ドロシーには両親がいなかった。小父と小母は生活に疲れて滅多に笑うこともない。それでも帰りたいと強く願って涙を零したし、貧しくてもその家には幸福があった。「お帰り愛しい子!」そう言って抱きしめてキスをしてくれる相手が居た。――健二が帰る家に、幸福は待っているのだろうか。
(あんたの帰る家が、ここなら良いのに)
どこにも行かずにずっとここに居て、どこに行ってもここに帰ってくればいい。
――ああ、いや、違う。
(あんたの帰る先に、僕がいれば良いのに)
未だにうんうん唸って悩んでいる健二を見詰めながら、佳主馬は思う。彼が踵を鳴らして呪文を唱えた先、辿り着くのが佳主馬の元ならどんなにいいだろう。そうしたら、お帰りと言って――。
「まだ悩んでんの」
「うーん、だってさ。コレ、多分目立つよね?」
「たぶん。最初に僕を助けてくれたし、次にラブマシーンと戦う時セコンドにいて、作戦叫んでたし」
「だよねー。じゃあ、やめよう」
『やめるのかよ!』
あっさりと告げる健二にすかさず佐久間が突っ込む。同じく佳主馬も驚いた。佳主馬にとって健二はすでにこの黄色いリスで、もう忘れるなんてこと出来ない存在で、それなのに一緒に戦った二日間のことを呆気なく手放すと、なかったことにすると言われた気がして胸が急に冷えて焦る。
『おいおい、早まるな!からかって悪かったって!せっかくレアアバター認定されるのに、何が不満なんだよ』
「不満って言うか…このリスはみんなと一緒にラブマシーンと戦ったヤツだから、愛着は一応あるけどぼく、目立つの苦手だし。それにこのリスじゃOMCはさすがにムリじゃないかなって」
佳主馬くんと一緒にトレーニングしたいよ…、と続けてちら、とこちらを覗うその幼いような仕草と表情に、佳主馬は拳を叩き込まれたわけでもないのに胸に酷い衝撃を受けた。
(こ、の…無自覚! 天然凶器!!)
佳主馬とトレーニングしたいから、リスを手放そうとしたのか。冷えていた胸がかっと燃える。さっきからこんなのばっかりだ。なんだこれ。なんだこの生き物!
ぐ、と息が詰まって、血管が破れるんじゃないかというくらい、どくんと強く脈打った心臓が痛い。思わずタンクトップの上から心臓の辺りを手で押さえて、そっと息を吐いて痛みを逃がす。けれど表面は動揺をひたすら押し隠して、なんてない顔で口を開いた。
「…そのリスでも、出来るよ。トップは狙えないだろうけど」
「えっ、ホント!?」
『マジで!? さすがですキング!』
「手足が短いから何か武器を持って、それでパワーも補うとして。ラブマシーンから逃げられるくらい素早さも高いし、小回りきくし、これだけ小さいと、対戦相手としては断然やり難いよ。きちんとメンテナンスして、マクロの組み合わせ次第で結構いけると思う」
何より、この小さなリスがどこまで昇り詰められるか、挑戦してみたくなる。【カズマ】よりも不利な体をしたこのアバターを、今の佳主馬ならそれなりに使いこなせる自信があった。それを健二に教えるのも、楽しそうだと思う。
『うっわー。一度そのリス使ってキングが戦ってるとこ、見てみたいよなー』
「うん、お手本見せて欲しいなあ」
キング・カズマの熱狂的に近いファンの二人が、相変わらず向けてくるキラキラした視線にやっぱり少したじろぎながら、さっきから長いこと放置されているアバター設定画面を指差した。
「じゃあ、それで登録しなよ。…記念に、なるし」
この夏を、佳主馬を忘れないで居て欲しい。さっきのように簡単に手放さないで欲しいとは、とても言えなかった。照れが先に立つ。もっと素直な人間だったら良かった、と思うけれど、いきなり自分を変えられない。
それなのに、健二は佳主馬と違って簡単に口にしてしまうのだ。
「そうだね。みんなと一緒に戦ったアバターだし。これが出来た時、大変だったけど佳主馬くんに助けて貰って、今も仲良くして貰って。それにこの時まだ栄おばあちゃんも居たし…うん。この夏の忘れられない記念に、なるよ」
目立つのなんて気にしなきゃ良いんだし、と笑った彼は、アバターの基本画面の下、決定ボタンを押した。
* * *
アカウント再申請完了後、試しにリスを使ってトレーニングルームでA.I相手に幾つか技を極めて見せた後、三人でフレンド申請を済ませた。これでメルアドから携帯番号まで、許可された全ての情報が互いに行き渡る。
『おお――ッ!! 俺のフレンドリストに、キングが! キングがっ!!』
疲れている所為か、テンションが上がりっぱなしで落ち着く気配のない佐久間に、健二がそっと声を掛けた。
「佐久間、そろそろバイト戻らなくて良いの?」
『いいじゃん少しくらい。俺だってこう、ご褒美とか癒しとか欲しいんだよ』
俺の夏はまだ終わってない!いや、そもそも始まってもない!
