『あらわし』墜落地点が、長野大会で優勝した上田染谷丘高校のキャプテンの本家ということで、メディアはラブマシーンの事件と共に大きく取り扱いたがったけれど、主に『あらわし』機関の協力と、「ちょっと言えないトコ」所属の理一、それから弔問に訪れた栄の人脈をもってそれらの話題は視聴者にとって違和感のないようにごく自然に甲子園へとシフトされて行き、八月が終わる頃にはあの事件について関心を持つ人は少なくなっていた。

 お陰で上田の屋敷周辺は静かに、『あらわし』落下による補償の話も進ませながら硫黄の匂い漂う夏の終わりを迎え、そうして戻った名古屋でも、クラスメイト達の話題にラブマシーンのことが上ることもあまりない。OZは八月中ばには正常な運営を取り戻したし、衝撃的な話題は鮮度が重要で、大体七月末、二日間に集中した事件なんてとっくに夏休みの間に語り尽くしている。

 夏休み明けて最初の授業はLHRに割り当てられ、ざわめく教室は体育祭と文化祭の展示についての話題で盛り上がっていた。

 団体行動に興味のない佳主馬は壁際の席で教室のざわめきをどこか遠くに聞きながら、頬杖を付き窓の向こうへと視線を向ける。空の彩がもう違う。夏の青ではなく秋の青、陽射しの色を透かして見える空は少し薄くて遠いけれど、夏の覆い尽くすような空よりはまるで包み込むようだ。

 夏が終わってしまった。今までで一番鮮やかだった夏が。

 正直、健二のことを好き、だと思うその種類が何なのか、は充分察してはいるけれど明確な名前はつけていない。

 佳主馬は今までこんな感情を知らなかったから名前が正しいかも判らないし、名前を付けたってどうしようもないと思う。幾ら頑張ろうとも負け戦でも、こればかりは始めるわけにはいかないのだから。そんなに簡単な話じゃないし、もし始めてしまったら、結果がどうなるかなんてことはまだ子供の佳主馬にだって判る。

 それに佳主馬自身、自分の制御不能な感情に充分戸惑っていたから、そういう大義名分的な免罪符は都合が良かった。何事にも半端な男は要らない陣内でもこの場合だけは、立ち止まっても、引き返してもいい。それを許されている気がする。

(別に、健二さんや夏希姉を困らせたいとか考えてない、し、)

 佳主馬は、あの親戚の中で一際目映い光を放つような夏希のことも身内として好きだった。今よりもっと幼い時は、歳が離れていても遊びでさんざん振り回してくれた相手だ。良いところも悪いところも知っている。

 その夏希と互いに想い合っているのなら、それは健二にとってのしあわせで、二人のしあわせは間違いなく佳主馬のしあわせだ。

(欲しいと願って、得られないものなんて世の中にはたくさん、ある)

 佳主馬にとって、それが健二だっただけ。それだけのことだ。世界中の誰もが苦しんでいる。佳主馬だけじゃない。

(仲の良い、お兄さん。…友達、だから好き。それでいいじゃん)

 胸から湧き出るのも苦しいのも全ては独占欲で、それは佳主馬にとって健二ほど、仲良くしたいと思う人間が今までいなかったから、加減が、距離感が判らないだけだ。それだけ。そのうち慣れる。このまま何もしなければ、動かなければ、そのうち何とも思わなく、なる。ラブマシーンの事件が人の関心を失ったように、健二のことも思い出として、整理され淡くおぼろげになるはずだ。

 そこまで考えた途端、胸を引き攣るような痛みが走って、息を数秒、止める。そうして痛みを逃すようにそろそろと、息を吐いた。

――……嘘つき)

 何とも思わなくなることなんて、あるもんか。

 こうやって立ち止まろうと、引き返そうとするたびに、こんな風になってしまうじゃないか。

「なー、池沢お前何に出…っ、て、どうした?」

 前の席のクラスメイトが振り返った途端、じ、と顔を無遠慮に覗き込んで来るのに、佳主馬は少しばかり身を退く。顔はコンプレックスなのだ。余り見られたいとは思ってない。

「なにが」

「なんかすげえ、・・・腹減ってそう?」

――は?」

 佳主馬とのやり取りを見ていた右隣の席のクラスメイトも、更には後ろの席のヤツまでわざわざ身を乗り出して来るのに、やめろと手を振って拒否する。

「池沢朝メシ抜き?」

「食べたよちゃんと。だから別に普通」

「えー?上手く言えないけど、なんかそんな感じなんだって。こう、欲しいのに貰えない感じの。おあずけされてるわんこっぽい」

 佳主馬が答える合間に、周りはがたがたと椅子を寄せ始める。何でだかは判らないが、こういう話し合いの時いつの間にか、佳主馬の周りには椅子が寄せ集まる。席から立ち上がれなくなるので不便だ。逃がさない為じゃないだろうなと少し考えてしまう。

「わかんねーよお前イミフ過ぎる。それより池沢、お前脚早いし短距離どうよ」

「タイフーンって何? 俺知らないんだけど、これ人数的にちょうどよくね?」

「応援合戦の練習で居残りとか、マジたりぃー」

「その前に応援団員て誰がなるの」

「委員長じゃね? 少なくとも俺じゃねー」

「そういうのって、兼任ダメじゃないっけ」

 佳主馬が特に口を開かなくとも、三人が次々に話題を回して流していく。そうやってあのひとのことも、流せるものならば良かったのに。

(おあずけされてる犬って、なに)

