佐久間の家に呼ばれたならまだしも、健二の家に行くって、それは。初の日の出を見に行くことにならなかったら、雑魚寝コースに違いない。一晩、二人きりで過ごせるなんて。

(…佐久間さん、ずるい)

 上田では叶わなかった。『あらわし』墜落後は部屋の数が限られて、大まかに男性と女性で部屋を分けられていた分、周りに余計な人間が多すぎて二人きりなんて、到底ムリだった。

 とりあえず。高校生になったらバイクの免許、絶対に取ろう。

 そう、こころの中で佳主馬は誓う。いつか二人で初日の出を見に行ってやる。初詣だってする。二人での年越しだけじゃなく、健二に後ろからしがみつかれるなんて、羨ましすぎる。

『それで帰りに初詣して、キング・カズマの必勝祈願もして来ようって、佐久間と盛り上がってさ』

 ちゃんと必勝祈願で有名なところで、買って来たからね!

 弾んだ声の通りきっと笑顔だろう健二の顔が見たくて、もどかしい気持ちになる。どうして今日に限って電話なのか。佳主馬は落としていた視線を上げ、ノートパソコンの画面、メンテナンス中の【カズマ】を見た。

「ありがとう、楽しみにしてる。…あのさ、健二さん。ビデオチャットに切り替えない?」

 画像の粗いムービーではなくせめてビデオチャットで、本当は直接会いたいのを誤魔化したい。そうしないと佳主馬の中の何かが耐え切れない。携帯で言うなら、きっと充電が切れる寸前だ。別に顔を見るくらい、悪いことでもないだろう。

 そう思いながら提案すれば。

『えっ…!』

 何故か健二が焦ったような声を上げた。その様子に首を傾げる。なにかそんなに変なことを言っただろうか。…顔が見たいと思う、その理由が透けてしまっている、なんてことがないとは言えない。クラスメイトにだって『おあずけされてるわんこ』とか言われてしまうくらいだし。

 少し不安になりながら問う。

「…どうしたの?」

『うう…ご、ごめん。今日はちょっと…』

 ビデオチャットを躊躇う時って、どういう時だ。

――会いたくない、とか? 顔も見たくないとか、)

 いやでも、その場合こんな電話なんてしてこないだろうし。

 どこか言い辛そうな声音に、心臓がイヤな感じにどくりと動く。ここは素直に引き下がるべきか、それとも踏み込むべきかを迷う。

 二人の間に不自然な沈黙が続いた後、耐えきれなくなったように健二が声を上げた。

『あ、いや、えっと! 本当に大したことじゃないんだけど! ぼくだって佳主馬くんの顔見たいんだけど、ぼくの方に不都合があるっていうか…』

「不都合? まさか、顔に怪我でもしたの!?」

 ムービーの時点では問題なかった。では帰る時か。徹夜だっただろうし、バイクで無茶でもしたのか。慌てて聞き返せば、違う違うとすぐに否定される。

『成田山でお守り買う代わりにちょっと特別なお参りをしたら、額に何か、朱印を押されて…何度か洗ったんだけど取れないんだ。だから顔を見せるの、恥ずかしくて』

 ごめん、許して下さい。

 心底に恥ずかしそうに消え入る声で言う健二に気付かれないよう、どっと脱力しながらそっと詰めていたため息をこぼした。次第に落ち着いていく心臓を感じながら、なんだ、と無意識に呟く。