画面の向こうで訴える佐久間に、まあ八月の頭だし、まだまだ時間あるよ、と健二の慰めが入る。確かに佐久間は泊まり込みまでして助けてくれたことを思えば、今の境遇は少し不憫だ。他人に興味を持つことが少ない佳主馬でも、これはさすがに同情した。
「…佐久間さん、今度健二さんと一緒にここに遊びに来れば? 今回のお礼もあるし、皆歓迎すると思うけど。海はないけど、スイカはあるよ。あと、大きな祭りがあって花火もある。今は工事中だけど、そのうち温泉も入り放題」
『すっげー! イベント目白押しじゃん。行く行く! で、女の子はどうよキング?』
「さあ。それは佐久間さん次第なんじゃない」
そんなところまでは責任取れない。そう返せば佐久間は笑って、きゃーキングってばちょークール!とふざけて返す。
『よーっしめちゃくちゃやる気になって来たー! じゃ、俺バイト戻るわ』
「うん。佐久間、頑張って」
『お土産期待してるぜ、健二くん』
「わかったって」
『そんじゃまたなー、キング』
ひらひらとにこやかに手を振る佐久間に小さく頷き返すと、ぷちんと映像が途切れてウィンドウが真っ暗になる。
途端静かになった納戸の中、ノートパソコンの画面では【ケンジ】のまだ何のアイテムもないプライベートルームに招き入れられた【カズマ】が、床に座り込んで【ケンジ】をでこぴんで転がして遊んでいた。【ケンジ】の方はころんと後転してもまた、たたた、と【カズマ】の元へ戻ってくる。以下ループ。
「……なにしてんの」
思わず突っ込む。マイクから声を拾った【カズマ】の耳がぴくん、と反応して動きを止めたけれど、指示が続かないからまた【ケンジ】を転がした。もっと他のことをして遊べ。それともフレンド登録したアバターとはこうやって遊ぶものなんだろうか。佳主馬は成り行き上フレンド登録した真紀とも師匠とも、こうやってプライベートルームで過ごしたことがないから判らない。
画面の二匹に気を取られていた佳主馬の横で、おもむろに姿勢を正した健二が佳主馬くん、と声を掛けて来たのに、顔を上げた。
無防備に見上げた先、健二の思ったより真剣な表情とかち合って、体がびくんと反応する。この表情を佳主馬は覚えている。忘れられるはずがない。いつも、佳主馬は彼のこの表情に目を、意識を奪われて来たのだから。
なにひとつ見逃すまいと目を瞠って健二を見詰め返す佳主馬に、健二はそっと僅かに表情を和らげて言った。
「本当に、色々ありがとう」
「・・・僕は、別になにもしてない」
答えながら、自然と眉間に皺が寄る。
本当に、なにも。なにも出来なかった。やったことは全部、失敗に終わって。翔太に八つ当たりして、アバターを取り込んで巨大化したラブマシーンを恐れて正常な判断を失って。本当になにも、してない。
正直、健二に失望されたと思ったのに、静かに深く考え込んでいた彼は『まだ、負けてない』と佳主馬に告げた。慰めでも偽りでもない、今と同じ真剣な表情で。
「最初にぼくを信じてくれて、嬉しかったんだ。それに、栄おばあちゃんの敵討ちに一番最初に乗ってくれたことも。ぼくの期待や周りからの重圧に耐えてくれてたことも。巻き込んだ挙げ句にキング・カズマの評判を落として、――ホントは翔太兄と同じように殴られても仕方ないんじゃないかって、思ったこともあって」
でもきみはそうしなかった。
健二はそう言ってまるで眩しいものを見るかのように眼を細めて微笑む。
「ぼくはきみの優しさに助けられたし、強さに力を貰った。きみが居てくれたから、何でも出来る気がしたんだよ」
「そ・・・れは、それは、僕の方だ」
健二が諦めないでいる姿に佳主馬は本当の強さを知ったし、戦うと言うことがどういうことなのかも解った。目が覚めて視界が開けたような、世界が突然鮮やかに色付いたような、そういう覚醒だった。佳主馬は確かにOMCチャンピオンだったけれど、それは中身の伴わないものだと思い知ったと同時に、以前から抱いていた疑問に答えが返って来た気がした。
強くなるって、戦うってどういうこと? 戦って、チャンピオンになって、その先には何がある?
それが知りたかった。虐めた相手にやり返すためでもなく、鍛えた体に何の意味があるのかを、――相手を倒さなくても強い、本当に強い人間のことを、知りたかった。
そういうこころの内側のことを言葉にしようとして、けれど言葉になる前に次から次へとこころから感情が溢れて喉を詰まらせてしまう。情けない。健二に出来て佳主馬には出来ないことが、まだ自分が子供なのだと痛感させられる。
ただじっと健二を見詰めるしか出来ない佳主馬を同じように見詰め返しながら、優しい表情で健二は口を開く。
「それに、ここできみに会えたことも凄く嬉しかった。ぼくはずっと、きみに会いたかったんだ」
「え…」
無意識に言葉が零れる。
(会いたいって、どうして、)
ずっと健二だけを映していた瞳を瞬かせて、佳主馬はその言葉の真意を理解しようとした。
お互い初対面のハズだ。その健二が佳主馬に会いたいと思う理由。すぐに頭の中に先程の、テンションの高い二人が再生され、ああなんだ、といつの間にか止めていた息を吐く。何か特別な意味があるのかと思ってしまった。
「――健二さんってホント、キング・カズマが好きだよね」
少し呆れと、それから何とも言えないもやっとしたものを含めた温度でそう言うと、健二は何故だか驚いたように目を瞠った後、ふっと力を抜くように笑った。
動作的にはたったそれだけ、なのにどうしてこのひとはこんなにもこころの底から嬉しそうに笑うのだろう。
佳主馬はどうしても、目を離せなかった。
鮮やかな夏の記憶。空を突き抜ける青、際立つ真白の雲、響き渡る蝉の声。ひんやりとした納戸の薄暗さの中、彼は声を上げるでもなく静かに微笑む。
きっと佳主馬は夏が来る度、健二の笑顔を思い出すだろう。
※「オズの魔法使い」については原作と映画が混ざっています。ご容赦下さい。