 でも、欲しいのに貰えない、というのは当たりだ。そんな顔をしてたのか、と佳主馬は手の甲でぐ、と頬を擦る。そんなに、目に見えてしまうものなのか。

 立ち止まるな、動けと、引き返すなと訴えてくるこの感覚はなんだ。

 健二のことを考えるといつも佳主馬の中のなにか、直感のようなものが、手放してはだめだと警鐘を鳴らす。見失ったらおしまいだとそれに告げられる。そのたび、佳主馬は絶望的な焦りを持って、OZや携帯を使い健二を、健二への繋がりを捜さずにはいられない。

 立ち止まって良い、引き返して良いなんて嘘だ。そんなこと、建前でなきゃ誰が思うんだ。少しでも近くにいたいと思うくせに。

 健二への繋がりはいつも細く頼りなく、いつか断ち切れてしまいそうだ。そのことを何度も確認しては信じられないことに、泣きそうになる。

 この矛盾をどうしたらいい。どうしたら、いいんだ。

(あんたのもっと近くに行くには、どうしたらいい?)

* * *

 九月の連休に行われた栄の四十九日に、理一はどこで捕まえたのか侘助を、夏希は栄に認められた家族である健二を、共に連れて来た。

 身内と言って貰えても血の繋がりがないし、としきりに恐縮する健二を「知人だって来て良いものなの!」と親戚全員で車に押し込んでしまえば、彼は法要も納骨も、離れた場所で大人しい。同じように離れた位置に立つ侘助とぽつりぽつりと何か、話しているようだった。

 侘助は、血の繋がりのない最後の身内に親近感を抱いているらしく、夏希が側にいる時よりも気を楽にしているように見える。それが何となく判ってしまうのは、佳主馬が栄の夫、大祖父に似ているからで、侘助もまた耳の形がそっくりなくらい父親に似ているからだろう。つまり佳主馬と侘助は似ていて、同じものに惹かれる性質があるということだ。

 栄のようにどっしりと構えた存在ではない。でも健二はこの陣内の、緩衝材だ。陣内家は我が強い人達の集まりで、頑固で、だから栄という大黒柱を失えばあの親戚達はぶつかり合って、あっという間にバラバラになっただろう。それを。

 彼が、栄の代わりに柔らかく去(い)なしてしっかり包んで、そうしてとうとう侘助の不器用さまでも受け止めた。健二の傍はとても、心地が良い。だから陣内の誰もが懐いてしまう。

 侘助は「連れてこられた」という理由がなければ、この家に近づけない。誰も今はもうそんなことは思ってないのだけれど、侘助の不器用さがそうさせる。意地の収め方も知らず、受け取って貰いたかった言葉も届かず、本当の謝罪の言葉も間に合わなかった侘助が出来たのはケリをつけることだけ。あとはずっと後悔し続けやるせない想いを抱えて生きていくしかない。佳主馬はそんな侘助を見る度、自分も手遅れになるかもしれないという、たまらない焦燥感を抱く。そんなのは、そういうのは、辛くて嫌だ。

「そういえば、もうそろそろ体育祭とか文化祭の時期じゃない? 体育祭はまあいいとして文化祭、みんな何やるの?」

「俺んとこは『甲子園への道のり』ドキュメンタリービデオ上映と、野球体験教室みたいなの。俺が投げてそれを打って貰う的なヤツ」

 精進料理に入っていた栗ご飯で思い出したらしい直美が、顔を上げて周囲を見回しながら問うと、すぐ近くで料理をかき込んでいた了平が答える。

「さっすがー、24年振りの甲子園出場を果たした上田染谷丘高校野球部! キャプテン自ら投げてくれるんなら、野球に興味なくても参加するかもなー」

「それって、ビデオ撮影とか誰がしてるの? マネージャー?」

「甲子園に行く前から撮ってるのか。凄いな」

 典子や邦彦達が盛り上がる、その流れで直美が夏希を見た。

「それで、夏希と健二君のとこは?」

 その問いに、ちらりと隣の健二を見てうふふと思わせぶりに笑った夏希は、

「なんと、我が剣道部はアバターコスプレカフェです! 健二くんたち物理部の協力のもと、追加料金でプリクラも一緒に撮れるサービス付き!」

 じゃーん、と自分で効果音を付けてのきらきらした満面の笑みでそう言った。

「…それ、あからさまに狙ってない? 夏希ちゃん」

 太助が力なく笑う向こうで、翔太が立ち上がって「そういうのはダメだ!」と喚くのに、「お店に迷惑でしょ!」と鉄拳制裁が入って瞬時に黙らされる。相変わらず陣内の女性陣は容赦がない。

「アンタ有名人でしょ、一応。人が殺到して学校の床抜けたりしない?」

「そうそう、変なヤツが来たりするかもしんねーだろ!」

 心配げに言う理香と、しぶとく立ち直って声を上げる翔太に、笑顔のまま夏希はないない、と手を振った。

「えー、大丈夫だって!もう花札の話とか誰もしてないし。文化祭の頃にはみんな、忘れちゃってると思うなー。それにもし変な人が来たって、みんな有段者だよ?」

 それより剣道部の女の子はみんなレベル高いんだから!とアピールに忙しい夏希は相変わらず、楽観的だ。彼女はそれでいい。栄に年々似て来た彼女が元気だと、陣内も元気になる。だから、夏希と健二がふたり、こうして陣内に居ることはとても重要なことで、忘れてはならないことだと、佳主馬は自分を戒める。