 本当にこんなことの繰り返しばかりで、佳主馬の心臓はかなり疲弊して寿命が縮んでしまうんじゃないか、と思う。ちょっとしたことに過剰に反応して、バカみたいだ。

 くすりと笑ったのは自分へか、それとも健二の状態を想像してか。
『ごめんね。でも佐久間ならまだしも、佳主馬くんに見られるなんて…』

「…そんなに派手なの?」

『うーん、なんとか前髪で誤魔化せる、かな。でも赤いし、すぐに気付くよ』

「健二さん、その状態で僕のお守り買ってくれたんだ」

『あはは…うん。お財布開ける時って、片手じゃ無理だしね…』

「そう。じゃあ健二さんが恥ずかしかった分、凄く大切にする」

『えっ、いや普通でいいよ、普通で!』

 慌てる健二に小さく笑って、それから。

 抑えきれなかった感情が、こぼれた。

――…僕も、健二さんと初日の出見て、初詣、行きたかったよ。上田に来てたら、一緒に行けたのに」

 いないことは判っているのに、夜はいつも考えてしまう。今、佳主馬の横に健二がいたら。上田の寒さを、毛布を分け合って過ごせたなら。きっとキング・カズマの活躍に顔を綻ばせて、間近でその声を、息遣いを聞いて、その体温を傍で知れたなら。

 寒いと人恋しくなるとよく言うけれど、佳主馬は健二の体温も知らないのに、欲しくてたまらない。そのうちどうにかなってしまうんじゃないか、と漠然と思う。

『佳主馬くん…』

「次の夏も正月も、健二さんは来られないだろうし、その次の年は僕が来られない」

 もしかしたら、二年は会えないかもね。

 そこまで吐き出して、なお口から溢れそうになった言葉をぐっと飲み込む。それを口にしてしまえば取り返しが付かなくなるのが、簡単に予想が付いたから。

(そうして、僕のことなんかすぐに忘れてしまうんだ)

 アカウントを再申請した時、あっけなくリスを手放そうとしたように。

 ――【KK】だってそうだ。

 もしかしたら、数学オリンピックの後告白が上手く行って、OMCやOZよりも彼女の方に集中しているのかもしれない。佳主馬との約束なんて、彼にとってはもう、どうでもいいことになっていたって別におかしくはないのだ。だってそうだろう。遠い、画面越しにしか会えないような相手よりも、毎日会える人間の方がいいに決まってる。

 健二だって。毎日会える佐久間や夏希の方が――

(ああ、くそ、なんで僕はこんなことを考えてるんだ!)

 健二はきっと電話の向こうで困っているだろう。なんとかフォローしたいのに、頭が勝手に暴走して考えがまとまらない。ぐしゃりと髪を掴んだ手で頭を押さえた時、健二があの!と声を上げた。

『あ、こ、今度は! 佳主馬くんが受験の時は、ぼくが名古屋に行くのはどうかな?』

 佳主馬は思わず呼吸を止めて、言われた言葉を頭の中で反芻した。

「健二さんが…来てくれるの?」

 そんなこと、考えもしなかった。健二が佳主馬に会いに来てくれるだなんて、思っても見なかった。健二にとって佳主馬がヒーローだろうと、友人だろうと、健二は夏希との予定を優先するだろうと思っていたから。何と返せばいいか判らず、ただ耳から伝わる健二の声だけに集中する。

『うん。名古屋の学業成就で一番有名なところに初詣に行こうよ! そ…、それでもしよかったら数学の勉強の手伝い、とかも…』

 どうでしょうか。

 もごもごと電話口で自信なさげに言う彼の、それでも珍しく積極的な様子に撤回させる暇も与えないよう、すかさず頷いた。

「健二さんがいいなら、してよ、家庭教師。その辺の神社より、確実に御利益ありそう」

 なんといってもあの、ラブマシーンの作り出した暗号を何度も解いた健二なのだから。

 それになにより、随分と先の話だろうとそれまで健二との繋がりが確約されたようで、嬉しい。自分の為に予定を入れてくれる健二の行動が、本当に嬉しい。

 健二の未だ白紙の未来に真っ先に予定を書き込めるという、予想すらしていなかったことが起こって、じわりと沁みてくる歓喜と安堵に自然と口許が緩む佳主馬の耳に、自分の言動に照れたような響きの声が電話越しに聞こえてくる。

