれ、何段か上に居るジェイドに強い力で引き寄せられる。
「…落ち着いて下さい。ね?あなたらしくもない」
耳元で低く囁くジェイドの声に、身体を捩ろうと身動きするが、顔をジェイドの胸に埋める形に固定され、身動きすらも許されないほど、きつく抱き締められて。
大人しくしているしか、出来ずに。
ジェイドの静かな鼓動を聞きながら、そのまま暫くじっと耐えていた。
* * *
結局、激昂した分、酷く疲れてそのまま大人しくなってしまったプラチナは、ジェイドに手を引かれて、階段は1階だけ降りたものの、そこからはエレベーターを使って駐車場まで降りた。
プラチナは先を歩くジェイドの後にはついて行かず、すっかり暗くなった地上に向かってゆっくりと歩き出す。
「あれ?送っていかなくていいんですか?」
ジェイドが立ち止まり、振り返って声を掛けるが、プラチナは足を止めただけで、振り返らないまま、憔悴した声で答える。
「…いい」
「でも、夜は物騒ですよ?」
「お前よりマシだ」
「酷い事言いますねぇ…」
ため息をついて、ジェイドが近づいてくるのを待たずに、プラチナは俯いてまた歩き出す。
酷く疲れたから、放っておいて欲しかった。
「プラチナ様、待って下さいよ。本当にもう何もしませんから。家まで送るだけですって。ここで別れてもし何かあったら、兄上やあのお嬢さんに、私が殺されそうですし」
「…殺されればいい。そんなのは、俺の知ったことじゃない」
疲れた感情のまま、言葉を口にすれば。
「どうせ殺されるなら、あなたに殺されたいんですが。…それでも、あなたは私を殺さないでしょう?」
穏やかな雰囲気のまま、その言葉を何でもない様に告げる。
自分も口にした言葉と言うのに、何故だかプラチナは嫌な気持ちになって、立ち止まり押し黙った。ジェイドが背後に立って、声を掛ける。
「怒ったんですか?…冗談ですよ」
「お前の冗談は…笑えない…」
ぼそりと、力なく呟いたプラチナの横顔をジェイドは背後から覗き込んでいたが、頼り無く立つプラチナの身体をそっと、軽く抱き締めて自分に寄り掛からせる。
「もう、絶対しませんから…信用して頂けませんか?」
「お前…言ってる事と…やってることが…違う…」
「これは、あなたが今にも倒れそうなので」
そう言って、体を支えながら、宥めるようにプラチナの髪を何度も手櫛で梳かす。
頭を撫でているように。
「はぁ…、どうしたらご機嫌が直るんでしょうねぇ…」
ジェイドの困ったようなため息に、怒り返す元気もプラチナにはもう無い。
酷く疲れていて、歩くのさえ苦痛になって来ていた。
…考えてみれば、プラチナは今現在、何処にいるのか知らない。迎えに来てもらうにしても、判らなければ説明のしようが無い。駅に出るにしても道が判らない上に、この状態で電車やバスに乗るのは、耐えられそうに無かった。
「……もう、絶対に、しないか?」
顔を緩々と上げて、ジェイドを見つめる。
ジェイドは驚いたような顔をしてプラチナを見つめた後、目を細めて微笑んで見せて。
「ええ。あなたが嫌がることは、絶対に」
* * *
帰りの車内は、静か過ぎて逆に変な感じだった。
プラチナもかなり疲れていたし、特に話す事など無いと無言で居たのだが、ジェイドの方は気にした様子でもなく、行きとは違う穏やかな運転で。
無事に家に到着した時、意外にも短時間だった気がしたのは、何故だろうか。
「今日は楽しかったですね。また、どこかに行きましょう。…今度は、兄上やご友人は無しで」
「……?」
「気付いてなかったんですか…まあ、いいですけど」
微笑むジェイドの上機嫌さに対して、プラチナは無愛想に答える。
「…疲れた」
「これくらいで疲れるようじゃ、駄目です。なるべく、頻繁に外に出るようにしましょうか」
返された言葉がもっとも過ぎて、余計に腹が立つ。
この男には、何を言っても無駄なのかも知れない。
早々に車を後にする事にして、シートベルトを外し、ドアへと手をかける。
「じゃあな」
「…プラチナ様」
「ん?」
声を掛けられて、忘れ物でもしたかと思わず振り返った首を強引に引き寄せられて、ジェイドの唇が重なる。
「…っ!」
わざと音を立てて離れる唇に、プラチナは暗くなった状態でも判るのではないかと思うほど、頬を朱に染めて無理矢理身体を引き離す。それを留めはせずに、ジェイドは簡単に腕を離した。
言葉も無く凝視するプラチナに、破顔して見せて。
「それじゃあプラチナ様、また明日、保健室で」
「…お前と言うやつは…っ!!」
漸く出た言葉は、それだけで。他の言葉が継げない。
腹が立つ、という言葉では生易しい気がした。
本当に、憎らしい。
ジェイドの言うことは信じてはならない。
少しでも、信じようと思ってしまった自分が、馬鹿なのだ。
もう、絶対に信じない。
電話も掛けてくるだろうが、それも出ない。
付け上がるだろうから、甘いところは絶対に見せられない。
平気で約束を破ったり、人として最低なのはジェイドの方なのだから。
怒って乱暴に車のドアを閉め、こちらを振り返りもせずに立ち去るプラチナを、くすくすと笑いながら見送っていると、ふと、車が到着した時から感じていた気配のようなものが消え去るのを感じ、その場所へと視線をやる。
恐らくは、あのメイドが居たであろう、その場所を。
「だって、嫌がってないでしょう?…ね、プラチナ様?」