『いやあの、まだぼく自身の受験も終わってないのに、なに言ってるんだって感じなんだけど』

 そこであ、と佳主馬は呟いた。すっかり浮かれていたけれど、本当なら健二は佳主馬どころではないはずだ。

「そうだよ健二さん。僕の必勝祈願より、自分の受験の方はちゃんと祈願して来た?」

『あー…えっ、と…』

「どうしてそこで口籠もるの」

 思わず突っ込めば、はは、と力の抜けた声で小さく笑って。

『実はさ、…また、数学オリンピックに挑戦、しようかなって、思ってて。だから佐久間も、いきなり初日の出とか連れて行ってくれたんだと思う』

 驚いて黙る佳主馬へ、健二は穏やかに続ける。
『佳主馬くんが予選から一戦一戦頑張ってベルト奪還したのを見たら、ぼくもちゃんとしなきゃって思って。数学オリンピックの失敗はぼくの原点というか。ホント、バカみたいなんだけど。意地みたいなものなんだろうけど、これを超えなきゃ、ぼくは自信を持って先に進めない気がして』

 きっと今、健二はあの、真剣な表情をしているに違いない。佳主馬が目を離せなくなる、意識を奪われる、あの顔。鮮やかに色付く世界を見せてくれたあの時の顔で、前を見据えているに違いない。

「…ラブマシーンに勝っても?」

『ラブマシーンのことがあったから、かな。それに、あれはぼくだけで成し遂げたことじゃないし』

「それじゃ、受験は…」

『数学オリンピックが終わったら、出来るだけ頑張ってはみるけれど…どうかな』

 自信なさげに言う健二に、佳主馬は躊躇うことなく断言する。

「出来るよ。健二さんなら、数学オリンピックも、受験も良い結果が出せる。絶対」

 あの時の集中力さえあれば、難しいことなんてそうそうない。佳主馬はあの瞬間、完全に圧倒されていた。

 空の青も入道雲の白さも蝉の声も追いつかない、一番鮮やかな夏の記憶。

「だから、諦めちゃだめだ」

「…うん。ありがとう、佳主馬くん」

 今度こそ、頑張るよ。

 健二が返した声音には力がこもっていて、佳主馬は無意識に微笑む。健二なら大丈夫だと、佳主馬はいつだって絶対の自信を持って言える。これからたびたび不安になるだろう彼に、毎回同じように言おうと思う。自分の言葉で彼を元気付かせることが出来るなら、何度だって繰り返す。

 そうこころに決めて、改めて思う。

 しあわせを願うなんて、ムリだ。

 いつか、二人のしあわせを素直に願う日なんて、多分一生来ない。いや、そんな日が来るとしたら、それは佳主馬が諦めた時だけだ。そして佳主馬はきっと、一生諦められないだろう。会う度に、話す度に目を、意識を奪われる瞬間がある。それを見逃さずに生きて、諦める日なんて来るはずがない。

 始めてしまえばみんなが困るとか、そんなきれいごとを言っている場合じゃない。とっくに始まっている。佳主馬の知らないうちに、勝手に始まってしまっているのだ。免罪符なんてものはどこにも、存在しない。それに大体、誰に許して貰うつもりでいたのか。

 誰にも許されなくていいし、認められなくていい。救われなくても報われなくても、貫く。それが――

 そうしてたった今思い付いたことを口にするべく、佳主馬はそっと一度、深呼吸した。自分にとってはそれなりに覚悟のいることだったから。

「…初詣、夏希姉とはまだ行ってないの?」

『あ、うん。明日のお昼行こうって約束してて。お守りもそこで買うつもりだったんだけど…額の、取れなかったらどうしよう…』

 心配そうに言う健二にフォローを入れることが出来ない。これから自分が行うのが他愛ない、けれど多分狡いことで、小さな軋みを生む可能性を持つことを知っているから。こんなことをするのは初めてで、動揺する気持ちを誤魔化しながらそっと乾いた唇を舌で湿らせて、口を開く。

「じゃあ明日、お守りは買ってこないで」

 明日きっと、お揃いのお守りを欲しがるだろう夏希に、こころの中でごめんと謝った。

「健二さんのお守りは、僕が贈るから。お守りの交換、しよう」

『わあ! いいね、それ! 佳主馬くんが選んでくれたお守りなら、凄く御利益ありそう!』

 何も気付かず子供のように無邪気に喜ぶ健二にも、佳主馬はごめん、と小さく呟いた。